石造美術紀行

石造美術の探訪記

石塔寺宝篋印塔について(補遺)

2018-01-18 23:33:05 | お知らせ

石塔寺宝篋印塔について(補遺)
 平成29年12月31日の「石塔寺三重層塔ほか(その2)」において、文中、寄せ集めの宝篋印塔について「似たサイズをうまく寄せ集めたものと先学の意見はだいたい一致している。」と書きましたが、いい加減なことを書いてしまったようですのでお詫びし追加記事を載せます。
 この宝篋印塔は、川勝政太郎博士以下、歴史考古学研究会のメンバーが、昭和41年9月25日、ご住職立会の下、適当な部材を選んで実際に寄せ集めたということです。意見が一致しているも何も川勝博士が寄せ集めた当事者でした。昭和42年12月発行の『史迹と美術』第380号にある川勝政太郎博士の「近江宝篋印塔補遺-附装飾的系列補説-」にそのことが書かれていました。一部を抜粋すると「…石塔寺には、層塔・宝塔・五輪塔の見るべきものがあるにかかわらず、宝篋印塔の形をなしたものがなく、残欠がいつくかあるだけなのは淋しいので、一つだけでも宝篋印塔としての形を作りたいと考え…中略…基礎と笠は本来一具のものと認めてよいものを選んで組み合わせた…中略…塔身は一具とおぼしいものを見出し得ないので、比較的近い大きさのものを組み入れた。形としてはやや小さく、もう少し大きい方がよい。相輪は似合ったものを用いたが本来のものと断言はできない。」ということです。『民俗文化』第177号の田岡香逸氏の報文では、笠と基礎も別モノとしています。田岡報文によると、塔身の上下には枘がなく水平に切ってあるのに、笠下端、基礎上端には枘穴があり、基礎の枘穴と笠の枘穴の大きさが異なるとのことです。笠の方が基礎よりやや新しいとのことです。もっとも川勝博士も「認めてよい」という表現なので一具だと断じているわけではないようです。小生もまぁ一具と認めてよいのではと思いますが…。
 なお、この基礎は意匠の優れたものとして従前から知る人ぞ知るもので、川勝博士の『日本石材工芸史』に文様が2種図示されていたとのことで、造立時期は鎌倉時代末頃と川勝・田岡両氏の意見は一致しています。
 田岡氏の調査は、報文によれば昭和52年10月と思われますが、なぜか10年程前の川勝博士の『史迹と美術』誌上の記事や、福田海のことにはまったく触れられません。しかし、田岡氏自身が昭和初年にはじめて石塔寺を訪ねた当時は、まだこれほどではなく、方々に空間が見られたということを書いておられるのは、福田海以前の状況を知るうえで興味深い記述です。
 それにしても、流石に川勝博士は記事にして寄せ集めの事実を後世に伝えてくれていますが、こうしたことは当事者には当たり前でも、知らない人は知らないので、ややもすれば忘れ去られて既成事実化するおそれがあるので、注意が必要ですね。


滋賀県大津市坂本本町 香炉岡弥勒石仏

2018-01-01 12:16:30 | 石仏

滋賀県大津市坂本本町 香炉岡弥勒石仏
 石仏は、比叡山延暦寺西塔の中心的施設である釈迦堂(転法輪堂)の裏山、通称「香爐岡」と呼ばれる尾根の先端
ピーク付近にある。釈迦堂後方の西側から相輪橖へ向かう山道を北に進み、相輪橖を正面に仰ぐところで道を右手に折れると間もなく、疎らな木立の空地の真ん中にポツンと石仏があるのが目に入る。石仏の周囲は樹木や雑草が切り払われ、空が見える明るい広場のようになっているが、かつては背丈を覆うような熊笹に埋もれていたとのことである。
 周辺は平坦に整形された目測約15m×20m、高さ1.5m程の土壇状になっており、堂宇の遺構の上に石仏があることが見て取れる。江戸時代初め頃に書かれたとされる『比叡山堂舎僧坊記』には「弥勒堂 旧跡石仏弥勒之大像有之」の記載があり、これに当たるものと考えられている。弥勒堂は戦国期の兵火で焼失し、再建されることなく長い間忘れ去られていたところ、昭和34年頃、釈迦堂解体修理の際に、たまたま横川に参詣する篤信の一老女がこの石仏の存在を延暦寺関係者に語ったとのことで、そのことを聞きつけた川勝政太郎博士らが現地を調査し、世に知られるようになった。
 石仏はほぼ南面し、現状地上高約2.1m。二重円光背を負い蓮座に坐す如来像で、上端に反花を刻み出した台石と、敷茄子以上の本体の二石からなる。花崗岩製と見られる。反花座のある台石は幅約130㎝、反花は一見中央に稜を設けた単弁に見えるが、小さい彫くぼめが2つ認められることから子持ち複弁とすべきかもしれない。反花の蓮弁は前面から左右側面まで終わり後方には見られない。敷茄子は低平で、その上の蓮座は三重の同心円を半裁したような蓮弁で、小花も同様の意匠である。光背は幅約116㎝、厚さ約15㎝。像高約136㎝、髪際高約120㎝。体躯と頭部のバランスがよく、肩から胸にかけて上半身の肉取りやボリューム感のある腹部から広くとった両膝など、全体的に安定感がある。ほとんど丸彫りに近い手法で、特に右手、うなじは完全に彫り抜いている。両手を膝前に垂らしているが、手先が欠損磨滅して印相は明らかでない。左手の様子から降魔印と推定される。衣文も木彫風で写実的である。全体に表面は焼損によると見られる剥落と風化でかなり荒れている。特に面相部は痛みが激しいが左眼から額にかけては面影をとどめている。光背の向かって右側が大きく欠損しているが、光背面には、頭光に5つ、身光に6つ、合計11個、径約17㎝の円相を浅く彫沈め、内に梵字を平板陽刻している。肉眼では判読しづらいが、採拓された川勝博士によれば、頭上「アーク」、向かって左側、上から「アー」「アク」「ア」「ヨ」「ウーン」、右側上から(欠)「アン」(欠)(欠)「バン」とのことである。さらに、光背の背面には中央に外径約68㎝、内径約50㎝の下方に蓮座を持つ月輪を平らな突帯で刻み出し、内に大
きく釈迦如来の種子「バク」を平板陽刻している。その下方左右にも同様の手法でやや小さく月輪と種子を刻んでいる。「マン」「ウーン」で文殊菩薩と普賢菩薩と考えられ、釈迦三尊である。普賢菩薩の種子は通常「アン」であるが、川勝博士によれば「ウーン」も用いられるとのことである。その下方には約33㎝四方、深さ約12.5㎝の内に二重に段を設けた方形の奉籠穴を穿っている。手の込んだ奉籠穴で、失われた蓋石があったことが容易に推定できる。この奉籠穴の下方にも半肉彫りの蓮座状の高まりが見られる。奉籠穴の脇には文字が刻まれていたような方形の窪みも見られるが磨滅しているため不詳。二重円光背を負い光背面に円相種子を設けた石仏が京都付近に点在し、川勝博士により天台系あるいは叡山系の石仏と名付けられている。この石仏はその最古の例とされ、造立時期は、藤原期の余風を残す鎌倉時代初期とされている。

二重円光背に円相梵字が叡山系…






堂々とした正面観に比べると側面観はちょっとペンペンな感じ…後頭部に注目、くり抜いています。


背面の様子。何か文字でも刻んであったような方形枠がうっすら見えます…


剥落しておいたわしい面相部…


肘のところは完全に彫り抜いています…


奉籠穴…


蓮座と敷茄子、台石の反花の様子…膝元のギザギザは何でしょうか?カエルの足みたいに見えますが…

参考:川勝政太郎「比叡山香爐岡石仏とその様式」『史迹と美術』第300号
   川勝政太郎『京都の石造美術』
   栗東市教育委員会(財)栗東市文化体育振興事業団編『忘れられた霊場をさぐる』3-近江における山寺の分布-

蓮弁や梵字など他に例を見ない非常に手の込んだ意匠表現で、丸彫りに近い彫成法も考え合わせれば、往時の威容と壮麗さが偲ばれます。北嶺の
一画を占めた堂宇の本尊であっただけのことはある流石の石仏です。そういえば、山麓や末寺には石造物が多いのに当の比叡山には石造物を見かけない。田岡香逸氏などは、古い石造物はまったく無いとまで言っておられますが、そうでもない。くまなく見て回ったわけではありませんが、中世に遡りそうな小型石仏や五輪塔などはあちこちで見かけます。この石仏はその中でも別格のエース的な存在でしょう。