石造美術紀行

石造美術の探訪記

フィールドワークにおける機動力-昔の人はよく歩かれたという話-(ひとりごと)

2012-12-31 17:38:01 | ひとりごと

フィールドワークにおける機動力-昔の人はよく歩かれたという話-(ひとりごと)

川勝政太郎博士は、『歴史と文化 近江』昭和43年刊(社会思想社教養デラックスシリーズ)という本のはしがきに「小学校に入る前から、年に一度は草津北方にある穴村の墨灸へ、父につれられていった。穴村の帰りには石山寺や三井寺へつれていってもらった。比叡山にはじめて登ったのは、小学校4年生のころである。父につれられて白川越で歩いた。ずいぶん遠かったが、眼下に琵琶湖の雄大な風景を見下ろした感激は、今も忘れられない。」と書かれています。また、天沼俊一博士は、「村社志那神社本殿」という報文を『史迹と美術』第164号に載せられていますが、その中で「京都からだと三条大橋を起点とする京津電車で終点の浜大津まで、下車して湖岸にでるとそこから船がでる。その船で志那中まで行くのである。何でもそこへ上陸する人の大部分は、穴村というところに、病気によくきく灸を据える家があるそうで、そこへ行くため、時によると、ことに先方の休日の前後は大変な人であるから、解纜後約50分、そこへ着くまでは混雑を覚悟しなければならない。…中略…私どもの乗った船は9:10に大津を解纜した。たまたま灸點に行く子ども連れの人で非常に混雑したせいもあろうが、一時間以上を費やし、志那に上陸したら10:15であった。」と書いておられます。報文の内容から、この天沼博士の調査行は、昭和19年5月30日のことと知られます。Photo今日では想像できないくらいに子ども向けの穴村のお灸というのが京滋方面で非常にメジャーであったことがわかります。ここで天沼博士が「京津電車」とされるのは、この路線がかつて京津電気軌道株式会社であったことからそう呼ばれたのでしょう。大正元年に三条大橋から札ノ辻まで開通し、大正14年に札ノ辻から浜大津まで延伸、同じ年に京阪電鉄に合併され今日に至っています。昭和19年当時は既に京阪電鉄の路線となっていたはずです。また、「船」というのはおそらく、現在の琵琶湖汽船の前身で、昭和4年に京阪系列となった太湖汽船のことと思われます。
ところで、6歳に満たない"まさ坊"が京都の上京から現在の草津市穴村町までお父さんに手を引かれて徒歩で行ったのでしょうか。明治38年生まれの川勝博士が小学校就学前といえば明治の末頃になります。また、小学校4年生が10歳であれば大正3年です。上記のとおり明治の末年時点では、まだ京津電車は開通していません。第一、小学校就学前の幼児の脚でいくらなんでもその距離を徒歩というのはちょっと考えにくい。石山寺や三井寺に立ち寄ったとあるから、おそらく既に開通していた国鉄の東海道線を利用してのことと思われますが、詳細はわかりません。ただ、明治末期には既に汽船はあったはずです。また、10歳頃に京都から白川越で歩いて比叡山に登ったというのはまったく驚きです。『日本石造美術辞典』を著されるほど各地でたくさんの石造物を調査された川勝博士ですが、『史迹と美術』の記事や報文などを見る限り、調査は公共交通機関と徒歩が基本だったようです。自動車免許は持っていらっしゃらなかったようで、この世代ではむしろ普通だと思います。(博士と同世代の小生の祖父も持ってませんでした。)モータリゼーション普及以前の交通手段は、当然ながら徒歩や鉄道だったわけです。人力車や馬車などというのはハイヤーやリムジン的で、ちょっと非日常的な交通手段と考えるべきかもしれません。交通手段ひとつとっても昔の人のフィールドワークはたいへんだったことが想像できます。その労苦のうえに胡坐をかいているのが今日の我々なのかもしれません。
一方、天沼博士は、奈良県に赴任されていた30代の頃、当時はまだ珍しかった最新の交通手段であった自転車を駆って大和の古建築や石塔の調査を行なっておられたようです。明治末期から大正初め頃のなので、かの三浦環女史よろしくハイカラさんのイメージでしょう。パリッとした洋装で撮影機材を小脇に抱え、颯爽と長閑な大和路の田舎道をペダルをこいで行く天沼青年の姿は、農作業にいそしむ地元の人々の眼にはさぞかし奇異に映ったことでしょう。また、考古学者の末永雅雄博士もまだ若い20代の頃、大阪の騎兵第4連隊に入隊されましたが、訓練の合間や除隊後、愛馬「初雪」号に跨って大和の古墳や博物館をめぐり歩かれたそうです。それから池内順一郎氏も昭和40年代、バイクを駆って地元近江の石造調査を敢行されていたと仄聞しています。石造の調査・見学に限ったことではありませんが、フィールドワークに機動力は重要です。こうした偉大な先達が機動力の高い移動手段を早く取り入れていたことは注目していいと思います。
天沼博士や川勝博士の時代のことを思えば、自動車という文明の利器によりフィールドワークは格段に便利になりました。まして小生のように限られた余暇を利用しての石造見学を趣味とする者にとって、その恩恵は計り知れません。先達の調査の苦労を思うにつけ、つくづくそのありがたみを感じます。その一方で自動車による石造見学にも弱点があります。駐車場がない、大渋滞、道が狭過ぎて進入できないなどで、時間の浪費や不自由さを感じることが少なくありません。時間に追われながらもこれまで数年石造見学をしてきた、わがままな感想ですが、例えば寺院であれば門前まで自動車で行ければむろん言うことなしです。それが無理なら最寄の駐車場のあるところまでは自動車、そこからは自転車か原付というのが理想です(実際には小生の小さい車にはそんなものは積めないのでムリ)。また、乗せてもらったことがありますが四駆の軽自動車も走破性が高くかなり狭い道でもクリアできるのでとても便利です。最近では、季節がよい時候は大・中型のバイクというのもいいかもしれないと感じています。しかし、どのような場面にもオールマイティに対応できる完全無欠の移動手段というのは…まぁ無いんでしょうね。
さて、今年もとうとう大晦日です。本年もご愛顧いただき有り難うございました。なかなか時間がさけない場面も増えてきましたが、それなりに機動力を駆使して来年も引き続き可能な限り余暇を見つけて石造行脚を続けたいと思います。六郎敬白

※ 勝手ながら引用文中の漢字・仮名遣い等の一部修正しました。

写真:滋賀県草津市志那町の志那神社の石造宝塔と社殿。本殿には永仁6年(1298年)の棟札があったとのこと、上記天沼博士の報文に詳しい。宝塔について報文中でさらっと触れられているだけですが、基礎の一側面に二茎蓮プラス如来坐像のレリーフのある非常に珍しい意匠。鎌倉時代末から南北朝初め頃の造立でしょうか。基礎から相輪まで揃った典型的な近江の石造宝塔です。