石造美術紀行

石造美術の探訪記

天沼俊一博士

2012-06-27 00:27:04 | うんちく・小ネタ

天沼俊一博士

先ごろ黒谷金戒光明寺を訪ねた際、天沼俊一博士(1876-1947)のお墓にお参りさせていただきました。ここの御影堂を設計された京都帝大教授であった工学博士です。Photo建築史学、とりわけ細部様式のオーソリティですが、実は石造の研究のパイオニアのお一人で、川勝政太郎博士が師事されたことで知られています。川勝博士は次のように述懐されています。「昭和3年の春天沼先生の知遇を得た頃、私は23歳の青二才であったが、先生から古建築についていろいろのことを教えて頂くために、自分で質問を準備して京大の建築学教室へ三日にあけず足を運んだ。…世間では気難しい先生、偏屈な先生という評判もあったのだが、私はそんなことを何も知らなかったから、ずいぶん無遠慮におそれ気もなく推参していた。そして先生も迷惑らしい顔もされず、何時でも親しく教えてくださった…」、「青年の日から指導を受けた関係から、学問上のことやその他のことにも私は天沼先生の影響を多く受けている。私はそれを喜んでいる…見学に月の半ばを割いてお伴をし、数年の間は家に半分、先生と旅行が半分というほどの熱の上げ方で、実地について古建築の研究を教わった。まったく私は幸運な一人であったと思う」、「図面と写真と拓本…この3つを作ることは物を注意深く模索することになる。自分の観察したところを書けというのが先生の常々の教えであった」。

また、その後当時25歳の川勝博士が昭和5年に史迹美術同攷会を立ち上げ『史迹と美術』誌を発刊される際、逡巡されていた川勝博士に発刊を勧め、困った時はいつでも原稿を寄せると天沼博士に励まされたことで決心がついたといわれています。天沼博士との出会いや勧励がなければ、あるいは、のちに石造美術研究を大成された川勝博士の業績はなかったかもしれないということを考える時、小生の天沼博士への関心はいやがおうでも高まります。そこで、石造の分野でも最近はあまりお名を耳にし目にする機会も少なくなった観もある天沼博士について少しご紹介したいと思います。

 我国近代建築学の父と称されるのが、欧米から招かれ明治近代化の先導役を努めた所謂お雇い外国人の一人であったジョサイア・コンドル(JosiahKondoer(1852-1920))だと言われています。その最初の教え子で我国近代建築界の大立物だったのが辰野金吾(1854-1919)で、辰野の教え子に日本建築史学の草分けであった伊東忠太(1867-1954)や関野貞(1868-1935)がいます。さらにその教え子だったのが武田五一(1872-1938)や天沼博士で、ともに京都帝大の建築学科立ち上げの際の教官でした。

 天沼博士は東京芝区南佐久間町(現在の港区西新橋)のご出身で、少年時代は昆虫採集が好きなちょっとエキセントリックな子供だったそうで、昆虫学を専攻したいと考えておられたようです。それでも親の勧めもあって当時は東京に「帝国大学」がただ1つだけだったという大学の土木学科に入学することになりましたが、入学一週間前に建築学科に転科を願い出られ認められたそうです。とはいえ初めはあまりやる気がなかったようで、「そこでまぁ建築学科へ入ったには入ったが、さて、どうも何だか仕方がなしに入ったというような気がして、どうもやる気になれなかったから、そういってはすまないが、いやいやながら毎日学校へ通っているという調子であった」と述懐されています。その後、古建築の魅力に目覚められて大学院に進み、日露戦争で歩兵少尉に任ぜられ東京郊外で工廠建設の現場監督をされた後、明治39年、31歳の時、恩師である関野貞の勧めで奈良県に古社寺修理の技師として赴任されました。この時には東京駅はまだなくて新橋から汽車に乗って出発されたそうです。そして奈良にあること12年、東大寺大仏殿や唐招提寺講堂といった名だたる古建築の修理に携わられる傍ら、給料泥棒と揶揄されるような比較的自由度の高い環境で精力的に古建築や石塔等の調査に勤しまれたとのことです。大正7年に京都府の技師に転じ、翌年工学博士となり、京都府技師兼務で京都帝大助教授に就任されました。大正10年から2年間の海外留学を経て大正12年には教授に昇られました。武田・天沼の両御大に支えられた京都帝大建築史の学統からは村田治郎(1895-1985)、藤原義一(1898-1969)、福山敏男(1905-1995)等々優れた建築史家を輩出します。昭和11年に定年退官、退官後も多数の著作をあらわされ、四天王寺五重塔(戦災で焼失)や金戒光明寺御影堂などの設計を手がけられています。ちなみに天沼博士が設計に携われた建築物としてはこのほか東福寺本堂、本能寺本堂、道明寺正門・本堂などがあり、高野山の金堂並びに大塔は武田五一との共同作業です。戦後間もない昭和22年9月1日、脳溢血により忽然世を去られました。享年72歳。心墖院天眞抱一居士。生前親しく交際された法隆寺佐伯管主による法名だそうです。

 奈良に赴任されていた頃、石塔をはじめとする石造物の調査に熱をあげ、その後何年かして止めてしまったが石灯籠だけはその後も続けている旨の記述を残されています。国東半島を中心に分布する独特の石造宝塔に「国東塔」との名を付けられたのも天沼博士です。天沼博士の石造物研究の後を継ぎ、一層発展させたのが川勝博士と言えるでしょう。天沼博士は古建築の細部様式を中心に深く探求されると同時に、名著といわれるような我国建築史を通覧する図録やテキストをまとめられています。何かと誤解され、あるいは忘れ去られつつあった古建築の実情に対する問題意識を強く持っておられたようで、日本古来の建築の素晴らしさや正しい理解を世に広めるために著作、講演、エクスカーション等々熱心に取り組まれました。同じようなことは石造物にも当てはまります。川勝博士の学風に啓蒙的なところがあるのは天沼博士の影響が大きいと思われます。川勝博士をはじめ小川晴暘(1894-1960)、高田十郎(1881-1952)、重森三玲(1896-1975)、中野楚渓(?-?)、大脇正一(?-1946)といった在野のユニークな研究者達(それぞれ一家を成す錚々たる人達です)と親しく交際・指導されたり、芸苑巡礼会あるいは天王会という有志の勉強会の顧問役となって同好の士のネットワーク形成に協力されていたというのも天沼博士の啓蒙的な取組みの一環だったといえるでしょう。天王会ではメンバーをあだ名で呼ぶ決まりがあり、川勝博士は「式部卿」と呼ばれていたといいます。興味深いエピソードですね。ところで、天沼博士は「八戸成蟲楼」という面白いペンネームを用いられました。これは、やっと今頃になって博士の学位をもらったという喜びを少々自嘲気味に表現されたお気に入りのペンネームだったらしく、昆虫採集が好きだった少年時代の痕跡を認めることができます。当時学生だった村田治郎博士(後の京都帝大教授)はペンネームの由来や読み方を知らなかったため、天沼博士のお住まいに「成蟲楼」という額が架かっているかもしれないとわざわざ見に行ったそうで、後から武田五一博士に「成蟲はイマゴ(Imago)と読むんだよ。英和の字引を引いてみたまえ。イマゴに成蟲という訳がちゃんと出ているよ。だからヤットイマゴロさ。学位をもらった記念だね。天沼君だいぶんご自慢のようだぜ」と教わったというエピソードを述懐されています。さらに「天沼先生は万事につけて理非をはっきりさせて、些細なことでもいい加減に済ませることは決してされなかった。正反対の武田五一先生と「天沼君は神経質過ぎるよ」「あなたの方が無神経なんですよ」とよく応酬されているのを聞いた」というエピソードを藤原義一博士が書かれています。武田博士は天沼博士の先輩で、関西建築界の父と称される偉い人物ですが、なかなか磊落な方だったようで、何だかその様子が目に浮かぶような面白いお話です。

 天沼博士のお人柄について、学問は言うまでもなく礼儀作法に厳しく、何事もきちんとしていないと気が済まない恐ろしく生真面目な方だったようです。それでいてシャイでちょっとシニカルな気難しい人物という話もありますが、江戸っ子気質で洒落を解される側面があり、実に人間味あふれる方だったようです。また、個人主義、つまり高いインテリジェンスで自己統制された個々人の独自性や自律性を重んじるというインディビジュアリズミックな方だったようです。「夏目漱石(1867-1916)の「坊ちゃん」などとものの考え方がすごぶるよく似ている」と評されたのは高田十郎氏で、なるほどわかりやすいたとえだと思いました。藤原博士によれば「ネクタイも、カラーもきちんとして、寸分の乱れもない実に几帳面な感じの先生であった」、「準備なしに事を運ばれることは絶対になかったといってよい」とされています。さらによく一緒に旅行した小川晴暘氏は「先生は、ずいぶん気難し屋さんだという噂であるが、汽車中の先生は、ユーモアたっぷりの話し上手で、長の道中を少しも飽きさせない。座談は名人だと思った。しかしきちんとした紳士で、時々は気難しいことを言われる。私はそのおかげで、先生に古建築だけでなく、人間としての心がけや、西洋流の行儀作法までも教わる機会を得たことを今でも喜んでいる」と述べられています。さらに旅行中のエピソードとして、おなじみの宿に泊まると「宿の主人がお湯が沸きましたからお風呂にお入りと言ってきたので先生と二人で五右衛門風呂に入りにいった。先生は湯につかる前に、石鹸で体をすっかり洗い流してから入られる。そしてタオルは湯槽の外に置かれて、静かにつかっておられた。私は、お湯を汲み出して体を洗ってからまずお湯につかって、流し場で石鹸を使う習慣にしていると申し上げると、先生は、我々に今日の初風呂をすすめてくれたのであるから、後から入る人の迷惑にならぬように、一日の垢を十分洗い落としてからお湯は温まるだけにすべきだと言われた。…先生の入浴ぶりは、先生独特の道徳観からであり、万事がこのお気持ちから出ている事をみて、他人のいう「気難しい先生」を一層尊敬せずにいられなかった」と述懐されています。川勝博士も「…学者として高い地位を占められていたにもかかわらず威張られることはなかった。それはまた威張る人をお嫌いであったということでもあった。人との応接は非常に丁寧で私ごときも一度も粗略に扱われたことがない。実に偉い先生だと一層感服した」、「先生はなかなか几帳面な方であり、また人に迷惑をかけるのを恐れ、自分も迷惑をかけられることを嫌われた」などと述べておられます。何でも川勝博士がみどり夫人と結婚される際、仲人を頼まれ気安く引き受けたはいいが仲人は夫婦揃ってするものと知らず奥さんからそのことを知らされ、驚いて翌日には断って式には一人で出席したとか、家族に告げた予定の日時より早く旅行から京都に帰ることになった際に、わざわざ駅前のホテルで一泊してから予定の日時に帰宅したという面白エピソードが残されています。こうしたエピソードを知るにつけ、天沼博士に対するリスペクトが俄然高まっている小生であります。

 

参考:天沼俊一『成蟲楼随筆』

        〃    『続成蟲楼随筆』

        〃    『続々成蟲楼随筆』

     八戸成蟲楼「古建築追懐」『史迹と美術』第84号

     村田治郎「大正九年ころの事」『史迹と美術』第187号

     藤原義一「氷雨降る妙成寺」『史迹と美術』第187号

     小川晴暘「朝鮮古寺巡礼の想出」『史迹と美術』第187号

     川勝政太郎「天沼先生の人間味」『史迹と美術』第188号

     天沼 香『ある「大正」の精神―建築史家天沼俊一の思想と生活―』吉川弘文館

  ※ 勝手ながら文中引用部分の仮名遣い等一部改めました。


奈良県 大和郡山市矢田町 金剛山寺(矢田寺)石段ほか

2012-06-18 00:33:29 | 奈良県

奈良県 大和郡山市矢田町 金剛山寺(矢田寺)石段ほか

矢田寺本堂前の石段、向かって右(北側)の耳石に注目してもらいたい。ちょうど鐘楼の直下になる。03_2耳石は花崗岩製の長方形の石材で幅は45.5cm、4つの石材からなっているが、このうち一番上のものと上から3つ目の石材表面に陰刻銘が認められる。04石材の上端は石段に合わせて平らになるよう斜めに切っており、表面に「貞和二二年戊子二月十五日施主…」の陰刻銘が認められる。施主以下は2行にわたり数人の交名があるようだが摩滅が激しく不詳。交名の一部は下の石材にも及んでいるようである。下の石材には「大勧進法眼実真…」とある。摩滅が進んでいるが肉眼でもある程度判読できる。石段を寄進した記念の銘を耳石などに刻む例が時々あるが、南北朝時代前半、貞和二二年、つまり北朝年号の貞和4年(1348年)銘を刻む本例は最も古い部類に入る。

この石段下の向かって左側には、大きい六字名号碑がある。花崗岩製で高さ約2m、幅約43cm。頂部を山形にして額部は二段にして中央に稜を設けた圭頭稜角式と呼ばれる典型的な大和系の板碑で、01碑面には長方形に浅く彫り沈めて輪郭を設け、輪郭内下端に蓮華座のレリーフを刻出する。02_2中央には「南無阿弥陀仏」の六字名号を大きく陰刻し、その下にやや小さい文字で二行に分けて「行尊/逆修」と刻む。左右の輪郭下方に「文禄二年(1593年)/十月三日」の紀年銘がある。石材の都合あまり薄く作るのは無理なので、正面から側面は丁寧に仕上げているが背面は粗整形のままで厚みを残している。大和を中心に良く見かけるタイプの名号板碑であるが、これ程の大きさのものはあまり多くない。

また、本堂北東側にある春日神社の社殿前石段の耳石にも紀年銘がある。石段は立派な壇上積式の基壇の正面に設けられており、やはり花崗岩製である。向かって右側の耳石に一行、こちらは風化摩滅が激しく肉眼ではほとんど確認できない。幅37cm、長さ2m程の上下端を石段に合わせて平らになるよう斜めに切った方柱状で、07段数が四段と少ないこともあってかこちらは一石からなっている。「正平二年(1347年)十一月日」、こちらは南朝年号で本堂前よりさらに数ヶ月遡る。大和では在銘最古の耳石とされる。わずか数ヶ月の間に、南朝年号と北朝年号が同じ寺院内の程近い場所にある別々に石段の耳石に刻まれているわけで、これが何を意味するのか、なかなかに興味深い。1347年の11月といえば南朝の楠木正行が京都奪還を目指して蜂起、北朝方を撃破した頃である。05翌1348年1月5日の四条畷の戦いでは逆に北朝方が勝利し、南朝は吉野を捨てて賀名生に落ち延びている。こうした当時のめまぐるしい政治情勢を反映したものと解するべきかもしれない。いずれにせよ興味は尽きない。

さて、矢田寺は中世以来盛んだった地蔵信仰の一大中心と伝えられており、そのせいか境内にはたくさんの地蔵石仏がある。その代表は先に紹介した見送り地蔵といえるが、このほかにもいくつかご紹介したい。参道を本堂に向かって進むと参道北側に一際大きい地蔵石仏が立っているのが目を引く。「味噌なめ地蔵」と呼ばれている。花崗岩製。高さ2.1m、幅約1m程の長方形の石材の正面に像高おおよそ1.7mくらいの地蔵菩薩立像を厚肉彫りしたもので、全体に素朴で重厚な像容が特長である。面相表現はおおらかで悪く言うと大雑把、顔面に比して耳が極端に大きく見える。また、面白いことに衣文など細部表現が省かれており、周縁部の向かって左上には矢穴が見られるなど、十分に仕上げられていない印象があり、未成品ではないかと清水俊明氏が指摘されているのも首肯される。06下端は埋まって蓮華座は有無も含めて確認できない。印相は錫杖を持たない矢田寺型である。平坦面に大勢の結縁交名が陰刻されているようだが肉眼では確認できない。紀年銘はなく造立時期は不詳。傍らの看板には鎌倉時代と記されている。08重厚な体躯、やや肘の張った体側(「からだがわ」ではなく「たいそく」と読んでいただきたい)のアウトラインから受ける印象は、確かに鎌倉時代の石仏の雰囲気が感じられるが、面相表現や袖裾の様子などからはもう少し時代が降るように思われる。見送り地蔵よりは先行するであろうが決め手に欠ける。ちなみに清水氏は室町中期頃と推定されている。お口に味噌を塗り付けると家の味噌の味が良くなるとの伝承があるらしい。昔は各家庭で家伝の味噌を作り置いたのであろうが、今日ではたいていの家庭で市販の味噌を使うためか味噌を塗りつけられるのは稀になってしまったようだ。周囲には小石仏がいつくか並べられているが近世以降のものが目立つ。その中で向かって左端の地蔵石仏は高さ約1.2m、スマートな体型の矢田寺型で室町時代のもの。

参道北側の子院、大門坊門内すぐ東の目立たない場所にある石仏は、一願成就の北向地蔵と呼ばれるもので、舟形光背に蓮華座上に立つ定型的な表現の地蔵立像を厚肉彫りしている。ただし印相は錫杖を持たない矢田寺型で室町時代後期のもの。大門坊の庫裏の玄関前には舟形に整形した正面に像容をレリーフした立派な十三仏がある。このほか本堂裏手の墓地にも戦国期から江戸時代初め頃の地蔵石仏がいくつかあり、山門手前の道路脇にも立派な室町時代の矢田寺型地蔵がある。

 

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

   土井 実 『奈良県史』第16巻 金石文()

    〃   『奈良県史』第17巻 金石文()

 

前後編にわたりました矢田寺の石造美術はこれでいったん終了。あじさいの頃は何だかんだで毎年訪れていますがようやくにして紹介記事を起こした次第です。近世のものも含め面白い石造物がたくさんありますがとても紹介し切れません。内容は法量値も含めほとんど『奈良県史』の受け売りです。大雑把ですいません。


奈良県 大和郡山市矢田町 金剛山寺(矢田寺)地蔵石仏

2012-06-12 22:53:54 | 奈良県

奈良県 大和郡山市矢田町 金剛山寺(矢田寺)地蔵石仏

大和郡山市域西方、矢田丘陵の東山腹に位置する矢田寺は、境内の1万株とも言われるアジサイの名所として著名である。08_2正式には矢田山金剛山寺といい、高野山真言宗の別格本山である。05_2麓の山門から石段を登っていくとやがて西に真っすぐ伸びる石畳の参道の正面突き当りに本堂を望む場所に達する。その少し手前、石段を登り切る直前の左手の一画に大きい石地蔵が立っており見送り地蔵と称される。参詣を終え参道を帰る者を見送るように東を向いているが、中興満米上人が小野篁に案内されて地獄を訪ね、亡者を救う地蔵菩薩を目撃、そのお姿を模して今のご本尊の地蔵像を作るに際して、その造像を手助けした4人の翁に応現化身した春日明神が春日山に戻られるのを見送ったという伝承があるらしい。01自然石の台石の上に載せられており、花崗岩製。高さ190cmの舟形光背に像高156cmの等身大の地蔵菩薩立像を厚肉彫りしている。側面から見ると全体にかなり薄く彫成され、背面には横方向のノミ痕が幾筋も残っている。光背下端には複弁反花を刻み、その上に覆輪付単弁の請花を載せた二重の蓮華座上に立つ。03右手は錫杖を持たず、胸元に掲げて人差指を親指に添えて輪をつくり、左手は腹前に横にして親指と残りの指で輪をつくる。掌に宝珠を載せていたものが欠損したと考える向きもあるようだが、欠損したようには見えない。このように両手の指で輪をつくる印相は阿弥陀如来の来迎印と同じで、地蔵菩薩がこの印相を示す点は春日大社祭神の一柱である天児屋根命の本地と目される若草山地蔵石仏と共通する。一般に矢田寺型の地蔵と言われているが、矢田寺のご本尊は宝珠を持っておられるので左手の様子が異なる。したがって厳密には矢田寺型の地蔵というのは右手に錫杖を持たず来迎印を結ぶが、左手は宝珠を持つ場合と持たない場合があるということになるのだろうか。04_2いずれにせよ寺の縁起や伝承も含め、春日大社との浅からぬ関係がうかがわれ興味深い。02頭部はかなり厚く彫り出し、面相は柔和で痩身撫肩、体躯のバランスも悪くない。手先や足先、面相など入念に作られているが、眉や目の作り方、平板で形式的な衣文からは室町時代の大和の地蔵石仏に通有の作風が看取される。光背面頭上に阿弥陀如来の「キリーク」、さらに左右の側頭部から肩口にかけて梵字が6つ薬研彫りされている。向かって左上はカーン、次はウーンであろうか、その下はバン、右上はカ、その下はよくわからない、右下はタラークかもしれない。07_2これらの梵字の意味するところはよくわからない。六地蔵の種子との説もあるがそうではないように思う。さらに光背面左右の腰付近から足元にかけて「永正十二年(1515年)乙□四月八日本願妙円/以過去現世…奉立者也」の陰刻銘があり16世紀前半の造立と知られる。全体に表面の風化が進み頸の辺りで折損したのを接いであるものの、総じて遺存状態は悪くない。在銘の矢田寺型地蔵石仏では最古のものとされており、印相も含め矢田寺型の地蔵石仏を考えていく上で貴重な存在といえる。なお、すぐ近くには高さ1.5m程の自然石の表面を舟形を彫り沈め、内に南無阿弥陀佛の六字を大書陰刻した名号碑がある。向かって左に「天正元年(1585年)癸酉十二月十五日」、右に「夜念仏供養法界衆生」の陰刻銘があるのが肉眼でも確認できる。花崗岩製。特に珍しいものではないが、なかなか立派な名号碑で、「夜念仏供養」という面白い銘もあって見落とすべきものではないので注意して欲しい。

 

参考:清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

 

この季節、たくさんの紫陽花に彩られた境内が美しい矢田寺には、このほかにもみるべき石造美術が少なくありません。追ってご紹介したいと思います。山麓を見下ろす本堂に向かって直線的に伸びる参道とその両側に子院が甍を並べる伽藍配置は、同様の山腹にある寺院跡でしばしば目撃するパターンです。矢田寺のように現在進行形で存在しているこうした寺観は注意しておいて然るべきものと考えます。さてもさてもあじさいは見事です。


京都府 京都市左京区黒谷町 金戒光明寺五輪塔

2012-06-04 01:31:05 | 五輪塔

京都府 京都市左京区黒谷町 金戒光明寺五輪塔

紫雲山金戒光明寺はかつて白川の禅房、新黒谷と称された法然房源空上人縁の聖地で、浄土宗の大本山。今は単に黒谷と呼ばれることの方が多い。03_2境内東寄りの高台に文殊塔と呼ばれる三重塔(木造:江戸初期)が建ち、周辺には広大な墓地が広がる。01墓地の東端近く、生垣に囲まれたT家墓地の一角に古風な五輪塔が立っている。一見して近畿で一般的に見かける五輪塔とは一線を画するものであることがわかる。台座や基壇は見当たらず直接地面に据えられている。地輪下端は少し地表下に埋まっている。凝灰岩製。表面の風化が少なく保存状態は悪くない。福澤邦夫氏のレポートによる法量値は、塔高180.3cm。地輪幅51.5cm、高さ45.6cm。水輪最大径59.2cm、高さ51.6cm、火輪軒幅64.8cm、高さ41.7cm、軒厚は中央で6.5cm、隅で9cm。空風輪高さ41.4cm、風輪径29.4cm、空輪径29.5cm。各部とも四面に陰刻月輪を描き、月輪内に下から「ア」・「バン」・「ラン」・「カン」・「ケン」の大日如来法身真言を薬研彫りしている。梵字には墨の痕跡がある。火輪の軒口はあまり厚くなく、軒反は所謂真反りに近い。水輪は曲面彫成が完全とは言えず若干角張って見える。空輪は最大径が低い位置にあって押しつぶしたような蕾状を呈する。02総じて古風な造形を示す水輪以上に比べ地輪が相対的に小さいのが印象的で、幅に対する高さもある。ただし福澤氏によれば地輪の下端6cm程は表面彫成が粗く、地面に埋け込んでいたか台座の受け座に嵌め込んでいたと推定されており、その分は高さから差し引いて考える必要がある。04周囲は近世以降の墓標、石塔等がところ狭しと林立しているが、中世前期に遡るような石造物はまったくといっていいほど見かけない。現在も連綿と墓地として利用されていることから推測するに、度重なる墓地整理を受けた結果、古い石塔類が姿を消してしまった可能性は高い。しかし、その中でこの五輪塔だけがこのように良好な保存状態で元の場所で残されているとは少し考えにくく、他にも同様の石塔や何らかの残欠等が少しくらい残されていて然るべきであるが見当たらないのは不自然である。また、故Tさんが業者を通じて購入したとの話もあることから、この五輪塔が原位置をとどめているかは甚だ怪しく、石材がこの付近にはないもので、九州阿蘇石系の凝灰岩との見方もあることから、ここから遠くない場所にあったかも非常に疑わしい。加えて寄せ集めの可能性についても考慮する必要があるが、福澤氏によればいちおう一具のものと考えて支障ないとのことである。地輪東面、向かって右上に小さい文字で「天永元年/三月□□」の刻銘がある。天永元年は12世紀初め、西暦1110年である。平安時代後期、鳥羽天皇の御宇である。しかし、この紀年銘には従前から疑義が示されている。業者から購入したという経緯、文字の彫り方がやや不自然で小さいことなどから偽銘・後刻の疑念が払拭されない。福澤氏は各地の古式五輪塔との比較を試みられ平安後期に遡る可能性を排除はされていないものの造立時期については名言を避けてみえる。ちなみに天永元年は改元が天仁3年7月で、天永元年に3月は元々存在しない。形状は古風であるが造立時期についてはやはり謎とするほかない。強いて言えば鎌倉時代中期頃とみるのが穏当のようにも思うが、とにかく何ともいえない。原位置を離れ、業者を通じて取引されるような場合、商品価値を上げるために意図的な改変を受けないという保障はどこにもない。まして経緯や出自が明らかにされないモノは、えたいのしれないモノとして資料的価値がまったく失われてしまうに等しいのである。石造物にとってこれほど不幸なことはない。

 

参考:福澤邦夫 「金戒光明寺の天永元年在銘石造五輪塔-その刻銘の真偽について-

   『史迹と美術』第636号

   片岡長治 第626回例会報告「聖護院・黒谷方面」『史迹と美術』第536号

 

従前から在銘最古とされる平泉の仁安塔より遡ること59年、いちおう最古の在銘五輪塔ということになりますが…???。

天永じゃはなく文永元年くらいが適当じゃないかとも思いますがそれも怪しいです。まぁ大永はないと思いますが…。売り買いされ出自や経緯が明らかにされていないと、このように疑われてほとんど相手にされない。たいへん悲しいことです。こういうことはあってはならないことです。本来あるべき場所にあって保存・活用がはかられてこそ、その価値が最大限に発揮されると信じています。

ところで金戒光明寺の伽藍の中心である御影堂は昭和のはじめに焼失し昭和19年に再建されたもので、川勝政太郎博士の師匠であった天沼俊一博士の設計による本格的な木造建築です。なるほど優れたデザインの蟇股がいっぱい付いてます。当初は火災に強いコンクリートにすべきという意見があったのに対し天沼博士は断固木造とすることを主張され、信頼される当代一流の大工さんを起用され木材の選定からこだわってプロデュースされたとの由です。