石造美術紀行

石造美術の探訪記

おかげさまでまもなく1年になります。

2007-12-28 23:22:03 | ひとりごと

おかげさまでまもなく1年になります。

平成19年も押し迫り、思えば1月11日に記事を載せ始め、まもなく1年になります。なかなか忙しくて記事が書けていないのでダメだぁって感じです。しかし依然マニアックなマイナー路線バク進中といったところでしょうか。もともと写真とあわせて探訪の記録を文字で打ち込んで個人的に保存していたのですが、打ち込むだけなら作業としてそんなに変わらないし、いっそWEB上で公開してみようと思い立ったのがはじまりでした。しかし過去の記録を見直すと、大部分はとてもお見せできるような代物ではなく、文章を改訂し、参考文献も当たり直したりするので結構たいへんだということがわかってきました。「石造美術」をもっぱらに扱うホームページやブログはそれほど多くありませんが、石造物は美術史、建築史、庭園史、金石学、考古学、歴史学、宗教学、地質学、流通史など幅広い拡がりを見せる分野であり、そうした学術的研究の対象としてだけでなく、カメラや拓本といった趣味の対象として、旅行やハイキングの脇役として根強い愛好者がいるのも事実です。マニアックな趣味・嗜好もさることながら、我々の祖先のいろいろな思いが詰まった地域の遺産であり地域の資源として後世に伝えていかなければならないヘリテージだと信じて疑いません。地味な分野ですがコツコツと紹介していきたいという思いは1年を経てなお変わりません。改めて見直すと紹介記事は滋賀が多いです。実は滋賀県に住んでいるわけではありませんが、探訪回数が滋賀が一番多いのでどうしてもこうなります。しかし京都や奈良もちょくちょく探訪していますので記事をもう少し増やしたいと思っています。できれば来年は大阪や兵庫、三重、和歌山なども追々紹介していきたいと思っています。うんちくコーナーでは宝篋印塔に関する雑感的な記事も「続く」のまま放ってありますので近々何とかしたいと考えています。さらに宝塔や層塔、石灯篭なども追々書き進めたいと思っています。同好の皆さんがちょくちょく覗いていただき、博学諸彦のご叱正を賜れば幸甚です。いろんな方がご覧になることを前提に、いきなりマニアックな紹介記事だけでなく、もっと基礎的な説明もできればと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。恐惶謹言


滋賀県 愛荘町畑田 広照寺宝篋印塔(その2)

2007-12-28 22:07:48 | 宝篋印塔

滋賀県 愛荘町畑田 広照寺宝篋印塔(その2)

 

宝篋印塔の笠にはふつう上下に段形が設けられている。ごく稀に上は四柱式のものもあり、笠下を反花式にしたものもある。(田岡香逸氏により笠下反花式のものを特に「特殊宝篋印塔」と呼ぶことが提唱されたが、池内順一郎氏が批判されるように(※)この呼称の適否については議論の余地がある。)通常この段形は、奈良県生駒市輿山往生院の正元塔に代表されるように、笠上は6段、笠下が2段というのが通例である。20 122 笠上7段、あるいは笠下3段という例外も見受けられるが絶対数は少ない。宝篋印塔の宝庫といわれる近江では、笠上5段の事例が比較的多く見受けられるが、笠上6段、笠下2段がやはり一般的で、かつてこの場で笠上8段というほとんど稀有な事例として野洲市の蓮長寺塔を紹介し、近江八幡市東川公民館前の残欠に触れたが、この広照寺における笠上4段というのはかなり珍しい部類に入る。笠置寺の解脱上人五輪塔そばの宝篋印塔、城陽市奈島深広寺に5基並ぶ内で一番古いとされる一基が小生の管見に及ぶところである。広照寺の笠上4段の小形宝篋印塔について、先の紹介記事(平成19年2月18日付記事参照)で基礎背面について確認を怠り、慙愧の思いがあったが、この秋、再訪し、この背面が輪郭を巻き、格狭間内に開蓮華を配したものであることを確認することができたのでここに追加記事を載せる。基礎側面は四面とも開蓮華のレリーフを配した輪郭・格狭間式である。

※ 池内順一郎 『近江の石造遺品』(上)111ページ

写真右:改めて撮影した正面観(ちょっと斜め)

写真左:フェンス越しに見る背面 (注)正面、背面は便宜上の表現です。


滋賀県 野洲市永原 常念寺層塔ほか

2007-12-11 01:00:04 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 野洲市永原 常念寺層塔ほか

常念寺の広い境内は、周囲の林に隔てられ国道沿いの喧騒が嘘のように閑静な佇まいである。山門を入って右手に層塔が立つ。重要美術品指定。01褐色がかった花崗岩の石肌が美しい。現在五重、最上部には宝篋印塔の笠以上が載っている。現高約256cm。仮に十三重で復元すれば約5.4mに達するという。石造美術王国近江には層塔もたくさんあるが案外十三重は少ない。可能性からいえば元は七重程度でなかったかと推定する。基礎は側面四方とも輪郭を巻き格狭間を配している。格狭間は、上部花頭がまっすぐで、側線の曲線もスムーズで、整った形状を示す。基礎自体はやや背が高めである。格狭間内は素面。背面には後世に破壊を試みた鏨の痕と思われる穴が痛ましく並んでいる。塔身は三方に陰刻蓮華座を配し舟形背光型に彫りくぼめた中に如来坐像を半肉彫している。金剛界四仏と思われる。像容は端麗で優れた彫成を示す。背面のみは蓮華座上の月輪を線刻してキリークを薬研彫している。文字は大きくないが書体は端正で優れている。この背面の月輪左右に各一行の刻銘があり、右側に「正応元年(1288年)戊子六月五日」の紀年銘があるというが肉眼では判読できない。笠は軸部一体式で総じて軒は厚く、重厚感のある軒反を見せるが上端に比較して下端の反りが緩い。下層軸部とも接面を観察すると四層目の笠裏中央には方形の彫りくぼめがあり、さらにその内側に丸い穴が穿たれているようである。03_2さらに五層目の笠裏にも丸い穴があるのがわかる。穴の外縁が下層軸部から少しはみ出ているので当初からの奉籠穴というより手水鉢等に転用されていた可能性が高いと思われる。また、一層目と二層目以上の逓減観が異なる。基礎は塔身や一層目の笠幅に比較して小さ過ぎ本来一具のものではなく宝塔の基礎とみるべきとの説がある。宝塔基礎説(卯田明氏)に対し、田岡香逸氏は「構造形式が一致するので当初からのもの」とし、「おそらく、層塔の基礎の側面は素面が本格であり、普遍的であることからこのように断定したもので、輪郭は格狭間入や、さらには近江式装飾文を配するものが多い近江の特殊性を理解していない」誤解と断じて卯田説を否定されているが、その論旨こそ一方的憶測に他ならず説得力に欠ける。田岡氏のいうように「構造形式」が一致していたとしても、各部の大きさのバランスという大前提を抜きに論じることはできないと思う。小生は卯田氏の著作を読んでいないが、宝塔の基礎である可能性も否定することはできないと思う。四、五層目が転用されていた可能性があることなども考慮すれば、倒壊しバラバラ状態であったものが寄せ集め的に再構築された蓋然性が高い。基礎を除く笠と塔身については、脱落欠損した笠部があるにせよ石材の質感や風化度、大きさのバランスなどから一具のものと考えてよいだろう。なお、頂部には宝篋印塔の笠と相輪が載せてある。宝篋印塔の笠と相輪が一具のものかどうか不明だが、大きさの釣合いは取れている。隅飾は外傾が目立つ二弧輪郭付で、茨の位置が低い。上6段下2段、相輪は九輪の逓減が目立つもので下請花は複弁、上は単弁のようである。隅飾や相輪の形状から14世紀後半を遡るものではないと思われる。異形一茎蓮を配する石塔基礎、室町後期の宝篋印塔など常念寺境内には他にも石造美術が多く残されているが、とりわけ本堂左手の井戸の傍らで手水鉢になっている石塔の基礎が注目される。02一側面が完全に縦断切断されており、その左右の面は不完全で切除面の対面側だけが原型を残す状態で、一面は井戸枠に接し確認できない。原型をとどめる一側面は素面で、判読は難しいが8行程の刻銘があるのが肉眼でも確認できる。田岡氏は寛元元年(1243年)と判読されている。井戸枠に接する面の対面には輪郭を巻き立派な格狭間を大きく配している。格狭間の彫りは浅く、上部中央花頭を広くとってほぼ水平のまま二小弧を左右隅に寄せ、側線の豊かでスムーズな曲線には雄大感がある。脚部はきわめて短く脚間を広くとる。輪郭の幅は狭い。同じく寛元銘のある近江八幡市安養寺跡層塔の基礎は、格狭間内に近江式装飾文様を有するが、この点を除くと、狭い輪郭、雄大な格狭間と、その手法にあい通ずるところがある。格狭間面現状の中央上寄りに排水穴が開けられ、彫りくぼめられた上端の水貯穴につながっている。高さ49cm、幅約71cm。正応銘の層塔の基礎にしては小さすぎサイズが合わないが層塔か宝塔の基礎であろう。鎌倉中期の層塔の基礎にしてはやや小ぶりなので、どちらかといえば宝塔の方が可能性は高いと思う。

寛元銘基礎が宝塔だった場合は、田岡氏の紹介により近江最古銘の石造宝塔として広く知られることになった建長3年銘の大吉寺宝塔に先んじることなり、残欠ながら極めて注目すべき遺品ということができるが、田岡氏はそっけなく層塔基礎として宝塔基礎としての可能性について特に言及されていない点は不審というほかない。なお、寛元頃は我国石造宝篋印塔の初現期間もない頃で、近江では続く江竜寺跡宝篋印塔基礎の弘安2年まで30年以上間隔があり、あまりに古過ぎることから宝篋印塔の可能性は極めて低い。

写真上:基礎の相対的な小ささがおわかりでしょう。アンバランス感が強いと思う。

写真中:笠裏の大きい円穴がすき間からわずかに覗いています。

写真下:写真右側の側面に刻銘があります。刻銘の対面は縦にカットされています。

参考

田岡香逸 「近江野洲町・中主町の石造美術(前)」『民俗文化』 114号

田岡香逸 「近江野洲町・中主町の石造美術(後)」『民俗文化』 115号


滋賀県 長浜市黒部町 大巳貴神社宝篋印塔

2007-12-08 02:09:27 | 宝篋印塔

滋賀県 長浜市黒部町 大巳貴神社宝篋印塔

小谷城の西方、黒部集落の北端、山寄りの場所にある大巳貴神社の境内、社殿向かって右手の石灯籠の傍らに宝篋印塔が立っている。長短の切石をロ字状に02並べ、その上に平べったい切石を2枚並べ基壇としている。基壇最下段はコンクリートで補修してあり、これら切石の基壇が当初からのものかどうかは不明。ただ、2枚の平石は塔本体と同じ石材で風化の程度も近く、一具のものと考えて不自然ではないと思う。基礎は低く、四面輪郭を巻き、格狭間を配している。格狭間内はすべて素面。輪郭、格狭間の彫り込みが深い。基礎上2段。塔身の上下にセメントが塗られ補強されている。塔身はやや背が高く、四方に種子があることは分かるが摩滅が激しく判読できない。笠上6段下2段で、笠下の段形は笠上に比べ薄い。軒はやや厚く、大きめの3弧輪郭付き隅飾が軒と区別して直線的に少し外傾する。輪郭内は素面。相輪も完存し、伏鉢の曲線は円筒状に近く硬い。下請花は複弁、上請花は単弁のようである。宝珠は完好な曲線を描くが請花とのくびれがやや強めである。この地域特有のきめ目が粗く白色っぽい花崗岩製で全体に表面の風化が進行しているが基礎から相輪まで完備している。目測だが5尺ないし5尺半塔と思われる。紀年銘は確認できないので、造立時期は不明とするしかないが、概ね14世紀前半頃とみて大きく誤りはない。境内入口には鐘楼があり、廃絶した別当寺があったのだろう。また、社殿の裏には一石五輪塔や五輪塔の部材が相当数集められている。大己貴神社も含めこの近辺には観応2年(1351年)に足利尊氏が戦勝祈願して奉納したと伝えられる宝篋印塔が三基あるというが(外の二基は先に紹介した上野町素盞鳴神社、野田町野田神社)、伝説の域を出ない。表面の風化がやや進むが各部揃った端正な佇まいを見せる美しい宝篋印塔である。

だいたい米原以北の琵琶湖北東地域の宝篋印塔をいくつか見て感じた点として①キメの粗い白っぽい花崗岩製で風化が激しい、②軒が厚め、③三弧輪郭の大きめの隅飾、④隅飾輪郭内は素面、⑤基礎は壇上積式を採用しない通常の輪郭式、⑤輪郭や格狭間の彫り込みが深め、⑥格狭間内に近江式装飾文様を施さず素面とする、といった特徴があるものが多いように思う。

参考

滋賀県教育委員会編 「滋賀県石造建造物調査報告書」 282ページ(一覧表に記載されるが個別の説明記述はない。)

平凡社日本歴史地名体系25「滋賀県の地名」970ページほか


滋賀県 蒲生郡竜王町弓削 阿弥陀寺宝篋印塔

2007-12-05 02:13:15 | 宝篋印塔

滋賀県 蒲生郡竜王町弓削 阿弥陀寺宝篋印塔

竜王町弓削は日野川が祖父川と分かれる地点の東方1km程のところ、蛇行する日野川が北西方向から南東方向に流れを変える左岸にある。対岸は近江八幡市東川町で、先に紹介した正和4年銘の宝篋印塔は東川町の公民館前にある。弓削という地名は古代弓削部に由来するとされ、応仁の乱に際してはここで戦闘があった記録があるという。自然堤防状の隆起地が入りくんだ起伏ある地形で家々はその高い場所に建っている。阿弥陀寺は下弓削の集落の中ほどにあり、正面に旧弓削小学校跡の石柱が立てられている。01 北から舌状にのびる自然堤防状隆起の先端に位置する境内は周囲の道路よりは2m程高い場所にある。無住のようで、一見すると会所のように見えるが庭はよく手入れされている。小さい本堂の前には、町指定文化財の木造阿弥陀如来坐像の案内看板が立っている。それによると鎌倉時代初期の造像とのことである。もともとこの地には、「興福寺官牒疏」に見える法満寺5別院の一つ弓削寺に比定される向陽山瑞光寺という南都興福寺系の寺院があったと伝え、阿弥陀像や宝篋印塔は付近西方にあったこの瑞光寺釈迦堂から移されたものとされる。阿弥陀寺は無住となる前までは天台真盛宗に属したという。広くない境内には一石五輪塔や無縫塔などが見られるが、本堂正面石段の向かって左手の植え込みの中に立つ宝篋印塔は際立った存在感を示す。花崗岩製のもので、現高約1.8m、欠損している相輪を復元すれば元は8尺塔と考えられる。切石を並べた基壇の上に壇上積式の基礎を据え、四方に格狭間を配し、整美で雄大な格狭間内には四面とも開敷蓮華のレリーフで飾られている。基礎上面は、反花式で反花は傾斜が緩く優美な印象で、側辺3枚の複弁と4隅単弁になっている。一側面の束の両側に銘があるのがはっきり確認できるが、肉眼では判読できない。「寄進田地一段」「願主藤井重宗」「正安2年(1300年)彼岸中日」の在銘。寄進…は向かって右の束に、正安…は左の束に、願主…は左の束と格狭間の間にそれぞれ刻んでいる。塔身は四方に胎蔵界四仏の種子を陰刻している。種子はなかなか達筆だが彫りが浅く文字も小さい。月輪は確認できない。笠は下2段、上6段の通常のもので、直立する隅飾は軒と区別し、大きくシャープな印象で、輪郭付三弧式で輪郭内に小月輪を陽刻し、その中に東から時計回りに「カ」、「アー」、「アン」、「アク」の小種子が同一方向の左右隅飾側面にそれぞれ陰刻してあるというがはっきり確認できない。小月輪に請花はみられない。隅飾は軒と区別して立ち上がり概ね直立するもほんの少し外傾する。隅飾の1個は中ほどで外側にそげるように大きく欠損しているが、外3個の保存状態は良好である。相輪は九輪の2輪以上が欠損している。当初からのもので、伏鉢は素面で下請花は単弁が確認できる。九輪は凹凸のはっきりしたタイプである。全体として手抜きのないシャープな仕上げ、行き届いた荘厳と安定感が調和した優れた作品で、相輪と若干の欠損を除けば総じて保存状態は良好。徳源院の京極氏信塔(永仁3(1295)年銘)、近江八幡市篠田神社塔(正安3(1301)年銘)とともに、壇上積基礎、格狭間と近江式文様、小月輪を輪郭内に配した三弧隅飾など関西形式の宝篋印塔の外見的特長を備えた典型例で、紀年銘に加え、田地一段を塔の供養料として寄進する旨の刻銘は貴重である。

 

 なお、種子が小さいこと、石材の質感が少し異なることなどから田岡香逸氏は塔身後補の可能性を指摘されているが、池内順一郎氏は塔身後補には懐疑的で、川勝博士は特に触れられていないので後補説を取っておられないものと思われる。小さい塔身種子は往々にして近江の宝篋印塔に見られること、石材の質感の違い即後補と短絡的に結び付けられないことなどから小生としては後補の可能性をあえて指摘するには慎重さが必要と考える。また、当然文化財指定あってしかるべき優品と考える。

参考

川勝政太郎「石造美術講義(18)」『史迹と美術』294号

〃『新装版 日本石造美術辞典』267~268ページ

田岡香逸「近江弓削の阿弥陀寺正安二年在銘宝篋印塔」『民族文化』25号

池内順一郎『近江の石造遺品』(上)248~249ページ

平凡社日本歴史地名体系25『滋賀県の地名』561~562ページ