石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 近江八幡市長光寺町 岩倉墓地三界万霊板碑

2010-07-30 00:36:27 | 板碑

滋賀県 近江八幡市長光寺町 岩倉墓地三界万霊板碑

瓶割山は近江八幡市の南部から東近江市西部にまたがる標高234mの独立山塊で別名を長光寺山ともいう。01山頂付近には中世城郭があり、柴田勝家の勇壮なエピソードで知られる。05またこの山は花崗岩の産地で、戦国期に活躍が知られる馬淵の石工の活動拠点もこの付近にあったと考えられている。その瓶割山の西麓、長光寺町と長福寺町の境付近、山麓の小高い場所に共同墓地があり、墓地の西寄りに立派な板碑が立っている。隣接する吹きさらしの覆屋内には石の棺台と供物台があり、この板碑に相対する位置にあることから、墓地における埋葬儀礼の礼拝・供養の対象として迎え地蔵、受け取り地蔵のような役割を果たしているように見える。花崗岩製で石材の性質上かなりの厚みがあり、かまぼこ状に整形した背面から両側面にかけては粗だたきのままとする。頂部は山形に整形し、その下の切込みは1段で額部に続く。身部は左右を幅3.5cm~4cm程の束で区切り、碑面の最上部、額部ぎりぎりの位置に陰刻月輪を配し、内に梵字を浅く薬研彫している。光線の加減もあってか読めそうで読めない。02採拓すればはっきりするかもしれないが仰月点と鶯点があるのがわかる。「アン」ではないかと思われる。胎蔵界四仏の無量寿仏(=阿弥陀如来)と推測しておく。その下に「三界万霊十方至聖各々霊位」と大刻し、その下方向かって右側に「永正十年(1513年)」左側に「二月十五日」と紀年銘を刻む。04碑面は平らでなく低いかまぼこ状に中央が少し高くなっている。下方は一段高くして蓮華座を浮き彫りしている。蓮弁がS字状にデフォルメされその形状はかなり図案化している。法量は地表高約228cmとかなり大きく、幅は下方蓮華座付近で約36cm、下端近くで約52cm、額部付近で約32cm。厚みは下端近くで約48cm、額部付近で約30cmを測る。三界万霊塔としては近江最古に属する16世紀初めの紀年銘が貴重。また、近江では他の石塔に比べあまり多くない板碑を考えていくうえでも注目すべき存在といってよい。

参考:瀬川欣一『近江 石の文化財』

三界万霊とは欲界、色界、無色界あるいは現在、過去、未来の生きとし生けるもの全てといった意味で、十方至聖と慣用的にワンセットになることがあるようです。三界の万霊に香華や水や供物を捧げることで死者と自らの功徳につなげるという一種の作善行為ですね。三界万霊塔は墓地の無縁塚などによく見られ、「塔」を「等」と表記することも多いです。たいていは近世以降のもので、中世に遡るものは稀なようです。この永正十年銘の三界万霊塔はかなり古い部類に入るんじゃないかと思われます。蓮弁の形状はこの時期らしくかなり崩れた感じですが、それでも浮き彫りにしているのは手が込んでいます。近江式装飾文様の流れを汲むものと考えていいのではないでしょうかね。


滋賀県 東近江市五個荘川並町 乾徳寺宝篋印塔ほか

2010-07-24 01:29:18 | 五輪塔

滋賀県 東近江市五個荘川並町 乾徳寺宝篋印塔ほか

臨済宗浄光山乾徳寺は観音寺山(繖山)の東麓、山頂付近にある観音正寺のちょうど真東、直線距離で約1㎞の場所に位置する。01お寺のある山麓周辺は楓の木が多く紅葉公園として親しまれており、楓と苔が静寂な風情を醸し出す趣きのあるの境内である。02石段を登り山門をくぐると正面に本堂があり、向かって左手、鐘楼の南に境内墓地がある。墓地の東端に宝篋印塔が立つ。これが昭和45年、佐野知三郎氏が『史迹と美術』407号に公表され世に知られるようになった著名な宝篋印塔である。相輪を失い空風輪と火輪を一石で作った小型の五輪塔が代わりに載せてある。表面に苔があまり見られず白っぽい花崗岩の石肌が鮮やかな印象を受ける。笠上までの現存高約118cm、相輪があれば約180cm程の6尺塔と推定される。基礎は平面正方形でなく南面と北面で幅約58cm、西面と東面で幅約61cm、側面高約38cmと割合背が高い。しかし佐野氏の発表の翌年に発行された『民俗文化』88号の田岡香逸氏の報文によれば下端から約6cmは未整形で地表下に埋める前提であったと思われ、幅に対する側面高としては6cm差し引いて考えるべきとの見解が示されている。したがって初めから台座などは伴わず直接地面に基礎下端を少し埋け込んで据えられていたと推定することができる。03_2上端は二段式で各段とも比較的高くしっかり彫られている。基礎側面は方形に枠取りした輪郭内に格狭間を入れ、格狭間内を各面ともよく似た意匠の三茎蓮のレリーフで飾っている。格狭間は花頭部分が水平方向によく伸び側辺の曲線もスムーズで古調を示している。南面の左右の束に「右為慈父沙弥西仏」、「永仁五年(1297年)丁酉七十三□□/□□」の刻銘があるとされる。永仁五は肉眼でも確認できるが下方は確認しづらい。七十三は月日を略した表現で、7月13日である。三茎蓮の図案はいずれも左右ほぼシンメトリで茎が大きく湾曲して葉が下を向き中央茎は未開敷蓮花、つまり蕾としている。輪郭、格狭間ともに彫りが浅い。塔身は舟形光背を彫り沈め四方仏座像を半肉彫する。像容はやや上方に偏って光背上端に頭がつっかえる程だが下方に蓮華座は確認できない。西側に定印の阿弥陀像があるのが確認できる。高さ約29.5cm、幅約29cm。笠は上六段下二段。笠下の二段は笠上の六段に比べ薄い。軒幅約54cm、軒と区別してほぼ垂直に立ち上がる隅飾は三弧輪郭式。8面とも輪郭内に円相を平板陽刻した中に通有種子のアを陰刻する。あるいは胎蔵界大日如来であろうか。相輪の亡失が惜しまれるが、各部のバランスがよく、意匠表現も丁重で手堅い手法を示す。また、石材の特性かもしれないが全体に表面調整はやや粗い感じがあり白っぽい色調とあいまって独特の趣きがある。04さらに墓地の南端には宝篋印塔の基礎の上に五輪塔の水輪を積み、さらに宝塔の笠を載せた寄集塔がある。最上部には小さい五輪塔の火輪以上を載せている。三種類の石塔のハイブリットながら何となく全体に釣り合って見えるのは面白い。いずれも花崗岩製でよく見ると風化の度合いが違う。宝篋印塔の基礎は幅約68cm、側面高約34cm。上二段で永仁塔よりひとまわり大きく、幅に対する高さが低い。各側面は輪郭格狭間式で格狭間内は素面。彫りが浅いのは永仁塔と同様で、左右の束の幅がかなり広い。こうした特長は永仁塔と同時期かむしろ古調を示すものである。05下端はやはり不整形で台座などを伴わなかったものと推定できる。五輪塔の水輪は高さ約48cm、径約55.5cmでやや裾すぼまり感があるが背が低く側線はスムーズで四方に「バ」の四転、「バ、バー、バン、バク」の梵字を浅く大きめに薬研彫している。これらの特長は、近くにある金堂馬場の五輪塔(正安二年(1300年)銘で近江在銘最古の五輪塔)よりも古調を示す。宝塔の笠は軒幅約56.5cm、高さ約38cm。頂部に露盤と四注の隅棟の突帯を刻出し、笠裏に二段の垂木型ないし斗拱部を表現する段形が見られる。軒口がやや薄く少し隅増しのある軒反で温雅な雰囲気があり、鎌倉時代末から南北朝初め頃、概ね14世紀第2四半期頃のものと思われる。さらに墓地の北西隅にも宝篋印塔の基礎がある。側面は壇上積式で四面とも格狭間内に開敷蓮花のレリーフを入れる。幅約42.5cm、下端がコンクリートで固められ確認できないが地表高現状で約28cm。上二段で羽目と格狭間の彫りが深く、その分開敷蓮花の突出が目立つ。また、上端面にあるべき枘穴があるようには見えない。佐野、田岡両氏の報文の写真では昭和45年当時、寄集塔の宝篋印塔基礎と五輪塔水輪の間に挟んであったようである。だいたい宝塔の笠と同じ頃のものではないだろうか。これらはどれも寄せ集めや残欠であるが、それぞれに古い特長や優れた手法を示す注目すべき遺品である。この墓地、あるいはここからそう遠くない場所に少なくとも13世紀末から14世紀中葉頃にかけての宝篋印塔が永仁塔の外に2基、さらに五輪塔と宝塔が1基づつ存在したことを示している。

参考:佐野知三郎「近江の二、三の石塔」『史迹と美術』407号

   田岡香逸「近江川並の乾徳寺の石造美術」『民俗文化』88号

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   池内順一郎『近江の石造遺品』(上)

佐野知三郎氏も指摘されるように、旧八日市の永仁三年(1295年)銘の妙法寺薬師堂塔とは年代的にも地理的にも近く、規模もよく似ているにもかかわらず、隅飾や基礎の格狭間などの意匠表現に際立った相違点があり、両者を比較検討することは13世紀末頃におけるこの地域の宝篋印塔のあり方を考えるうえで興味深いことですよね。これに対し、田岡香逸氏は報文中で佐野氏を厳しく非難し「一体全体、何が興味深いのか読者に理解できるだろうか。こんなあいまいな主観的表現は、無意味というだけでなく、百害あっても一利なしというべきである。もっと具体的で、客観性の豊かな表現に努め誰でもが安心して利用できる資料を紹介すべきであろう。」と書かれています。情熱の裏返しだと思うのですが田岡氏にはしばしばこのての過激な非難癖があり、せっかくの業績に疵を残す結果になっていることは残念なことだと思います。池内順一郎氏も田岡氏のこの「悪癖」について、わざわざ1ページを裂いて列記され「次のことばを戒めとして書き留めおく。登高使人心曠、臨流使人意遠(菜根譚 後集百十三)、多言は敗多し(孔子家語 観周)」と締めくくっておられます。蓋し名言です、ハイ。


滋賀県 東近江市佐野町 善勝寺無縫塔ほか

2010-07-20 23:23:49 | 滋賀県

滋賀県 東近江市佐野町 善勝寺無縫塔ほか

善勝寺は曹洞宗で山号は「繖山」。東近江市佐野町(旧能登川町)集落の南方、観音寺山(繖山)から北に伸びる山塊尾根の北端に近い猪子山(標高267m)の北側山腹に位置する。01かつては70余の子坊を数える天台の大寺院であったとされ戦国末期に焼亡し曹洞宗として復興したといわれるが詳しいことはわかっていない。本堂東側の一段高くなった場所に境内墓地がある。02その正面奥の歴代住職の墓塔が並ぶ一画、向かって左手に一際異彩を放つ無縫塔がある。花崗岩製。下からそれぞれ別石で基礎、竿、中台、請花、塔身の5つの部位から構成される。総高約96.5cm、基礎は直接地面に据えられ、平面八角形で各コーナーの下端には小さいながら二段階に持ち送る脚部を備えていることから当初は切石の基壇上に据えられていたのではないかと思われる。各側面は方形輪郭を巻いて内側を彫り沈め格狭間を配する。格狭間内は素面。基礎上端には低い一段の框を設けてから複弁反花を置いて竿受座に続いていく。竿は八角柱状で、ひとつおきに蓮華座上の三弁宝珠のレリーフを配してしている。中台も平面八角形で低い竿受から下半部はやや反りを持たせた小花付単弁請花とし、側面は二区に枠取りして彫り沈めた中に各々割菱紋を陽刻する。中台上端面にも基礎上端と同様の複弁反花を置き、中心には平らな受座を円形に作っている。中台上の請花は中央に稜を設け覆輪のある小花付単弁で上端面外縁には弁先の形に沿って山形の凹凸を設け、丸い棗型の塔身を載せている。無銘ながら中台側面の菱形紋、整った格狭間の形状など手の込んだ意匠表現が随所にみられる。基礎の側面高が割合に高く、基礎上と中台の反花がやや平板で、単弁請花が剣頭状で側面に膨らみが見られない点などから室町時代初め頃、15世紀前半代のものと考えられる。無縫塔は僧侶の墓塔として一般的なものであるが、ほとんどが竿や中台を伴わず塔身が細高い近世以降の単制のもので、重制の無縫塔は珍しく、中世を通じ禅宗系の開山塔等に多く採用される。石造物の宝庫とされる近江においても本格的な重制無縫塔は指折り数える程しか残されていない。本塔は風化摩滅も少なく遺存状態が良好で、各部欠損なく揃っている点も貴重である。また、向かって右手、近世の無縫塔の基台に転用されている石塔の基礎がある。03_2花崗岩製で風化や細かい破損がみられるが、上端面は平らで宝篋印塔に特有の段形が見られないので宝塔ないし層塔の基礎と考えられる。幅約80.5cm、高さ約40.5cmとかなり大型で、幅に対する高さの比が小さく低い。各側面には輪郭を巻いて格狭間を配し、格狭間内に三茎蓮の浮き彫りを表現する。低い基礎に輪郭の幅が狭いのは寛元4年銘の近江八幡市安養寺跡層塔や建長5年銘の米原市大吉寺跡宝塔などの事例に鑑み古い特長と考えてよさそうである。04格狭間は左右の束との間をやや広くとって全体によく整い、花頭部分の肩があまり下がらず側辺の曲線がスムーズで概ね古調を示している。三茎蓮の構図は大きく、彫りがしっかりしていて下端に宝瓶口縁部と思しき部分を表現している。茎や葉が伸び伸びとして気宇の大きさを感じさせる。左右と裏面は中央茎上を蕾としているが正面のみ花弁上に座す小さな像容を刻んでいる点は非常に珍しい表現である。造立時期について、田岡香逸氏は上記のごとく低い基礎や格狭間の形状などから鎌倉時代後期の初め、13世紀末頃と推定されている。無銘の基礎だけの残欠であるが、像容を表現した珍しい意匠の三茎蓮を備えた比較的大型の石塔で、細部の手法にも古調を示す注目すべきもので見逃せない。このほかにもこの境内墓地には一石五輪塔や石龕仏などの中世石造物が多数残されている。

参考:田岡香逸「近江能登川町の石造美術(1)」『民俗文化』55号 1968年

   嘉津山清「無縫塔-中世石塔の一形式-」『日本の石仏』№83 1997年

無縫塔の塔身が載る請花上端面のギザギザは応永28年(1421年)銘の竜王町鏡の石燈籠の中台上のギザギザを髣髴とさせる手法でこのあたりも造立時期を考えるヒントになるのではないでしょうかね。最古の無縫塔は京都泉涌寺の俊芿塔で安貞元年(1227年)示寂後間もない頃の造立と推定されています。このように没年の明らかな高僧の墓塔であるため造立時期を比定できるケースが多い無縫塔ですが、鎌倉時代に遡るものは案外、数が少なく嘉津山氏によれば紀年銘のあるものは未確認とのこと。在銘では栃木県宇都宮市の伝法寺塔の南北朝期に入る観応二年(1351年)銘が最古だそうです。意外ですね、ハイ。


京都府 京都市伏見区醍醐醍醐山 醍醐寺の町石

2010-07-06 00:44:05 | 京都府

京都府 京都市伏見区醍醐醍醐山 醍醐寺の町石

醍醐寺は世界文化遺産、真言宗醍醐派の総本山。貞観16年(874年)理源大師聖宝開基の東密中心寺院の一つである。01役行者以来の修験の大立物である聖宝を開基に仰ぐ醍醐寺は、古来真言系修験の一大中心で中世には賢俊、満済、義演などの政治的影響力のある高僧を輩出している。江戸時代には中心子院である三宝院の門跡が修験道当山派の総元締として天台系の本山派聖護院門跡と並んで全国の修験道系寺院を統括していた。広大な境内は醍醐山の山頂付近にある上醍醐と西側山麓に広がる下醍醐に大別される。最近落雷で焼失した上醍醐の准胝堂は西国三十三箇所観音霊場第十一番札所としても著名。下醍醐から上醍醐へは登口に当たる成身院(女人堂)で入山料を納め、山道を1時間ほど歩かなければならない。03道はよく整備されているものの、四百メートル近い高低差を衝いて登る道程は流石に息が切れる。この登山道に沿って古い町石が立てられている。04第一町石は亡失しており、女人堂のすぐ奥にある第二町石から開山堂前の第三十七石まで36基が知られる。これら町石は近世地誌類にも現れるようだが、戦前の斎藤忠博士の論考によりその実態がほぼ明らかにされている。それによれば一部後補のものを除いて鎌倉時代中期の終わり頃、13世紀後半文永年間頃の造立と推定されている。概ね同型同大の花崗岩製で方柱状の塔身に請花宝珠のある笠石を載せた笠塔婆の形態をとる。笠石を残しているものは少なくほとんどは方柱状の塔身だけが残っているが塔身の上端面中央には枘やその痕跡が認められ笠石を載せていたことは明らかである。05残りのよい第三十一町石の略測値は、現地表高約167cm、塔身正面幅約31cm、奥行き約23.5cm。笠石は高さ約38cm、正面軒幅約48.5cm、奥行き43cmである。平らに整形した正面上方に大きく梵字を薬研彫し、その下に尊名と町位数を陰刻する。左右側面に願主名ないし紀年銘を刻み背面は素面のままとする。これらは種子と尊名を伴うことから大日如来以下の金剛界曼荼羅三十七尊と考えられる。すなわち大日(37)阿閦(36)宝生(35)阿弥陀(=無量寿)(34)不空成就(33)の五仏、金剛(32)宝(32)法(31)羯磨(29)の四波羅密菩薩、金剛薩埵(5)金剛王(6)金剛愛(7)金剛喜(8)金剛宝(9)金剛光(10)金剛幢(11)金剛咲(12)金剛法(13)金剛利(14)金剛因(15)金剛語(16)金剛業(17)金剛護(18)金剛牙(19)金剛拳(20)の十六大菩薩、金剛嬉(25)金剛髣(26)金剛歌(27)金剛舞(28)金剛香(21)金剛華(22)金剛燈(23)金剛塗(24)の八供養菩薩、金剛鉤(1)金剛索(2)金剛鏁(3)金剛鈴(4)の四摂菩薩である(カッコ内は町位数)。このうち右側面に寛永18年(1641年)10月の同じ年月を刻んだものが半数近くある。02これらはいずれも後補で、江戸時代でも初期ということもあるのだろうか、梵字の出来は上々で既存の古い手本に忠実に作ろうとした意図が見て取れるよくできたレプリカである。紀年銘のあるものは全て寛永銘で後補である。塔身下端はどれも土に埋まっており確認できないが、第五町石など下方の一部が露呈するものを見る限り下方は粗く成形したままとしていることから、元々基礎を伴わず直接埋め込み式にしていたと考えられる。06さらに紀年銘のあるものとないものをよく観察すると、寛永銘の枘は低く小さいが無紀年銘のものの枘は太く大きいことがわかる。また、笠が残るものでは、寛永銘のものの笠石の屋根の降棟に緩い照りむくりがあって笠裏が平らであるのに対し無紀年銘の笠石にはむくりは認められず伸びやかな軒反を見せる。さらに無紀年銘の笠石は請花宝珠を一石彫成とするが寛永銘の請花宝珠は別石としている。種子も無紀年銘のものの方がやや大きく、筆致や彫りに勢いがあるように思う。寺蔵の「上醍醐西坂表町石之次第」という記録(寛永期の町石も記録され江戸時代以降のものらしい)には亡失した第一町石が記され「文永九年(1272年)三月日勧進僧入信座主権僧正」の銘があったと伝える。斉藤博士は無紀年銘のものに残る「親快」「俊誉」「行誉」等の願主名やそれに伴う僧綱名から彼らが13世紀後半頃の活躍が古文書で確認できる醍醐寺の僧であること、さらには第二十二町石に残る願主「権少僧都覚済」が文永7年銘の和歌山県高野山の第十九町石に残る「権少僧都覚済」と同一人物とみられることから「上醍醐西坂表町石之次第」記事の信憑性が高いことを実証されている。この記録を信じるならばこの町石が勧進の手法により造立されていることがわかる。また、勧進に加わった願主に金堂衆、心経会衆、准胝堂衆といった寺院内のグループが名を連ねていることも興味深い。ともあれ醍醐寺町石は鎌倉中期に遡る古い町石であり、笠塔婆のあり方を考えるうえからも貴重な存在である。さらに高野山の町石と醍醐寺をつなぐ物証となる刻銘を有する点でも注目すべき町石といえる。

参考:川勝政太郎 『京都の石造美術』1972年

      斎藤 忠 「醍醐寺の町石」『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告書第18冊』1938年

写真上左の2枚:川勝博士の『京都の石造美術』に写真が載っている第三十一町石、法波羅密菩薩です。奥に見えるのが上醍醐の寺務所の門です。それと笠の様子。上右:第三十二町石金剛波羅密菩薩、左中:第三十三町不空成就如来、以上は無紀年銘で文永頃と推定されるものです。下左:第三町石、金剛鏁菩薩。下右:第三十七町石大日如来。これらは寛永18年のものです。どうです、違いがおわかりいただけるでしょうか…。

上記にはいくつか例外や解き明かされていない謎があります。大日如来の第三十七町石(寛永銘)だけは基礎を有しています。第三十町石が見当たらず本来30番目にくるはずの法波羅密菩薩は何故か第三十一町石となり、31番目にくるはずの宝波羅密菩薩が第三十二町石となっており、本来32番目の金剛波羅密菩薩とともに三十二町の町位を持つものが二基あります。また、金剛塗菩薩の第二十三町石(無紀年銘)だけは上端面が枘(凸)でなく枘穴(凹)になっています。それから金剛牙菩薩の第一九町石は新旧二基あり、現地には後補が立ちますが寛永18年ではなく同11年銘となっています。もう一つの無紀年銘の古いものは下端を失って清瀧宮入口付近に移されています。さらに薬師堂前には町位銘のない薬師如来の種子と尊名を刻んだ寛永18年銘の同様の笠塔婆があります。こうした例外や謎についてそのいきさつをあれこれ考えるだけでも興味は尽きません。斎藤博士の論考は戦前のもので、若干当時と現地の状況が変わっているものもあります。しかし詳細に調査され慎重に考察された論考は今読んでも新鮮で今日も全く通用する内容です。文体を除くと古さを感じませんね。論考にいわく「遠い古より幾多の人々は清浄の心を抱いてこの道を登り、そして道の辺に整然と立つ町石に暫しの礼拝を捧げ、かつ町位を知って疲れた身体を励ました…」とのこと。斎藤博士のこの言葉はまさに町石のありようを端的に示しています。息を切らせて山道を登り傍らの町石を見る時、この言葉の意味をまさに体感できると思います。かの重源や叡尊も若い頃修業したという醍醐寺にはこのほかにも清瀧宮の石燈籠、三宝院墓地の宝篋印塔といった注目すべき石造美術がありますが、これらのご紹介はまた別の機会に。