石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府南丹市日吉町四ツ谷 海老谷会所跡宝篋印塔

2016-12-30 12:25:32 | 宝篋印塔

京都府南丹市日吉町四ツ谷 海老谷会所跡宝篋印塔
威音寺の南東、谷筋を挟んだ旧道南側の山裾にある。隣接する
の会所(現在は空地)を建てた際に土中から掘り出されたという。中央塔は基礎から相輪まで揃い左右のものは塔身がない。向かって右の塔は相輪も失われている。大鳥居総夫氏は向かって左から1号、2号、3号塔としている。いずれもよく似た大きさで、基礎3面を輪郭格狭間とし、素面の一面に10行ほどの陰刻銘を刻む。笠は上6段下2段で、隅飾が二弧輪郭で直線的に外傾する手法は共通する。残る相輪も、請花が上は覆輪付単弁、下が複弁で九輪の凹凸が浅い点は同じである。中央塔の塔身は蓮座月輪内に金剛界四仏とする。いずれも基礎幅35cm前後、高さ25cm前後で、どれも側面高はかなり低い。塔高は部材が揃う中央塔で約118cmと小さい。ただし、それぞれの部材が当初から一具という確証はなく、混成している可能性は否定できない。向かって左の1号塔の基礎は他のものと異なり注目される。正面の輪郭内中央を縦長円形に彫沈め、内に合掌坐像が半肉彫で刻まれている。膝を揃えて端座する髪の長い像容は女性とみられ、願主(妙金尼)の寿像と考えられる。面白いのは、輪郭内中央の像容と格狭間の左右部分が併存している点で、輪郭の束部分に「大願主」(向かって右)、「妙金尼」(向かって左)の陰刻銘が肉眼でも確認できる。背面の銘は読みづらいが「右意趣者/為逆修善根/奉造立塔婆/彼依功徳妙/金懺除業障/早登解脱蓮/華焉法界衆/生同成正覚/応永十七年二月十五日」とされ、応永171410)年に逆修塔として作られたと知られる。中央の2号塔銘は「右意趣者値/…禅門三十/三廻之辰奉/彼塔婆造立/…普利/化生楽土者/応永八年辛巳/十月一日/孝子等敬白」で応永8年(1401)年の造立、父親の33回忌の供養塔である。向かって右の3号塔は「右意趣者為/逆修善根彼/寶篋印塔奉/造立處結願/一見…本/起因俱入清浄…以下行不明…/□同成正覚/応永二二年七月十四日」応永41397)年の造立である。「宝篋印塔」の文字が見られる点が貴重。生前供養や33回忌供養のために14世紀末から15世紀初めに相次いで造立されたことがわかる。こうした造塔供養を立て続けに行える経済力を蓄え信仰心に篤い有力者がいたことを示しており、今でこそ訪う人も少ない山深い寒村の趣を見せている当地だが、物資流通の幹線道沿いにあった往昔の姿を偲ぶことができる。
参考:大鳥居総夫「丹波威音寺の宝篋印塔その他」『史迹と美術』445
         川勝政太郎『日本石造美術辞典』

こういう状況。苔むした残欠状態ですが3基とも長文の造立銘があって資料価値は高いものです。


背後に見える四角い白いものは案内看板で長年風雨にさらされボロボロ、文字もほとんど読めません。


中央塔の基礎背面。苔むしているが刻銘があるのがハッキリわかる。肉眼での判読はちょっと難しい…。


向かって左の基礎正面。表面を覆う苔を取り除くと大願主/妙金尼の文字と当の妙金尼さんのお姿と思しい合掌像が…

現在会所は別の場所にあって旧会所建物は跡形もありませんが、跡地のどこかに塔身や相輪が埋まっているかもしれません。また、これらがまとまって埋まっていたとすれば、この旧会所跡は廃滅した寺院の坊院か何かかもしれません。谷を挟んだ威音寺は見える距離です。よく見ると格狭間の形状が少しずつ異なり、古い方がより「まし」であることが見て取れます。文中法量値、銘文は大鳥居総夫氏の報文によります。

年末にバタバタと3本連続でUPしましたが、丹波方面初見参です。旧日吉町シリーズはこれでいったん終了。同時に平成28年もこれでおしまい、ご愛顧ありがとうございました。皆様、どうぞよいお年をお迎えください。


京都府南丹市日吉町四ツ谷 威音寺宝篋印塔ほか

2016-12-30 08:58:36 | 宝篋印塔

京都府南丹市日吉町四ツ谷 威音寺宝篋印塔ほか
威音寺は谷筋に沿って展開する海老谷の集落を見下ろす小高い尾根の中腹にある。寺への登っていく参道の途中、石造物が集められた一画に宝篋印塔がある。基礎から相輪まで完存する。塔高は約145cm。基礎高31.5cm、幅41.5cm、塔身高20.5cm、幅21.5cm、笠の高さ33cm、幅36.5cm、相輪高59cm。基礎上端はむくりのある複弁反花式で、側面3面は輪郭を巻いて格狭間を入れ、一面を素面として陰刻銘を刻む。塔身は蓮弁月輪内に金剛界四仏の種子、笠は上6段下2段、軒からやや入ってから直線的に外傾する二弧輪郭の隅飾で、相輪は、請花上下とも覆輪付で上を単弁、下を複弁とする手法。10行の陰刻銘は割合よく残るが肉眼では判読が難しい。昭和48年5月に調査された大鳥居総夫氏によれば「右意趣者逆/修善根奉造立□/…去歳/…入□/浄寛出往…/所…/□早□□菩提□法/界有情同成正覚/応永十一年
七月五日/大施主敬白」だそうで、応永111404)年に造立された逆修塔とわかる。花崗岩製とされるが、硬質砂岩か安山岩のように見える。傍らにある自然石に種子を刻んだ自然石塔婆も面白い。蓮坐上の月輪内に中央に「キリーク」、向かって左に「サク」、左に「バイ」の三尊。中尊は阿弥陀ないし千手観音、普賢、薬師だろうか、尊格の特定は難しい。小さい方は同じ蓮座月輪内に「カ」が3つ、地蔵菩薩と思われる。後ろのは「アク」。いずれも宝篋印塔と同じような石材。種子の感じや月輪下の蓮弁の形状から宝篋印塔とあまり隔たりのない時期の造立と思われる。このほか境内の一画にある小型の石仏には「応永十二(1405年乙酉九月五日/願主正現」と読める陰刻銘がある。長方形に近い自然石の表面を彫沈め、立体的な蓮座に坐す二重円光背の定印如来像を半肉彫する。像容は小さく全体に稚拙な印象だが、温和な童顔の面相で衣文や蓮座の表現に丁重さを見て取れる。室町時代初めの紀年銘は貴重。
参考:大鳥居総夫「丹波威音寺の宝篋印塔その他」『史迹と美術』445


宝篋印塔の隣のは経塚の標識でしょうか、大乗妙典石字塔の文字。天保の紀年銘があります。



基礎から相輪まで完存、願文&紀年銘があり史料的価値が高い。


刻銘があるのは明らかですが、肉眼ではいくつかの文字を拾い読みできる程度です。


おもしろい自然石塔婆。小さいものですが「ぬぬぬ…おぬしなかなかできるな…」


応永銘の石仏。薬師?阿弥陀?

文中法量値、宝篋印塔の銘文は大鳥居総夫氏の報文によります。参道は最近重機で掘削拡幅されたようで、山肌の地山が大きく露出し、風情が損なわれているのは少々残念です。中世墓や坊院跡などがあった可能性もあり心配されます。石仏について、一見すると膝上で組んだ掌上に薬壺があるようにも見えますが、よく見ると指で輪を作る定印のようで阿弥陀と考える方が自然です。案内看板には耳の病に効験のある薬師如来で紀年銘が応永
二年1395)とありますが、小生の目には十二年に見えます。薬師石仏はこれとは別にあるのでしょうか、よくわかりません。


京都府南丹市日吉町四ツ谷 海老坂峠宝篋印塔

2016-12-29 00:21:02 | 宝篋印塔

京都府南丹市日吉町四ツ谷 海老坂峠宝篋印塔
海老坂峠は、標高約470m、旧北桑田郡美山町と旧船井郡日吉町の境、現在は通る人も途絶えた山深い場所であるが、往昔は洛北と若狭方面を結ぶ街道で、大正頃まで峠を越えて人や牛馬による物資輸送が行われていたという。峠の途中には八百比丘尼の伝説が伝わる玉岩地蔵堂があって往時を偲ばせる。この玉岩地蔵堂下に車を停めてから九十九折の急な山道を登っていくと、20分余で着く峠の切通には「従是南船井郡」と刻まれた石柱があり、露出した岩盤には石造如意輪観音(折損する。近世以降か)を祀る小祠が残る。宝篋印塔は峠の切通の西側、尾根上の緩斜面に雑木に囲まれてひっそりと建っている。数枚の板状の石材を組み合わせた二重の方形切石基壇を設え、下の基壇は一辺約152cm、下端が埋まって高さは不明。上段は一辺約112cm、高さ約21cm。塔高は約245cmと大きく、八尺塔と考えられる。全体に保存状態が良く、欠損や表面の風化は少ない。花崗岩製とされるが、褐色に変色したきめの細かい表面の感じからは硬質砂岩か安山岩のように見える。いずれにせよ峠付近の岩石とは異なり離れたところから運ばれたと考えられる。基礎は高さ約62.5cm、幅約73cm。側面高約46.5cm、上端はむくりのある複弁反花式で、反花の上にある塔身受座は幅約46cm、高さは約5cmと高い。基礎は各面とも素面。南面に5行、左から「願主円石/歳次八月/応安七年(1374)/甲寅十日/大工法覚」の陰刻銘が確認できる。塔身高は約36cm、幅約37cmと幅が若干勝る。各面とも蓮座上の月輪内に薬研彫りの金剛界四仏の種子を配する。各四仏の方位はあっている。種子はやや小さめで迫力に欠ける。月輪の径は約24cm。月輪下の蓮弁はまずまずの出来。笠は上6段下2段の通有のもので、高さ約63cm、軒幅約65cm、下端幅約44.5cm、上端幅29.5cm。笠全体に幅に比して高い(縦に長い)印象。隅飾は二弧輪郭式で、軒口から約1cm入って直線的に外傾する。隅飾下端幅約22cm、高さ約26cm。相輪は高さ約84cm、上請花が単弁、下請花は複弁で、九輪の凹凸は浅く、宝珠は重心が高く側線がやや直線的になっている。彫整は丁重でエッジが効いており、保存状態の良さと相まって全体にシャープな印象を受けるが、基礎、笠ともに背が高く、塔身が笠や基礎に比べて小さ過ぎるためか、全体としては重厚さや安定感に欠ける印象のフォルム。
基壇から相輪まで欠損なく、保存状態良好で紀年銘があることは史料価値が高い。加えて大工名がある点が貴重。
参考:川勝政太郎「丹波海老坂の応安宝篋印塔」『史迹と美術』445号


彫整は非常にシャープでエッジがきいている。写真ではあまり大きく見えないのはフォルムのせい?


基礎は背が高い。笠上も縦長、基礎上の複弁反花もちょっと平板な感じになってきている…。



側面いっぱいに…とまではいかないけど種子と蓮弁はまぁまぁ時代相応といったところ。


LEDライトに浮かび上がる応安7年の銘。

法量値はコンべクスによる実地略測によりますので多少の誤差はご容赦ください。自然に溶け込んで素晴らしいシチュエーション、墓地や寺院の境内で見る石塔とはまた違った感覚です。周辺には寺院や墓地の存在を示す徴候はうかがえないので墓塔というより旅の安全を祈念するため供養塔でしょうか。基壇下に舎利容器とか礫石経とかが埋納されているかもしれません。それにしてもこれだけの規模の石塔を、わざわざ険しい峠の上まで運んでくるのはたいへんだったと思います。ほぼ手ぶらの小生は情けなくも息も切れ切れでした。峠の美山側には車が通れる林道が通じていてちょっと拍子抜けでしたが…。


『板碑の考古学』が届きました(お知らせ)

2016-12-19 21:42:21 | お知らせ

『板碑の考古学』が届きました(お知らせ)
『板碑の考古学』が届きました。事前申し込みをしてました高志書院さんから送られてきました。
『板碑の考古学』千々和到・浅野晴樹編、高志書院発行。B5版・370余頁の大冊で、気鋭の研究者の皆さん20名程による最新の知見が盛りだくさんの内容。かの『板碑の総合研究』から30侑余年、待ってましたというのが感想です。マニア垂涎の内容に小生などは大満足です。千々和先生・浅野先生、玉稿を寄せられた執筆者の皆様、そしておそらく商業的には今一つな少々マニアックな分野にも関わらず、敢然発行された高志書院さんに心から感謝と敬意を表する次第です。届いたばかりなので、まだつらつら目を通しただけですが、中身は板碑界の不滅のスーパースターとも言える武蔵型板碑を中心に、東北から九州まで全国の板碑研究の成果が豊富な図版で詳述されています。「考古学」とあるように基本、考古学的なアプローチから最新の知見が網羅されており、まさに近年板碑研究のひとつの到達点と言えるのではないかと思います。そして、次なる研究の橋頭保になっていく金字塔になるのではないかと思います。とても読み応えがある本なので、しばらく年末年始の夜長はこの本のお世話になりそうです。板碑や石造美術に興味のある方は是非この際、高志書院さん宛注文されては。お勧めします。