石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 高島市安曇川町横江 布留神社宝塔

2008-05-24 02:28:50 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市安曇川町横江 布留神社宝塔

先に紹介した下小川国狭槌神社(2基の大型石造宝塔が並ぶ2007年6月記事参照)から東に約500m余、横江集落の北西に布留神社がある。社殿右手の竹藪に石造宝塔が立っている0606_2基礎は大部分が埋まり、上端がわずかに覗くに過ぎない。側面3面に輪郭、格狭間があるというが現状では確認できない。塔身は軸部、縁板(框座)、匂欄部、首部を一石彫成する。軸部は樽型で、素面。扉型らしき痕跡があるようにも見えるがはっきりしない。縁板の框座は半分以上が欠損する。匂欄部、首部と径を減じながら整った段形を形成する。笠裏は3段の段形になり、細い首部から続く最下段、中段は高さがあり、斗拱を思わせ、上段は軒口に近く作り付けた薄いものであることから、垂木を表現したものと思われる。軒口はさほど厚くなく隅の軒反も穏やかなものとなっている。四注の照りむくりが目立ち、隅降棟は断面凸状の突帯で表し、方形に立ち上げた露盤を頂に設ける。軒の張り出しが大きいためか笠全体に高さ(厚み)に欠け、照りむくりや軒口の薄さと合わせて軽快な印象を受ける。珍しく相輪も完存する。伏鉢は半球形で下請花は薄く風化が進みはっきりしないところもあるが複弁と思われる。下請花と九輪部下端の径に差がない。九輪の凹凸ははっきり彫成し逓減率は大きい。上請花は単弁と見られ、宝珠は整った曲線を見せる。伏鉢と下請花、上請花と宝珠の間のくびれ感は強い。基礎を除いた現高約178cm。花崗岩製。基礎の大半が埋まり、塔身表面、特に框座の欠損が目立つが、各部完存する点は貴重。笠や相輪の形状などから鎌倉時代最末期から南北朝前半、よく似た作風の今津町日置前正覚寺宝塔などと相前後する、概ね14世紀前半から中葉頃の造立と推定したいがいかがであろうか。穏やかで軽快感を醸しだす簡素かつ洗練された意匠表現には、既に完成の域に達し定型化し、さらに退化にさしかかってきた感があるように思える。

参考:滋賀県教育委員会 『滋賀県石造建造物調査報告書』 193ページ

竹を背景にした風情が涼しげでGOODでしょ。埋まった基礎に紀年銘とかないのかなぁ…。それにしても湖西は優れた宝塔の宝庫です。まだまだありますよ~。


滋賀県 大津市伊香立途中町 勝華寺の石造美術

2008-05-15 01:46:15 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市伊香立途中町 勝華寺の石造美術

途中トンネルを向け、国道367号と477号が交わる地点、急カーブと立体交差のある複雑な三叉路の北側、途中集落の小高い場所に勝華寺がある。「途中」は、古来途中越、竜華越とも呼ばれる京都の大原方面から葛川を経て北国に抜けるルート、さらに堅田方面との交通の結節点にあたる場所である。27石段を登ると本堂前右手、直接地上に置かれた石造宝塔がある。花崗岩製、相輪を失い現存高約120cm。基礎側面四面ともに輪郭、格狭間を配し、格狭間内には近江式装飾文様のレリーフが見られる。本堂側北面と南面に開敷蓮花、西面に宝瓶三茎蓮、東面だけははっきりしないが弁2枚の散蓮であろう。基礎は幅約57cm、高さ約35cm。輪郭の彫りが深めで上下より左右がやや広い。格狭間は花頭中央の横張りが弱く、カプスの尖りが目立つ。側辺の曲線も少し直線的なところがあって硬い感じが現れている。脚部はやや外に開く。開敷蓮花は格狭間内に大きく配され、その意匠はややデフォルメされて張り出し気味になっている。三茎蓮は上半だけの宝瓶から立ち上がる。中央に直立する蕾を、向かって右にやや下向き加減の巻葉ないし蓮葉の側面観を、左は外向きの、恐らく散花後の花托を表現していると思われる。塔身は軸部、縁板(框座)首部を一石で彫成し、首部は3段となる。軸部は下すぼまりの樽状で、突帯というよりは沈線刻に近い扉型を三方に刻む。笠裏には2段の斗拱型を有する。軒口はさほど厚くなく、隅の軒反は穏やかなものとなっている。頂部には方形の露盤を彫りだし、四注は断面凸状の突帯で隅降棟を表現し露盤下で左右の突帯が連結するが、隅降棟側の突帯が上に出て重なる形をとる。屋根の勾配はやや急で四注には若干照りむくりが認められる。相輪は亡失、代わりに五輪塔の空風輪とおぼしきものが載せられている。三茎蓮の面、輪郭束部分の左右と南側面の向かって右の束部分に各一行、合計3行にわたり肉眼でも概ね判読できる刻銘がある。19「貞和二二年/三月廿九日/願主二十五人」とある。北朝年号で貞和4年(1348年)、南朝年号では正平3年に当たる。何故か「廿」と「二十」の異なった書き方をしている。表面の風化が少なく、亡失している相輪を除けば、典型的な近江の石造宝塔の意匠ディテールを完備している。一方、厚みの足りない軒口、隅に偏った軒反りの様子、照りむくり気味の四注と勾配の急な屋根、あるいは肩の張った樽型の軸部と細い首部、格狭間の形状、さらに笠裏や首部の段形や隅降棟などに見るシャープさに欠ける彫りの鈍い感じは、石造美術の意匠表現が最盛期を迎える鎌倉後期の優品と比較すれば、時代が降る特長をよく示している。年代指標となる在銘の石造宝塔として貴重。さらにもうひとつ勝華寺には忘れてはならない石造物がある。22本堂の右手、一段下がった生垣の脇にある大きい水船である。約215cm×130cmの楕円形で高さは約75cm。良質な花崗岩製で、上2/3程は丁寧に丸く整形し内側を約152cm×72cm、深さ約48cmの楕円形に大きく抉り、縁を平らに仕上げている。下方は埋めて使用したのであろうか不整形のままで、北側面には4個の鏨の痕が並んでいる。南東側の外側下端を大きく打ち欠き、内底面から貫通する水抜孔がある。さらに南側の外側面に亀の肉厚な陽刻がある。古い水船でこのような動物意匠を施す例は他に知らない。亀と水抜孔の間の縁部分に「弘長二年(1262年)十二月・・・」の刻銘がある。(弘長3年説もある。)これはサイズ的にも石風呂と考えてよいと思われる。保存状態もよく、珍しい亀のレリーフに加え、鎌倉中期の在銘遺品として貴重。水船としては近江では在銘最古、全国でも屈指の古い水船である。

参考:川勝政太郎 『近江 歴史と文化』 57ページ

   田岡香逸 「近江堅田町の石造美術」『民俗文化』45号

   田岡香逸 「近江葛川の宝塔など(後)附勝華寺の弘長二年石湯船補記」

        『民俗文化』173号

   滋賀県教育委員会 『滋賀県石造建造物調査報告書』 107~108ページ

   瀬川欣一 『近江 石の文化財』 155ページ

 ※ 写真下:わかりますでしょうか、亀です亀、おもしろいでしょ。

  それから「水船」という呼称の適否について、いろいろ議論もありますが、あまり難しく考え過ぎず、定義付にそんなに拘泥しなくてもいいのではないかなというのが現在の小生のスタンスであります、ハイ。


滋賀県 高島市今津町日置前 正覚寺宝塔

2008-05-12 22:44:18 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市今津町日置前 正覚寺宝塔

旧今津町日置前、伊井地区のほぼ中央、集落内に曹洞宗正覚寺がある。01境内東側の一画に立派な石造宝塔が立っている。花崗岩製で現存高約170cm。角ばった自然石を基礎の四隅に敷くが当初からのものとは思えない。もしそうであれば積み直されている可能性がある。基礎側面は素面の東側を除き輪郭・格狭間で飾り、格狭間内には、西側に三茎蓮、南側、北側には開敷蓮花のレリーフを配してる。基礎側面は幅約76cmに対し高さ約46cmと比較的低い。09輪郭は全体として幅が狭いが、左右が上下より狭い。格狭間は輪郭内にいっぱいに概ね破綻のない整美な形状を見せる。輪郭、格狭間の彫りは深めだが、開敷蓮花は平らで張り出すタイプではない。素面の東側に刻銘があっても不思議ではないが、摩滅したものか判然としない。基礎上端にはいくつかのくぼみが並び、雨垂の痕とも思えず児戯によるものだろうか。塔身は軸部、框座、匂欄部付首部を一石で彫成する。軸部はやや裾すぼまりの円筒状で、素面。扉型などの表現は見あたらない。亀腹部の曲面はごく小さく、周回する框座を経て匂欄部に続く。匂欄部から径を減じて細めの首部につなげる。匂欄部、首部も素面。笠には三重の段形を有し、下2段が厚く、上の1段は軒口に沿って薄くしていることから、下2段は斗拱、上1段は垂木を意識した構造と思われる。07_2軒はさほど厚さを感じさせず、隅に向かう反りにも力強さが欠ける印象。隅降棟を断面凸状の突帯で表現するが、珍しく露盤下で連結しないように見える。四注には照りむくりがはっきり認められる。露盤は方形に高く削りだされている。相輪は伏鉢を残し欠損する。残された伏鉢の形状はドーム形でスムーズな曲線を描く。全体的に表面の風化が進み、軒の一端や、框座など細かい欠損もあって傷んだ印象は否めないが、主要部分は残り、元は8尺塔と思われる規模の大きさ、笠裏や格狭間など随所に優れた意匠表現を示す点など、湖西を代表する優れた宝塔のひとつに数えることができる。造立年代については、笠の形状、優れた部分と少し手抜きとも思われる部分の落差の大きいメリハリのきいた割り切った作風などから鎌倉末から南北朝初め頃、概ね14世紀前半も半ばに近い時期から14世紀中葉にかけての頃と思われる。

参考:滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』 191ページ

   今津町史編纂委員会『今津町史』第4巻 479ページ

写真右:素面の基礎側面に刻銘があってもいいんですが・・・。写真下:わかりにくいですが植栽に隠れた三茎蓮です。・・・それにしてもやっぱ、宝塔っていいもんです、ハイ。


滋賀県 東近江市鈴町 吉善寺宝塔

2008-05-12 01:12:41 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 東近江市鈴町 吉善寺宝塔

集落東側にある吉禅寺の境内南隅、塀沿いの高い壇上に石造宝塔が置かれている。基礎の下に平らな切石を敷いているが、基礎とさして幅が変わらず、当初からのものかどうかは不明。07花崗岩製で総高約171cm、基礎は割合背が高く、幅約52cmに対して高さは約36cmを測る。各側面とも輪郭・格狭間入りで正面のみ格狭間内に大きく右に頭を向けた孔雀をレリーフする。孔雀文は近江式装飾文様の一種で、たいへん珍しく、全国で30足らずの例があるに過ぎないが、そのうち近江の例が約7割を超えるとされる。嘉元2年(1304年)銘の比都佐神社宝篋印塔に比べると彫りが扁平で表現もやや稚拙である。正面以外の格狭間内は素面。輪郭は左右が広く上下が狭い。塔身は軸部、框座、匂欄部付首部を一石で彫成する。軸部には上下に薄い突帯を鉢巻き状に回らせ、四方に扉型を陽刻する。やや胴張気味だがほとんど円筒状で、亀腹部分は狭く、框座の張り出しを少なくして幅広の匂欄部につなげ、続く純粋な首部はかなり低い。匂欄付首部は素面。正面扉型左右に2行にわたり「文保2年(1318年)戊午三月日/大願主一結衆」の刻銘がある。笠裏に一重の垂木型を刻みだし、軒口は分厚く隅に向かって力強い軒反を見せる。四注は若干照りむくりを示し、隅降棟を断面凸状の突帯で表現する。05左右の隅降棟が笠頂部の露盤下で連結する。笠全体の幅に対して軒口を厚くし過ぎたためか屋根の勾配面にあまり余裕がなく、傾斜も急になっている。相輪は九輪部5段目の上で折れたものを接いでいるが完存しており、下請花は複弁、上請花が小花付きの単弁で伏鉢、宝珠ともに曲線に少し硬さがある。九輪の凹凸は沈線に近い。細部は丁寧な造作が見て取れるが、退化傾向が現れており、塔身が寸胴で、軒口が厚過ぎ伸びやかさが足りない印象で、背の高い基礎も合わさって全体に安定感に欠ける。しかし風化が少ない表面の保存状態は良好で、各部完存している点は貴重。特に孔雀文の基準年代と一結衆による造立が知られる刻銘がこの石造宝塔の価値を一層高めている。

参考:蒲生町史編纂委員会『蒲生町史』第3巻 382~383ページ

近江の宝塔のうちではどちらかというと不細工な部類ですが、見るほどに独特の持ち味のあるフォルムです。市指定文化財。旧蒲生町鈴、以前は集落中央、狭い路地に囲まれた場所に吉善寺があり、ブロック塀風の塀に囲まれた狭い境内墓地の南隅の一段高い壇上に宝塔がありました。数年ぶりに訪ねたところ、宝塔はおろかお寺ごときれいさっぱりなくなって景観は一変、旧寺地を示す石柱を残して真新しい公民館になっていました。一瞬愕然としましたが、ごく最近お寺は集落東側に移転し、宝塔も無事移転されたようで安心しました。


滋賀県 大津市北小松 樹下神社の石造美術(その2)

2008-05-05 19:11:22 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市北小松 樹下神社の石造美術(その2)

樹下神社というのは、日吉大社の摂社の一つで、祭神は鴨玉依姫命。十禅師とも呼ばれ、地蔵菩薩を本地とし、法華経を守護する神とされる。日吉大社の勢力範囲に多く勧請され、湖西を中心に同名の神社がたくさんある。北小松の樹下神社の南北に並んだ社殿の左手、すぐ裏側に立派な石造宝塔2基が並んで立っている。69_2自然石を並べて長方形の低い土壇状に整形した中に、直接地面に据えられており、ともに花崗岩製。便宜上、向かって右手を北塔、左手を南塔と呼ぶ。北塔は、笠頂までの高さ約136cm、基礎側面の四面ともに輪郭、格狭間で飾り、正面東側に開敷蓮花を、残る3面は三茎蓮花のレリーフを配している。開敷蓮花は蓮弁の表現が直線的でややデフォルメされたものを格狭間に比して非常に大きく刻んでいる。三茎蓮は各面とも少しづつ意匠を変え、西側背面と東側は中央茎部がまっすぐ立ち上がらない左右非対称なものとする。輪郭は左右が広く、上下が狭い。格狭間は側辺の曲線は豊かだが、やや肩が下がって花頭部分のカプスの尖りが目立つ。基礎幅約71cm、高さ約44.5cm、高すぎず低すぎずといったところ。塔身は、首部と軸部の間に厚さ約5㎝程の框座をめぐらせた一石彫成のもので、軸部は円筒状で四方に扉型を帯状に薄く陽刻する。78このうち正面のみは水平方向に桟を入れ「田」字を呈する。首部は素面でやや細い印象。笠は裏に2段の斗拱部を比較的厚めに刻みだし、軒口はそれほど厚くはないが軒反りは力強い。笠裏の斗拱部を厚めにとったせいで斗拱部を除く屋根全体の高さが押さえられ、全体として緩い勾配になっているにもかかわらず、四隅先端の反り返りだけを急にしたため、躍動的というか軽快な感じを与える視覚効果がある。頂には比較的高く露盤を刻み出し笠全体を引き締めている。四柱には断面凸形の突帯で隅降棟を表現し、左右の突帯が露盤下で連結する。軒幅約58cm、相輪は亡失、近世のものと思われる番傘スタイルのものが載せられている。後補相輪の宝珠と九輪の一部を含む先端1/4程が折れて傍らに置かれている。断面が真新しいことからごく最近破損したようである。北塔は装飾的意匠が目立ち、格狭間の形態やデフォルメされた開敷蓮花、やや硬さのある軒反などから鎌倉後期でも末期に近い頃の造立と推定したい。相輪の亡失は惜しまれるが、規模も大きく、近江における典型的な石造宝塔の構造形式や意匠表現を備えながら、ややイレギュラーな塔身扉型や三茎蓮の意匠表現を取り入れて、なかなかおもしろい作風を示している。一方、南塔は相輪の先端を欠いて現高約192cm、基礎は幅約75cm、高さ約41cmとかなり低く、側面は四面とも素面。塔身は首部と軸部を一石彫成する。框座はない。首部、軸部とも素面で、軸部は、やや下すぼまりぎみの円筒形で、肩にあたる饅頭型部分の曲面はかなり狭く、急激に径を減じて首部に続く。72首部はやや全体に太めで高さもあり、下端が太く上にいくに従って細くなる。笠裏には垂木型を2重に刻みだし、軒口は厚く隅に向かって厚みを増しながら重厚な軒反りを見せる。左右の四注隅降棟が露盤下で連結する通有のスタイルだが、隅降棟の突帯は断面かまぼこ形に近く、明確な断面凸形にならず、削りだしはおおまかでシャープさに欠ける。頂部には低く露盤を表現する。相輪は九輪部の2段目と3段目の間で折れ、3段目から8段目までが傍らに置いてある。8段目以上は早く失われたらしく、既に昭和50年の田岡香逸氏の報文にも同様の記述がある。九輪の凸凹をハッキリ刻み、伏鉢は適度な半球形で下の請花は複弁、枘は笠頂部の枘穴とかっちりと合致し当初からのものと見てよい。各部素面で、首部と軸部からなる簡素な塔身、さらに、低い基礎と重厚な笠の軒反など古い要素が多く、隅降棟の垢抜けない感じは、退化傾向とするよりは発展途上と見るべきで、総じて鎌倉時代中期の終わりから後期初めごろの造立と推定したい。装飾的な北塔と対照的に、南塔は素朴で野趣溢れる佇まいを見せる。両塔とも原位置を保っているかどうかは怪しいところもあるが、法華経見塔品の教義を背景に造立されたとされる石造宝塔が、法華経を守護する鴨玉依姫命を祭る樹下神社の境内に保存されている点は示唆的である。ともあれ、社杜の木立を背景に、異なった個性の7尺塔2基が並ぶ姿は非常に印象深い。石造宝塔の魅力を改めて強く感じさせられる優れた作品といえる。

参考:川勝政太郎 「近江宝篋印塔の進展(五)」 『史迹と美術』362号

   田岡香逸 「近江湖西の石造美術(後)-勝安寺・鶴塚・樹下神社-」 『民俗文化』142号

   川勝政太郎 『近江 歴史と文化』 62~63ページ

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』121ページ

写真上:かっこいい宝塔の揃い踏み、写真中:装飾的な北塔、写真下:素朴で迫力のある南塔

※ 宝篋印塔&2基の宝塔と”ひと粒で三度おいしい”北小松樹下神社。神社周辺は比良山系に抱かれた湖沿いの明るい景観がマッチして、若葉の季節は特に風光明媚で実にいいところです。ぜひ一度、のんびりと訪れてみてください。本文中のサイズ数値は、コンベクスによる実地計測値なので多少の誤差があると思います。


滋賀県 大津市北小松 樹下神社の石造美術(その1)

2008-05-05 01:35:05 | 宝篋印塔

滋賀県 大津市北小松 樹下神社の石造美術(その1)

JR湖西線北小松駅の約200mほど南、樹下神社の社杜が見える。大津市との合併前は旧志賀町。境内東側を南北に走る国道161号から、鳥居を抜けて長い参道を西北西に進み、拝殿の南側、近世の石灯篭の脇に立派な宝篋印塔がある。02白っぽい良質の花崗岩製。自然石を方形に並べた上に長短の延石を組んだ二重の方形基壇を重ねた上に反花座を載せ、さらにその上に基礎を据えている。塔高約189cm、反花座を含めた高さ約207cm。基壇上段の西側上端中央に台形の穴が穿たれており、塔下に設けたスペースに火葬骨などを投入するための納入孔と思われる。反花座は隅弁を間弁にしない抑揚のある複弁タイプで、両隅弁の間に3枚の主弁と4枚の間弁(小花)を配する。各主弁の間を広くとり、小花は幅広で大きめにする。反花座は中央にヒビが入っているように見えるが、納入孔の存在も考慮すると恐らく当初から左右に2分されていたものと思われる。素面の側面は高めだが、反花の勾配は割合緩く、柔らかな曲面で構成され、シャープさに欠けるが温和な印象である。方形の基礎受座は低く、基礎側面までの奥行きがある。基礎は壇上積式で、西側の左右束部分に「文和5年(1356年)/三月日」の刻銘がある。各側面とも格狭間を入れ、中に開敷蓮花を配している。開敷蓮花はレリーフというよりもほとんど半肉彫で、側面の”ツラ”よりかなり張り出している。格狭間は脚部の立ち上がりが垂直に近く、肩が下がって、側線のカーブはふくらみ気味である。09地覆・葛から束、束から羽目、羽目から格狭間のそれぞれの彫りは深い。基礎上は抑揚のある反花式で隅を間弁としないのは反花座と同じ。左右の隅弁と主弁1枚、主弁左右の小花で構成され、主弁と隅弁の間を広くとり、大きめの小花を入れる意匠も反花座と同様であるが、台座のものよりも彫りにシャープさがある。反花上には方形の受座を刻み出し塔身を受ける。塔身は幅:高さが拮抗する直方体で、各側面に張り出しの大きい輪郭を施し、内を舟形背光を彫りくぼめて蓮華座上に坐す四仏を半肉彫している。川勝博士は薬師、弥勒、弥陀、釈迦の顕教四仏と推定されているが、田岡氏は単に四仏として尊格名には触れられていない。像容優れ、特に穏やかな表情が印象的である。笠は上6段下2段で、各段形は直角に近くかっちり彫成している。二弧輪郭付の隅飾は南東側が軒ごと破損し、南西隅飾も大半が欠損している。薄めの軒と区別し、かなり入って立ち上がり、直線的に外傾する。残る部分の隅飾内部には蓮華座上の月輪を平坦にレリーフしている。隅飾の輪郭は非常に狭い。田岡氏は33月輪内にアの種子があるとされるが、肉眼では摩滅のためかハッキリ確認できない。一方川勝博士は素面としている。相輪は下請花が複弁、上請花は副輪と小花付の単弁とし、九輪の凹凸のあるタイプだが彫りが浅く逓減も大きめである。伏鉢と下請花の間で折れたのをセメントで補修してあるほか、先端宝珠が上請花との間で折れ落ちて傍らに置いてある。さらに宝珠は縦方向に1/4程欠けている。宝珠は重心が高めで先端はやや尖り気味である。若干の欠損部分はあるものの、主要部分は概ね揃っている。軒や輪郭の幅が狭いためか、規模の割に迫力に欠けるが、よくまとまった優美で温雅な意匠表現と表面の風化の少ない白っぽい花崗岩の清らかな質感が、いつまでも立ち去り難い気分にさせてくれる優品である。反花座を持つ宝篋印塔は、近江では比較的珍しく、南北朝期の紀年銘も貴重。なお、拝殿の北側には、大きな水船がある。西側を除く三面の外縁部を2段に彫成し、下半は切り出し面のままで、下半を埋めていたものと思われる。内側底側面に貫通する水抜用の穴がある。銘はないが、風化の度合い、作風からみて中世に遡る古いものと見られる。石風呂の類かもしれない。

写真中:基礎上と台座の反花の様子、基壇上端の納入孔がわかりますでしょうか。束の紀年銘はちょっとわかりにくいですね。

※ 参考図書は(その2)に載せます。


奈良県 宇陀市大宇陀区岩清水 栖光寺跡五輪塔

2008-05-02 00:58:34 | 五輪塔

奈良県 宇陀市大宇陀区岩清水 栖光寺跡五輪塔

岩清水の集落を過ぎ、谷筋の水田を右に見て300メートル程北上すると、東側の奥まった目立たない尾根裾に六柱神社がある。18_2神社の南、尾根上に向かう小道を登っていくとすぐにちょっとした平坦地に出る。ここに半ば埋まって巨大な五輪塔の部材がある。19六孫王経基の墓塔との伝承があるという。(この人は清和天皇の孫で、多田満仲の父にあたる清和源氏の祖。生没年不詳ながら10世紀前半の活躍が確認され、五輪塔の年代とは数百年の開きがある。)この付近が栖光寺跡と伝えられるが、どのような寺院だったのか詳しくない。このような巨大な石材を尾根上に上げるには、かなりの労力を要したであろう。また、後からあえてこのような場所に巨石を移すことも考えにくいので、概ね原位置にあるとみてよいと思われる。地元の信仰が厚いようで、今も香華が手向けられている。現在確認できるのは火輪、水輪、空輪のみで、地輪、風輪は見当たらない。空輪と一石彫成されているはずの風輪は空輪の地下に埋まっているのだろうか。東から火輪、水輪、空輪の順に並んでいる。花崗岩製で全体に鑿跡がくっきり残24る。火輪は、背面が大きく欠損し、残存するのは半分程度である。軒幅約151cm、東側軒隅が少し欠けており推定復元幅約156cm。軒上端の最も低いところからの高さ約60cm、頂部幅約63cm、頂部西側も少し欠けているので復元すると約66cm。現地表からの高さ約70cmである。軒口は上方を残し少なくとも5cm以上は埋まっており、厚みや軒反の様子はハッキリしないが、軒上端の隅に向かって見せる反りにあまり硬さは感じられない。屋だるみもさほど顕著でない。頂部は中20央に直径約16cm、深さ約7cmの枘穴がある。水輪はやや上下に押しつぶした感じで、直線的なところはなく、スムーズな曲線を描く。直径約155cm、地表高約75cm、上端は直径約87cmの平坦面となり、中央に16cm×13cm、深さ約7cmの長方形の穴がある。枘穴か奉籠孔か判断できない。空輪は直径約86cm、地表高約60cm、頂には径約10cm、高さ4cmほどの突起があり、全体が桃実状を呈する。やはり曲線はスムーズで、直線的なところはない。五輪塔は、これらの部材を復元すると塔高5mに達するとされる。10仮に水輪径117cm、火輪幅124cmで塔高336cmの西大寺叡尊塔を例に、単純比で塔高を復元すると、水輪比で塔高約445cm、火輪比では約423cm程になる。5mはちょっとオーバーで、恐らく4.5mほどであろうか。それにしても大きい。造立年代について、清水俊明氏は「南北朝後期の説もあるが、火輪の軒反りの形式などからは、もう少し下げてよいと考える」と述べられており、元興寺文化財研究所の報告では南北朝とされている。埋まっている部分があってハッキリしないが、空輪、水輪の曲線がスムーズで、火輪の軒反りも上端のみだが、それほど硬い感じを受けないことから、従前言われているよりも、案外古いものかもしれない。残念ながら倒壊し残欠状態ではあるが、古い五輪塔では、石清水八幡宮五輪塔に次ぐ大きさで、神戸市の敦盛塚塔などよりも大きい。大和では叡尊塔を遥かに凌駕し最大。謎の多い五輪塔だが、もっと注目されてしかるべきものである。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 501~502ページ

   元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告

   平凡社 『奈良県の地名』日本歴史地名体系30 778ページ

写真左中:火輪、右下:水輪、左下:空輪

6mの超巨大五輪塔があるのも石清水ですが、ここも岩清水です。イワシミズつながり。何か妙に示唆に富んでる偶然です・・・。なお、法量数値はコンベクスによる大まかな実地計測値なので多少の誤差はご勘弁ください。特に高さについては、すべて現在の地表面からの高さですので、埋まっている部分はみてませんので悪しからず。