石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 愛知郡愛荘町蚊野外 御霊神社宝塔

2007-07-30 23:22:57 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 愛知郡愛荘町蚊野外 御霊神社宝塔

東近江市の小八木町を北に向かい宇曽川の金剛寺橋を渡ってすぐ西に蚊野外の御霊神社がある。社殿の約20m西方、周囲よりわずかに盛り上がった場所に石造宝塔が立っている。02_19 基礎は失われ、やや細長い不整形な自然石の平坦面の上に載せてある。思ったより大きいもので、基礎を失ってなお目測で高さ2m余。元は8尺ないし8尺半塔であったと推定される。花崗岩製。塔身は軸部、縁板(框座)、匂欄部を兼ねた首部を一石彫成している。軸部は若干胴張りぎみの円筒形で上下端を鉢巻状に彫り残し、側面中央の扉型を四方に細い陽刻帯で彫成している。扉型は、貫と額束がない変形の鳥居型ともいうべき形状である。饅頭型部はきわめて狭く、縁板(框座)は心もち厚い印象で欠損箇所が目立つ。珍しい意匠造形を示すのは匂欄部を兼ねた首部で、縁板部から太く立ち上がって段形を入れずに上にいくに従って細くなっていく。側面にやや縦長の方形の窪みを上下2列に交互に並べている。窪みは規則的に配され、田岡香逸氏も指摘されるように匂欄の欄干・桁を表現しようとしたものかもしれない。ところどころ規則性を失ってあたかも斗と肘木が組み合わさった斗拱の正面観を半肉彫に表現したように見える部分がある。湖西などの石造宝塔にしばしば見られる匂欄表現に比べると、これはやや稚拙で塔全体の格調を失わせているように思う。いずれにせよあまり他に例を見ないおもしろい意匠である。笠裏には三段の垂木型があり、一番上の段の垂木型が心もち薄い。軒先はそれほど厚くなく隅近くで反り上がる。屋根の勾配はそれ程急ではなく屋たるみも浅い。四注の隅降棟は断面凸状でなく断面半円形の突帯で低い露盤の下で連結する。相輪は伏鉢がやや高く、九輪を挟む請花は上下とも単弁式。花弁中央に設けた稜がシャープな印象を与える。九輪は七輪目で折れているがうまく接いである。凹凸をはっきり刻む。宝珠と上請花のくびれは大きい。軒反など曲線の滑らかさに欠け、全体にやや硬い感じを受ける。軸部南側、扉型の間に刻銘がある。肉眼でははっきり読めない。田岡氏は「元徳二年(1330年)二月六日/造立之」と判読されている。部分的に小さい欠損はあるが表面の風化の程度は少なく、保存状態良好である。相輪が残っているものの基礎が失われている点は惜しまれる。規模が大きく、首部(兼匂欄部)の独創的な意匠や、紀年銘がある点は貴重。社殿から少し離れた雑木林内に隠れるように佇む湖東の名塔のひとつである。

参考: 田岡香逸 「近江湖東の石造美術」 『民俗文化』73号


滋賀県 蒲生郡日野町西明寺 西明寺宝塔ほか

2007-07-17 23:24:37 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 蒲生郡日野町西明寺 西明寺宝塔ほか

西明寺の本堂裏手の山の斜面に平坦に整地して墓地がある。歴代住職の墓所で、中央に近世の無縫塔が並ぶ中、向かって右手(南東)に一際立派な宝塔がある。02_18 高さ約185cm、花崗岩製で、自然石を並べて区画した土壇上に、直接地面に据えられている。基礎は高すぎず低すぎず、四方側面とも輪郭を巻きその中いっぱいに大きく格狭間を配している。格狭間内は素面とする。下端は不整形で輪郭の幅は狭く、格狭間は側辺の曲線は豊かでスムーズ、花頭曲線中央を伸びやかに広くとって、肩の下がりもない。脚部は非常に短く間隔が広い。輪郭、格狭間の彫りは浅く、内部はほぼ平らに彫成し古調を示している。基礎の上端中央に円形の塔身受座を薄く削りだしているのは珍しい。先に紹介した栗東の出庭神社宝塔や湖西方面に若干例がある。塔身は一石彫成の軸部と首部からなり、首部は2段になって下段は匂欄部に相当する。軸部は微妙に下がすぼまり上部が少し太い円筒形で、饅頭型部のスムーズで隙の無い曲面とあいまって、やや肩の張った背の高い棗形を呈する。正面には扉型を帯状線刻により表現している。匂欄部に文様はなく、首部ともに垂直に立ち上がってシャープな印象を与えている。笠裏中央の円穴で首部を受けている。笠裏には一重の垂木型を刻みだす。軒先は厚過ぎず、隅に行くに従い力強い反りを見せる。露盤は高く、隅降棟は通例のように左右と中央の3条に分れ中央を高くする断面凸状にならず、単条でかまぼこ状に断面半円の帯状突帯とし、軒先にいくに従い徐々に高さを増していく。軒先近くでは幅より高さが勝るまでになっている。露盤下で隣接する左右の隅降棟の突帯が連結する手法は通例どおりである。相輪は3つに折れ、伏鉢と下請花、九輪の四輪までが笠上にあり、残りは傍らに置いてある。伏鉢は低く、下請花が大きく、九輪は線刻に近く凹凸がハッキリしない。先端に珍しく水煙を表現し、竜車はなく請花と宝珠に続く。相輪上下の請花は花弁を刻まない素面。宝珠は重心が低く古調を示す。造立年代は無銘なので不詳とするしかないが、田岡香逸氏は、基礎の幅:高さ比を在銘の鎌掛正法寺塔(正和4年(1315年))、甲良町西明寺塔(嘉元2年(1304年):同名なので紛らわしいがこちらは湖東三山「池寺」の西明寺)と比較し1320年ごろと推定されている。しかし、各部が揃っているのに、あえて基礎の幅:高さ比のみを根拠にするにはもう少し慎重になるべきだと思う。輪郭内にいっぱいに整った格狭間を描く基礎の特徴、背が03_6高く絶妙な曲線を描く塔身のフォルム、個性的な笠の隅降棟の意匠、水煙を作り付け下膨れの宝珠を持つ相輪など、全体に古調を示し、定型化直前の様相を示すといえる。鎌倉中期の終わりごろから後期初め頃、だいたい13世紀後半から末頃と考えていいのではないかと思う。ところどころ個性的な特徴がみられるが、意匠造形には確かなものが観取され、全体として格調高い美しさをたたえる湖東地方でも屈指の優品といえる。各部揃っている点も貴重である。また、墓所の北西側には宝篋印塔がある。花崗岩製。一見そろっているようだがよく見れば寄せ集めで、塔身には一石一字法華経塔の文字があり、近世の経塚である。 古い部分は笠と基礎だけで、塔身と相輪、基礎上の反花座は明らかに近世の後補である。笠は上6段下2段、軒と区別した隅飾は二弧輪郭付きで、正面隅飾内に二弧隅飾形を平らに削り出した珍しい意匠がある。田岡氏は隅飾の幅:高さ比の類似性から旧蒲生町合戸立善寺の文保2年銘(1318年)塔に近いころの造立年代を推定されている。基礎は段形を持たないので宝塔の基礎と考えるのが適当である。壇上積式で、四方側面に格狭間を配し、正面のみに宝瓶を伴う三茎蓮を入れる。格狭間の彫りは深く、側辺の曲線はスムーズな弧を描き柔らかいが、若干肩が下がり気味である。保存状態良好で正面束両側に「乾元二年(1303年)卯癸四月日/奉造立」の刻銘04_4 が肉眼でも判読できる。 南東側の宝塔基礎と比べてみると、幅:高さ比はより低く古調を示すが、格狭間の形状や彫りの深い手法は逆にやや新しい。乾元という年号は2年まであるものの、実質10ヶ月程の期間しかないため、田岡氏の「残欠とはいえ、希少年号を持ち、構造手法が優秀で、保存がよいなど、貴重な遺品というべき」という指摘は、実に的を射ている。西明寺の境内には中世に遡る箱仏や小形五輪塔が多数見られる。特に小石仏の可憐な表情が印象的である。看板によれば近くの蓮台野という中世墓跡からの出土品を集めてあるとのことである。

参考:田岡香逸 『近江の石造美術3』 29~30ページ、36~38ページ


京都市 左京区大原大長瀬町 大長瀬町公民館宝篋印塔

2007-07-12 22:24:45 | 京都府

京都市 左京区大原大長瀬町 大長瀬町公民館宝篋印塔

大原大長瀬町に入り、国道367号と平行する旧街道を北の来迎院町に向かうと、著名な三千院の方に上がっていく道が、梅宮神社のところでY字状の三叉路で東に分かれる。その少し手前、観光客向けの店が並ぶ間の狭い坂道を東に20mばかり登ると大長瀬町の公民館がある。大原郵便局の南、直線距離にして約100mのところ、街道からは高低差もあり、目立たない場所で、土地の人に尋ねないとちょっと分からない場所である。南面する公民館の東側、法面の下に石積で区画し周囲より高く整形した一画があり、その頂に宝篋印塔が2基南北に並んでいる。02_17 石積の南側には、隣接して高さ1m余りの平べったい自然石の広い面に、線刻した蓮華座上を舟型にくぼめ地蔵菩薩立像を薄肉彫りにした室町時代風の石仏がある。周囲にはほかにも小形の石仏類や五輪塔の残欠が何点か集積されている。ここにはもともと無住の旧堂があり、川勝博士は『拾遺都名所図会』や『山州名跡志』にある真光寺ではないかとされている。廃寺となったのはそんなに昔のことではないようである。件の旧堂はとうに撤去され、今は真新しい公会所に建て替えられている。宝篋印塔は南北ともに花崗岩製で、各々基礎の下に、当初からのものかどうかは不明だが切石を方形に組んだ基壇があるのがわかる。南塔は高さ約157cm、基礎は上2段式で、幅に対する高さの比率は小さい方で、側面は、背面にあたる東側のみ素面とし、残る3面は、輪郭を巻かず直接格狭間を彫りくぼめている。格狭間は側線の曲線にふくよかさにやや欠け、肩がさがり気味の形状で、下端は水平に切り離し糸底となる。格狭間内は平らで素面とする。正面(西側)の格狭間の左右に「元亨元年(1321年)辛酉三月十五日/一結衆等敬白」と刻銘があるのが肉眼でも容易に観察できる。塔身は西側に蓮華座と月輪を陰刻し、月輪内にキリークを薬研彫する以外素面である。種子の書体はしっかりしているが、文字が小さく、力強さがない。笠は上6段下2段で、笠下の2段が薄い。軒と区別しほぼ直立する隅飾りは二弧輪郭付きで輪郭の幅がかなり狭い。輪郭内には種子「バ」を、東側を除く6箇所に直接陰刻するようだが、肉眼でははっきり確認できない。「バ」の意味するところについては川勝博士も考え及ばないとされている。「バ」は水天、破軍星を示すが、儀軌的に考えにくく、よく似た金剛界大日如来を示す「バン」の可能性もある。不明とするしかなく、拓本をとるなど詳細な検討を待ちたい。相輪は後補とされている。後補のわりに風化が進んでおり、宝珠と上請花は異形だがそれ以下の部分にあまり違和感はない。途中で折れており、相輪上部のみが後補の可能性もあるかもしれない。北塔は、高さ約144cm、基礎の幅に対する高さの比率は小さく、非常に低く安定感がある。上端は単弁反花式で、その蓮弁は傾斜が緩く抑揚感のないタイプ。弁先が側面からかなり入っている。平べったい印象の反花で、上端の塔身受も薄い。側面は背面に当たる東側を除いて3面に輪郭を設けずに直接格狭間を彫りくぼめている。格狭間は南塔より大きく描かれ、いっそう肩が下がり加減だが側辺の曲線はむしろややふくよかである。格狭間の脚部は基礎の下端に続いており、糸底にならない。塔身は側面に月輪や蓮華座を刻まず直接胎蔵界四仏の種子を薬研彫する。文字は南塔よりも小さく一層力強さに欠ける。笠や基礎の塔身受座に比してやや小さ過ぎるように見え後補の可能性も残る。笠は上6段下2段で、軒と区別し直線的に外反する隅飾は二弧輪郭付き。南塔に比べ輪郭の幅が太い。南塔と同様に輪郭内に「バ」を陰刻し、こちらは東側二面にも刻まれ、しかも各面とも左右を鏡面対称にしているらしく、向かって右側が通常、左側を裏文字とするようだが、肉眼でははっきり確認できない。相輪はやはり後補とされ、南塔同様折れた先端部分が異形で、南塔の相輪より風化が進んでいる。基礎背面には「享保十五/初冬勧化/本邑男女/再興両部/宝塔荘厳/覚地者也/幻住無光/雷峯叟記」の8行の刻銘があり、1730年、無光という住職が村人に寄付を勧めて両塔を再興した趣旨の後刻である。川勝博士のおっしゃるように、相輪など後補の可能性のある部分がこの時整えられたのだろう。南塔は、輪郭のない格狭間、笠下の薄い2段と、塔身の一面にのみキリークを刻む点が珍しい。元亨元年、一結衆による造立銘がある点は貴重。北塔は隅飾の種子の意匠が珍しい。基礎、笠の低さを古調と評価すれば北塔の方が古いが、川勝博士は隅飾の外反度合が南塔よりきつい点や、塔身の弱い種子、基礎の反花などに新しい要素を指摘され南塔より後出で南北朝初期ごろと推定されている。

参考:川勝政太郎 「大原大長瀬町と福知山観興禅寺の宝篋印塔」 『史迹と美術』400号

      川勝政太郎 『京都の石造美術』 116~119ページ


滋賀県 栗東市蜂屋 蜂屋共同墓地宝塔

2007-07-04 23:48:35 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 栗東市蜂屋 蜂屋共同墓地宝塔

名神高速道路栗東インターチェンジと国道1号線、8号線の合流点の北方にあり、さすがに昔も今も交通の要衝でならす栗東だけあって周辺は国道沿いに開発が進み、昔ながらの田園風景は急速に失われつつある。済生会滋賀県病院の大きい建物の北側にひっそりと小さい墓地がある。隣地は病院の駐車場となっているが、西側から北側にかけて水田が広がり、田んぼの中にポツンと墓地があった様子がよくわかる。墓地は蜂屋と大橋にまたがっており、両集落の共同墓地だという。墓地の中央、葬送儀礼を行なう棺台と香花台のある覆屋根施設の北東側に接続する小祠内に目を見張るような立派な宝塔がある。01_11 花崗岩製で、現高目測約2m。輝くような白っぽい石質が魅力をいっそう際立たせている。手前に立つ方柱状の献花立一対と六字名号碑、それに塔身下の基礎は近世から現代のものである。後補の基礎の下にあるのが本来の基礎と思われ、背面(確認できない)を除いて素面で、幅に対する高さの比は小さく安定感のある形状で、下方にやや欠損がみられる。塔身との間に後補の基礎が挟みこまれ、コンクリートで上下の隙間を固めてある。塔身は軸部と首部からなり、縁板(框座)や匂欄はない。軸部は背が高く、上下がすぼまり中央が太い胴の張った円筒形で、側面の描く曲線は実にスムーズで直線的なところは全くない。軸部上端はほぼ水平に切って饅頭型部を設けず首部に続く。軸部側面の絶妙な曲線を断ち切って対照的な直線で首部につなげていく造形は秀逸で、肩の縁の角はシャープで美しい。首部は比較的太く立ち上がり、上にいくに従ってかなり急に太さを減じていく。塔身のフォルム、特に軸部上端から首部にかけての処理は守山市の志那惣社神社塔によく似ている。軸部正面に舟形光背を彫り沈め、その中に蓮華座に座す如来像を大きく半肉彫している。摩滅が比較的少なく、肉髻はハッキリ確認でき首の辺りには三道らしき線も見える。02_16 胸のあたりに差し上げた両手先は離れ、定印や合掌印でないことも見て取れる。転法輪印と思われる。釈迦ないし阿弥陀如来であろう。笠は全体に平べったく、屋根の勾配、軒の反りともに緩く伸びやかな印象で、軒先はやや厚く全体に反って真反に近い。笠裏は素面で垂木型は認められない。露盤や四注の隅降棟も明確でない。降棟は狭く低いそれらしい突帯のようなものがあるようにも見える。相輪は摩滅が激しく、祠外からの観察では確認できないが九輪の上部2輪と上請花、宝珠ではないかと思われ、宝珠は下半を切り落とした蕾状で、本来のものか否か不明だが、祠外からのこの観察が正しければ基礎から相輪まで、どの部分をとっても古風で、造立年代は、紀年銘が確認できない以上不詳とするしかないが、鎌倉後期に下る要素はない。平らで低い笠の伸びやかな軒、真反に近い軒先、03_4 背の高い塔身の形状、素面で低い基礎、押しつぶしたような宝珠の形状などから鎌倉時代中期、建長3年(1251年)銘の大吉寺塔や志那惣社神社塔と相前後する13世紀半ばから後半の造立と推定したい。近江の宝塔の中でも屈指の古さと美しさを併せ持つ素晴らしい宝塔である。とりわけ塔身から笠にかけて醸し出される雰囲気には石造宝塔ならではの格別の味わいがある。なお、笠は五輪塔の火輪の可能性も否定できないが、田岡香逸氏の報文によれば、「屋根の上端も水平に切り枘穴の痕跡もとどめていない」とのことであり、火輪にしては背が低く過ぎることも考慮すれば田岡氏もおっしゃるように、宝塔のものと見るほかないだろう。また、田岡氏は、露盤を造りつけた相輪を載せていたものと推定され(相輪を除く古い部分の残存高は約153cm)、元は8尺塔であろうとされる。ちなみに軸部の胴張り形状、笠の屋だるみがやや反転すること、如来坐像の像容から1295年ごろのものと推定されている。弘安8年(1285年)銘の最勝寺塔の構造形式の整備化が進んだ細部意匠と比較して10年も新しいものとは考えにくいがいかがであろうか。

蜂屋集落の東寄り、西方寺前の小川べりには仁治2年(1241年)銘の石仏があり、ぜひあわせて見学されることをお勧めしたい。

参考:田岡香逸「近江野洲町・栗東町の石造美術(後)」『民俗文化』115号