石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県桜井市笠 千森墓地笠石仏(笠塔婆)

2014-12-31 08:54:17 | 奈良県

奈良県桜井市笠 千森墓地笠石仏(笠塔婆)
 笠山荒神の北約1Km、山間部の尾根を利用した墓地がある。この墓地の一番奥まった最高所に笠石仏がある。
 花崗岩製。台座(繰型座)、方柱状の龕部(塔身)、四注式の笠石、請花宝珠の4つの部材より構成される。笠石を伴う一種の石仏龕とみることも可能だが、むしろ笠塔婆というべきものと思われる。全高約165cm、台座は幅約61cm、奥行約63cm、高さ約28cm、台座の側面高は約15cm。フォルムは反花座と共通するが上部斜面部に花弁を刻まない所謂繰型座で、上端受座の幅は約40cm、奥行約42cm。龕部(塔身)は、高さ約70cm、幅約37cm、奥行約33cm。正面に60cm×27cmの長方形の枠を浅く彫沈め、下端近くに蓮座を薄肉に浮彫し、その上方に高さ約47cmの舟形光背形を彫り沈め、内に像高約38cmの如来立像を半肉彫に表現する。
右手は胸元に掲げ、左手は膝のあたりに下げている。両手とも指で輪を作ると来迎印で、阿弥陀如来とすべきだが、指で輪を作るようには見えない。胸元の右手は施無畏印と思われ、左手は掌を表に向けていれば与願印で釈迦如来、裏を向けていれば触地印で弥勒如来の可能性が高いが残念ながら手先の様子、印は今一つハッキリしない。龕部(塔身)の向かって左の側面上方には「キリーク」がある。阿弥陀如来の種子と思われ、月輪や蓮座を伴わず直接薬研彫りする。右側面は「バイ」と見られ、薬師如来と思われる。背面は素面のままとする。
 笠石は軒幅約67cm、高さ約32cm。軒厚は中央で約9.5cm、隅で約12cm。上端に幅約25cm、高さ約2.5cmの露盤を刻み出す。また、笠裏には垂木型を刻む。
 宝珠請花は高さ約34cm、基底部の径約18cm、請花径約27cm、宝珠径約24cm。請花の蓮弁は小花付の単弁で覆輪がある。
 笠石は層塔の最上層の笠石にそっくりだが、路盤中央の枘穴の深さが約2cmしかないので相輪を載せるには浅過ぎ、当初より宝珠請花式であったと思われる。宝珠請花も造形的には石灯籠のそれと共通する。笠石の軒口に檜皮葺をデフォルメする低い段を設けない点や笠裏に隅木を表現しない点、台座に反花を刻まない点などは四角型石灯籠と相違する。大和でもこのような形式の笠石仏ないし笠塔婆はあまり見かけない珍しいものだが、部材は石灯籠や層塔のように大和でメジャーな石造美術の造形を少しアレンジして出来上がっている。
 昭和57年4月20日付けの読売新聞の記事によれば、石仏研究家の縄田雄一氏らが発見され、太田古朴氏が鑑定されたとの由。記事によれば塔身左側面に「応仁元(1467)年九月日」の銘があるというが、当時よりもさらに風化磨滅が進んだものと見え、肉眼では確認できなかった。
 やや弱い笠の軒反、軽快感のある請花宝珠の形状、特に少し退化ぎみの蓮座の蓮弁の様子などを勘案すると造立時期は概ねその頃とみて大過ないと思われる。

石仏に詳しい先達に教えていただきました(感謝感激)。珍しい笠石仏(笠塔婆)で、各部完存し、紀年銘もあれば基準資料として貴重な存在ですが、その後、特に注目されてないようで、これまでに紹介する文献は知見にないとのお話でした。半ば忘れ去られたような状況にあります
が、当の笠石仏(笠塔婆)は涼しい顔をして黙々と風雪に耐え今日も墓地を見守っています。傍らの一石五輪塔は戦国期頃のもので地輪部に「妙円」の刻銘があります。このほか墓地には、背光五輪塔や小型の五輪塔残欠、半裁五輪塔など中世に遡る石造物が散見されます。


奈良県 奈良市佐紀二条町一丁目 二条辻弘法井戸板碑

2014-03-16 23:23:41 | 奈良県

奈良県 奈良市佐紀二条町一丁目 二条辻弘法井戸板碑
近鉄大和西大寺駅からまっすぐ東に400m余り行ったところ、平城宮跡の保存された区域の北西端に近い二条の辻交差点に、「西大寺道」と彫られた石の道標とともに小さい覆屋が二棟ある。03交通量の多い交差点の一角に小島のように取り残された場所で、北方の歓喜寺の境外地だそうである。東側の覆屋には立派な地蔵の石仏を中心にいくつかの石造物が集積されており、特に地蔵石仏は二条辻の地蔵として名の知れた石仏で、鎌倉時代後期の造立とされる。
 西側の覆屋は、俗に弘法井戸と呼ばれ、覆屋内部には今は枯れて半ば埋まってしまっているが井戸があり、傍らによく似たサイズの三基の板碑が東西に並んでいる。西側のものは不動明王を中心に坐像二体、立像二体を配したあまり例のない五尊板碑で天文一六年の紀年銘がある。中央のものは上部に、月輪内に阿弥陀の種子「キリーク」を陰刻し、その下に舟形光背形に彫沈め、蓮座に立つ来迎印の阿弥陀像を半肉彫している。これも概ね同時代、室町時代後期のものと考えられている。
 02_2東端(向かって右端)のものは、『奈良県史』第7巻石造美術にも記載がないので、あまり注目されていないようだが、珍しい刻銘を持つ板碑としてあえて取り上げたい。現状地上高約88cm、幅約34cm、奥行約23cm、花崗岩製で、頂部を山形に整形し、山形部分の正面に金剛界大日如来の種子「バン」を陰刻し、その下に、中央に稜を持たせた二重の突帯を鉢巻状に置く。背面は粗整形したままである。丁寧に平らに彫整した碑面は、輪郭を巻いたように縦約63cm、横約25cmの長方形に浅く彫沈めている。下端は地表下に埋まって確認できないが、粗く整形したままある程度の厚みを残しているように見える。おそらく当初から台座などは伴わず、そのまま地面に差し込むように据え置かれたものと推定される。形状自体は大和でよく見かけるスタイルのもので特に珍しいものではないが、枠取り内にある陰刻銘が面白い。訪ねたこの日は、光線の具合で肉眼では全文判読・確認できなかったが、文字のいくつかは拾い読みができた。『奈良県史』第17巻金石文()を参考にすると、中央にやや大きく「此井御作為法界衆生平等利益也」、向かって右に「天文十九年庚戌七月日」、左に「施主浄賢敬白」とのこと。表面にはそれほど風化・磨滅は認められず、文字の残り具合も良好のようである。01銘文によれば、16世紀半ばの天文19年(1550年)、おそらく勧進僧と思しき浄賢という人物が願主となって、法界衆生の平等利益のためにこの井戸を作った云々という大意である。16世紀半ばに井戸を作った際のモニュメント的な供養碑であることが知られ注目される。それこそ発掘調査でも行わなければハッキリしたことはわからないが、水が枯れてしまってはいるものの、現に目の前に井戸が残されている以上、井戸とともに天文の昔からこの場所にあった可能性が高く、非常に興味深い。
 上水道のない時代の井戸の効用は、今の我々が思う以上に有難いものであったであろうことは想像に難くない。この場所が当時どのようなシチュエーションだったのか不詳だが、もし、当時も今と同じように街道に面していたとすれば、文字通り公衆用に飲み水等を供給していたのかもしれない。想像を逞しくすれば、道を行く人馬の喉を潤して、おそらく若干の対価をとり、井戸の維持並びに井戸を管轄した寺院の管理費用に充てられていた可能性もあるだろう。井戸そのものの効用をそのまま衆生に供するというよりは、板碑の本尊が大日如来である点も考慮すると、井戸の水を仏に献じた、ないし井戸水の対価を喜捨として仏や寺院に献じた功徳によって法界衆生に平等利益がもたらされるようにという意図と見るべきかもしれない。いずれにせよ、井戸掘削の際のモニュメントとして板碑が作られた貴重な事例として面白いと思った次第である。
 
 

参考:土井 実『奈良県史』第17巻金石文()
   
清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術

二条の辻の地蔵石仏をはじめとする石造はこれまでも前を車で通ることはあったのですが、情けないことに近くで見たことがありませんでした。幸いにして先日、有志の方々数人で訪ね、かなり駆け足でしたが、涎掛けや供花等を除けてさせてもらい近くで観察させていただく機会がありました。むろん興味の中心は地蔵石仏や五尊板碑にあったのですが、何気に慎ましく脇に控えたこの板碑に刻まれた銘を知って驚きました。あえてこちらをご紹介しておきます。むろん地蔵石仏は見るべき素晴らしい出来ばえで、五尊板碑もたいへん珍しいものですので、機会があれば改めて紹介できればと思います。
ちなみに、二条の辻を通りがかりの車の窓から、怪しい数人のおっさんたちが小さい覆屋に首を突っ込むようにたむろして写真を撮りまくっていたのを目撃された方がいらっしゃったら、それは小生たちでしたので悪しからず。


奈良県 奈良市中ノ川町 牛塚の石造物

2013-07-05 01:13:25 | 奈良県

奈良県 奈良市中ノ川町 牛塚の石造物
国道369号と県道33号の信号交差点、奈良市街からだと県道側に折れてすぐ北西に向かう未舗装の脇道がある。01_2古い旧道と思しきこの道を歩いて行くこと約300m程、木立の中の坂道を進むと樹木の少なく開けた明るい場所に着く。02道の北側の斜面に板状の石材を組み合わせて作った龕の中に大きい頭円光背を伴った石仏が祀られているのが眼に入る。地蔵菩薩坐像と推定される丸彫りの像容で、頭部並びに両手首から先が失われて痛ましいお姿になっている。以前は後補の頭部が乗せられていたというがそれも亡失して久しいという。膝下から首部までの現存高さ約73cm、キメの細かい花崗岩製と思われる。03膝下には埋もれかけた蓮華座の蓮弁が少しのぞいている。蓮華座は別石のようである。円光背も別石で、直径はおよそ66cm、像容の背裏側に支柱部分が隠れていて光背全体は柄鏡状になっている。07_2円光背正面は平坦ではなく中央を微妙に膨らませて外縁近くに輪郭を線刻し、その内側に単弁八葉の線刻の蓮弁を刻む。弁間には小花がのぞき、花托部分は二重の同心円の中に主弁の位置にあわせて連続する弧を八つ繋げた花形に線刻で描いている。中心部には小さいくぼみがある。円光背面の同心円を描く際に、何かコンパスのような道具を使った痕跡かもしれない。つまりコンパスならば針に当たる何か鋭利なものを中心点に押し当てた痕跡ではないだろうか。両手先は失われているが肘を曲げて結跏趺坐した膝上で両手を前方に差し出している姿勢で、右手には錫杖を執り、左手に宝珠を捧げ持っていたと思われる。錫杖は石で作られたものはなく金属製の短いものを拳に空けた穴に差し込んでいたと推定する。頭部が失われているので何とも言えないところもあるが、残された頸部は細くどちらかというと華奢な感じで、開いた両膝間の幅は十分に広く、全体的なプロポーションはよく整っているように見える。05_2やや撫肩で襟元から胸部にかけての肉取りはどちらかというと貧弱であるが決して平板ではない。衣文は抑揚を抑えて線刻に近いもので力強さは感じられないが袖先などの曲線は柔らかく、案外に細かい部分まで写実的なところもあってまずまず行き届いた作風である。造立時期には諸説あり、清水俊明氏は昭和49年発行の『大和の石仏』で室町時代末頃の作風とされているが、昭和58年発行『日本の石仏』近畿篇の付録、三木治子氏作成の「近畿府県別主要石仏一覧表」では鎌倉時代となっている。さらに昭和59年発行の『奈良県史』第7巻では鎌倉時代後期の造立と考えられるとあって清水俊明氏も鎌倉時代説に従っておられる。丁寧な作風だがやや華奢な感じがあって全体の造形や衣文の彫成に力強さが不足しているように思う。鎌倉時代も末頃から南北朝前半頃のものと考えておきたい。龕部は高さ約135cm、奥行き約100cm、厚さ約15cm程の板石を左右に立てかけ、その上に幅約145cm、奥行き約65cm、厚さ約15cm程の平板な石材を天井石として載せている。06_2背後にも石材が並べて積まれているのが見える。花崗岩と思われ、外面は粗く整形しただけであるが、側面や内側は平滑に整形され鑿痕も残っている。確証はないが当初からのものと考えてもいいかもしれない。
 石仏龕の背後、尾根が馬の背になった少し上った場所に層塔がある。見晴らしがよい。北方遠くに南山城方向が望まれる。現在10層を残すが、本来は十三重層塔であろう。残存高約3.5m余。基礎は幅約79cm、現状高約45cm、側面四方素面、初重軸部(塔身)は幅約49.5cm、高さ約50cmでわずかに高さが勝る。各側面とも径約42.5cmの陰刻月輪内に金剛界の四仏の種子を雄渾に薬研彫りする。初層笠以上は各層笠軸一体の通有型で笠裏には垂木型がある。初層から4層までは軒口厚く、軒反も力強い。04こうした特長から鎌倉時代後期頃の造立とみて大過ない。5層目以上はよく見ると軒反りや屋根の傾斜が変な層が交じっている。どうやらまともなのは下から4層までで5層目以上は全て後補の疑いがある。層塔の傍らに伊勢参詣供養板碑がある。現状高約106cm、幅約63cm。背面に自然面を残した板状の花崗岩の上部を山形に整形し、平滑な正面に輪郭を設けている。輪郭内中央上寄りに日月を現した小円相を浅く彫り沈め、その下に3行の陰刻銘を刻む。中央にやや大きく「天照皇太神宮奉三十三度供養」とあるのが肉眼でも確認できる。その向かって右下に「元和二年中川村」、左下に「丙辰八月六日」とあるらしいが、干支と中川村は肉眼では確認しづらい。江戸時代初頭の伊勢信仰に関する石造物として注目される。地元に伊勢講でもあったのだろうか、神宮への法楽供養か参拝33回を記念して建立されたものだろう。原位置を保っているという確証はないが、わざわざ遠くから運んできたとも考えにくいので、この道が奈良から伊賀を経て伊勢に通じる古い街道であったことを示していると考えてよいだろう。なお、この場所は地元で「牛塚」と呼ばれている。本によっては「塚」があるように書いてあるが、尾根のピークから少し下がった緩斜面でそのような地形は見当たらない。

 
参考:清水俊明『大和の石仏』
     〃 『奈良県史』第7巻 石造美術
   望月友善編『日本の石仏』4 近畿篇

 
牛塚というのは、昔、寺院の建設工事に使役された牛を葬った場所という伝承から来ているとのことです。あるいは、実範上人が中ノ川成身院を造営された際に使役された牛だとも言われているようですがそれ以上詳しいことは存知ません。そういえば、似たような話として逢坂の関の近く、近江関寺の故地に残る長安寺の宝塔にまつわるエピソードがありましたね。中ノ川の石造シリーズはこれでいったんおしまいです。


奈良県 奈良市中ノ川町 中ノ川の辻の地蔵石仏ほか

2013-06-26 23:08:13 | 奈良県

奈良県 奈良市中ノ川町 中ノ川の辻の地蔵石仏ほか
笠置街道(県道33号)沿い、中の川のバス停のある辻に吹さらしの覆屋に保護された地蔵石仏がある。01_3花崗岩製。舟形光背を背負った厚肉彫りの立像で、自然石の台石(本来の一具ものか否かは不詳)上に立つ。03総高約120cm、像高約91cm。全体のプロポーションはまずまず整い、やや撫肩ながら体躯の横幅があって計測値より大きく見える。転倒して何か固いものにでも激突したのであろうか、お顔の中央付近で光背ごと折損し、折損面に沿って顔面部分が深く欠落して目鼻は完全に失われている様子が何とも痛ましい。ただ、頬から顎にかけてのふくよかな感じが少し残っているのはせめてもの救いである。光背面上端には諸尊通有の種子「ア」が陰刻され、下端の蓮華座は縦長の覆輪付の単弁が並ぶ。持物は右手に錫杖、左手に宝珠の通有形で、あまり大きくない錫杖頭は彫り出しが薄くあっさりした表現で、錫杖下端は蓮華座に達せず足元辺りの裳のところで終わっている。衣文は簡素で平板な表現であるが袖裾は蓮華座に届かず、裳の間からは両足先がのぞく。05光背面向かって右に「奉造立地蔵菩薩逆修慶圓」左に「永正十四年丁丑六月廿四日」の陰刻銘が肉眼でも確認できる。04_2永正14年(1517年)は室町時代後半、願主は慶円という法名の人物で、逆修とあるから自身の生前供養の目的で造られたものと知られる。このほか覆屋内には、箱仏(石仏龕)、舟形背光五輪板碑、舟形背光宝篋印塔板碑、像容板碑などが置かれている。この種の石造物は大和ではありふれたもので特に珍しいものではないが、逆に大和ならではの石造物ということもできる。簡単に触れておくと、石仏の真後ろにある舟形背光五輪塔板碑は、全体を舟形に整形し正面に輪郭を設けて内に五輪塔形を平板陽刻し、「キャ・カ・ラ・バ・ア」の五大の梵字を各輪に陰刻する。地輪部には紀年銘らしい痕跡があるがすっかり摩滅して判読できない。その向かって左隣にある像容板碑は、碑面中央を舟形に掘り沈めて来迎印の阿弥陀と思しい如来立像を半肉彫りする。頭が大きく稚拙な造形ながら可憐な表情に好感が持てる。先端の山形がかなり鈍角で二段の切り込みも鉢巻き状になって板碑ならではの鋭利感はすっかりなりを潜めてしまっている。03_2五輪塔板碑の右隣の宝篋印塔板碑は、上端部分を少し欠損するが全体が舟形で正面に輪郭を設ける手法は背光五輪塔と同様で、五輪塔のかわりに宝篋印塔がレリーフされる。同じレリーフでも宝篋印塔は五輪塔に比べ意匠が複雑な分だけ制作に手間がかかるであろうことは容易に推察できる。レリーフされた宝篋印塔は上六段下二段の笠の段形、緩い弧を描いて外反する二弧の隅飾、塔身には大きい月輪内に梵字「ア」を薬研彫りする。基礎は上二段の素面で、大和系の宝篋印塔の特長をよくとらえている。塔身の左右にも小さい梵字があるように見える。この種のものとしてはまずまず出来ばえのものであろう。下方は地面に埋まっているが、基礎部分の向かって右側に天正…、中央に慶順…、左側に十月…の陰刻銘が見られる。16世紀も末頃のものでレリーフ塔の特長だけを考慮するともっと古くてもよいように思うが案外新しい。04_3この種の舟形背光の石塔レリーフ板碑が大和を中心にたくさん造られたのは16世紀後半頃から17世紀前半頃で、むろん多少のデフォルメもあろうがレリーフ塔と本物の石塔の様式観や年代観を短絡的に結び付けて考えるべきではないのかもしれない。そもそも舟形背光石塔レリーフ板碑は、身近にあった古い立派な本物の宝篋印塔や五輪塔を手本にして、本物の石塔造立の盛時(概ね13世紀後半から14世紀中葉頃)からはずいぶん後になって造られはじめたと考えるべきなのだろう。02_2大和では五輪塔や宝篋印塔に加えて宝塔をモチーフにした例もしばしば見られる。地蔵石仏の向かって左側にある石仏龕は、箱型の石材正面を隅を切って彫り沈め、内に錫杖宝珠の地蔵菩薩と来迎印の阿弥陀如来の立像を並べて配した双仏の箱仏で、上端には笠石を載せていた痕跡の枘が残る。像容の造形はごく稚拙でさほどとりたてて述べるほどのものではないが、同様の石仏龕が非常に多く残されているのが大和の地域的な特長でもある。室町時代中葉から後半頃のものだろうか。
辻の地蔵から南東方向に直線距離にして約200m余のところ、国道369号から北西側の脇道に入り25m程坂道を歩いて下っていくとブロック塀を背にして墓標や石仏が並んだ一画があって中央の地蔵石仏が一際目を引く。こちらは中ノ川墓地の地蔵石仏と呼ばれるが、立派な五輪塔のある共同墓地とはぜんぜん別の少々わかりにくい場所で、墓地としての機能や祭祀はもはや廃絶していると言ってよいような状態になっている。中央の地蔵石仏は、舟形光背に地蔵菩薩の立像を厚肉彫りし、総高約137cm、像高約101cm。右手に錫杖、左手に宝珠の通有形で、頭上の光背面に地蔵菩薩の種子「カ」を陰刻する。05_3像容向かって右に「大永四稔観實観圓識春圓観」、左に「甲申三月廿四日慶圓識賢圓禅三郎四郎」の陰刻銘があり、肉眼でも確認できる。大永4年(1524年)は、辻の地蔵石仏から7年後の造立。観実、観円…は願主・結縁者達の法名で最後の三郎四郎のみ俗名である。あるいは石工名かもしれない。願主の一人、慶円は辻の地蔵の願主と同一人物であろう。持物を執る左右の手の小指を立てているのが面白い。下端は厚みを残して覆輪のない縦長の単弁の蓮弁を並べた蓮座がある。全体のプロポーションや衣文表現は辻の地蔵によく似ているが足元の裳裾と足先の表現が異なる。鼻先の欠損や若干の風化摩滅もあるが目鼻立ちが整い、目元の涼しい表情が見て取れる。この顔つきは大和のこの頃の地蔵石仏にしばしば通有する表現のように思う。地蔵石仏の手前の台石に見える苔むした方形の部材には上端に枘穴のようなものがあり、側面に「ア」、「アー」、「アン」、「アク」の種子が大きく薬研彫りされている。欠損も目立つがかなり古い層塔の塔身か五輪塔の地輪と思われる。このほか周囲には石仏龕、名号碑、像容板碑、近世の宝篋印塔などが見られる。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術
      望月友善編 『日本の石仏』第4巻 近畿編
 
せっかくなのでこの際中ノ川の石造の主だったところはご紹介しておこうと思います。次は牛塚の石造物の予定。


奈良県 奈良市登大路町 奈良国立博物館庭園石造宝塔(国東塔)

2012-11-25 23:26:55 | 奈良県

奈良県 奈良市登大路町 奈良国立博物館庭園石造宝塔(国東塔)
奈良国立博物館新館の南に庭園が整備され池に囲まれた茶室八窓庵がある。01_2大和三茶室のひとつに数えられ、元は興福寺大乗院の庭園にあった江戸中期の茶室である。04この場所には以前、館長公舎とその庭があったところのようだ。数年前までは西新館の南のテラスから池を渡って行くことが出来たと記憶しているが、最近庭園が整備されて以降は立入が制限されている。保護のためやむを得ない措置である。茶室を借りて庭園に入ることは可能だが、それなりの団体が茶会を催すような場合に限られ、庭園に配置されたいくつかの石造美術はテラスから池越しにその姿を眺めるしかできなくなった。
ところが、この八窓庵の庭園が一日限定で特別開放されるとの情報を得て早速行ってみた。事前申込不要、ただし先着20名、入館料は必要とはいえ常設展示の500円のみ。博物館ボランティアの皆さんから懇切丁寧なご案内とご説明をしていただいた。三笠山を借景にした美しい庭園と茶室の落ち着いた佇まいに紅葉が色を添え、大勢の観光客で賑わう奈良公園の雑踏がウソのような落ち着いた別天地で至福のひと時を過ごすことができた。
庭園の石造美術のうち、特に興味を引くのは国東塔である。02国東塔というのは大分県国東半島を中心に分布する特異な形式の石造宝塔のことで、天沼俊一博士による命名である。相当数の国東塔が流出しているようだが、現地以外で実物を見学できる機会はやはりそうそうあるものではないので貴重な存在と言える。相輪上半を欠いた現状塔高216cm。凝灰岩製。方形の基壇は長方形の延石を2枚並べ、隙間に小さい石材を挟み込む。基礎は幅76cm、高さ47cm、側面高19.5cm。側面は二区に区画して羽目に格狭間を入れる。格狭間は低平で花頭中央が高く外側の弧が怒り肩気味に横に張って全体が平らな菱形のように見える。03基礎上端には大きく高い覆輪付の複弁反花座を設け、反花座上端は平面円形にして低い敷茄子のような框を刻みだす。反花は側面一辺あたり主弁1枚、四隅に一枚で弁間には小花(間弁)がのぞく。東側の反花の中央上端、敷茄子框部の直下に直径7cm程の貫通穴が見られる。火葬骨を落とし込んだ納骨穴だとのことである。
基礎の上には別石の小花付単弁八葉の大きい請花座を挟み込んでから塔身を載せる。基礎と塔身の間にこのように大きい反花座と請花座を挟み込むのが国東塔の最大の特長で、近畿の石造宝塔にはまず見られない独特の手法である。塔身は素面で高さ58cm、首部と軸部からなり、軸部は棗実状の宝瓶形で最大径66cm、首部は高さ7cm、径40cm。南側の軸部の肩にも径10cm程の穴が穿たれている。穴の中には掌に納まるくらいの大きさの経石が納めてあったとのことである。笠石は軒幅78.5cm、高さ46cm。軒口はあまり厚くなく、隅付近で急激に反る。軒裏には一段の垂木型が刻まれている。古い国東塔で軒裏に垂木型を刻出する手法は珍しいとのことである。笠上には露盤が刻出され、側面を二区に区画して小さい格狭間を入れる。相輪は別物の転用とのこと。なるほど伏鉢の幅が露盤の幅より若干大きいように見える。残っているのは下から40cmまでで、火炎宝珠を含む相輪上半部は亡失し現在は後補材で上手に補われている。伏鉢に複弁反花を刻むのもこの辺りでは目にしない手法。塔身に礫石経などを入れて作善供養を行い、さらに塔下に火葬骨を入れて造塔供養の功徳に結縁せんとしたのであろう。元の所在地は不詳で、いったん東京に出た後ここに納まったとのこと。造立時期は南北朝頃とされている。それにしても滋賀県など近畿地方の石造宝塔を見慣れた目には少々奇異に感じる構造と意匠表現が印象に残った。
 

参考:望月友善『大分の石造美術』

 
まずは貴重な機会を設けていただいた博物館当局に感謝申し上げる次第です。
文中法量値は望月氏の著書に拠ります。望月氏は鎌倉時代末期、元亨頃の造立時期を推定されています。
庭園にはこのほか宝篋印塔、一石五輪塔、般若寺型石灯籠があります。宝篋印塔は段形部分、隅飾、露盤や相輪など近畿ではまず目にしない珍しい手法が随所に見られます。原位置はやはり大分県国東とのことで南北朝時代のものだそうです。般若寺型石灯籠は江戸時代の模作。むろん本歌は般若寺本堂前のものですが、実はこれも模作らしく本当の本歌は東京の椿山荘にあるといいます。一石五輪塔は古式のものですが小さくあまり目立たないので西新館のテラスからではほとんど見えません。また、繰り出しのある古代寺院の巨大な礎石が踏分石としていくつか見られました。伽藍石と呼ばれるものです。まぁ保護保存の現地主義の原則からは少し複雑な気持ちもありますが、とにかく八窓庵と庭園は素晴らしいの一語に尽きます。今後も時々特別公開される見込みとのことなのでアンテナを高くして機会をうかがっておかれることをお薦めします。


奈良県 葛城市当麻 当麻寺六字名号板碑・手水船

2012-07-25 12:28:03 | 奈良県

奈良県 葛城市当麻 当麻寺六字名号板碑・手水船

奈良時代創建の古刹当麻寺(高野山真言宗、浄土宗)について今更説明の必要はないと思う。01元来の本堂は金堂であるが、中将姫の蓮糸曼荼羅を安置した曼荼羅堂が現在は本堂の役割を果たしている。02この本堂(曼荼羅堂)の向かって右手に地蔵を祭る小祠があり、その脇に見上げるような板碑が立っている。総花崗岩製。高さ2.5m余。やや不整形な複弁反花座上を地面に置いて、その上に立てられている。おそらく本体下端に設けた枘を台座の枘穴に差し込んで固定するようになっているのではないかと思われるが確認できない。反花座は平面長方形で、短辺は2葉、長辺には5葉の蓮弁を配し、上端に薄い受座を設けている。受座は碑本体下端の大きさに比してかなり広く作られているが、特に不自然な感じは受けない。一具のものと考えて支障はないだろう。各蓮弁の形状は古い五輪塔の台座などに見られる大和系反花の系統を受け継いでいる覆輪部のある複弁式のものであるが、彫成はかなり平板で意匠表現的には退化傾向がうかがえる。全体に蓮弁の大きさが不揃いで、しまりのない間延びしたような印象を受ける。03また、間弁(小花)も表現されていないように見受けられる。始めから反花座として造形したというより、平べったい自然石の台石の表面に蓮弁を刻出したという方がいいかもしれない。長方形の反花座は石龕仏の台座など時々見かけるが、五輪塔の台座に見るように平面正方形の反花座を見慣れた眼には少し珍しく映る。板碑本体は、先端部を山形に整形し、正面中央に稜を設けて、その下に2段の額部を作る圭頭稜角式と呼ばれる典型的な大和系の板碑で、平らに整形した碑面には輪郭を枠取りして内側を浅く彫り沈め、「南無阿弥陀仏 三界萬霊」を大書陰刻する。六字名号はやや崩し気味の行書風で、「三界萬霊」の四文字は堅実な楷書体としており、書体が異なる。六字名号の功徳を三界の万霊の供養の為に献じようとしたものと思われる。輪郭束部分下方、向かって右側に「大永七年(1527年)丁亥四月八日」左に「願主宗胤敬白」の陰刻銘が認められる。輪郭内の下端には蓮華座が薄肉彫りされており、蓮弁の形状は写実的でよく整い、戦国期の蓮弁としては異色の出来ばえを示す。背面は粗く整形しただけで断面はかまぼこ形を呈する。中央付近、「陀」の文字のあたりで折損したのを上手く接いである。この種の名号板碑は大和では普遍的に見られるが、これ程の大きさのものは稀で、紀年銘とあいまって典型例として注目しておきたい。01_3

 この名号板碑と本堂の間に手水船が置かれている。平面長方形で断面は上端を大きく下端を小さくした台形箱型を呈する。長辺上端幅約150cm、下端幅約140cm、短辺上端幅約100cm、高さ約53cm。02_2花崗岩製。上端面は外周縁に15cm程の厚みを残し内側を長方形に抉り込んで水溜部分を作る。よく見かける手水鉢と特段変ったところはないように見えるが、実はこの種のものの中では我国で最古クラスの在銘遺品なのである。周囲は地面を延石で区画して掘り沈め、内側をセメントで塗り固めて排水を流すよう工夫されている。また、下端面の下には四隅に4個の自然石を置きその上に載せられている。水道管を底から抜いて中央の竜口から給水し、短辺中央に彫り付けた溝からオーバーフローした水が流れ出るようになっている。03_2こうした給排水まわりの造作は近年のものと思われるが、底の貫通孔や上端面の溝は当初からのものを利活用している可能性がある。文様や装飾的な意匠表現を排した質実豪健なコンセプトである。本堂側の長辺側面に陰刻銘があり、鎌倉時代末の造立であることが知られる。「南無阿弥陀仏/奉施入/當麻寺/石手水船壱居/右為二親幽犠往生佛土/兼法界衆生平等利益/又自身決定證大菩提(…この「菩提」の文字は一文字ですがフォントが出ませんので悪しからず…なお、「菩提」ではなく「菩薩」説もありますがこれでは意味が通りませんね…)/施入如件/元徳三年(1331年)辛未/正月日(…三月説もありますが実見した限り正月と見えます…)/大施主僧寂心/尼心妙/大工藤井延清/各敬白」。施主の寂心・心妙という法名のおそらく在俗の夫妻が、この作善行為と南無阿弥陀仏の六字名号の功徳をもって、両親の浄土往生と法界衆生の平等利益、自分自身の得道に繋げようとする願意が述べられている。また、大工名がある点も貴重で、藤井延清について、川勝博士は、『天龍寺造営記』暦応五年(1342年)に「大工石作二人武久、延清」と見える延清と同人であろう、とされている。当時はさぞかし名のある石大工であったのであろうか。

水船とは水を溜める容器で、水盤と呼ぶ場合もある。石造水船は基本的に手洗い用の手水鉢と石風呂の浴槽という2つの用途に種別されることが想定されており、本例は、手洗い用の水船としては屈指の古い在銘品で、体裁の整った銘文も貴重。700年近い歳月を経て今日なお現役で用いられている点は実に驚くべきことである。

 

写真左下:銘文の紀年銘部分のアップですが、ちょっと見えづらいですかね…。

 

参考:清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術

   土井 実『奈良県史』第16巻 金石文(上)

   川勝政太郎『石造美術』

    〃  新装版『日本石造美術辞典』

 

小生の大好きな当麻寺は、建築や仏像等それこそ綺羅星のごとき文化財の宝庫です。ここの梵鐘と金堂正面の凝灰岩製の石灯籠はともに無銘ですが、いずれも奈良時代のもので、それぞれ日本最古のものとして著名です。ここではあえてご紹介しませんでしたが当然お忘れなきようご参考までに。


奈良県 奈良市月ヶ瀬桃香野 野堂弥勒石仏

2012-07-05 21:46:18 | 奈良県

奈良県 奈良市月ヶ瀬桃香野 野堂弥勒石仏

布目ダム東岸の湖岸道路を腰越から東に折れ、ダム湖に東から流入する支川の南岸の細い道を川沿いにしばらく進むと道の南側、谷間に張り出した尾根の先端部分、道からは少し高い位置に隠れるように佇む石仏がある。01通称「のど地蔵」。05一見して頭頂に肉髻があるのがわかるから如来像であるのは明らかで、地蔵というのは石仏一般に対する通称的な呼び名であろう。「のど」といういのは「野堂」という小字から来ているらしい。かつては人の行き来する古道だったのであろうか。そして、想像を逞しくすれば、この石仏は道沿いの小堂内に祀られ、行き交う旅人や山仕事をする人々が手を合わせて仏の功徳を祈っていたのであろうか。やがてお堂は朽ち果て、忘れ去られたように露天に佇むようになったのかもしれない。草深いこともあって現地にはお堂の存在をうかがわせるような痕跡は確認できないが、そんなことを想像させるような地名である。場所は北野と月ヶ瀬桃香野との町境を桃香野側に越えて間もない辺りになる。02逆に桃香野からであれば北野の奥から高山ダム方面へ抜ける道路から西に折れて茶畑の間を縫うように伸びる起伏のある農道を南西に進んでもたどり着けるがわかりにくい。04いずれにせよ道標等案内も無いので探し当てるには多少の苦労を要する。古い紀年銘が発見され、この石仏の価値が認められるようになったのは、それほど古いことではないようで、このような奥深い谷間の山陰にひっそりと存在していることを考えれば、世に知られず埋もれていたというのも無理からぬことかもしれない。花崗岩をやや厚みのある板状の二重光背形に整形し、平滑に仕上げた光背面の真ん中に如来立像を厚肉彫りする。頭光円の下方は、正面に小さい段を設けて肩先に向かって弧を描いきながらつなげている。石材の下端は厚みを残し、そこに蓮華座があるように見えるが、ちょうど蓮華座上端面以下がセメントで固められ地中に埋まっているので蓮弁は確認できない。背面は粗く整形したままとする。06_2現状地上高約117cm、頭光円の幅約40cm、厚みは厚いところで約21cm。像高は約106.5cm。印相は、右手を肩付近にかかげ、左手は太腿辺りに下ろし、一見施無畏与願印に見えるが、よく見ると左手は親指が内側にあることから手の甲を見せる触地印で、弥勒如来の立像であることがわかる。03肉髻が低めの頭は大き過ぎず、体躯のバランスのとれたすらりとしたプロポーションで、表面の風化が進んでいるが衲衣・衣文の表現が流麗で写実的な趣きがある。特に足元の裳裾の処理の仕方に特長がある。面相部はかなり風化が進んでいるが、やや面長の端正なお顔で、その表情は穏雅である。さらに手先、足先の造形にも抜かりなく、優れた作風を示す。板状に整形された身光背の向かって右側面に、割合に大きい文字で浅く陰刻銘があるのが肉眼でも確認できる。「當来導師弥勒佛建長七年(1255年)…」で最後の方は埋まって見えないが鎌倉時代中期の造立と知られる。当来導師というのは56億7千万年後に都率天での修業を終えこの世に下生して衆生を導くとされる弥勒仏の呼称のひとつである。大和でも屈指の古い在銘品として貴重な存在で、在銘の弥勒石仏としては大和最古のものである。

 

 写真右中:刻銘のある側面部分と背面の様子。右下:足先や裳や袖の裾の処理の仕方にご注目ください。

 

参考:清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術

   岡本広義『奈良市石造物調査報告書-都祁・月ヶ瀬地区所在指定文化財等石造物-』 奈良市教育委員会

 

大和の東山内付近には建長銘の石仏がいくつか見られます。「奈良建長クラブ」のメンバーのお一人です。どうも場所がわかりにくく行きあぐねていた石仏で、最近斯道の大先輩に教えていただきようやく邂逅できました。自然豊かな別天地、静かで実にのどかな場所にありました。文中法量値は例によりコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。近くに旧月ヶ瀬村時代に立てられた案内看板があります。やや離隔距離をとって見学に支障にならない位置にあるのは有難いことですが、案内文中の銘文の漢字表記に一部不正確なところがあります。また、「快慶の作風」、「伊行末系統の石工」という言葉が踊っています。それも首肯されるだけの卓越した優品であることは間違いありませんし、可能性もゼロではありませんが、石仏自体には快慶や伊行末との関わりを具体的に示すものは何もありませんので、ウーンこれはちょっと言い過ぎかもしれませんね…。


奈良県 大和郡山市矢田町 金剛山寺(矢田寺)石段ほか

2012-06-18 00:33:29 | 奈良県

奈良県 大和郡山市矢田町 金剛山寺(矢田寺)石段ほか

矢田寺本堂前の石段、向かって右(北側)の耳石に注目してもらいたい。ちょうど鐘楼の直下になる。03_2耳石は花崗岩製の長方形の石材で幅は45.5cm、4つの石材からなっているが、このうち一番上のものと上から3つ目の石材表面に陰刻銘が認められる。04石材の上端は石段に合わせて平らになるよう斜めに切っており、表面に「貞和二二年戊子二月十五日施主…」の陰刻銘が認められる。施主以下は2行にわたり数人の交名があるようだが摩滅が激しく不詳。交名の一部は下の石材にも及んでいるようである。下の石材には「大勧進法眼実真…」とある。摩滅が進んでいるが肉眼でもある程度判読できる。石段を寄進した記念の銘を耳石などに刻む例が時々あるが、南北朝時代前半、貞和二二年、つまり北朝年号の貞和4年(1348年)銘を刻む本例は最も古い部類に入る。

この石段下の向かって左側には、大きい六字名号碑がある。花崗岩製で高さ約2m、幅約43cm。頂部を山形にして額部は二段にして中央に稜を設けた圭頭稜角式と呼ばれる典型的な大和系の板碑で、01碑面には長方形に浅く彫り沈めて輪郭を設け、輪郭内下端に蓮華座のレリーフを刻出する。02_2中央には「南無阿弥陀仏」の六字名号を大きく陰刻し、その下にやや小さい文字で二行に分けて「行尊/逆修」と刻む。左右の輪郭下方に「文禄二年(1593年)/十月三日」の紀年銘がある。石材の都合あまり薄く作るのは無理なので、正面から側面は丁寧に仕上げているが背面は粗整形のままで厚みを残している。大和を中心に良く見かけるタイプの名号板碑であるが、これ程の大きさのものはあまり多くない。

また、本堂北東側にある春日神社の社殿前石段の耳石にも紀年銘がある。石段は立派な壇上積式の基壇の正面に設けられており、やはり花崗岩製である。向かって右側の耳石に一行、こちらは風化摩滅が激しく肉眼ではほとんど確認できない。幅37cm、長さ2m程の上下端を石段に合わせて平らになるよう斜めに切った方柱状で、07段数が四段と少ないこともあってかこちらは一石からなっている。「正平二年(1347年)十一月日」、こちらは南朝年号で本堂前よりさらに数ヶ月遡る。大和では在銘最古の耳石とされる。わずか数ヶ月の間に、南朝年号と北朝年号が同じ寺院内の程近い場所にある別々に石段の耳石に刻まれているわけで、これが何を意味するのか、なかなかに興味深い。1347年の11月といえば南朝の楠木正行が京都奪還を目指して蜂起、北朝方を撃破した頃である。05翌1348年1月5日の四条畷の戦いでは逆に北朝方が勝利し、南朝は吉野を捨てて賀名生に落ち延びている。こうした当時のめまぐるしい政治情勢を反映したものと解するべきかもしれない。いずれにせよ興味は尽きない。

さて、矢田寺は中世以来盛んだった地蔵信仰の一大中心と伝えられており、そのせいか境内にはたくさんの地蔵石仏がある。その代表は先に紹介した見送り地蔵といえるが、このほかにもいくつかご紹介したい。参道を本堂に向かって進むと参道北側に一際大きい地蔵石仏が立っているのが目を引く。「味噌なめ地蔵」と呼ばれている。花崗岩製。高さ2.1m、幅約1m程の長方形の石材の正面に像高おおよそ1.7mくらいの地蔵菩薩立像を厚肉彫りしたもので、全体に素朴で重厚な像容が特長である。面相表現はおおらかで悪く言うと大雑把、顔面に比して耳が極端に大きく見える。また、面白いことに衣文など細部表現が省かれており、周縁部の向かって左上には矢穴が見られるなど、十分に仕上げられていない印象があり、未成品ではないかと清水俊明氏が指摘されているのも首肯される。06下端は埋まって蓮華座は有無も含めて確認できない。印相は錫杖を持たない矢田寺型である。平坦面に大勢の結縁交名が陰刻されているようだが肉眼では確認できない。紀年銘はなく造立時期は不詳。傍らの看板には鎌倉時代と記されている。08重厚な体躯、やや肘の張った体側(「からだがわ」ではなく「たいそく」と読んでいただきたい)のアウトラインから受ける印象は、確かに鎌倉時代の石仏の雰囲気が感じられるが、面相表現や袖裾の様子などからはもう少し時代が降るように思われる。見送り地蔵よりは先行するであろうが決め手に欠ける。ちなみに清水氏は室町中期頃と推定されている。お口に味噌を塗り付けると家の味噌の味が良くなるとの伝承があるらしい。昔は各家庭で家伝の味噌を作り置いたのであろうが、今日ではたいていの家庭で市販の味噌を使うためか味噌を塗りつけられるのは稀になってしまったようだ。周囲には小石仏がいつくか並べられているが近世以降のものが目立つ。その中で向かって左端の地蔵石仏は高さ約1.2m、スマートな体型の矢田寺型で室町時代のもの。

参道北側の子院、大門坊門内すぐ東の目立たない場所にある石仏は、一願成就の北向地蔵と呼ばれるもので、舟形光背に蓮華座上に立つ定型的な表現の地蔵立像を厚肉彫りしている。ただし印相は錫杖を持たない矢田寺型で室町時代後期のもの。大門坊の庫裏の玄関前には舟形に整形した正面に像容をレリーフした立派な十三仏がある。このほか本堂裏手の墓地にも戦国期から江戸時代初め頃の地蔵石仏がいくつかあり、山門手前の道路脇にも立派な室町時代の矢田寺型地蔵がある。

 

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

   土井 実 『奈良県史』第16巻 金石文()

    〃   『奈良県史』第17巻 金石文()

 

前後編にわたりました矢田寺の石造美術はこれでいったん終了。あじさいの頃は何だかんだで毎年訪れていますがようやくにして紹介記事を起こした次第です。近世のものも含め面白い石造物がたくさんありますがとても紹介し切れません。内容は法量値も含めほとんど『奈良県史』の受け売りです。大雑把ですいません。


奈良県 大和郡山市矢田町 金剛山寺(矢田寺)地蔵石仏

2012-06-12 22:53:54 | 奈良県

奈良県 大和郡山市矢田町 金剛山寺(矢田寺)地蔵石仏

大和郡山市域西方、矢田丘陵の東山腹に位置する矢田寺は、境内の1万株とも言われるアジサイの名所として著名である。08_2正式には矢田山金剛山寺といい、高野山真言宗の別格本山である。05_2麓の山門から石段を登っていくとやがて西に真っすぐ伸びる石畳の参道の正面突き当りに本堂を望む場所に達する。その少し手前、石段を登り切る直前の左手の一画に大きい石地蔵が立っており見送り地蔵と称される。参詣を終え参道を帰る者を見送るように東を向いているが、中興満米上人が小野篁に案内されて地獄を訪ね、亡者を救う地蔵菩薩を目撃、そのお姿を模して今のご本尊の地蔵像を作るに際して、その造像を手助けした4人の翁に応現化身した春日明神が春日山に戻られるのを見送ったという伝承があるらしい。01自然石の台石の上に載せられており、花崗岩製。高さ190cmの舟形光背に像高156cmの等身大の地蔵菩薩立像を厚肉彫りしている。側面から見ると全体にかなり薄く彫成され、背面には横方向のノミ痕が幾筋も残っている。光背下端には複弁反花を刻み、その上に覆輪付単弁の請花を載せた二重の蓮華座上に立つ。03右手は錫杖を持たず、胸元に掲げて人差指を親指に添えて輪をつくり、左手は腹前に横にして親指と残りの指で輪をつくる。掌に宝珠を載せていたものが欠損したと考える向きもあるようだが、欠損したようには見えない。このように両手の指で輪をつくる印相は阿弥陀如来の来迎印と同じで、地蔵菩薩がこの印相を示す点は春日大社祭神の一柱である天児屋根命の本地と目される若草山地蔵石仏と共通する。一般に矢田寺型の地蔵と言われているが、矢田寺のご本尊は宝珠を持っておられるので左手の様子が異なる。したがって厳密には矢田寺型の地蔵というのは右手に錫杖を持たず来迎印を結ぶが、左手は宝珠を持つ場合と持たない場合があるということになるのだろうか。04_2いずれにせよ寺の縁起や伝承も含め、春日大社との浅からぬ関係がうかがわれ興味深い。02頭部はかなり厚く彫り出し、面相は柔和で痩身撫肩、体躯のバランスも悪くない。手先や足先、面相など入念に作られているが、眉や目の作り方、平板で形式的な衣文からは室町時代の大和の地蔵石仏に通有の作風が看取される。光背面頭上に阿弥陀如来の「キリーク」、さらに左右の側頭部から肩口にかけて梵字が6つ薬研彫りされている。向かって左上はカーン、次はウーンであろうか、その下はバン、右上はカ、その下はよくわからない、右下はタラークかもしれない。07_2これらの梵字の意味するところはよくわからない。六地蔵の種子との説もあるがそうではないように思う。さらに光背面左右の腰付近から足元にかけて「永正十二年(1515年)乙□四月八日本願妙円/以過去現世…奉立者也」の陰刻銘があり16世紀前半の造立と知られる。全体に表面の風化が進み頸の辺りで折損したのを接いであるものの、総じて遺存状態は悪くない。在銘の矢田寺型地蔵石仏では最古のものとされており、印相も含め矢田寺型の地蔵石仏を考えていく上で貴重な存在といえる。なお、すぐ近くには高さ1.5m程の自然石の表面を舟形を彫り沈め、内に南無阿弥陀佛の六字を大書陰刻した名号碑がある。向かって左に「天正元年(1585年)癸酉十二月十五日」、右に「夜念仏供養法界衆生」の陰刻銘があるのが肉眼でも確認できる。花崗岩製。特に珍しいものではないが、なかなか立派な名号碑で、「夜念仏供養」という面白い銘もあって見落とすべきものではないので注意して欲しい。

 

参考:清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

 

この季節、たくさんの紫陽花に彩られた境内が美しい矢田寺には、このほかにもみるべき石造美術が少なくありません。追ってご紹介したいと思います。山麓を見下ろす本堂に向かって直線的に伸びる参道とその両側に子院が甍を並べる伽藍配置は、同様の山腹にある寺院跡でしばしば目撃するパターンです。矢田寺のように現在進行形で存在しているこうした寺観は注意しておいて然るべきものと考えます。さてもさてもあじさいは見事です。


奈良県 桜井市多武峰 談山神社石灯籠

2012-05-14 23:09:08 | 奈良県

奈良県 桜井市多武峰 談山神社石灯籠

桜や紅葉の名所として知られる談山神社は、桜井市域南方の山中にあって藤原鎌足を祭神とするが元は妙楽寺という山岳系寺院で、01明治の廃仏毀釈の煽りを受け神社となったに過ぎず、04それは多武峰の長い歴史の中ではほんのつい最近のことである。

売店が並ぶ参道脇に木製の保護柵に囲まれた一際立派な石灯籠が目に入る。古くから著名な石灯籠で、後醍醐天皇の寄進とも伝えられている。花崗岩製。六角型、笠の一部に欠損があるほかは基礎から先端宝珠まで完存する。高さは約255cmとかなり大柄である。基礎は平面六角形で側面は二区に枠取りし、輪郭内には格狭間を配する。上端は抑揚感のある複弁反花とし、主弁が一辺につき2葉、都合12葉、6つの角と各辺中央にそれぞれ間弁(小花)が来るようにデザインされている。03反花上の竿受けには外縁部分に覆輪付の半円形の小さい請花を並べている。あるいはこれを蓮弁中央の花托に並ぶ蓮実と見立てる向きもある。竿は円柱で各節は穏やかな突帯をなし、上下の節は二条、中節は三条とし、中節の四方には梵鐘の撞座のように蓮華文を飾る。中台も平面六角形、下端は抑揚を抑えスッキリとした印象の小花付き複弁請花とし、05_2最下端には丸く角をとった竿受けを設ける。この中台竿受けは竿上節と一体的な意匠となるよう上手に工夫されている。中台側面も二区に枠取りして内に格狭間を配し、上端は二段の段形とする。火袋は上区二区横連子、下区は二区輪郭に格狭間とする。06_2中区の一面は火口、その対向面には外周縁を複弁蓮花文で装飾を施した円窓を設ける。残る四面には弁数の多い豪奢な蓮華座レリーフ上に月輪を陰刻し、月輪内いっぱいに端正な刷毛書体で四天王の種子(ヂリ、ビー、ビ、ベイ)を大きめに薬研彫する。笠裏の中央には周縁部に突帯を設けた六角形の穴で火袋を受け、02軒近くには垂木形のように一段を設け、6つの角から隅木状にした3条の突帯があって蕨手を経て笠頂部に通じている。先端宝珠は別石で枘で笠上にはめ込まれていると思われ、請花はやや小さく、請花側面は蓮弁にせず宝珠形(ティアドロップ形)の文様を並べて飾るのは珍しい意匠である。宝珠はやや重心が高いが完好な曲線を描いて先端の尖りまでよく残っている。竿の一面、中節の上に「元徳三年(1331年)辛未」下に「二月日願主敬白/大工利弘」の陰刻銘が残る。紀年銘は肉眼でも確認できるが大工名は摩滅が激しく肉眼では確認できない。重要文化財指定。大きく均整のとれた格調高い姿、隙のない丁寧かつ凝った細部表現は見事で、特に火袋の出来映えが素晴らしい。笠の一端を惜しくも欠損するが保存状態も良好で、この時代の優れた石灯籠の見本のような作品として高く評価されるものである。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   川勝政太郎・岩宮武二 『燈篭』

   清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

 

この石灯籠は気宇が大きく細部まで洗練され抜群の出来映えです。よく景観にマッチして実に立ち去り難い気分にさせてくれます。(これがどれ程素晴らしいものか知らない多くの観光客は素通りしていきます…(涙)。)談山神社は桜や紅葉の季節ももちろん結構ですが、小生は新緑の頃が一番お気に入りです。観光客でごった返す時期に比べると意外とすいてますし、のんびり見て歩くにはもってこいです。ここも見るべき石造美術の多い所です。先に妙覚摩尼輪塔を紹介しましたが、これはその第2弾。今後第3弾、第4弾にも請うご期待です。