石造美術紀行

石造美術の探訪記

三重県 伊賀市治田 治田地蔵十王磨崖仏

2012-11-05 20:51:36 | 三重県

三重県 伊賀市治田 治田地蔵十王磨崖仏
国道25号名阪国道、名張川にかかる新五月橋の東方約1Km、川の北岸は三重県伊賀市治田、04南岸は奈良県山辺郡山添村中峰山で、支流・予野川の合流点の下流側に張り出した高さ10m程の岩壁面の南、川に面して地蔵十王の磨崖仏がある。

01_3名張川の対岸は縄文時代早期「大川(おおこ)式」の押型文土器で有名な大川遺跡である。現在は史跡公園とキャンプ場を兼ねたようなカントリーパーク大川というレジャー公園に整備されている。
このレジャー公園から川原に下りて川越しに眺めるのが通常の見学であるが、実は三重県側の間近まで歩いて行くことが可能である。予野川にかかる白拍子橋と名付けられた吊橋を渡り、南西方向に降っていく山道を進むと、やがて視界が開け、名張川の水面が眼下に広がる場所に出る。02_3その足元の直下に目指す地蔵磨崖仏がある。すぐ山手に粘板岩に薄肉彫りされた地蔵菩薩立像が祀られているがこれは近現代の作品と思われる。
垂直に切り立った岩壁を迂回して川原に下りると磨崖仏の直下に出る。00_2ごつごつした花崗岩の岩塊が川岸沿いにずっと連続している地形で、付近には地蔵瀬の渡しという古い渡し場があったという。
下流の高山ダムの湛水域になるため、ダムの貯水量が多い時は地蔵磨崖仏の腰の辺りまで水没してしまうので、いつでも磨崖仏の直下に降り立つことができるわけではない。
中央の地蔵菩薩像(1)は像高約4m、蓮華座上の堂々たる立像である。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ一般的な姿で、頭光円を二重にして、外側の円光は線刻、内側の円光内を彫り沈め、頭部と錫杖上部を薄肉で表現する。03肩から下は線刻表現だが、体側線を特に広く深く彫ってアウトラインを強調する手法に注意したい。頭部の輪郭はやや角ばり、目鼻の大きい面相には写実的なところがあって、表情には威厳が感じられる。一方、衣文や手足の表現は簡素かつ稚拙で、お顔とのアンバランス感が激しい。特に膝から下の両足の表現はまるで子供の落書きのように見える。線刻の蓮華座の蓮弁も退化傾向が見られ、室町時代を遡るとは思えない。05室町
中期という説もあるが(初期説も)、室町時代も末に近い頃のものではないだろうか。地蔵像の左右に脇侍のように冥官の坐像が一対刻まれている(向かって左2、右3)。どちらも中国官人風の衣冠姿の線刻像で、風化に加え近づけないこともあって細部ははっきりしないが、何か持物を手にして、厳しい表情が見て取れる。たぶんに漫画チックな表現だが、体側線を強調する手法は地蔵像と共通する。06像高は地蔵像に比較して半分に満たないので約1.5m前後といったところであろうか。さらに西側に約5m余り離れたところにも冥官坐像が2体並んでいる(向かって左4、右5)。風化がかなり進んで細部は明確でないが、長方形の台座があるのがわかる。像高は1m程である。また、4・5の上方の薮の中にある岩塊の壁面にも3体の冥官像が刻まれている。木々に隠れて対岸からは目視できない。三体のうち、西端の一体(6)は方形台座上の坐像で風化が進行しているが、作風・手法は4・5と共通している。07_2中央のもの(7)と東側のもの(8)はともに立像で、2~6と作風・手法が異なる。7の向かって右脇には大きい文字で「泰山王」の陰刻銘がある。8の向かって左下にも小さい文字で「□□王」(初江王?)の陰刻銘がある。衣冠の道服姿で何か持物を手にしている。7・8は追刻ではないかと思われる。
ようするにこれらは地蔵菩薩を中心とする十王像とみ
られるが、現在残された冥官像は都合7人で3人足りない。ただ、4・5の西側の下方岩盤に、ほとんど姿もとどめないが、4・5に似た痕跡のような部分が認められる。これが本当に痕跡であるならばここに3体あったのだろう。あるいは付近の岩壁や薮の中の岩塊を丹念に調べればまだ見つかる可能性も否定できない。おそらく地蔵菩薩と脇侍の2体(1・2・3)が当初からのもので、2・3は十王の内でもっともメジャーな閻魔王と泰山府君(=太山王)と思われ、十王像の残る8体を付近に順次刻んでいったのではないだろうか。その後、洪水などで岩盤の崩落や剥離が起き、失われた分が追刻されたのではないかと推定したい。
なお、7・8に泰山王、初江王?の刻銘があるからには、その追刻時に持物や印相、位置や順番など十王の各王を特定する何らかの判断材料があったに違いないだろうが、今のところ不詳とするほかない。今後更なる精査が期待される磨崖仏と言えるだろう。

 
 写真左上から2番目画面向かって左から2・1・3、左上から3番目向かって左から4・5、右下から2番目8(□□王)、右下6、左下7(泰山王)。下手な写真で見づらいですが、写真にカーソルを合わせてクリックすると少し大きく表示されます。
 大川遺跡に復元された竪穴住居があります。遺跡をキャンプ場にするのもどうかという気もしますが、実に静かで風光明媚な穴場スポットです。
ごらんのとおり地蔵さんの足はちょっと何というか、その…言葉が見つかりません。あまりといえばあまりな表現なので、ひょっとすると膝から足首にかけての線は裳裾の襞の線のつもりなのかもしれません。
ちなみに6・7・8の辺りは非常に足場の悪い急斜面で満足に写真も写せません。カメラに気をとられていると転落の危険がありますのでくれぐれもご注意を。


 
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
   清水俊明 『関西石仏めぐり』
   望月友善編 『日本の石仏』4近畿篇


三重県 伊賀市守田町 守田十三仏石仏

2011-10-31 22:48:50 | 三重県

三重県 伊賀市守田町 守田十三仏石仏

名阪国道上野インターチェンジのすぐ西の小高い場所に天台宗袖合山九品寺があり、寺の前の道を丘陵裾に沿って250m程行くと道路の左手(北側)、丘陵裾が少し削られたスペースがある。ここに幅約2.6m、高さ約1.75m、奥行き約1.6m程の花崗岩の岩塊がある。01_2ほぼ南面する扇形に見える平坦面に地蔵石仏と十三仏が刻まれている。正面向かって右側、岩の表面を高さ約63.cm、幅約32.cmの舟形光背形に彫り沈め、内に像高約60.5cmの地蔵菩薩立像が半肉彫されている。03彫沈めの外、下方には線刻(ないし薄肉彫)の蓮華座を刻出する。地蔵菩薩は右手に錫杖、左手に宝珠の通有の姿で、衣文表現は簡略化が進み、面相表現もやや稚拙である。彫沈め光背の外、上部に地蔵菩薩の種子「カ」、向かって右側に「八幡大菩薩」、左側に「神主」、蓮華座下方に「永正十五天戊寅/四月廿四日」の刻銘があるというが、紀年銘以外は肉眼での判読は難しい。02あるいは「神主」というのは願主かもしれない。八幡大菩薩とはいうまでもなく八幡神の神仏習合時代の神号である。応神天皇を祭神とすることなどから皇祖神として、また源氏をはじめとする武家の守護神として全国で幅広い信仰を集めてきた。本地は阿弥陀如来とされ、錫杖を持つ僧形八幡神の姿も想起されるが、地蔵石仏との関係についてはよくわからない。04地蔵像の向かって左側、高さ約107cm、幅約46cmの縦長の長方形の彫沈め枠があり、下方は彫沈め左右端が約5cm程の幅で枠外下方に伸びているので、あたかも方形の台が薄肉彫りされたようになっている。枠内に3列4段に十三仏が半肉彫りされている。いずれも座像で像高は18cm内外である。肉眼ではほとんど判読できないが、各像容頭部右に尊像名が、また各像容間には多数の結縁者と思しい法名が陰刻されているという。さらに彫沈め枠の外側、やや下寄りの向かって右に「永正十七年庚辰二月時正」、左に「本願施主蓮()忍」の陰刻銘があるが、肉眼では判読が難しい。十三仏というのは、1不動明王(初七日:秦広王)、2釈迦如来(二七日:初江王)、3文殊菩薩(三七日:宋帝王)、4普賢菩薩(四七日:五官王)、5地蔵菩薩(五七日:閻魔王)、6弥勒菩薩(六七日:変成王)、7薬師如来(七七日:太山王)、8観音菩薩(百ヶ日:平等王)、9勢至菩薩(一年:都市王)、10阿弥陀如来(三年:五道転輪王)、11阿閦如来(七年:蓮上王or蓮華王)、12大日如来(十三年:抜苦王or祇園王)、13虚空蔵菩薩(三十三年:慈恩王or法界王)の13尊である。石造で各尊を並べる場合の配置にはいくつかのパターンがあるらしい。05_2本例では最下段が3,2,1、下から2段目は4,5,6、3段目が7,8,9、4段目は10,12,11と下から上にコ字状に進むよう配列され、13のみ単独で最上部中央に位置する。4段目は、阿閦と大日の順序が逆転している。密教の教主である大日如来を尊重してあえて中央に配するものと考えられているが変則的である。また、虚空蔵菩薩の上方には天蓋が薄肉彫りされる。十三仏信仰の起源については諸説あるらしいが、一般的には十王思想から発展したものと考えられている。冥府十王の本地仏に阿閦、大日の2如来と虚空蔵菩薩を加えた各年回忌の回向・供養の本尊で、概ね15世紀初め頃にその後につながるスタイルが定着したとされる。片岡長治氏によれば石造の遺例は全国に500以上あり、大部分は生前供養である逆修の目的で造立され、その造立主は六斎念仏などの様々な講衆であるらしい。07逆修供養をする場合の月日が定まっていて、1=1月16日、2=2月29日、3=3月25日、4=4月14日、5=5月24日、6=6月5日、7=7月8日、8=8月18日、9=9月23日、10=10月15日、11=11月15日、12=11月28日、13=12月13日となっているそうである。基本的に後生安楽の願意を元に作られたものと考えられ、庶民信仰として根付いたものである。六道輪廻の衆生を極楽浄土に引接する地蔵菩薩を脇に刻んでいることもそうした祖先の思いや祈りが表われていると見てよいのかもしれない。永正15年は西暦1518年、初め地蔵菩薩像が彫られ、2年後の永正17年(1520年)に十三仏が作られている。16世紀前半の十三仏は近畿地方では古い部類に属するという。

ここからさらに道沿いに100m程進むと道の右手の斜面、吹さらしのトタン屋根の覆屋の下にも岩塊が横たわっている。幅約2.1m、高さ約3m、奥行き2.5m程の花崗岩の自然石で、ここにも南面して地蔵菩薩と十三仏が見られる。こちらは地蔵像が左側にあり、舟形光背形を彫り沈め、内に単弁蓮華座に立つ錫杖、宝珠の地蔵菩薩立像を半肉彫りする。像高は約90cmあってひとまわり大きい。十三仏は縦約130cm、下方幅約67cm、上方幅約61cmのほぼ長方形の彫沈め内に像高20cm前後の座像を3列4段に配する。4段目を10,12,11とする配列は同じである。最下段のみ単弁蓮華座が薄肉彫りされる。虚空蔵菩薩の上の天蓋はこちらの方がやや表現が細かい。銘は確認されていないが造立時期は相前後する頃のものと考えられている。天蓋、蓮華座、地蔵像の衣文表現など全体にこちらの方が少し手が込んでいるように見受けられるので、若干先行するかもしれない。

 

参考:川勝政太郎『伊賀』近畿日本鉄道・近畿文化会編近畿日本ブックス4

     〃 「十三仏信仰の史的展開」『史迹と美術』第520号

        ※ オリジナルは「大手前女子大学論集第3号」

   片岡長治「十三仏シリーズ1 伊賀盆地(三重県)における石造遺品について」

       『史迹と美術』第493号

     〃 「十三仏碑について-付名号碑-」『日本の石仏』4近畿篇

 

地蔵石仏と十三仏のセットが2基というか2つ、至近距離に存在しているわけですが、川勝博士は前者を北、後者を南、片岡氏は前者をA、後者をBと呼んでおられます。とりあえず小生は「扇」と「トタン屋根」とでも名付けておきましょうかね…。前者は市の指定文化財に指定されており近くにはそれを示す石造の標柱や顕彰碑があります。「扇」の付近にはそのほか近世の地蔵石仏や小型の五輪塔の残欠数点ありました。

片岡氏の報文が載る『史迹と美術』493号は昭和54年4月発行で、前年末に亡くなられた川勝博士への追悼文集「故川勝主幹を偲んで(その一)」が掲載されており、博士のお人柄やエピソードが記されています。中でも坪井良平氏の追悼文にある博士と坪井氏との約束や「四十前後の会」のことなどたいへん興味深いものがありました。

なお、九品寺の墓地には塔身後補ながら基礎上・笠下各3段、笠上5段と段形がやや変則的ですが立派な宝篋印塔があり、川勝博士によれば鎌倉後期のものとのことです。


三重県 津市芸濃町楠原 石山観音磨崖石仏

2011-06-27 23:45:52 | 三重県

三重県 津市芸濃町楠原 石山観音磨崖石仏

国道25号(名阪国道)、関インターチェンジの南西約1km、丘陵の尾根に巨大な岩塊が露出する。岩塊を取り巻くように01_2西国三十三ヶ所霊場になぞらえて多数の磨崖仏が作られていることから石山観音と呼ばれている。03_2凝灰岩説もあるが砂岩層の露頭である。現状は石仏巡拝のハイキングコースとして整備されている。これらの西国三十三ケ所観音菩薩像群のほとんどは江戸時代のものだが、これらとは由来を異にする古い阿弥陀如来と地蔵菩薩の磨崖仏があって注目される。

地蔵菩薩像は登り口に近い場所にある岩塊の東面する切り立った壁面を二重円光背形に深く彫り込んで内に半肉彫された立像で、彫り込み下端面に半円形に作り付けた複弁の反花座上に立つ。背光を含めた総高約3.9m、像高は約3.3m。童顔丸顔の頭部は小さく体躯は長大ですらりとしたプロポーションである。右手に錫杖、左手に宝珠を載せた通有のスタイルだが、錫杖頭は大ぶりで中に宝塔を刻出し、04柄の下端は足元まで達していない。全体に彫りがやや平板で衣文も簡潔だが、繊細な指先の表現、微笑をたたえた温雅な面相など優れた意匠表現が随所に見られる。また、光背の向かって左脇には立体的な花瓶の浮き彫りがあるのも凝っている。02_3口縁部の穴はごく浅く実際に水を入れ花を活けることはできない。

阿弥陀像は地蔵像の北側の高所にある。尾根上に露出する高さ20m以上はありそうな巨大な岩塊の東側の壁面に刻まれている。基壇、光背を含めた総高は約5mもある。二重円光背は二段に彫り込み、下方には二区に区画して羽目部分に格狭間を入れた壇上積基壇をレリーフで表現する。06_2この基壇上に風化が進み蓮弁がはっきりしないが覆輪付単弁と思しき蓮華座を刻出し、蓮華座上に立つ半肉彫りの像容は来迎印の立像で像高は約3.4m。清涼寺式の釈迦如来像に見られるごとく流れるように幾重にも折り重なった衣文が荘重で、面相にも童顔の中に風格のある表情を見せる。衣文やプロポーションなど地蔵像との作風の違いが認められる。胸部に小さい長方形の小穴があるが、経典か何かを納めた奉籠穴であろう。また、壁面上部には屋根を設けた痕跡の彫り込みがあり、足元の岩盤には柱穴があって、元は懸造り風の覆屋があったと推定されている。地蔵、阿弥陀ともに無銘で造立時期は不詳とするしかないが、江戸時代以降に次々に彫られていったとされる観音像群とは明らかに異なる作風で、近世風なところは認められず中世に遡ることは疑いないだろう。

像高3mを超える規模やプロポーション、二重円光背、地蔵像の複弁反花座、阿弥陀像の壇上積基壇、格狭間などを見る限り、従前から言われるように鎌倉時代後期頃まで遡るというのも十分首肯できる優れた磨崖仏である。

このほか江戸時代の観音菩薩像群にも見るべき優品が少なくないが、優品は尾根の東側の岩塊周辺に偏る傾向があるように思われる。

さらに南側の渓流沿いの壁面にも地蔵像二体と種子の磨崖仏がある。像容はかなり写実的で優れた作風を示すが、種子の彫りが深すぎる点や、少しごてごてしたような衣文、あるいは蓮華座の蓮弁を見る限り、遡っても戦国時代末頃、恐らく江戸時代初め頃のものと思われる。

 

参考:太田古朴『三重県石造美術』

   芸濃町教育委員会編『芸濃町史』下巻

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   清水俊明『関西石仏めぐり』

 

写真右上:地蔵菩薩像の光背脇にある花瓶のアップです。右中:地蔵菩薩像の足元と複弁反花の蓮華座

 

石山観音は近世の観音像群も含めその規模、数、出来映え、いずれをとっても第一級の磨崖石仏です。名阪国道沿いにあって自動車なら交通の便もよくお薦めです。また、鈴鹿川を挟んだ関の観音山には江戸期の極めて優れた石仏群(かの丹波の佐吉!!これはまさにアート作品の世界です!)がありますので併せてぜひご覧いただくべきかと存じます。

さて、石山観音の岩塊には登れるようになっており、岩の上に座って丘陵の松や隣接するゴルフ場の緑越しに遠く伊勢湾を望むと何かスッキリした気分になってなかなかいい感じです。ただ、危険ですので足元には十分気をつけてください。岩山の上に登ると柔らかい岩質もあってか昭和時代のものと思しい落書きがいっぱい彫ってあってこれはこれで面白いものです。釘か何かでガリガリやったのでしょうかね…。でも既に社会的に成熟期を迎えた平成時代の落書きはいただけません。恥ずかしいので絶対やめましょう。もっとも岩に登るのは高いところが苦手な方にはお薦めしません…ハイ。

 

 

 

 


三重県 伊賀市寺田 大光寺北向三体地蔵石仏

2008-04-18 01:11:02 | 三重県

三重県 伊賀市寺田 大光寺北向三体地蔵石仏

寺田の東南、丘陵上に大光寺がある。西大寺末寺帳に載る伊賀における筆頭末寺であった大岡寺に比定されており、現在は、真言宗豊山派で山裾の毘沙門寺の奥の院のように扱われている小宇があるだけだが、丘陵上にはかなり広い平坦地があって相当規模の伽藍であったらしい。01_2毘沙門寺から奥の院である大光寺に向かう山道を爪先上りにしばらく登っていくと右手に大きな花崗岩があり、地蔵石仏が彫ってある。正面側の平坦面中央を137cm×70cmの横長の隅切長方形に彫りくぼめ、二重円光背に単弁八葉の頭光のレリーフを背にした同一デザインの地蔵菩薩坐像三体を並べて厚肉彫する。注目すべきは蓮華座で、平面六角ないし八角の框部上を複弁反花で飾り、正面と左右3箇所に小さい雲形文を付した敷茄子を挟んで覆輪付単弁請花座という構成で、右手に錫杖を斜に握り、左手は掌を上にして膝上に置く。左手には宝珠は見られない。お顔の表現も優れ、体躯のバラ02ンスがよい。衣文も木彫風で、とりわけ中尊の面相は眉目秀麗である。先に紹介した寺田地蔵堂地蔵石仏よりひとまわり大きいが、凝った蓮華座や像容の特長は瓜二つである。しかし、よく見ると①框部側面を二区としている、②覆輪付単弁の請花座が魚鱗葺となっている、③頭光の蓮弁が覆輪のない単弁である点に相違がある。複弁反花や衣文の表現がやや硬いところから、北向三体地蔵石仏のほうが若干新しいとされているが、寺田地蔵堂地蔵石仏と概ね同じ時期、つまり鎌倉末~南北朝初め14世紀前半から半ば頃の造立とされている。隅切長方形に彫りくぼめた龕部に体躯のバランスの優れた眉目秀麗な三体の尊像を、写実的に厚肉彫りする手法は、上野の市街地を挟んで西南にある徳治元年(1306年)銘の花之木三尊磨崖仏(岩根の石仏)に通じる。小生はとりわけその面相に共通の意匠を見て取るのだがいかがであろうか。花之木三尊磨崖仏では地蔵菩薩が阿弥陀、釈迦の二如来と同列に配されており、やはり地蔵信仰の強さを示すものと見てよいと考える。なお大光寺から南に少し下った服部川沿いの岩壁には鎌倉中期とされる阿弥陀三尊を中心に不動、地蔵等から構成される立派な磨崖仏があり、中之瀬磨崖仏と呼ばれる。また、毘沙門寺境内にも、塔身に胎蔵界四仏の種子を刻んだ鎌倉末期頃の宝篋印塔、江戸時代に後補部材を交えて再建された南北朝ないし室町初期ごろとされる巨大な宝篋印塔の残欠がある。

参考:川勝政太郎 『伊賀』近畿文化社近畿日本ブックス4 71~72ページ

   清水俊明 『関西石仏めぐり』 176ページ

   中淳志 『日本の石仏200選』 33ページ

   平凡社 『三重県の地名』日本歴史地名体系24 814ページ

ほの暗い木陰にあって、北向といわれる光線の加減もあってか、数回訪れてなぜかいつもいい写真が撮れません。いや腕のせいかな、やっぱり・・・。悪しからず。


三重県 伊賀市寺田 地蔵堂地蔵石仏

2008-04-14 23:50:05 | 三重県

三重県 伊賀市寺田 地蔵堂地蔵石仏

名阪国道中瀬インターの北東約1km、寺田集落ほぼ中央、公民館の南西100mほどのところ、集落内の狭い交差点の北西に地蔵尊を祀った辻堂がある。地元の厚い信仰に守られ、香華が絶えることはない。01_3堂内中央に四角い花崗岩があり、そこに本尊の石造地蔵菩薩坐像を刻んである。石材中央に53cm×37.5cmの縦長の方形枠を彫りくぼめて龕部を設け、蓮華座に座す地蔵菩薩坐像を厚肉彫りする。龕部の隅を切るのは、先に紹介した天理市福住別所二尊石仏龕(双仏石)にも通じる古い手法。二重円光背を薄く浮き彫りし、頭光部分は覆輪付八葉の蓮華を陽刻している。蓮華座が特に優れ、平面六角ないし八角形の正面観を側面に輪郭を施し上部を優美な複弁反花で飾る台座上の正面観を写実的に表現し、さらに中央と左右に1つずつ3個の雲形文で飾る敷茄子を重ね、その上に覆輪付単弁請花を置くの本格的なもの。地蔵菩薩は斜めにした錫杖を右手に執り、左手は膝上の掌に宝珠を載せたものが欠損しているように見える。体躯のバランスも申し分なく衣文の処理も木彫風でいきとどいている。面相は長年撫でられたのか摩滅して窺えない。像高30cm程度の小さい石仏ながら意匠表現、彫技ともに洗練され、端正な佇まいに、思わず手を合わせたくなる。元々は磨崖仏であったものを切り出してきたものかもしれない。堂内外には多数の五輪塔の部材や箱仏類が集積されている。近くの丘陵上にある大光寺へ向かう山道沿いに北向地蔵と呼ばれる三体の地蔵磨崖仏があるが、寺田地蔵堂石仏と意匠表現が非常に似通っており、同一系統のものと考えられる。紀年銘等は見当たらず、造立年代は概ね鎌倉末~南北朝初め14世紀前半から半ば頃とされている。こうした頃に、この地域に地蔵信仰が盛り上がった時期があったのであろうか。なお、この大光寺は、西大寺末寺帳に載る伊賀の筆頭末寺大岡寺に比定されており、洗練された石仏の手法からも伊派系石工など高度な彫刻技術を持った石工の存在を連想させる。

参考:川勝政太郎 『伊賀』近畿文化社近畿日本ブックス4 71~72ページ

   清水俊明 『関西石仏めぐり』 176ページ

   中 淳志 『日本の石仏200選』 33ページ

   平凡社 『三重県の地名』日本歴史地名体系24 814ページ

付近には北向三体地蔵磨崖仏や毘沙門寺宝篋印塔、中の瀬磨崖仏といった優れた石造美術が集中しています。このほか花之木磨崖仏、阿弥陀寺五輪塔など名阪国道沿いに見ごたえある石造美術が点在しており、車ならアクセスも悪くありません。そもそも伊賀は三重県でもとりわけ石造美術が豊富なところで、大和、近江、伊勢、山城に囲まれ、これら地域の石造文化圏を考えていく上でも見逃せない地域です。なお、寺田の南隣の荒木は、剣豪荒木又右衛門ゆかりの地ですが、かつては良質の花崗岩の産地として知られ、東方の山手には採掘跡があります。