石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 東近江市妙法寺町 光林寺宝篋印塔

2010-08-29 01:45:57 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市妙法寺町 光林寺宝篋印塔

名神高速道路八日市インターチェンジを降り、北北西、直線距離にしておよそ250mのところに天台真盛宗来迎山光林寺がある。01_2山門をくぐると本堂南側に墓地がある。02墓地中央の区画された場所に、小型の五輪塔の部材を積み上げた寄集め塔やいつくもの一石五輪塔に四方を囲まれるようにして一際立派な宝篋印塔が立っており、墓地全体の惣供養塔のような様相を呈している。切石を方形に組んだ基壇の上に立つが石材の質感が異なりサイズもやや小さく釣り合わないので当初からの基壇とは考えにくい。花崗岩製で塔高約221cmを測る。七尺半塔であろう。基礎は上二段の壇上積式で幅は地覆部で約71.5cm、葛部約71cm、束部で約70cm。基礎高は約51.5cm、側面高約39.5cm。各側面とも上端花頭が真っすぐで肩の下がらない整美な格狭間を羽目部分いっぱいに配し、格狭間内は現状で正面の北面に三茎蓮、残る三面は開敷蓮花のレリーフで飾っている。北面の束部分、向かって右に「願主藤井行剛」、左に「嘉元二二年三月廿四日」の陰刻銘があり、肉眼でもほぼ判読できる。嘉元二二年は嘉元四年(1306年)のことで、こうした金石文には四年を二二年と表記することがしばしばある。03三月廿四日は小さい文字で二行に分けている。塔身は幅約36cm強、高さ約37cm強でやや高さが勝り、金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子は雄渾かつ端正で月輪や蓮華座は伴わずに直に刻まれている。現状で正面に当る北側(正確には北北東)が本来東面するはずの「ウーン(阿閦如来)」になっている。04笠は上六段下二段の通有のタイプで軒幅約62cm、高さ約47.5cm。三弧輪郭の隅飾は軒から約0.5cm程入ってから直線的に少し外傾するが、軒幅と左右隅飾先端間の幅はほぼ同じである。隅飾は基底部幅約20.5cm、高さは約24.5㎝。隅飾輪郭内には平板陽刻した蓮華座付きの月輪を配し、各面とも諸尊通有の種子「ア」を陰刻する。相輪も完存し高さ約84cm。請花は上下とも八葉の単弁で下請花は小花が見られず覆輪を少し盛り上げて作り、上請花は弁央に稜を作る小花付きである。九輪部は適度な逓減を示し太い沈線で各輪を区画する。先端宝珠の尖りもよく残る。接合部のくびれに脆弱なところは見られずよく整った相輪である。作風優秀で全体に表面の風化も少なく各段形や細部の彫成が非常にシャープな印象を受ける。基礎から相輪まで完存し、壇上積式の基礎、基礎側面の格狭間内のレリーフ、三弧輪郭の隅飾、隅飾内の蓮華座付月輪内の種子といった近江系宝篋印塔の特長をフルスペックで備える在銘基準資料として貴重な作品である。

 

参考:川勝政太郎 「近江宝篋印塔の進展(二)」『史迹と美術』357号

     〃   新装版『日本石造美術辞典』

   八日市市史編纂委員会編『八日市市史』第2巻中世

   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書

写真左上:北側正面、写真右上:南側、塔身のキリークが鮮やかですが基礎が見えないですね。周囲の狭い範囲に香炉や背の高い花立て、寄集め塔などがあって基礎が見づらいのが難点。なかなかいい写真も撮れない環境にあります。写真左下:折れもなく宝珠先端の尖りまでよく残る立派な相輪、写真右下:三弧輪郭の隅飾です。輪郭内に蓮華座付小月輪に彫られた「ア」があります。隅飾突起の先端がピンととんがってシャープな感じがおわかりいただけると思います。非常に残りのよい惚れ惚れする隅飾です。

 

これも川勝博士の紹介以来著名な宝篋印塔ですね。文中法量値はコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はお許しください。先の記事で鎌倉時代後期でも前半に属するフルスペックの近江系宝篋印塔の在銘品は以外に少ないと申し上げましたが、本塔も弓削阿弥陀寺塔や上田町篠田神社塔と並ぶ数少ない在銘事例です。しかも基礎から相輪まで完存という点で稀有な存在です。本塔の造立された14世紀初め頃は近江においても宝篋印塔など石塔の構造形式、意匠表現が完成しまさに最盛期を迎えた時期に当ると考えられており、油の乗りきった時期の典型的な近江系宝篋印塔の基準資料として是非とも一見の価値があると思います。市指定文化財ですが、はっきり言って国の重文指定があっても不思議でない優品です。なお、お寺の門前すぐ北側にはこちらも著名な妙法寺薬師堂宝篋印塔がありますので忘れずご覧いただくことをお薦めします、ハイ。


滋賀県 東近江市山上町 霊感寺宝篋印塔

2010-08-27 00:43:09 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市山上町 霊感寺宝篋印塔

山上町は町役場(現在は東近江市役所の支所)のある旧永源寺町の中心地区で、東近江市役所の永源寺支所の北北西、直線距離にして約500mのところにある霊感寺は臨済宗永源寺派。江戸時代前期の寛文年間、永源寺第81世如雪文巌禅師の中興という。01それ以前は天台宗で中居寺と称したという。02現在の堂宇はごく新しいものだが、境内西側に墓地があり、その中央に宝篋印塔が立っている。延石を方形に組み合わせた基壇の上に立ち、基礎から相輪まで完存している。全て花崗岩製。延石の基壇は一辺約87cm、大小3枚の石材からなる。当初からのものか否かは不詳だが、風化の様子や石材の質感に違和感はない。塔高は約167cm、五尺五寸塔か。基礎は壇上積式で葛と地覆の幅約54cm、束部分で幅約52.5cm。高さ約41cm、側面高約30.5cm。側面は北側を除く3面に格狭間を入れ、格狭間内いっぱいに孔雀文のレリーフを配している。孔雀文は長い首と脚、尾羽があり、背面と脚の前後に開いた羽を表現し、日野町比都佐神社塔の孔雀文と共通する意匠で全体にやや稚拙ながら伸び伸びとして闊達な印象を受ける。対向孔雀文の比都佐神社塔と異なり各面とも1羽づつで南面は頭を向かって左に、東西の2面は右に向けている。基礎北面だけは格狭間はなく羽目に陰刻銘があるのが確認できる。銘文は5~6行程あるように見えるが肉眼での判読は厳しい。浅学の管見では今のところこの刻銘の判読文を全文載せた文献を知らないが、瀬川欣一氏によれば乾元二年(1303年)の紀年銘があるという。03基礎上は反花式で一辺当り両側隅弁とその間に3枚の主弁を置き各弁間には小花がのぞいている。塔身は幅約27cm、高さ約28cm弱でやや高さが勝る。側面には金剛界四仏の種子を直接薬研彫している。種子は端正なタッチで近江では雄渾な部類に入る。笠は上5段下2段。軒幅は約51.5cm、高さ約37.5cm。04軒から少し入ってから直線的に外形する隅飾は基底部幅、高さともに17.5cm。二弧輪郭式で下の弧に比べ上の弧が大きい。輪郭内は素面。笠上の各段の高さに比べると笠下がやや薄い。相輪高は約60cm、上下とも請花は単弁八葉、九輪部は太めの沈線で区切り、宝珠はやや縦長な印象がある。近江における孔雀文を持つ宝篋印塔では在銘最古例となる。各部のバランスも良く保存状態も良好で、全体によくまとまって典雅な宝篋印塔である。孔雀文は近江式装飾文様の一つだが蓮華文に比べればその数は甚だ少なく、近江でも残欠も含め20~30例程しかない珍しいもので、そのうえ基礎から相輪まで完存し、鎌倉時代後期の紀年銘を有するとなれば石造美術の宝庫である近江にあっても稀有な例で、もっと注目されて然るべき宝篋印塔である。

参考:瀬川欣一『近江 石の文化財』

      滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書

写真下左:壇上積式基礎&格狭間内の孔雀文です。下右:刻銘のある面です。格狭間がなく、何やら刻銘があるのがお分かりいただけると思いますが、ちょっと判読は困難です。画像が小さめですのでわかりにくいかもしれませんが、画像にカーソルを合わせてクリックしていただけると写真が少し大きく表示されます。

例により文中法量値はコンベクスによる実地略測によりますので多少の誤差はご容赦ください。なお、基礎から相輪まで各部完存、孔雀文で乾元二年銘となれば市指定はおろか国の重文指定でも不思議でない逸品ですが、無指定との由、事実ならば信じ難いことです。たしかにこの辺りは鎌倉時代の石造美術がごろごろしてる地域ですが、その中にあっても本塔は一際価値の高いものと断言できます。灯台下暗しといいましょうか、こうした石造物たちがどれほど貴重な地域の文化遺産であるか、地域の皆さんにもっと認識して欲しいと思います。そしてその価値を発信していただくとともにしっかり後世に守り伝えていただきたいと痛感します。近江人ではない小生ごときが申し上げることではないかもしれませんが、それが亡き近江の石造研究の先達であった瀬川先生や池内先生の御遺志だと信じます、ハイ。

 

 

追伸:無指定というのは誤りでした。どうもすいません。どうやら昭和48年3月に当時の永源寺町の文化財に指定されていたようで合併で引き継いだ東近江市でも平成4年3月に指定されている模様です。


滋賀県 蒲生郡日野町北畑 八幡神社宝篋印塔

2010-08-24 20:56:46 | 宝篋印塔

滋賀県 蒲生郡日野町北畑 八幡神社宝篋印塔

北畑は日野町の東端に近い地域で、集落北側の丘陵端に八幡神社が鎮座している。拝殿の背後から急な石段を上ると正面に南面する社殿があり、そのすぐ西側、石積みの崖下の隅っこに中型の宝篋印塔がぽつんと立っている。01花崗岩製で、基礎下には前後2枚からなる延板石の方形基壇を備えている。02風化の程度や石材の質感が塔本体とよく似ていることからこの基壇も当初からのものである可能性がある。笠や塔身の背面にかなり欠損があり基礎も割れてモルタルの補修痕が痛ましいが、いちおう基礎から相輪まで揃っており辛うじて正面観は保たれている。塔高約151cmを測る五尺塔である。基礎は上二段で側面は壇上積式。各側面に整った格狭間を配するが、格狭間内は素面で近江式装飾文様は見られない。基礎幅は葛と地覆で約50cm、束部はそれより1.5cmほど狭い。高さは約34.5cm、側面高は約26cmである。塔身は幅約25.5cmで高さ約26cmとやや高さが勝る。塔身各側面には金剛界四仏の種子を薬研彫しているが月輪や蓮華座は伴わない。現状で正面南側を向いているキリーク面の残りがよく、種子の向かって右側に「正安元年六月十八日/村人敬白」の陰刻銘がある。風化によりところどころ厳しい部分もあるが概ね肉眼でも判読できる。背面のウーン面から向かって左側のアク面にかけての隅が大きく欠けている。種子は端正で筆致もしっかりしており、大和などに比べ塔身の種子が総じて貧弱な傾向が強い近江にあっては雄渾な部類に入るだろう。04_2笠は上5段下2段で軒幅約46cm、高さ約36.5cm。隅飾は軒と区別して若干外傾し基底部幅約16cm、高さ約18cmで笠全体に比して少し大きめにしている。05_2二弧輪郭式で輪郭内は素面。上側の弧が大きいのに比べ下側の弧が極端に小さい。正面側の隅飾2つはよく残っているが背面側の笠の欠損は大きく隅飾は2つとも失われている。笠上の段形は6段が一般的かつ本格式であるが、5段にするのは近江でも特に湖東地域でよく見かける手法で、簡略化とも考えられるが、正応4年(1295年)銘の東近江市柏木町正寿寺塔や、低平な基礎と一弧素面の隅飾を持つことから13世紀後半に遡ると推定されている寂照寺塔(これは北畑の東に隣接する大字である蔵王にある)などかなり古い段階から採用されている。相輪は高さ約52.5㎝、下請花は八葉各弁とも彫りが深く覆輪部を軽く盛り上げ弁先を少し外反ぎみにする手の込んだ手法を見せる。小花を設けないので弁先が一層際立って見える。九輪は逓減が少なく太く短い印象で太めの沈線で各輪を区切る。上請花も単弁だが小花付で相輪全体に比して大きめに作る。主弁八葉の弁央に稜を設け、側面をわざと直線的に仕上げてしゃきっと立ち上がる蓮弁を上手く表現している。宝珠はやや重心が高いが側面の描く曲線はスムーズで上請花との境目を太めにして脆弱感はない。03惜しくも先端の尖りが少し欠けている。全体に荘重で安定感があり上下の請花の異なった意匠がもたらすメリハリ感が効いて出色の出来映えを示す相輪である。06ところで、基礎の壇上積式というのは、輪郭を巻いただけの枠取りより一層手の込んだ側面の手法で、左右の束部分を少し内側に引っ込ませ、上下の葛と地覆が框状になってあたかも本格的な壇上積の基壇のように仕上げるやり方。近江では宝篋印塔や宝塔の基礎に多く採用されており、近江系の特長のひとつと考えられているが、鎌倉時代後期でも前半以前に遡る在銘例は案外に少ない。正安元年(1299年)銘を持つ本塔は、近江における壇上積式の基礎を備えた宝篋印塔として在銘最古である。一方で優秀な相輪と基礎を壇上積式にする以外にデザイン的にはやや控えめな点は注意を要する。もっとも近江系のいくつかの特長、具体的には①壇上積式の基礎、②格狭間内の近江式装飾文様、③三弧輪郭の隅飾、④隅飾内に蓮華座月輪を配して種子を刻む、のうち①から④まで全て備えたフルスペックの宝篋印塔は意外にもそれほど多くはなく、14世紀初頭よりも古い在銘品に限れば正安2年(1300年)銘の竜王町弓削阿弥陀寺塔や正安3年(1301年)銘近江八幡市上田町篠田神社塔くらいで、関西形式の宝篋印塔の典型としてよく引き合いに出される米原市清滝徳源院の京極家墓所の伝氏信塔(永仁3年(1295年)銘)も基礎は輪郭式で壇上積式ではない。多くは①から④のいずれかを単独、または複数を組み合わせているが、どれかは足りないものがほとんどのように思う。なお、滋賀県のお隣、岐阜県海津市の蛇池宝篋印塔が壇上積式の基礎を備え、近江でも古い壇上積式基礎の宝篋印塔に比肩する時期の正安二年銘を有している点は留意すべき事実である。

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展(二)」『史迹と美術』357号

   田岡香逸『近江の石造美術(一)』

   池内順一郎『近江の石造遺品(上)』

   日野町教育委員会町史編さん室編『近江日野の歴史』第5巻文化財編

写真左中:これが川勝博士も絶賛の相輪です、写真右中:壇上積式の基礎、写真左下:背面の欠損がよくわかるアングル、写真右下:キリーク面の刻銘です。これも今更小生が紹介するまでもない著名な宝篋印塔で諸書に取り上げられています。近江における壇上積式基礎の宝篋印塔の在銘最古例です。でも近江式装飾文様はないんですね、正面観は整っていますが背面の欠損が痛ましく惜しまれます。なお、例によって文中法量値は実地略測によりますので多少の誤差はご勘弁ください。


滋賀県 東近江市瓜生津町 弘誓寺五輪塔

2010-08-13 00:07:43 | 五輪塔

滋賀県 東近江市瓜生津町 弘誓寺五輪塔

金剛山弘誓寺は瓜生津町集落の西寄りにあり、国道307号線のすぐ東側に本堂の屋根が見える。02那須与一の子孫が建てたという近江七弘誓寺の一つに数えられる。浄土真宗本願寺派。茅葺の古風な山門が何ともいえず印象的である。本堂の南、最近新調され白壁が眩しい土塀沿いに立派な五輪塔が立っている。06つい数年前までは大きい切株の傍らにあって雑木や草に囲まれていたのがずいぶんすっきりして見やすくなった。玉石敷の区画内に置かれている。現状では台座は見られないが一見して大和系の様式を示す五輪塔であることがわかる。花崗岩製。地輪下端は埋まって確認できないが現状の地表高約183cm。地輪は幅約72cm、高さは37cm以上ある。地輪上端面に約48.5cm×約37cmの長方形の穴が開いている。西側の側面に穿孔されているので、過去に手水鉢に改変されたものと考えられる。05水輪は径約62.5cm、高さ約51cmだが水輪下端が地輪上端面の手水鉢の穴にはまり込んでいるので本来の高さは幾分高かったと思われる。重心がやや上寄りにあるが裾のすぼまり感は少ない。火輪は軒幅約65cm、軒口の厚さは約13cm、隅で約17.5cm、垂直に切り落とした分厚い軒口と隅増しがあまり顕著でない軒反りはなかなか力強い。四注の屋だるみも適度で風格がある。空風輪は高さ約51cm、空輪径約33cm、風輪径約35.5cm。空輪先端の尖りもよく残っている。03_3水輪や空風輪の曲面の描く曲線もまずまずで直線的な硬さはそれほど感じさせない。各部とも素面で梵字や刻銘は認められない。無銘ながら上記の特長から造立時期は鎌倉時代後期、14世紀前半頃に遡るものと考えられる。さらにこの五輪塔の東南側に細長い五輪塔婆が立っているのを見落としてはならない。これは半裁五輪塔、板状五輪塔などと称される類の塔婆の一種で、大和や京都でしばしば見かけるが近江ではあまり見かけない。花崗岩製で一石彫成され、下端は埋まって確認できないが地表高約115cm、幅は地輪下方で約25cm、火輪と風輪の間の狭いところで約12.5cm。厚みは17~18cmで空輪の背は丸くして正面に擦り付けている。04背面は粗く彫成したままで断面かまぼこ状を呈し、下端近くは太く残して根を作り地面に埋め込んでいたことがわかる。正面のみ平らに整形し、側面は各輪の境目を彫成した切れ込みが及んでいる。地輪部は下端から65cmほどあって「南無阿弥陀佛」の名号が大きく陰刻してある。地輪上端線の下26cmほどのところで折れたのを接いでいる。各輪の間は浅く線刻して区画し、梵字は見られない。地輪の左右側面に刻銘があるのがわかる。01肉眼では判読が難しいが、向かって右は「比丘尼専心尼貞和二年二月一三日」、左が「同五月十二日施主寂聖…」とのことである。南北朝時代初めの貞和二年(1346年)の造立であることがわかる。この種の五輪塔婆の紀年銘としてはかなり古い部類に属し、六字名号を刻む五輪塔としても古い例になり注目される。近江ではこの時期の石塔としては宝篋印塔や宝塔が圧倒的であるが、その真っ只中にまぎれもない大和系の様式を示す大型の五輪塔と古い紀年銘を持つ半裁五輪塔が存在する点は見過ごせない。弘誓寺は浄土真宗の古刹であるが、東側に隣接する慈眼寺(曹洞宗、現在は会所と児童公園になっている)に観音菩薩の金銅仏(奈良時代、重文)が伝来していることも考え合わせると、前身となる何らかの大和の影響を受けた寺院があった可能性を示しているのではないだろうか。また、瓜生津町から程近い大森町の極楽寺にも反花座を備えた大型の五輪塔がある点も興味深い。

参考:元興寺文化財研究所「五輪塔の研究」平成4年度調査概要報告

   〃  〃  平成6年度調査概要報告

   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書

文中法量値はコンベクスによる実地略測によりますので多少の誤差はご容赦ください。

写真左上:現在の様子、写真右下:数年前の様子。基本的には変わってませんが…周囲が変わると見え方も違って見えますよね。写真左下:半裁五輪塔の後ろ姿です。弘誓寺は存覚上人との関係が取り沙汰される由緒ある真宗寺院だそうですが、写真でもお分かりかと思いますがいわゆる律宗系とか西大寺様式などと呼ばれる五輪塔とお見受けします。一般的に浄土真宗は石塔に関してはあまりご縁がないんですがどういうわけなんでしょうか…。また、いうまでもなく近江は比叡山のお膝元、しかもこの付近は得珍保など比叡山の荘園も多い場所です。当然その影響が強かったことは想像に難くないわけですが律宗の教線ものびていたんでしょうかね?いずれにせよ金太郎飴のようにどこもかしこも天台一色と割り切れない複雑な状況が何となく見え隠れする気がします。逆に考えると昔の人は宗旨的なことに存外おおらかだったのかもしれませんね、そういえば八宗兼学という言葉もあるようです。いろいろと興味は尽きません、ハイ。


滋賀県 東近江市柏木町 正寿寺宝篋印塔

2010-08-05 00:32:41 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市柏木町 正寿寺宝篋印塔

柏木町は近江鉄道市辺駅の西方1Km余り、付近一帯は蒲生野と呼ばれ、田園の広がる平地にある集落のひとつである。01_2集落西端に正寿寺がある。臨済宗妙心寺派で江戸時代元禄年間の開基というが紹介する宝篋印塔をはじめ古い遺品も少なくないことからそれ以前からこの付近に前身となる寺院があったものと思われる。現在無住で住職は兼務、地元で管理されている様子である。ここに「飛鳥井殿」の石塔なるものがあることは既に江戸時代の記録に載っているらしい。飛鳥井殿というのは鎌倉時代初期、飛鳥井雅経に始まる蹴鞠の家として有名な公卿を指すようで、その飛鳥井氏の屋敷が付近にあったという伝承が残るという。もっとも、はっきりしたことは不詳で所詮信を置くに足らない。大正年間に書かれた『蒲生郡志』には寺の付近に土塁等の城郭遺構が残っていたと記されているとのことで興味をひかれる。さて、その正寿寺の本堂南側の生垣の中に、設えて間もないと思われる新しい切石の基壇があり、その上に東西二基の宝篋印塔が並んで立っている。どちらも花崗岩製で西側が大きく東のものはひとまわり小さい。02西塔は川勝政太郎博士が昭和40年『史迹と美術』第356号に紹介され広く知られるようになったもので、以来著名な宝篋印塔である。古い基壇や台座はみられず、元々直接地面に据えられたものと考えられ、現高約177cm、元は六尺塔であろう。基礎は低く安定感があり、幅約62cm、側面高約28.5cmと幅に対して側面高が半分に満たない。基礎上二段で、段形は側面からの入り方が大きく、したがって基礎幅に対する塔身幅の割合が小さい。03基礎側面は四面とも輪郭を巻いて内を彫りくぼめ格狭間を配する。格狭間内は素面で近江式装飾文様はみられない。輪郭の左右の束の幅が広いのが特長で、格狭間と束との間にもスペースを設けているので横幅を広くとった低い基礎の形状の割りに格狭間が左右幅を十分にとれずに萎縮したようになって、脚部の間も狭く、整美とは言い難い形状になっている。こうした格狭間は永仁三年銘の市内妙法寺薬師堂宝篋印塔や弘安八年銘甲賀市水口町岩坂最勝寺宝塔など13世紀後半代に遡る古い石塔に類例がある。本塔では加えて花頭部分中央を広めにとっているので、本来左右に2つづつあるべきカプスが1つづつしかないのは珍しい。北面と東面の束に刻銘がある。北面向かって右束に「八日願主」左束に「大行房」、東面右束に「正广二二年」左束に「辛卯四月」と肉眼でも判読できる大きい文字で陰刻している。各行の続き方がおかしな順番になっている。「正广二二年」とは正応4年(1291年)のことで、基礎から相輪まで揃っている宝篋印塔としては近江における在銘最古例である。塔身は高さ約28.5cm、幅は約28cmでわずかに高さが勝っている。各側面とも舟形光背形に彫りくぼめ四方仏座像を半肉彫りしている。04印相は確認しづらいが、定印の阿弥陀、施無畏与願印の釈迦、施無畏蝕地印の弥勒、薬壺を持つ薬師の顕教四仏と考えられている。いずれも蓮華座は見られない。笠は上5段下2段で、軒幅約54cm。軒と区別しないで垂直に立ち上がる大ぶりな隅飾は二弧輪郭付きで輪郭内に蓮華座を平板陽刻し、その上に梵字「ア」の四転「ア」「アー」「アン」「アク」を各面に2つづつ陰刻する。胎蔵界四仏の種子であろうか、種子を囲む円相月輪は確認できない。二弧と三弧の違いはあるが軒と区別しない隅飾に輪郭を入れるのは米原市清滝の徳源院京極家墓所にある永仁三年銘の伝氏信塔と同じ手法である。相輪は高さ約70cm、伏鉢は割合低く下請花は単弁。九輪の逓減は小さく上請花は素面で花弁が確認できない。先端宝珠は重心が低く完好な桃実形を呈する。相輪各部のくびれに脆弱なところが見られず、全体に重厚感があり各部の描く曲線がおおらかで直線的な硬さが感じられない。自ずと細長い棒状にせざるをえない制約がある相輪であるが、本例のように見るものに重厚な印象を与える意匠造形は見事というほかない。05また、上請花を素面とする例として湖南市菩提寺の仁治2年銘廃少菩提寺多宝塔があり、川勝博士も指摘されるように古い手法とみるべきなのかもしれない。東塔は基礎下に隅を間弁にしないタイプの複弁の反花座を備え、基礎上も複弁反花とする。基礎側面は四面とも輪郭を巻いて内に格狭間を入れ、北面に孔雀文、南面に開花蓮、東西面はともに三茎蓮のレリーフを配する。格狭間の形状はまずまず。孔雀文は何故か右側に偏っており意匠的にはやや稚拙である。西面を除く三面の左右の束部に刻銘があるというが川勝博士、田岡香逸氏とも判読が困難とのことである。塔身は西塔同様、舟形背光形に彫り沈め四方仏座像の像容を半肉彫りする。笠は上六段下二段。軒の厚みは薄めで、軒と区別し若干外傾して立ち上がる隅飾は二弧輪郭式。輪郭内には蓮華座上の月輪を平板陽刻しその中に梵字を陰刻しているが文字は確認しづらい。相輪は九輪の6輪目以上を欠く。下請花は複弁のようである。隅飾、反花座の一部に欠損が見られる。現存塔高約120cm。造形的には型にはまり、こじんまりまとまった感がある。異形の趣のある西塔に比べるとやや見劣りするのはやむを得ないとしても、近江では珍しい反花座を備えている点、例が決して多くはない格狭間内の孔雀文を有するなど看過すべきものではない。相輪上半をはじめ細かい欠損も惜しまれるが刻銘があっても判読できないというのは特に残念である。完全に風化摩滅してしまう前に改めて判読が試みられることに期待したい。造立時期は鎌倉末期から南北朝初期、14世紀前半代のものと推定される。

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展(一)」史迹と美術第356号

   田岡香逸「正寿寺の宝篋印塔」『民俗文化』第62号

小生が今更紹介するまでもない著名な宝篋印塔です。最近デジカメを新調したのを機にいろいろなところを再訪し写真を撮り直しておりまして、正寿寺塔も久しぶりにご対面しましたのでご紹介します。基本的には隠れた名品のようなものを紹介したいと考えていますが、悲しいかな石造美術そのものが依然マイナー路線、斯界で著名とはいえ一般的にはほとんど知られていないような状態ですのであえてこうしたものも紹介していきたいと思います。一期一会の覚悟でしっかり観察することは大切ですが、何度も訪れることもまた大切だという趣旨のことを、確か故・太田古朴さんだったかと思いますが著書の中でおっしゃってみえましたね。それに一度訪れたらそれっきりというのもちょっと寂しい気もします。機会を改めることで新たな気づきがあるかもしれませんしね。せっかく出会えた石造物ですのでご健在を確認するとともに周辺環境の変化にも注意し季節や時間帯によって変わる見え方を楽しむのも一興かなと思うようにもなってきた今日この頃です。ただ、カメラを変えても写真はあまり良くならないようで…やはり腕が…(涙)。