石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 大和郡山市額田部寺町 額安寺宝篋印塔

2010-06-22 00:12:53 | 奈良県

奈良県 大和郡山市額田部寺町 額安寺宝篋印塔

大和郡山市の南端近く、大和川(初瀬川)と佐保川の合流点を間近に望む額田部丘陵の南麓に位置する真言律宗額安寺。その歴史は古く飛鳥時代、聖徳太子の創建になる熊凝精舎が起源と言われている。02_2国立歴史民俗博物館蔵の「額田寺伽藍並条理図」(国宝!)には奈良時代の伽藍の様子と周辺の状況が描かれており興味深い。鎌倉時代には西大寺に属し、息子を僧侶にさせたかった母親の願いを叶えるために少年時代の忍性がここで剃髪したと伝えられる。西大寺の系列にあっても特に忍性とのつながりが強く、付近の鎌倉墓と呼ばれる境外地には忍性の分骨を収めた蔵骨器を埋めた3メートル近い巨大な五輪塔がある。05このように由緒ある額安寺であるが一時は無住で荒廃の危機にあったという。御住職のご尽力により近年は寺観の整備が進み境内は清浄感のある佇まいを見せる。本堂前西よりの白い砂利の上に際立って立派な宝篋印塔が立つ。塔高283.3cm。これが有名な額安寺宝篋印塔である。最近まで門前東側にある通称明星池の中にある小さい島に立っていたものを移建したもので、従前は池越しに草や藤蔓の隙間からのぞく勇姿を眺めるだけであった。間近に見ることができるようになったのは喜ばしい。昭和48年頃までは倒壊状態で草に埋もれ相輪と笠は池の中に転落していたらしく、当時の御住職の尽力で転落していた部材を拾い上げて復興されたとの由。その翌年、ゴムボートで島に渡られた清水俊明氏らの調査によって基礎の文応元年(1260年)の紀年銘と大蔵安清の石工銘が見い出され一躍注目を集めるようになった。07_2それが最近になってまた傾いてきたことから、境内に移され一部復元、免震措置を施して面目を一新したものである。06明星池にあった時から台座・基壇は見られなかったようである。花崗岩製。基礎は一石ではなく、四石をややくずれた田の字状に組み合わせた上に三段の段形部分を別石で置いている。基礎の縦の接合面が直線的できれいに中心にくるのは北面と東面で、西面と南面では接合面がずれまっすぐになっていない。これを単に割れとみると北東側だけが別石で残りはL字型の平面形の変則的な二石構成となる。あるいは元々こうした不均衡な大きさの石を組み合わせた変則的な構成だったのかはわからないが、このあたりの謎は移設に際して詳細に観察されていると思われるので成果の公表に期待したい。01_4基礎の幅は91.5cm、側面高は37.5cm。各側面は二区に輪郭を枠取りして彫り沈め、各輪郭内にはひとつづつ格狭間を入れている。北面の2つの格狭間内に刻銘があるのが肉眼でも確認できる。向かって右側(西側)に「文応元年/十月十五日/願主永弘」、左側(東側)は「大工大蔵/安清」と読める。別石の基礎上三段は高さ20.1cm、最下部で幅72.5cm。上に行くにしたがって幅のみならず高さを減じる点が大きな特徴である。塔身は幅43.5cm、高さ45.9cmと高さが勝り、各側面は二重に輪郭を巻いた中に彫り沈め式の月輪を配し、内に金剛界四仏の種子を端正なタッチで薬研彫する。塔身内部には奉籠穴が穿たれているようである。笠下は三段でやはり別石とし、塔身を挟んで基礎上段形とシンメトリになるように上に行くにしたがって幅と高さを増していく。笠上は6段+露盤で都合7段。軒から笠上三段までと4段以上露盤までとで別石構成とする。03_2軒幅は78.5cm。隅飾は軒からわずかに入ってほぼ垂直に立ち上がる一弧素面で笠全体の大きさに比べると小さめである。笠上段形も上に行くにしたがって高さを減じる点が特徴。08_3ただし7段目だけは高く側面を二区に分けて小さい輪郭内に格狭間を入れているので露盤を表したものと解すべきである。相輪は風化が進んだ印象で九輪の逓減が少なく伏鉢の背が高いのが特徴。請花は上下とも小花付き単弁のようである。文応元年銘は在銘宝篋印塔では輿山往生院塔の正元元年(1259年)に次ぐ古銘であり、基礎から相輪まで揃う点も貴重。輿山往生院塔とはわずか1年の差だが意匠的にはかなり異なる。重厚で安定感があり外連味のないオーソドクスな手法の輿山往生院塔に比べ、額安寺塔は各部を別石とし全体に背が高く安定感にはやや欠けるが、逓減を生かした段形の手法や二区輪郭と格狭間で側面を飾るなど装飾的で典雅な印象がある。こうした手法は大和の宝篋印塔にあってはむしろ異色で菩提山正暦寺中央塔などわずかな類例があるのみ。細部に多少の相違点があるものの神奈川県元箱根塔や茨城県宝鏡山塔といった関東の古い宝篋印塔に通じる特徴といえる。大蔵派石工に関する記述はここでは省くが川勝博士をはじめ古くから先学による考察があり、最近では山川均氏の著書がある。要するに忍性と共に関東に下向しその後の東国における石造美術に大きな影響を与えた石工の門閥・系統と考えることができる。その大蔵姓の石工銘では最も古いものであることも史料的価値を高めている。

参考:川勝政太郎 「大蔵派石大工と関係遺品」『史迹と美術』第449号 1974年

   田岡香逸 「早期宝篋印塔考(5)」『史迹と美術』第496号 1979年

   仁藤敦史編 「古代荘園絵図と在地社会についての史的研究「額田寺伽藍並条里図」

      の分析」国立歴史民俗博物館研究報告88 2001年

   山川 均「中世石造物の研究-石工・民衆・聖-」 2008年

写真右上:基礎から塔身まわりの別石構成の様子や段形の「逓減」デザイン、塔身の二重輪郭、彫り沈め式の月輪などがおわかりいただけるでしょうか?写真左中上:笠上の様子。別石の笠上や露盤に注目してください。写真左中下:刻銘のある基礎側面の様子。格狭間内に文応や大蔵の文字があるのが肉眼でも確認できます。写真右中:隅飾の様子。素面で縦長の馬耳状ですがちょっと小さめ。写真左下:数年前に訪れた際の明星池の中島。低木や草に隠れて見えにくいですがおわかりいただけますでしょうか?写真右下:そしてこれが現在の中島です。ずいぶんさっぱりしましたね。

 前回の記事は池の中島に移されてきた宝篋印塔でしたが、従前池の中島にあって池外に移された逆のパターンがこちら。今更小生があえてご紹介するまでもない著名な宝篋印塔ですが、池の中島つながりということで…。最近境内に移されたとの話を聞いていましたので数年ぶりに訪ねました。間近に観察できるようになっていたのは感激でした。額安寺御住職の英断と移建に尽力された関係各位に深く感謝する次第です。明星池は径30メートル程の小さい池ですが、中島にあっては近づいて観察することは出来ません。銘を見出された清水俊明先生、苦心の実測を敢行された福澤邦夫先生ともにゴムボートで池を渡られたそうです。こうした先学の労苦があってはじめて座して頁をめくる我々の便宜が成り立っているということを忘れてはいけませんね。文中法量値は『史美』誌449号、川勝博士の論攷に掲載された福澤邦夫先生の実測図を参照させていただきました。市指定文化財ですがはっきり言って重文クラスだと思います、ハイ。


奈良県 奈良市登大路町 奈良国立博物館(本館東池内)宝篋印塔

2010-06-14 01:10:42 | 奈良県

奈良県 奈良市登大路町 奈良国立博物館(本館東池内)宝篋印塔

奈良国立博物館の本館(旧館)の東側、藤棚が畔にあり鯉が泳ぐ小さな池がある。池の中島の芝生の上に非常に立派な宝篋印塔が置かれている。03_2池の中にあるため近づけないが一見して古い大和系のものとわかる。各側面無地の基礎は低く安定感があり、基礎上は反花式だが一段を挟んでおり段形式との折衷型のようである。基礎上を反花式の別石にする例は和歌山青岸渡寺塔や京都誠心院塔のように大型塔にしばしばみられるが、別石にしない点で滋賀県竜王町鏡山塔や野洲市錦織寺基礎と似ている(2009年9月2日記事参照)。池外からの観察でははっきりしないが反花は小花付き複弁5葉で隅弁が小花になる大和系のものらしい。また、反花の上にあるべき塔身受座部はほとんど確認できないが塔身との接合に違和感はない。量感のあるどっしりとした塔身は側面いっぱいの陰刻月輪内に雄渾な金剛界四仏の種子を薬研彫している。笠は上下2石からなり、笠下二段、笠上六段、笠下と軒が同石となっている。隅飾は笠全体の大きさに比して小さめで、3つは笠上段形と同石となっており東側2箇所が残り、南西側は笠上1段目より少し上のところで折れ亡失している。02_2北西隅飾は亡失しているが、これだけはどういうわけか別石になっており、載っていた部分の軒上端面に枘穴らしいものがあるという。その部分に接する笠上段形の隅の破損がやや大きいように見えることから、当初から北西隅飾だけを別石に仕立てていたかどうかは慎重に判断する余地がある。もっとも隅飾の1つだけを別石にする手法は滋賀県野洲市西養寺塔に例があり(2007年1月17日記事参照)、また、段形の隅部分を粗く打ち欠いたままで別石隅飾を置く例も少なくないことも考えると、やはり当初から別石だった可能性が高い。隅飾は別石ながら軒とほとんど同一面から真っすぐ立ち上がり、上にいくに従って微妙に弧を描いて外反している。こうした緩く弧を描いて外反する隅飾の手法は大和系宝篋印塔の隅飾にしばしばみられるものである。隅飾は輪郭のない素面でよく見ると三弧になっている。大和の宝篋印塔で隅飾三弧というのは極めて珍しい。各段形や種子の薬研彫など細部の彫成が非常にシャープな出来を示しているのが池外からでも見て取れるが、相輪だけは彫成が全体に甘く別物の疑いがある。伏鉢を失って下請花が低く、九輪は沈線で水煙があり竜車や宝珠は亡失している。水煙付の相輪は層塔に多く宝篋印塔に例が少ないことも別物説を裏付けるようである。相輪を除く笠上までの高さ205.5cm、基礎幅105cm、基礎側面高49.5cmで塔身は高さ60.2cm、幅約61cm、軒幅は100cmというから、かなりの大型塔で、元は11尺塔と推定されている。本塔は博物館から南西約1㎞程、市内某氏宅の庭にあったものが昭和61年に博物館に寄託移建されたとのことである。そのお宅の場所は元興寺の西門跡付近に当たるとされるようだが、どういう経緯でそのお宅の庭にあったのか不詳。ただ、そこが原位置とは考えにくい。それでもあまり遠くない場所に本来建てられていたものと思われる。なお、造立時期について福澤邦夫氏は鎌倉時代中期後半、文永年間後半頃(13世紀後半)のものと推定されている。構造・形式、細部の手法、規模など総合的にみて妥当な年代観と考えられる。どっしりとした存在感がある一方で細部の手法にも優れ、大和でも屈指の優品に数えることができる。

参考: 福澤邦夫「奈良国立博物館所在無銘石造宝篋印塔」『史迹と美術』594号 平成元年

   清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術 名著出版 昭和59年

現地には特段詳しい解説板などはありません。池の中の中島にあるので近づけないこともあって博物館を訪ねるたびずっと気になっていましたところ、少し前『史迹と美術』誌のバックナンバーをめくっていて福澤邦夫先生の詳しい紹介記事と実測図があることに気づきました。これを読んで長年の溜飲が下がる思いでした。福澤先生の学恩に深く感謝するとともに、庭内に死蔵されることなく広く我々の目に触れるようにしてくださった寄託者の某氏並びに博物館当局に感謝したいと思います。なお、文中法量値は福澤先生の報文に拠ります。地元の方や一部の研究者はともかく、博物館を訪れてあの宝篋印塔は何なんだろう?というモヤモヤ感のあった石造マニアの皆さん多いんじゃないでしょうかと思い記事を起こした次第です。ちなみに同博物館には新館裏の庭園内にも九州方面から来た石造美術があります。

 

 最近、池のほとりに立派な説明板が設けられました。一石造ファンとして喜びにたえません。博物館当局のご高配に拍手。

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