石造美術紀行

石造美術の探訪記

三重県 津市芸濃町楠原 石山観音磨崖石仏

2011-06-27 23:45:52 | 三重県

三重県 津市芸濃町楠原 石山観音磨崖石仏

国道25号(名阪国道)、関インターチェンジの南西約1km、丘陵の尾根に巨大な岩塊が露出する。岩塊を取り巻くように01_2西国三十三ヶ所霊場になぞらえて多数の磨崖仏が作られていることから石山観音と呼ばれている。03_2凝灰岩説もあるが砂岩層の露頭である。現状は石仏巡拝のハイキングコースとして整備されている。これらの西国三十三ケ所観音菩薩像群のほとんどは江戸時代のものだが、これらとは由来を異にする古い阿弥陀如来と地蔵菩薩の磨崖仏があって注目される。

地蔵菩薩像は登り口に近い場所にある岩塊の東面する切り立った壁面を二重円光背形に深く彫り込んで内に半肉彫された立像で、彫り込み下端面に半円形に作り付けた複弁の反花座上に立つ。背光を含めた総高約3.9m、像高は約3.3m。童顔丸顔の頭部は小さく体躯は長大ですらりとしたプロポーションである。右手に錫杖、左手に宝珠を載せた通有のスタイルだが、錫杖頭は大ぶりで中に宝塔を刻出し、04柄の下端は足元まで達していない。全体に彫りがやや平板で衣文も簡潔だが、繊細な指先の表現、微笑をたたえた温雅な面相など優れた意匠表現が随所に見られる。また、光背の向かって左脇には立体的な花瓶の浮き彫りがあるのも凝っている。02_3口縁部の穴はごく浅く実際に水を入れ花を活けることはできない。

阿弥陀像は地蔵像の北側の高所にある。尾根上に露出する高さ20m以上はありそうな巨大な岩塊の東側の壁面に刻まれている。基壇、光背を含めた総高は約5mもある。二重円光背は二段に彫り込み、下方には二区に区画して羽目部分に格狭間を入れた壇上積基壇をレリーフで表現する。06_2この基壇上に風化が進み蓮弁がはっきりしないが覆輪付単弁と思しき蓮華座を刻出し、蓮華座上に立つ半肉彫りの像容は来迎印の立像で像高は約3.4m。清涼寺式の釈迦如来像に見られるごとく流れるように幾重にも折り重なった衣文が荘重で、面相にも童顔の中に風格のある表情を見せる。衣文やプロポーションなど地蔵像との作風の違いが認められる。胸部に小さい長方形の小穴があるが、経典か何かを納めた奉籠穴であろう。また、壁面上部には屋根を設けた痕跡の彫り込みがあり、足元の岩盤には柱穴があって、元は懸造り風の覆屋があったと推定されている。地蔵、阿弥陀ともに無銘で造立時期は不詳とするしかないが、江戸時代以降に次々に彫られていったとされる観音像群とは明らかに異なる作風で、近世風なところは認められず中世に遡ることは疑いないだろう。

像高3mを超える規模やプロポーション、二重円光背、地蔵像の複弁反花座、阿弥陀像の壇上積基壇、格狭間などを見る限り、従前から言われるように鎌倉時代後期頃まで遡るというのも十分首肯できる優れた磨崖仏である。

このほか江戸時代の観音菩薩像群にも見るべき優品が少なくないが、優品は尾根の東側の岩塊周辺に偏る傾向があるように思われる。

さらに南側の渓流沿いの壁面にも地蔵像二体と種子の磨崖仏がある。像容はかなり写実的で優れた作風を示すが、種子の彫りが深すぎる点や、少しごてごてしたような衣文、あるいは蓮華座の蓮弁を見る限り、遡っても戦国時代末頃、恐らく江戸時代初め頃のものと思われる。

 

参考:太田古朴『三重県石造美術』

   芸濃町教育委員会編『芸濃町史』下巻

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   清水俊明『関西石仏めぐり』

 

写真右上:地蔵菩薩像の光背脇にある花瓶のアップです。右中:地蔵菩薩像の足元と複弁反花の蓮華座

 

石山観音は近世の観音像群も含めその規模、数、出来映え、いずれをとっても第一級の磨崖石仏です。名阪国道沿いにあって自動車なら交通の便もよくお薦めです。また、鈴鹿川を挟んだ関の観音山には江戸期の極めて優れた石仏群(かの丹波の佐吉!!これはまさにアート作品の世界です!)がありますので併せてぜひご覧いただくべきかと存じます。

さて、石山観音の岩塊には登れるようになっており、岩の上に座って丘陵の松や隣接するゴルフ場の緑越しに遠く伊勢湾を望むと何かスッキリした気分になってなかなかいい感じです。ただ、危険ですので足元には十分気をつけてください。岩山の上に登ると柔らかい岩質もあってか昭和時代のものと思しい落書きがいっぱい彫ってあってこれはこれで面白いものです。釘か何かでガリガリやったのでしょうかね…。でも既に社会的に成熟期を迎えた平成時代の落書きはいただけません。恥ずかしいので絶対やめましょう。もっとも岩に登るのは高いところが苦手な方にはお薦めしません…ハイ。

 

 

 

 


奈良県 奈良市高畑福井町 新薬師寺地蔵十王石仏

2011-06-17 23:51:12 | 奈良県

奈良県 奈良市高畑福井町 新薬師寺地蔵十王石仏

新薬師寺(華厳宗別格本山)は著名な天平寺院であり今更説明の必要はないと思うが、ここには見るべき石造物が多いことを知る拝観者は少ないだろう。01山門を入ってすぐ左側の塀沿いにある吹さらしの覆屋に居並ぶ石仏群に注目して欲しい。天平仏の面影を伝える尊格不詳の如来立像、舟形光背を負った典型的な室町時代の地蔵菩薩立像が2体、鎌倉末期の作風を示す丸彫りに近い厚肉彫りの阿弥陀如来立像は作風が尼ヶ辻の阿弥陀像にそっくりでこれを模したものかもしれない。01_2このほか室町末期の大きい六字名号碑が2基ある。錚々たる石造美術が居並ぶ中で一際小さいのが今回紹介する地蔵十王石仏である。下端が地面に埋め込まれているが高さは約1m、縦長の丸い光背面を平らに整形し、中央に地蔵菩薩立像を厚肉彫りしている。通常の地蔵像では右手に錫杖を持つことが多いが、胸の辺りに差し上げており、一見すれば施無畏印とも見えるが、よく見ると親指と人差指で輪を作った来迎印である。02左手は大きめの宝珠を胸元に捧げ持つ。この印相はアジサイで著名な大和郡山市の矢田寺(金剛山寺)本尊と同じで、矢田()型の地蔵と呼ばれる。石造でも時々見かけるスタイルで古い地蔵石仏に多い。体部は全体に厚みのある板彫り風に仕上げ、印相部や衣文はやや平板ながら丁重に刻まれる。03_2面相はほとんど摩滅し鼻筋部分だけが残る。やや頭が大きいが撫肩で肘の張った体側線は東山内に見られる鎌倉時代の地蔵石仏の雰囲気を伝える。光背面左右に五体づつ中国風の衣冠姿の立像を平板陽刻風に薄肉彫で表現している。足元に一対、肘の辺りに二対、肩の辺りに二対で計十体、いうまでもなく閻魔王や泰山府君(太山王)などの冥府十王である。さらに地蔵の頭部の左右と頭頂部を取り巻くように蛇行する突帯陽刻があってその突帯の上部にも小さい像容が陽刻されている。向かって左端は馬で、頭頂部をめぐるように4人の人物が右に向かって歩いているように見える。右端は何か判断できないが炎に包まれる釜だという。02_2これらは地獄で獄卒に呵責される人畜を表すものとされる。蛇行する陽刻突帯は三途の川かもしれない。あるいは左の馬を畜生、右の釜らしいのを地獄とし、中央の4人の人物風に見えるのを天、人、餓鬼、阿修羅とみて六道を表すとの説もある。Photo十王を脇侍に配する地蔵石仏は白毫寺、大和郡山城から発見されたものなど大和にはいくつか例があるが、地獄ないし六道の様子を刻むのは独創的で、中世の地蔵信仰のあり方を端的に示すとともに当時の死生観をも凝縮して表現する点でその価値は高い。無銘で造立時期は不詳だが、鎌倉時代後期とされる。平板な衣文表現ややや頭の大きいプロポーションを考慮するとあるいはもう少し新しいかもしれない。

このほか本堂正面にある石灯籠、お寺や神社で見る石灯籠は左右一対になっていることが多いが、対にするのは概ね中世末頃以降になって普及したスタイルで、古い石灯籠は堂宇や社殿の真正面に一基あるのが基本。新薬師寺の石灯籠は古い位置を保っている。ただし竿以上は後補と考えられ、古いのは基礎だけで鎌倉時代中期のものとされている。さらに地蔵堂の裏手には箱仏、双仏石の類がたくさんあり、中に作風優れたものも少なくない。地蔵堂横の凝灰岩の層塔(伝・実忠和尚供養塔)は後補部材が多いが平安後期のものと思われる。また、本堂裏の毘沙門天の石仏町石、長谷寺型観音石仏も見落とせない。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   川勝政太郎『石の奈良』

   太田古朴『大和の石仏鑑賞』

   清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術

 

写真右上:居並ぶ石仏達、阿弥陀像の量感溢れる体躯、衣文表現は特筆に値します。光背上部の色が違うのは近くの川から上の部分が偶然発見され、ぴったりくっついたとのこと。

左下:奈良時代末の造立とされる如来像、優美なプロポーション、儀軌に基づかない特異な印相や裳裾の窄まり具合など芳山石仏によく似ていると言われてます。右下:自然石の名号碑は永禄11年の紀年銘があり念仏講一結衆敬白と刻まれています。蓮華座の蓮弁の出来はこの時期のものとは思えない優秀なものです。

 

中国の偽経などを元に鎌倉時代初め頃、日本で成立した偽経とされる所謂「地蔵十王経」が伝える恐ろしい地獄の様子、六道輪廻する衆生を救う地蔵菩薩への信仰がこうした地蔵十王石仏の背景になっていると思われます。地獄や六道と地蔵を結びつけた信仰は中世以来今日に至るまで宗派を越えた拡がりと根強さを見せています。地蔵菩薩は最も救われない境遇の者に身を挺して救いの手を差し伸べると言われています。辛く苦しい境遇と同じ目線にまで降りて来て身代わりになってくれる、つまり他の仏様よりも上から目線的でないというのが地蔵さんだと言えるのかなぁ…。無数に残る地蔵石仏には救いを求める祖先達の祈りや思いがこもっていることを忘れてはいけないと思います。この覆屋に居並ぶ石仏群は近年まで地蔵堂(現観音堂)内にあったもので、元はお寺の周辺から集められたものと言われています。赤い前掛けを着け金網フェンスで保護されていたため、詳しく観察することができませんでしたが、最近訪ねたところフェンスは取り除かれ、前掛けも無くなって観察し易くなったのは喜ばしい限りです。もっとも、祖先の信仰や思いを伝える貴重な遺産であることに鑑み、むやみに触ったり擦ったりするのは控えましょう。ちなみにこの地蔵堂(現観音堂)は方一間の小さいお堂ですが鎌倉時代の建物で"蟇股"の素晴らしさにご注目ください。


奈良県 奈良市大野町 十輪寺三界万霊塔(種子三尊自然石塔婆)

2011-06-06 01:13:25 | その他の石造美術

奈良県 奈良市大野町 十輪寺三界万霊塔(種子三尊自然石塔婆)

田原地区は奈良市街の東方、春日山を越えたところにある高原の小盆地で、東山内の範疇に入る。01古い街道が交錯する交通の要衝で注目すべき石造物も多い。大野町の小高い丘の上にある真言宗十輪寺の境内周辺は地域の惣墓のようになっており箱仏や名号碑など室町時代の石造物が多数見られる。古くから田原地区の中心的寺院だったというのも肯ける。北側の参道の途中、本堂西側の石垣の石積み脇の植え込みの中に自然石塔婆がある。幅約120cm、高さ約70cm。上部が山形になった自然石で、平らな広い面を正面に見立ている。一見したところでは特段の造作や整形の跡は認められない。石材は花崗岩と思われる。中央上部に「キリーク」、向かって左に「バク」、右に「バイ」を薬研彫している。通常の阿弥陀三尊は「キリーク」(阿弥陀)、「サ」(観音)、「サク」(勢至)とするが「サ」、「サク」に代えて「バイ」、「バク」とするのは変則的である02「バイ」は薬師、「バク」は釈迦であろう。如来三尊の中で阿弥陀をより上位に配置するのは、やはり浄土信仰の表れとみてよいだろう。その下に「三界萬霊」と大きめに陰刻し、左下方に小さい文字で「応永二(1395年)乙亥年七月」と彫ってある。このほか「三界萬霊」の文字の左右に多数の結縁者法名が見られる。三界万霊とは欲界、色界、無色界(あるいは現在、過去、未来)の全ての生命というような意味で、それらを遍く回向する目的で造立された供養塔が三界万霊塔である。法界衆生、十界群霊、有縁無縁などとあるのも同じような意味で「塔」の文字を「等」と記することもある。墓地の入口や無縁塚の中央などに置かれることが多く、全国各地で普遍的に見られ、ほとんどは江戸時代以降のもの。中世に遡るものは稀で、奈良県内でも永正、天文などの16世紀代の例が若干知られる程度である。この十輪寺三界万霊塔に刻まれている14世紀末の紀年銘は、三界万霊塔としては最古の部類に入ると考えられる。在銘三界万霊塔としては群を抜いて古いことから後刻の疑いもあるが、文字や干支の彫り方など、特に不自然なところは感じられない。16世紀代のものの多くは名号板碑や石仏の形態を採用している点で違いがあり、種子を刻んだ自然石塔婆自体は古くからあることから、積極的に後刻と判断する材料はないと思う。

 

参考:土井実『奈良県史』第16巻 金石文(上)

 

上記参考にあげた『奈良県史』には、弥陀三尊の種子とありますが、「サ」は明らかに「バイ」です。また、当初小生も「サク」と見たのは「バク」ですね。そこで「サク」としたUP当初時の本文を訂正しました。…ちゃんと確認してから載せろよ…ていうか、近々早速に確認し直してきます、どうもすいません。

 

釈迦、薬師、阿弥陀という3人のポピュラーな顕教系の如来を並べるのはある意味贅沢な取り合わせです。その中で阿弥陀を上位に据えているのは、三界の衆生の極楽浄土への往生を願う信仰の表れなんでしょうね。