石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都市 右京区 梅ケ畑奥殿町 為因寺宝篋印塔

2018-03-20 00:11:31 | 宝篋印塔

京都市 右京区 梅ケ畑奥殿町 為因寺宝篋印塔
 為因寺は集落内の小さい寺院。境内東寄りのある宝篋印塔は、この付近にあったとされる善妙寺の遺品と伝えられている。
 花崗岩製。現存高約210㎝。相輪は、先端の宝珠と下半を失い、残っているのは上請花とその下の4輪分だけである。昭和9年の10月にこの石塔を調査された川勝政太郎博士らが境内に転がっていたのを載せたのだそうである。二重の切石基壇の上に二段の段形部分が直接載せてある。基壇の上段が基礎のようにも見えるが、基礎は亡失、別石作りの低い素面の基礎であっただろうと推定される。塔身は全体に大きく、幅より高さが勝る。西側正面に「阿難塔」、背面に「文永二(1265)年乙丑/八月八日建之」と割合大きい文字で陰刻されている。通常見る四仏の種子などは刻まれていない。笠は上六段下二段で、各隅飾りを別石とし、笠石本体も二石からなる。すなわち、軒と下二段及び上一段目までと上二段目以上を分けている。軒側面と同一面で立ち上がるよう上の一段目と同じ高さに隅飾りの基底部を作りつけている。隅飾りは笠石上端に拮抗する程の高さがあり、基底部分の幅は軒幅の1/3程もあるので、左右の隅飾りに挟まれた軒口中央の上側には長方形に切り欠いた部分があるように見えるが、これが一段目になる。隅飾りは一弧素面で直立する。長大な馬耳状と言われる隅飾りである。段形は逓減が一定せず、上端又は下端にいくほど各段が徐々に低くなっている。こうした段形の作り方は厳密な規格性が感じられない。むしろ定型化以前のおおらかさの現れと見るべきだろう。本塔とよく似た形状の宝篋印塔が高山寺開山廟に二基存在しているが、川勝博士により高山寺式の宝篋印塔と称されている。いずれも各部別石づくりで、小生などが見慣れた宝篋印塔とは一線を画する独特の風格があり、素朴でありながら堂々とした存在感がある。高山寺式の宝篋印塔は、我が国最古の宝篋印塔の形状を示すものと考えられており、その中で為因寺塔は、不完全ながら主要部分が残る唯一の在銘品である点が貴重。国重文指定。
参考:川勝政太郎「新資料 京都為因庵の文永二年在銘宝篋印塔『史迹と美術』第49号1934年
     〃 『京都の石造美術』1972年



 これも今更の感がある超有名な宝篋印塔です。善妙寺は高山寺の別院。寺の名前の「善妙」は、高山寺に伝わる国宝「華厳宗祖師絵伝」にも登場する女性からとっているようです。承久の乱で罪を得た公卿の妻子を高山寺の明恵上人(1173~1232)が保護し匿ったとされる尼寺で、塔身の「阿難塔」の文字からこの石塔が釈尊の弟子であった阿難の供養塔として建立されたものと考えられます。阿難は、釈尊の養母であった摩訶波闍波提らの出家について、渋る釈尊を説得し認めてもらったことで初めて女人出家の道を開いたとされる人物。いかにも尼寺の遺品らしい石塔です。石塔の願主だったであろう尼さん達は、阿難の向うに明恵を重ね合わせていたのではないでしょうか…。


京都府南丹市園部町若森庄気谷 普済寺宝篋印塔

2017-01-13 00:01:06 | 宝篋印塔

京都府南丹市園部町若森庄気谷  普済寺宝篋印塔(3基)
普済寺は平安時代に天台寺院として創設されたとも足利尊氏の妹の千草姫が夢想疎石を開山に招いて延文21357)年に創建された臨済寺院とも言われるが明らかではなく、戦国期には退転していたものの、江戸時代初めに領主の援助もあって再興され曹洞宗に改宗したとされる。今に残る禅宗様式の仏殿(重文)の建立が南北朝時代とされることを考えあわせると、臨済・延文2年説に説得力があるように思われるが、千草姫や夢想国師云々は残念ながら伝承の域を出ない。農芸高校に向かう道路で分断された北東側の谷筋に仏殿があるので間違えてしまうが、寺の正面は反対側の南側で、墓地のある旧道から山門をくぐるのが本来の参道と考えられる。「天下太平」「万民普済」の文字がある石柱の立つ参道の左右の石積の上と山門をくぐって左手すぐの天神社の北側に宝篋印塔がある。北側のものは、石積の上に建ち、基礎は上端をむくりのある複弁反花とし、各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を入れる。塔身は蓮座上の月輪を伴う金剛界四仏の種子で、種子は小さい。笠は上6段下2段、二弧輪郭付の隅飾には平板陽刻の円相を置く。円相内に梵字は確認できない。相輪は、上請花が覆輪付単弁、下請花は複弁。塔身がやや大きい印象。完存。計測しなかったが目測6尺塔。基礎側面の格狭間は形が整い輪郭内いっぱいに広がって古調を示す。基礎上端のむくり反花はメリハリが効いてよくシェイプアップされている。塔身の種子に力がなく、笠の段形の彫り込みがやや甘くシャープさが足りない印象。石材はキメの細かい花崗岩のように見えるがよくわからない。14世紀中葉から後半頃の造立と思われる(川勝博士『京都の石造美術』によれば塔高188cm、南北朝初期と推定されている)。
参道途中の2基は北側のものより一回り小さく目測5尺塔。どちらも笠が上6段下2段で二弧
輪郭の隅飾で、基礎はむくりのある複弁反花式、塔身は蓮座月輪の金剛界四仏。花崗岩製と思われる。東側のものは、切石基壇を備え、基礎側面の三面は輪郭格狭間。うち一面の格狭間内に開敷蓮華のレリーフらしいものが見られた。これを正面とすると背面は素面。相輪は九輪の4段目を残して折損し、先端は傍らに置かれている。西側のものは、本来一具のものか否か怪しいが、上端に扁平な複弁反花を三方に刻み出した一石作りの厚い基壇に載り、北西の隅飾が欠損する。基礎は四面とも輪郭格狭間。塔身は天地逆になっている。相輪は上請花の下で折損するが上手く継いである。どちらも無銘だが、小型で彫整もやや粗く、造立は14世紀末頃か15世紀前半頃まで降るかもしれない。
参考:川勝政太郎『京都の石造美術』


北側のもの。保存状態良好。塔身がやや大き過ぎるように見える。隅飾内の円相はずいぶん上の方にある。


基礎の格狭間はなかなかいい形。


東側のもの。基礎に開敷蓮華のレリーフと思しいものが見られた。西側のよりこっちの方がやや古いかもしれない。


西側のもの。隅飾の外傾が目立つ。塔身天地逆。台座というか基壇というか何これ?


これが重文の仏殿。禅宗様式の瀟洒な建築。花頭窓と優美な軒先が印象深い。改修工事で面目を一新し、創建当初の外観に戻ったといいます。


京都府南丹市船枝才ノ上 腕塚宝篋印塔

2017-01-06 12:16:38 | 宝篋印塔

京都府南丹市船枝才ノ上 腕塚宝篋印塔
船枝神社の鳥居と社務所の間、わずかなスペースに設けられた腕守社(かいなもりしゃ)と呼ばれる小祠の裏側、狭い場所に窮屈そうに大きな宝篋印塔が建っている。元は神社に隣接する小学校の場所にかつて存在した安城寺(別当寺か)の北西隅にあったものを明治の初めに移建したと伝える。安倍貞任の腕を埋めたとされる塚の石塔との伝承から腕塚(かいなづか)と呼ばれている。花崗岩製。基礎は直接地面に置かれ、塔高約265cm。略々9尺塔の大きさである。基礎は各面とも輪郭を巻いて格狭間を入れ、上端はむくりのある複弁反花。基礎高さ約55cm、側面高約41
cm、幅は約79cm。塔身は蓮座月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子の文字は大きくないが端整な刷毛書でタッチに勢いがある。塔身の高さ約43cm、幅約42cm。月輪径約34cm。笠は高さ約59cm、軒幅約75㎝、軒の厚さは約9cm、下端幅約50cm、上端幅約32cm。隅飾は三弧輪郭付で、軒から約1cm入って直線的に外傾する。隅飾は基底部幅約23cm、高さ約27.5cm。相輪高約105cm。太く立派な相輪で九輪の彫りは浅いが丁寧に凹凸を刻み分け、上請花が単弁、下請花は複弁。先端宝珠の曲線も良好だが、伏鉢の側線はやや直線的になっている。無銘だが、規模が大きく基礎から相輪まで完存し、目立った欠損もなく保存状態も良好。基礎上の蓮弁や外傾する笠の隅飾などの特長から南北朝時代の作とされる。塔姿全体に重厚感があり、笠の段形の整った彫整、勢いのある塔身の種子などに鎌倉時代後期の遺風を残す。概ね14世紀前半~中葉頃の造立として大過はないだろう。
参考:川勝政太郎『京都の石造美術』
       〃  『日本石造美術辞典』
   日本石造物辞典編集委員会編『日本石造物辞典』吉川弘文館

文中法量値はコンべクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。これは明白に花崗岩と認識できます。先に紹介しました旧日吉町四ツ谷のものもそうですが、基礎が側面輪郭格狭間で上端むくり反花式&隅飾が直線的に外傾する輪郭付&塔身蓮座月輪種子というある程度共通した意匠の宝篋印塔が南北朝時代以降そうとう分布しています。この手の宝篋印塔は、不思議なことに大和・近江にはほとんど見られず、一説に京都系とも称されるようですが、硬質砂岩や安山岩製の小型のものが多く花崗岩の立派なものはあまり多くありません。この手の宝篋印塔にしては珍しい花崗岩製で、気宇が大きい鎌倉の遺風を色濃く残す本塔のような例が、おそらくこの手の宝篋印塔が地域に導入された最初期のもので、端整な塔姿がかなりのインパクトを与えその後のお手本のような扱いを受けていたのではないでしょうか。


祠裏の狭い区画に竹垣に囲まれているのでいいアングルで写真が撮れない…


規模が大きく、丁重かつ端整な彫整…見事。


基礎上のむくり複弁反花。


三弧輪郭の隅飾と笠の段形。シャープな印象。


種子は大きくないが、端整な太目の刷毛書の書体で、薬研彫にもエッジがきいている。月輪下の蓮座は肉眼では確認しづらい。


京都府南丹市日吉町四ツ谷 海老谷会所跡宝篋印塔

2016-12-30 12:25:32 | 宝篋印塔

京都府南丹市日吉町四ツ谷 海老谷会所跡宝篋印塔
威音寺の南東、谷筋を挟んだ旧道南側の山裾にある。隣接する
の会所(現在は空地)を建てた際に土中から掘り出されたという。中央塔は基礎から相輪まで揃い左右のものは塔身がない。向かって右の塔は相輪も失われている。大鳥居総夫氏は向かって左から1号、2号、3号塔としている。いずれもよく似た大きさで、基礎3面を輪郭格狭間とし、素面の一面に10行ほどの陰刻銘を刻む。笠は上6段下2段で、隅飾が二弧輪郭で直線的に外傾する手法は共通する。残る相輪も、請花が上は覆輪付単弁、下が複弁で九輪の凹凸が浅い点は同じである。中央塔の塔身は蓮座月輪内に金剛界四仏とする。いずれも基礎幅35cm前後、高さ25cm前後で、どれも側面高はかなり低い。塔高は部材が揃う中央塔で約118cmと小さい。ただし、それぞれの部材が当初から一具という確証はなく、混成している可能性は否定できない。向かって左の1号塔の基礎は他のものと異なり注目される。正面の輪郭内中央を縦長円形に彫沈め、内に合掌坐像が半肉彫で刻まれている。膝を揃えて端座する髪の長い像容は女性とみられ、願主(妙金尼)の寿像と考えられる。面白いのは、輪郭内中央の像容と格狭間の左右部分が併存している点で、輪郭の束部分に「大願主」(向かって右)、「妙金尼」(向かって左)の陰刻銘が肉眼でも確認できる。背面の銘は読みづらいが「右意趣者/為逆修善根/奉造立塔婆/彼依功徳妙/金懺除業障/早登解脱蓮/華焉法界衆/生同成正覚/応永十七年二月十五日」とされ、応永171410)年に逆修塔として作られたと知られる。中央の2号塔銘は「右意趣者値/…禅門三十/三廻之辰奉/彼塔婆造立/…普利/化生楽土者/応永八年辛巳/十月一日/孝子等敬白」で応永8年(1401)年の造立、父親の33回忌の供養塔である。向かって右の3号塔は「右意趣者為/逆修善根彼/寶篋印塔奉/造立處結願/一見…本/起因俱入清浄…以下行不明…/□同成正覚/応永二二年七月十四日」応永41397)年の造立である。「宝篋印塔」の文字が見られる点が貴重。生前供養や33回忌供養のために14世紀末から15世紀初めに相次いで造立されたことがわかる。こうした造塔供養を立て続けに行える経済力を蓄え信仰心に篤い有力者がいたことを示しており、今でこそ訪う人も少ない山深い寒村の趣を見せている当地だが、物資流通の幹線道沿いにあった往昔の姿を偲ぶことができる。
参考:大鳥居総夫「丹波威音寺の宝篋印塔その他」『史迹と美術』445
         川勝政太郎『日本石造美術辞典』

こういう状況。苔むした残欠状態ですが3基とも長文の造立銘があって資料価値は高いものです。


背後に見える四角い白いものは案内看板で長年風雨にさらされボロボロ、文字もほとんど読めません。


中央塔の基礎背面。苔むしているが刻銘があるのがハッキリわかる。肉眼での判読はちょっと難しい…。


向かって左の基礎正面。表面を覆う苔を取り除くと大願主/妙金尼の文字と当の妙金尼さんのお姿と思しい合掌像が…

現在会所は別の場所にあって旧会所建物は跡形もありませんが、跡地のどこかに塔身や相輪が埋まっているかもしれません。また、これらがまとまって埋まっていたとすれば、この旧会所跡は廃滅した寺院の坊院か何かかもしれません。谷を挟んだ威音寺は見える距離です。よく見ると格狭間の形状が少しずつ異なり、古い方がより「まし」であることが見て取れます。文中法量値、銘文は大鳥居総夫氏の報文によります。

年末にバタバタと3本連続でUPしましたが、丹波方面初見参です。旧日吉町シリーズはこれでいったん終了。同時に平成28年もこれでおしまい、ご愛顧ありがとうございました。皆様、どうぞよいお年をお迎えください。


京都府南丹市日吉町四ツ谷 威音寺宝篋印塔ほか

2016-12-30 08:58:36 | 宝篋印塔

京都府南丹市日吉町四ツ谷 威音寺宝篋印塔ほか
威音寺は谷筋に沿って展開する海老谷の集落を見下ろす小高い尾根の中腹にある。寺への登っていく参道の途中、石造物が集められた一画に宝篋印塔がある。基礎から相輪まで完存する。塔高は約145cm。基礎高31.5cm、幅41.5cm、塔身高20.5cm、幅21.5cm、笠の高さ33cm、幅36.5cm、相輪高59cm。基礎上端はむくりのある複弁反花式で、側面3面は輪郭を巻いて格狭間を入れ、一面を素面として陰刻銘を刻む。塔身は蓮弁月輪内に金剛界四仏の種子、笠は上6段下2段、軒からやや入ってから直線的に外傾する二弧輪郭の隅飾で、相輪は、請花上下とも覆輪付で上を単弁、下を複弁とする手法。10行の陰刻銘は割合よく残るが肉眼では判読が難しい。昭和48年5月に調査された大鳥居総夫氏によれば「右意趣者逆/修善根奉造立□/…去歳/…入□/浄寛出往…/所…/□早□□菩提□法/界有情同成正覚/応永十一年
七月五日/大施主敬白」だそうで、応永111404)年に造立された逆修塔とわかる。花崗岩製とされるが、硬質砂岩か安山岩のように見える。傍らにある自然石に種子を刻んだ自然石塔婆も面白い。蓮坐上の月輪内に中央に「キリーク」、向かって左に「サク」、左に「バイ」の三尊。中尊は阿弥陀ないし千手観音、普賢、薬師だろうか、尊格の特定は難しい。小さい方は同じ蓮座月輪内に「カ」が3つ、地蔵菩薩と思われる。後ろのは「アク」。いずれも宝篋印塔と同じような石材。種子の感じや月輪下の蓮弁の形状から宝篋印塔とあまり隔たりのない時期の造立と思われる。このほか境内の一画にある小型の石仏には「応永十二(1405年乙酉九月五日/願主正現」と読める陰刻銘がある。長方形に近い自然石の表面を彫沈め、立体的な蓮座に坐す二重円光背の定印如来像を半肉彫する。像容は小さく全体に稚拙な印象だが、温和な童顔の面相で衣文や蓮座の表現に丁重さを見て取れる。室町時代初めの紀年銘は貴重。
参考:大鳥居総夫「丹波威音寺の宝篋印塔その他」『史迹と美術』445


宝篋印塔の隣のは経塚の標識でしょうか、大乗妙典石字塔の文字。天保の紀年銘があります。



基礎から相輪まで完存、願文&紀年銘があり史料的価値が高い。


刻銘があるのは明らかですが、肉眼ではいくつかの文字を拾い読みできる程度です。


おもしろい自然石塔婆。小さいものですが「ぬぬぬ…おぬしなかなかできるな…」


応永銘の石仏。薬師?阿弥陀?

文中法量値、宝篋印塔の銘文は大鳥居総夫氏の報文によります。参道は最近重機で掘削拡幅されたようで、山肌の地山が大きく露出し、風情が損なわれているのは少々残念です。中世墓や坊院跡などがあった可能性もあり心配されます。石仏について、一見すると膝上で組んだ掌上に薬壺があるようにも見えますが、よく見ると指で輪を作る定印のようで阿弥陀と考える方が自然です。案内看板には耳の病に効験のある薬師如来で紀年銘が応永
二年1395)とありますが、小生の目には十二年に見えます。薬師石仏はこれとは別にあるのでしょうか、よくわかりません。


京都府南丹市日吉町四ツ谷 海老坂峠宝篋印塔

2016-12-29 00:21:02 | 宝篋印塔

京都府南丹市日吉町四ツ谷 海老坂峠宝篋印塔
海老坂峠は、標高約470m、旧北桑田郡美山町と旧船井郡日吉町の境、現在は通る人も途絶えた山深い場所であるが、往昔は洛北と若狭方面を結ぶ街道で、大正頃まで峠を越えて人や牛馬による物資輸送が行われていたという。峠の途中には八百比丘尼の伝説が伝わる玉岩地蔵堂があって往時を偲ばせる。この玉岩地蔵堂下に車を停めてから九十九折の急な山道を登っていくと、20分余で着く峠の切通には「従是南船井郡」と刻まれた石柱があり、露出した岩盤には石造如意輪観音(折損する。近世以降か)を祀る小祠が残る。宝篋印塔は峠の切通の西側、尾根上の緩斜面に雑木に囲まれてひっそりと建っている。数枚の板状の石材を組み合わせた二重の方形切石基壇を設え、下の基壇は一辺約152cm、下端が埋まって高さは不明。上段は一辺約112cm、高さ約21cm。塔高は約245cmと大きく、八尺塔と考えられる。全体に保存状態が良く、欠損や表面の風化は少ない。花崗岩製とされるが、褐色に変色したきめの細かい表面の感じからは硬質砂岩か安山岩のように見える。いずれにせよ峠付近の岩石とは異なり離れたところから運ばれたと考えられる。基礎は高さ約62.5cm、幅約73cm。側面高約46.5cm、上端はむくりのある複弁反花式で、反花の上にある塔身受座は幅約46cm、高さは約5cmと高い。基礎は各面とも素面。南面に5行、左から「願主円石/歳次八月/応安七年(1374)/甲寅十日/大工法覚」の陰刻銘が確認できる。塔身高は約36cm、幅約37cmと幅が若干勝る。各面とも蓮座上の月輪内に薬研彫りの金剛界四仏の種子を配する。各四仏の方位はあっている。種子はやや小さめで迫力に欠ける。月輪の径は約24cm。月輪下の蓮弁はまずまずの出来。笠は上6段下2段の通有のもので、高さ約63cm、軒幅約65cm、下端幅約44.5cm、上端幅29.5cm。笠全体に幅に比して高い(縦に長い)印象。隅飾は二弧輪郭式で、軒口から約1cm入って直線的に外傾する。隅飾下端幅約22cm、高さ約26cm。相輪は高さ約84cm、上請花が単弁、下請花は複弁で、九輪の凹凸は浅く、宝珠は重心が高く側線がやや直線的になっている。彫整は丁重でエッジが効いており、保存状態の良さと相まって全体にシャープな印象を受けるが、基礎、笠ともに背が高く、塔身が笠や基礎に比べて小さ過ぎるためか、全体としては重厚さや安定感に欠ける印象のフォルム。
基壇から相輪まで欠損なく、保存状態良好で紀年銘があることは史料価値が高い。加えて大工名がある点が貴重。
参考:川勝政太郎「丹波海老坂の応安宝篋印塔」『史迹と美術』445号


彫整は非常にシャープでエッジがきいている。写真ではあまり大きく見えないのはフォルムのせい?


基礎は背が高い。笠上も縦長、基礎上の複弁反花もちょっと平板な感じになってきている…。



側面いっぱいに…とまではいかないけど種子と蓮弁はまぁまぁ時代相応といったところ。


LEDライトに浮かび上がる応安7年の銘。

法量値はコンべクスによる実地略測によりますので多少の誤差はご容赦ください。自然に溶け込んで素晴らしいシチュエーション、墓地や寺院の境内で見る石塔とはまた違った感覚です。周辺には寺院や墓地の存在を示す徴候はうかがえないので墓塔というより旅の安全を祈念するため供養塔でしょうか。基壇下に舎利容器とか礫石経とかが埋納されているかもしれません。それにしてもこれだけの規模の石塔を、わざわざ険しい峠の上まで運んでくるのはたいへんだったと思います。ほぼ手ぶらの小生は情けなくも息も切れ切れでした。峠の美山側には車が通れる林道が通じていてちょっと拍子抜けでしたが…。


三重県伊賀市石川穴石神社宝篋印塔の相輪が盗難!

2016-11-09 00:58:16 | 宝篋印塔

三重県伊賀市石川穴石神社宝篋印塔の相輪が盗難!
三重県伊賀市石川の穴石神社の宝篋印塔の相輪が盗難に遭ったとのことです。何度か訪ねていたので大ショックです。市の指定文化財で吉川弘文館『日本石造物辞典』452頁、三重県の冒頭を飾る(五十音順の関係)宝篋印塔です。南北朝時代、延文4(1359)年の刻銘があって基礎下の基壇から相輪まで完存する貴重な紀年銘資料です。10月初め盗難に気付いた氏子総代が警察に被害届を出されたとのこと。7月初めには無事だったようで、この間に何者かが盗んでいったらしい。長さ60㎝程の相輪も、言ってみれば細長い花崗岩の塊なのでかなりの重量ですが、普段ひと気のない神社なら一人二人で抱えて持って行くことも不可能ではない。元は西方の山中の寺跡から移設されたとも言われているようですが、それにしても造立されてから六百年以上も風雪に耐え季節の移り変わりをこの地で見てきた石塔です。かけがえのない地元の宝でもあります。今になってこういう被害に遭って嘆かわしい限りです。言うまでもないことですが、古い石塔は、長い間に倒壊したり、抜き取られたりして残欠になってしまうことが多く、各部完存で揃っていること自体が稀です。また、紀年銘のある石造物は非常に少なく、紀年銘のない大部分の石造物や残欠を考えるうえで年代観のヒントを与えてくれる紀年銘資料はたいへん貴重な存在です。各部が揃っている標識的な資料としても一層価値が高いわけです。相輪がなくなれば史料価値は半減してしまう。惜しまれます。だいたい相輪だけ持って行って何になるというのか…、罰当たりな犯人に告ぐ、直ちに返却しなさい。お天道様は見ているぞ、仏罰&神罰&刑事罰の報いを受けるべし。(HDの写真データがすぐ出てこない…)(あったありました…)

格狭間がちょっと変わっています。総高約180余㎝、塔高はだいたい165㎝程です。基礎や笠石が全体にちょい腰高な感じで、鎌倉期のような安定感や豪放感は感じませんが意匠的によくまとまった印象です。相輪も折れたりせずよく残ってました。基礎の一面に消えかかった刻銘があります。こんな形で相輪を失うとは残念無念、憤懣やる方なしです。


京都府 与謝郡与謝野町岩屋 雲巖寺宝篋印塔

2015-06-15 00:53:10 | 宝篋印塔

京都府 与謝郡与謝野町岩屋 雲巖寺宝篋印塔
 雲巖寺は鎌倉時代頃から戦国時代頃に隆盛を誇った中世寺院で、戦国時代の兵火で退転したとされる。
 その後、江戸時代に雲岩庵として再興されたが、現在はほとんど廃寺状態で、公園として歩道や四阿が整備され、若干の小堂や丘陵上にいくつか平坦になった地形を残すのみである。石塔の残欠や磨崖仏など往時の繁栄を偲ぶわずかなよすがが草木に埋もれている。巨岩がそそり立つ尾根のピーク近くにある見晴らしの良い平坦地に金堂跡と伝えられる礎石が並んだ低い方形壇状の地形があり、その傍らに大きい宝篋印塔が残されている。塔高約330cm。11尺塔で稀に見る巨塔である。総花崗岩製。周縁を自然石で囲んだ径2m余、高さ40cm程の基壇状の高まりがあって、その上に隅を主弁にする複弁反花座を据える。反花座は幅約144cm、高さ約26cm。反花座が見られるのは前面のみで、左右側や後側は欠落し、残欠が傍らに残されている。この反花座は一枚板の石材ではなく、複数の石材を組み合わせ、上端の受座の内側に枠を設けて基礎を取り囲むように受ける複雑な作りになっている。おそらく基礎下は何らかの埋納空間を設けるような構造になっているものと思われる。
 基礎は二石を組み合わせた上に別石の段形を載せる。幅約96.5cm、側面高約47.5cm、四面とも輪郭を巻き、束部の幅約11cm、上下は幅約7cm。輪郭内に幅約65cmの格狭間を配する。別石の基礎上段形は2段、別石段形の下端幅は約77.5cm、上端幅約60.5cmで高さ約18cm。
 塔身は幅約50.5cm、高さ約52cmでやや高さが勝る。塔身側面は四面とも径約38.5cmの月輪とその下方の蓮華座を線刻し、月輪内に金剛界四仏の種子を雄渾に薬研彫りする。

 笠は上6段、下2段。軒と下の段形は同石だが、上6段と四隅の隅飾を別石にする。隅飾は2つだけが残され、軒上にあるのは1つだけで、もう1つは落下して傍らに置いてある。基底部幅約26.5cm、高さ約34.5cm。三弧輪郭付でやや外傾する。輪郭内には径約13.5cmの平板陽刻の円相月輪を置く。基底面には軒上にある枘穴に対応する八の字型の枘がある。珍しい枘の形である。ほかの軒の隅は折損して隅飾りも失われている。笠の軒幅約89.5cm、下段形下端の幅約60.5cm、軒口の厚さ約11.5cm。軒と下段形を合わせた笠石下半部の高さは約32cm。笠石上半部の下端幅は約79cm、上端幅35cm、高さは約48cm。
 相輪は幸い完存し、高さ約130cm。下請花は複弁、上請花は単弁。伏鉢側線にやや直線的なところがあるが、先端宝珠は完好な曲線を示し、九輪の刻み出しも丁重である。
 規模の大きさ、雄偉な塔姿と力強く隙のないシャープな彫整、三弧輪郭付の大きい隅飾、格狭間や反花座や相輪の形状など、鎌倉時代後期の特長を遺憾なく示す。すぐ近くにかつて存在した石灯籠(大正年間には現地にあったというが、その後流出し個人蔵になって現在は京都国立博物館寄託。永仁2年(1294年)の在銘。一部残欠が別に保管されている。)と同時期に作られたとする説もあるが、宝篋印塔は13世紀末よりはやや降る14世紀初め頃の造立と思われる。
 なお、隅飾などの部材を別石とする手法は、誠心院塔や清涼寺塔、二尊院塔や小町寺塔など京都の大型宝篋印塔にしばしば見られることから、京都方面からの影響を指摘する説もある。確かに首肯できる考えである。
 

参考:永濱宇平「丹後岩屋雲巌寺」『史迹と美術』第29号
      川勝政太郎『京都の石造美術』
      日本石造物辞典編集員会編『日本石造物辞典』吉川弘文館
 
川勝博士の『京都の石造美術』を読んで以来、前から来たかった雲巌寺を最近ようやく訪ねました。文中法量値はコンべクスによる現地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。高さ336㎝とする文献が多いようですが、塔高なのか反花座を合わせた総高なのかよくわかりません。すぐ背後に雑木が繁っているので、写真はどうしてもこのアングルになってしまい、他のアングルではいい写真が撮れません。山道を登ってどこだどこだと歩き回っているうちに雑木の陰からヌッと登場。まさに見る者を圧倒する存在感!でっかい宝篋印塔です。町指定文化財とのことですが、造形的にも卓越した優品で、もっともっと価値を喧伝されてもいい立派な宝篋印塔です、ハイ。


滋賀県 甲賀市甲南町杉谷 杉谷墓地(伝・金蔵寺跡)宝篋印塔

2013-11-12 00:02:05 | 宝篋印塔

滋賀県 甲賀市甲南町杉谷 杉谷墓地(伝・金蔵寺跡)宝篋印塔
新名神高速道路甲南インターの北方約1km、集落西方の山手、広域農道の南杣トンネル東坑口の東方約200m程のところ、南東方向に開けた見晴らしのよい丘陵尾根に墓地がある。05墓地の入口近く、二段に整地して石仏や石塔がずらりと並べられた一画がある。池内順一郎氏によれば、この付近は地元で金蔵寺という寺院跡と言われているとのことである。01下段の中央に一際立派な宝篋印塔があるのが目に入る。花崗岩製。相輪を亡失し、笠上までの現存塔高約113cm、基礎下には隅に間弁を配した複弁4葉の反花座がある。相輪が揃っていた当初は6尺塔であったと思われる。反花座の幅約76cm、高さ約15cm、上端受座の幅は約60.5cm。反花座の下端は土中に埋まっている。反花座の蓮弁はややふくらみが目立ち、間弁が受座近くまで深く入るが彫整はシャープさに欠ける。基礎は幅約59cm、高さ約38.5cm、側面高は約29cm。02斜面で隠れた背後側は確認できないが視認できる三方向は素面。おそらく四方とも素面と思われる。基礎上2段で基礎段形の上段幅は約36cm。塔身は高さ約28.5cm、幅約29
cmでわずかに幅が勝る。径約24cmの線刻の月輪内に金剛界四仏の種子を陰刻している。文字は小さく彫りも弱い。03_2塔身は笠や基礎に比べると風化磨滅がきつく、かなり見えにくいが、現状正面がアク、向かって右がキリーク、左がウーン、背後がタラークである。種子は到底雄渾とは言いがたい弱いタッチであるが、近江の宝篋印塔にはこうした弱い種子の事例は少なくない。笠は上6段下2段で、軒幅約55.5cm、高さ約46cm。軒の厚みは約6.5cm。隅飾は高さ約16cm、基底部の幅約17cm、二弧輪郭式で、軒からわずかに入って立ち上がり、2cm弱直線的に外傾する。隅飾の輪郭内の彫りは浅く素面。隅飾の両先端の間隔は約58.5cm。笠上端の幅約22cmで枘穴は径約10.5cm、深さ約8cm。笠下端幅約35.5cm。笠上にボリュームがあってやや重々しく感じられる。隅飾に幅があって低いせいもあるが、笠上の段形の軒から二段目までの段形の奥への彫りの行き方が不十分で、立ち上がりが直角にならずに前傾ぎみになっている。上半の段形は概ね普通に角を作っているが、下二段が前傾ぎみになった分だけ幅が広くなるのに合わせて三段目以上も大きめになってしまう。結果的に笠全体が少々頭でっかちになってしまっている。しかし、塔の正面観はそれなりに重厚感があって整って見える。04これは基礎側面高をかなり低くしていること、塔身を挟んだ基礎上と笠下の段形は割合に普通に作っていること、それに基礎と笠石に比べ塔身をやや小さめにすることで全体のプロポーションにメリハリを利かせているためだろう。造立時期について、田岡香逸氏は鎌倉時代末頃(ただし田岡報文は少し文意が通りにくい難点があるので前後の脈絡から推し測ってのこと…。この点は池内氏の指摘あり)、池内順一郎氏は南北朝後期から室町時代初期にかけての頃と推定されている。遠目に見た塔姿は整って重厚感すら感じられるものの、近づいて笠上の段形や隅飾の様子、反花座の蓮弁、塔身の種子を観察すると手法的に退化傾向が表れていることが見て取れる。それだけ時代が下ることを示していると考えてよいだろう。やはり鎌倉時代にまで遡らせるのは難しいと思われ、池内氏の説どおり概ね14世紀後半から末頃の造立と考えて大過ないものと思う。
なお、周囲に並べられた小型の石仏にも室町時代末頃であろうか、中世に遡るものが多数含まれ、一石五輪塔や小型の五輪塔や別の小型宝篋印塔の残欠などがいくつか集積されている。相輪上半部分の残欠も見られたがセットになるものかどうかはわからない。
宝篋印塔の向かって右隣にある石塔は現状地上高90cm程の自然石の先端を山形にし、平らに整形した表面に高さ約60cmの橋の欄干にある擬宝珠柱のような形を薄く彫沈めている。立体的な石造擬宝珠柱(仮称)は時々墓地などで見かけるが、これを平面的に表現したものかもしれない。墓地で見かける石造擬宝珠柱(仮称)について不勉強で詳しくないが、このように浅い平彫りで平面的に表現したものはほとんど見かけない。かなり珍しいものと考えられる。造立時期は江戸時代であろう。

 
参考:田岡香逸「近江甲南町の石造美術()」『民俗文化』第61号
   池内順一郎『近江の石造遺品』(下)

 
文中法量値は例によってコンべクスによる略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。
この宝篋印塔も含め杉谷の勢田寺や正福寺、竜法師の金龍院、水口町杣中東光寺等々…新名神高速の甲南インターで降りると割合至近距離に見るべき宝篋印塔がたくさんあります。里山の風景を切り裂くように巨大な橋脚がぬっと現れる新名神ですが、開通によって交通の便がよくなってこの辺りもずいぶんアクセスしやすくなったのは確かです。基礎側面素面で近江にあって近江らしくない宝篋印塔たちですが、大和や伊賀に近いせいでしょうか…。多くが反花座を備えている点にも注目しなければなりません。


滋賀県 米原市朝妻筑摩 朝妻神社宝篋印塔及び層塔(その2)

2013-08-05 22:15:54 | 宝篋印塔

滋賀県 米原市朝妻筑摩 朝妻神社宝篋印塔及び層塔(その2)
(最近再訪し、コンベクス略測を行ったので粗々の法量値を参考までにご報告します。詳細は2007年1月8日の記事をあわせてご参照ください。)ま
ず、宝篋印塔について、02_2現状の地上総高約191cm、笠石上端までの現状地上高は約160cmで、上二段の基礎は幅約89.5cm、現状高約41.5cm、現状側面高約33.5cm、段形下段の下端幅約71.5cm、上端幅約68.5cm、上段の下端幅約56.5cm、上端幅は約54cm。06_2ちなみに基礎下端は概ね10cm程度地中に埋まっていると思われる。塔身は幅約44cm、高さ約45.5cm、月輪の直径約34cm。月輪内の梵字は「ア」の四転、すなわち「ア」「アン」「アー」「アク」で、宝幢、開敷華王、無量寿、天鼓雷音の胎蔵界四仏であろう。種子の彫りは浅く、風化磨滅のせいですっかり角が取れて鋭利感は失われているが薬研彫と思われる。近江では概して宝篋印塔の塔身種子は貧弱なものが多いが、その近江にあっては雄渾な種子の範疇に入れてもいいであろう。笠は上六段、下二段、笠上の段形最上端面は幅約40cmで、中央に径約34cm、高さ約11cmの伏鉢が同石で刻み出されているのは非常に珍しい手法である。また、笠下の段形最下端面の幅は約50.5cm、軒の幅は約82.5cmで軒の厚みは約9cmである。伏鉢を含めた笠全体の高さは約73cm。07三弧輪郭付の隅飾の基底部の幅約25cm、高さは約35.5cmと長大で軒口からの入りは約1cm。隣り合う左右の隅飾の先端の間の距離は約83cmである。また、隅飾の輪郭の幅は約3cmと大きさの割りに狭い。輪郭内は素面。相輪は九輪部分を五輪ほど残すのみで、残存高約31cm。径は下方で約19cm、上部の径約17.5cm。当初から一具のものと考えて特段の支障はない。01_4この相輪の本来の高さは1m近くあったと思われ、とすれば、塔の本来の総高は2.7m程と推定され、元は九尺塔として設計されたものと考えられる。近江に残された宝篋印塔でも屈指の規模を誇るものの一つに数えられる。
一方、層塔は、上に載せられた別物の小さい五輪塔を除く現状地上高約167cm、素面の基礎は幅約58cm、現状地上高約35
.5cm、初層軸部(塔身)の高さ約44cm、幅約37.5cm。各側面に刻まれるのは像容四方仏だが、風化磨滅が激しく衣文はおろか印相も肉眼では確認しづらい。彫沈めた舟形光背を背にした蓮華座に坐す如来坐像と思われる。像高は各約30cm。蓮華座の蓮弁はすっかり磨滅して明らかでない。現状初層の軒幅約68cm、二層目の軒幅約61cm、三層目で約52cm。傍らには外に2層分の笠石と最上層と思しい笠石が置かれている。このうち最上層笠石の軒幅は約44cm、隅棟の突帯から宝塔の笠石との指摘もあるが、突帯断面が凸形でなく、全体にやや低平な形状から層塔の最上層と考えることも可能で、これを含めれば都合6層分の笠石になるが、六重塔というのは考えられない。元は五重もしくは七重であったと考えられる、というのは案内看板にあるとおり。笠の逓減の様子からは七重以上であった可能性がより高いだろう。基礎がやや小さ過ぎ、寄せ集めの疑いも払拭できないにしても、付近には外に層塔の部材などは見当たらず、わざわざ傍らに置いているのだからまぁこれら笠石も一具と考えるのが自然ではなかろうか。この辺りについては後考を俟つほかない。

 
2007年1月28日付の記事の中で「神社の南方の民家庭先の畑中に周囲よりやや高くなった荒地があり、層塔、宝篋印塔など石塔類が集められているのを見かけたが、あるいは関連があるのかもしれない?」という記述をしましたが、これらはすべてセメント製だというご指摘をさる斯道の大先達の方から頂戴しました。Photo_2早速、現地に行きまして、左の写真のとおり確かにセメント製の現代のものだということを確認してきましたのでご報告します。01_5どうやら、ご近所の方が石塔を模してセメント製の造形を作られ庭先に陳列されておられたようで、朝妻神社の宝篋印塔の造立の背景を考えるうえで特に関係はなさそうです。逆にセメント塔の造立の背景に朝妻神社の宝篋印塔の存在があるかもしれません…。小生のいい加減な記事のせいで、現地で無用のご足労をおかけした由を承り、たいへん恐縮しております。謹んでお詫び申し上げますとともに、拙い記事をご覧頂き、わざわざ有益なご指摘を頂戴しお礼申し上げる次第です。今後ともご指導賜りますようお願いいたします。なお、2007年1月28日の記事文中「朝妻王廊」というのも間違いで正しくは「朝妻王廟」です。朝妻神社と、北方を流れる天野川を挟んだ世継集落にある蛭子神社には、雄略天皇皇子と仁賢天皇皇女の悲恋の物語に七夕伝説を結びつけた面白い伝説があるとのことで、蛭子神社には皇女の墓とされる「七夕石」があり、朝妻神社の宝篋印塔は「彦星塚」と呼ばれているそうです。また、世継集落内にある浄念寺の境内には宝篋印塔や宝塔、層塔などの石塔残欠がいくつか集められており、中でも層塔の初層軸部(塔身)(写真右)は火中したと思われる破損が痛々しいものですが、像容の四方仏を刻んだ背の高い立派なもので、おそらく鎌倉時代中期を降らない時期のものとお見受けしました。また、宝篋印塔や宝塔も概ね14世紀前半代頃を降らないものと思われます。湖畔に程近いこの地に残された古い石塔類は、往昔の朝妻湊の繁栄や原風景を偲ばせる貴重な遺物と言えるかもしれません。