石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都市伏見区横大路中ノ庄町 飛鳥田神社御旅所五輪卒都婆

2015-03-30 00:36:22 | 五輪塔

京都市伏見区横大路中ノ庄町 飛鳥田神社御旅所五輪卒都婆
羽束師橋の南方、桂川左岸の堤防に近い集落内、飛鳥田神社の御旅所に近接する浄貞院という浄土宗寺院の参道の西側、ブロック塀で仕切られた民家の裏庭のような狭くわかりにくい場所に五輪卒都婆と五輪塔が並んで立っている。

昭和15年、佐々木利三氏が苦心の末に見出されたとのこと。ただし、享保年間の『山城志』には、既に記載されており、寛政11年(1799年)に川口政和という京都人が著した『奇遊談』という書物に、「怪異石塔(ばけもののせきたふ)」と題してこの石塔に触れられていることが、川勝博士の記述により知られる。「…飛鳥田神社御旅所の傍らの榎木の老樹の下に高さ五尺余の細く長き五輪の塔婆あり。古の此村の邑長の塔にして、夜な夜な怪異をなせし石塔なりといふ…」そして、ある時、勇猛の士が石塔の妖怪を切り倒し、石塔にその時の血の痕が残っているというのである。もっとも著者の川口政和は、石の性質上、赤っぽく見えることはままあることで、血の痕でも何でもなく、文永年中を刻んだ何か由緒のある古い石塔だと乾いた見解を述べている。何か赤い地衣類でも付着していたのだろうか。今は石の表面にそのような色調は見られない。いずれにせよ、江戸時代以前には、それなりに知られた石塔であったようである。

五輪卒都婆は、高さ約240cm、約30cm角の方柱状花崗岩の石材の上端に五輪塔を作る。下端近くは少し未成形のままで地中にかなり埋め込んであるように思われる。五輪塔部分には正面にのみキャ・カ・ラ・バ・アの梵字を陰刻する。正面上部、地輪の梵字の下方に舟形光背形を彫り沈め、中に定印の阿弥陀坐像を半肉彫りする。像容の下には線刻の蓮華座がある。さらにその下方に2行「右意趣者以相當慈父一十三年/忌景為滅罪生善證大菩提所造立如件」の陰刻銘がある。地輪側面上方には、向かって右に観音の種子「サ」を、左に勢至の種子「サク」をそれぞれ線刻月輪内に陰刻し、右側面、観音の種子の下方に「文永十一年八月一九日 橘友□敬白」の陰刻銘がある。

文永11年は1274年。同じ文永年間の5年ほど前、高野山によく似た形の町石五輪卒都婆がたくさん作られている。一説には畿内の石工が高野山に結集し町石などの作善に互いに技術を磨いたことがその後の鎌倉時代後期における石造美術の盛期をもたらした要因のひとつと考える向きもある。古くからの水運流通の要衝と目されるこの地に、高野山町石とよく似た形状の五輪卒都婆が作られているというのも興味深い。高野山の町石は、そもそもが町石であって本尊も曼荼羅を元にしており、真言系の所産と知られるが、こちらの卒都婆は、五輪塔に弥陀三尊をミックスした浄土信仰を背景とし、父親の13回忌の供養のために造られている点は留意する必要がある。
 傍らにある通常の五輪塔は、高さ約169cm。花崗岩製で完存し、各輪とも四方に五輪の四転の梵字を薬研彫りする。全体に均整の取れた優品だが、火輪の軒や空風輪の形状にやや線の弱さが看取され、時期は少し降り14世紀前半頃かと思われる。
 
参考:川勝政太郎『京都の石造美術』
          〃    『日本石造美術辞典』
とにかくわかりにくいところで、目印も何もなく、御旅所そのものがわからない。しかも御旅所の場所がわかってもここにはちょっとたどり着けない…。困った挙句、通りがかりの地元の方に尋ねてみました。たまたまご存じで、ハイハイということで、連れていってあげると、わざわざ現地までご案内くださいました。ご親切に感謝です。実にラッキーでした。飛鳥田神社の御旅所というよりも、浄貞院さんの参道のそばという方がわかりやすいかもしれません。それと、あくまでも御旅所です。ほんちゃんの飛鳥田神社は何百メートルか離れた別のところにありますので注意が必要です。
五輪卒都婆は全体に白っぽい灰色の花崗岩ですが、そういえば背面と左側面に褐色の縦の線(鉄分が多い貫入層?)があります。「怪異石塔」で血の痕か…とするのはこれかもしれません。願主の橘友□というのもどこかで見たような名ですね。石工が願主なのかもしれませんが、最後の文字が判読できないのが惜しまれます。

 なお、お寺の墓地には長岡外史(1858~1933)陸軍中将が揮毫した忠魂碑がありました。長岡さんは、日露戦争では大本営参謀次長を務め、立派なひげがトレードマークで飛行機やスキーにはじめて着目したユニークな明治の軍人です。ハイカラさんのモデルとされる朝吹磯子嬢の御父上であらせられました。


京都市伏見区竹田中内畑町 安楽寿院五輪塔

2015-03-23 00:06:25 | 五輪塔

京都市伏見区竹田中内畑町 安楽寿院五輪塔
塔高約304cm。地輪幅約121cm、高さ約71cm、水輪幅約113.5cm、高さ約85.5cm、火輪幅約107cm、高さ約65cm、空風輪高さ約82.5cm、風輪幅約56cm、空輪幅約52.5cm。花崗岩製。旧本堂前広場にあったというが、現在は老人ホーム脇の一画に辛うじて残されているような状況。安楽寿院は保延3年(1137年)に鳥羽天皇により鳥羽離宮の一画に創建された鳥羽天皇の廟寺的な寺院で、その後、興廃を繰り返しながら命脈を保ってきたが、昭和36年の第2室戸台風で大きな被害を受けたというから、旧本堂はこの時に倒壊したのであろうか。現在は、西の鳥羽天皇陵と南の近衛天皇陵の間に静かな佇まいの境内を構えている。おそらく、かつては付近一帯が境内であったのであろう。さて、五輪塔は、わずかな灌木が生えた草生地の中央にあって三方をフェンスで囲まれ、道路に面した東側は木柵で立ち入りが制限されて近づくことができない。旧本堂前から移築されたとも言われるが、江戸時代の『都名所図会』にも描かれ、鳥羽天皇陵や冠石との位置関係から、現在の位置と変わりないように見える。塚状の高まりの上にあると書かれているが、現状ではごくわずかな高まりに過ぎず塚状とまでは言えないように思う。全体に彫整が非常にシャープな印象で、下端は埋まってはっきり確認できないが地輪はあまり高くなく安定感があり、水輪は裾すぼまり感がやや強めだが、火輪の軒口は厚く隅に向かって力強く反る。やや大きめの空風輪が描く曲線は滑らかで空風輪全体に重厚感がある。台座や基壇は見られない。各輪とも梵字などはない素面。典型的な鎌倉様式の五輪塔で、規模も大きく、遺存状態も良好。地輪北面に7行の陰刻銘がある。磨滅が進んで痕跡をうかがわせる程度であるが、「一□南無阿弥陀佛/□□□□□法□/念仏□□法界□□/一切功徳□□行□/□□□□□□願□/□生縁□□□菩提/弘安十年丁亥二月□□□」と判読されている。浄土信仰の所産と知られ、弘安10(1287)年の紀年銘が貴重。すぐ南側に鳥羽天皇陵があり、鳥羽天皇の発意による如法経塔との伝承があるが時代が合わない。重文指定。
 

参考:川勝政太郎『京都の石像美術』
   竹村俊則・加登藤信『京の石像美術めぐり』
   (財)元興寺文化財研究所編『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告書(文中の法量値を参考とさせていただきました)
 
ここでは取り上げませんが、安楽寿院の境内には享保年間に成菩提院跡から掘り出されたとされる凝灰岩製の三尊石仏3体のうち釈迦三尊と薬師三尊の2体(弥陀三尊は京都博物館に寄託)が置かれています。破損が目立ちますが院政期の希少な石仏ですのでぜひ注目してください。


京都市北区千本通上立売上ル花車町 石像寺(釘抜地蔵)の石仏

2015-03-22 00:14:58 | 石仏

京都市北区千本通上立売上ル花車町 石像寺(釘抜地蔵)の石仏
千本通の東側にささやかな門を構える石像寺は、俗に釘抜地蔵と呼ばれる。家隆山光明遍照院石像寺といい浄土宗の寺院。本尊は地蔵菩薩。弘法大師空海創建、俊乗坊重源上人の中興を経て厳誉上人が慶長年間に再興したという。釘抜とはすなわち苦抜きの転訛と思われる。室町時代末、前世に呪いの人形(ひとがた)に八寸釘を打ち込んだ因縁で腕の痛みに苦しんだ人が、この地蔵尊に祈り、夢で痛みの元になっていた人形に刺さった釘を抜いてもらって平癒のよろしきを得、お礼参りをすると、血の付いた八寸釘が地蔵尊の前に置かれていたという説話が伝わる。現在も霊験あらたかな地蔵尊として参詣者が絶えない。病気平癒の願をかけ、お礼に釘抜を納めるのだそうである。奉納された釘抜を貼りつけた無数の絵馬が本堂の壁一面に懸けられている。この釘抜はバール状のものではなく、ペンチ状のヤットコ挟みのようなもので、地蔵の種子「カ」に釘抜をあしらったデザインがこの寺の印になっている。
本尊の地蔵菩薩も石仏だそうであるが、厨子奥のお姿は拝せない。
ここで取り上げるのは、本堂背後の小堂にある石仏である。昭和の初め頃、川勝政太郎博士が世に紹介して以来、著名な阿弥陀三尊石仏(及び弥勒仏)で、重要文化財に指定されている。花崗岩製。香煙に燻されて表面が褐色になっている。中尊は高さ約1.68m、像高約1.2m。複弁反花座上に敷茄子を挟み二重の単弁請花という豪華な蓮華座があるというが手前に集積された小石仏群に隠れて見えない。先端を尖らせた二重円光背の周縁に突帯で輪郭を巻く。頭光背面に5つ、身光背面に6つの平板陽刻の円相を配し、円相内に阿弥陀の種子「キリーク」を陰刻する。丸彫りに近い坐像で、螺髪一つひとつを刻み出し、面相、衣文、肉取り、すべて製作優秀で非常に丁寧に作られている。表面の風化磨滅も少なく、総じて保存状態良好であるが、胸の辺りで水平方向に折損したらしく補修痕が痛ましい。両手先も欠損するものの、定印を結んでいた痕が看取される。光背面の裏側に、約63.5cm×約24cmの縦長の方形枠内に三行の陰刻銘があるという。「元仁元年甲申十二月二日甲午奉始之/同二年四月十日庚子奉開眼之/願主伊勢権守佐伯朝臣為家」。元仁2年は、鎌倉時代前期の1225年。着工から開眼まで4か月余り、制作期間が記されている点も貴重。古い紀年銘にはこのように年だけでなく月日の干支も入れることがある。
脇侍の観音、勢至の両菩薩はともに立像で、像高約1.2m。観音は冠に化仏が見られ、左手に持った蓮華の蓮弁に右手を添えている。膝の辺りで折損した痕がある。勢至は折損の痕は見られず完存し、胸前で合掌する。ともに種子(観音=「サ」、勢至=「サク」)を刻んだ平板陽刻円相15個を光背面に配する。手法・作風は中尊と同一で、はじめから一具の三尊像として作られたと考えて間違いない。また、向かって右隅にも同じ手法作風の施無畏与願印の如来像がある。脇侍像より一回り小さく、光背上部が欠損し、膝付近に折損痕がある。表面に白い胡粉が塗られた痕跡があるが、当初からのものではないようである。光背面の種子が「ユ」であることから、弥勒如来と考えられる。これも阿弥陀三尊と一具のものと考えられる。なお、川勝博士によれば、願主の佐伯為家は、藤原定家の息子の藤原為家とは、ほぼ同時代ながら別人で、『山槐記』治承2年正月に従五位下織部司長官に補任されており、彼の晩年の作善による造立と推定されている。
 
参考:川勝政太郎「元仁二年在銘の石像寺石仏に就いて」『史迹と美術』第37号
     〃  『京都の石造美術』
     〃  『日本石造物辞典』

 
今更小生がご紹介するまでもない、言わずと知れた京都石仏界のエースの登場です、線刻を除く立体造形の石仏では洛中在銘最古、最優秀作のひとつと言えるでしょう。素晴らしいの一言に尽きます。阿弥陀三尊と弥勒仏、ともに衆生の後生安穏を祈る信仰対象となる尊格で、中世の葬送地であった船岡山の入口に近い場所にある点も留意すべきかもしれません。