石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市登大路町 奈良国立博物館庭園石造宝塔(国東塔)

2012-11-25 23:26:55 | 奈良県

奈良県 奈良市登大路町 奈良国立博物館庭園石造宝塔(国東塔)
奈良国立博物館新館の南に庭園が整備され池に囲まれた茶室八窓庵がある。01_2大和三茶室のひとつに数えられ、元は興福寺大乗院の庭園にあった江戸中期の茶室である。04この場所には以前、館長公舎とその庭があったところのようだ。数年前までは西新館の南のテラスから池を渡って行くことが出来たと記憶しているが、最近庭園が整備されて以降は立入が制限されている。保護のためやむを得ない措置である。茶室を借りて庭園に入ることは可能だが、それなりの団体が茶会を催すような場合に限られ、庭園に配置されたいくつかの石造美術はテラスから池越しにその姿を眺めるしかできなくなった。
ところが、この八窓庵の庭園が一日限定で特別開放されるとの情報を得て早速行ってみた。事前申込不要、ただし先着20名、入館料は必要とはいえ常設展示の500円のみ。博物館ボランティアの皆さんから懇切丁寧なご案内とご説明をしていただいた。三笠山を借景にした美しい庭園と茶室の落ち着いた佇まいに紅葉が色を添え、大勢の観光客で賑わう奈良公園の雑踏がウソのような落ち着いた別天地で至福のひと時を過ごすことができた。
庭園の石造美術のうち、特に興味を引くのは国東塔である。02国東塔というのは大分県国東半島を中心に分布する特異な形式の石造宝塔のことで、天沼俊一博士による命名である。相当数の国東塔が流出しているようだが、現地以外で実物を見学できる機会はやはりそうそうあるものではないので貴重な存在と言える。相輪上半を欠いた現状塔高216cm。凝灰岩製。方形の基壇は長方形の延石を2枚並べ、隙間に小さい石材を挟み込む。基礎は幅76cm、高さ47cm、側面高19.5cm。側面は二区に区画して羽目に格狭間を入れる。格狭間は低平で花頭中央が高く外側の弧が怒り肩気味に横に張って全体が平らな菱形のように見える。03基礎上端には大きく高い覆輪付の複弁反花座を設け、反花座上端は平面円形にして低い敷茄子のような框を刻みだす。反花は側面一辺あたり主弁1枚、四隅に一枚で弁間には小花(間弁)がのぞく。東側の反花の中央上端、敷茄子框部の直下に直径7cm程の貫通穴が見られる。火葬骨を落とし込んだ納骨穴だとのことである。
基礎の上には別石の小花付単弁八葉の大きい請花座を挟み込んでから塔身を載せる。基礎と塔身の間にこのように大きい反花座と請花座を挟み込むのが国東塔の最大の特長で、近畿の石造宝塔にはまず見られない独特の手法である。塔身は素面で高さ58cm、首部と軸部からなり、軸部は棗実状の宝瓶形で最大径66cm、首部は高さ7cm、径40cm。南側の軸部の肩にも径10cm程の穴が穿たれている。穴の中には掌に納まるくらいの大きさの経石が納めてあったとのことである。笠石は軒幅78.5cm、高さ46cm。軒口はあまり厚くなく、隅付近で急激に反る。軒裏には一段の垂木型が刻まれている。古い国東塔で軒裏に垂木型を刻出する手法は珍しいとのことである。笠上には露盤が刻出され、側面を二区に区画して小さい格狭間を入れる。相輪は別物の転用とのこと。なるほど伏鉢の幅が露盤の幅より若干大きいように見える。残っているのは下から40cmまでで、火炎宝珠を含む相輪上半部は亡失し現在は後補材で上手に補われている。伏鉢に複弁反花を刻むのもこの辺りでは目にしない手法。塔身に礫石経などを入れて作善供養を行い、さらに塔下に火葬骨を入れて造塔供養の功徳に結縁せんとしたのであろう。元の所在地は不詳で、いったん東京に出た後ここに納まったとのこと。造立時期は南北朝頃とされている。それにしても滋賀県など近畿地方の石造宝塔を見慣れた目には少々奇異に感じる構造と意匠表現が印象に残った。
 

参考:望月友善『大分の石造美術』

 
まずは貴重な機会を設けていただいた博物館当局に感謝申し上げる次第です。
文中法量値は望月氏の著書に拠ります。望月氏は鎌倉時代末期、元亨頃の造立時期を推定されています。
庭園にはこのほか宝篋印塔、一石五輪塔、般若寺型石灯籠があります。宝篋印塔は段形部分、隅飾、露盤や相輪など近畿ではまず目にしない珍しい手法が随所に見られます。原位置はやはり大分県国東とのことで南北朝時代のものだそうです。般若寺型石灯籠は江戸時代の模作。むろん本歌は般若寺本堂前のものですが、実はこれも模作らしく本当の本歌は東京の椿山荘にあるといいます。一石五輪塔は古式のものですが小さくあまり目立たないので西新館のテラスからではほとんど見えません。また、繰り出しのある古代寺院の巨大な礎石が踏分石としていくつか見られました。伽藍石と呼ばれるものです。まぁ保護保存の現地主義の原則からは少し複雑な気持ちもありますが、とにかく八窓庵と庭園は素晴らしいの一語に尽きます。今後も時々特別公開される見込みとのことなのでアンテナを高くして機会をうかがっておかれることをお薦めします。


滋賀県 湖南市東寺 長寿寺石造多宝塔(その2)ほか

2012-11-19 21:57:14 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 湖南市東寺 長寿寺石造多宝塔(その2)ほか

秘仏のご本尊ご開帳と聞いて訪ねてみた。紅葉に彩られた境内は思いのほか美しい。
01_4 長寿寺は、阿星山と号し、常楽寺、善水寺と並んで近年、湖南三山として売り出し中
の寺院である。02_3
湖東三山(西明寺,金剛輪寺,百済寺)もそうだが、山腹や丘陵に位置するこうした寺院には優れた古建築や古美術がたくさん残され、古代・中世以来の山岳寺院の遺風を今に伝える貴重な存在である。長寿寺を含む付近の山手にはかつて阿星山五千坊(5千はちょっとオーバーか?)と称された一大天台仏教圏が存在したといわれている。天台王国とも称される近江には、ほかにも同じような山岳寺院が各地にもっともっとたくさん存在していた。それらの多くは早くに退転・廃滅し、わずかに地元に伝わる伝承、客仏となった仏像、あるいは痕跡となる連続した平坦面を山林中に残すだけになってその詳細については意外にほとんど知られていない。01_4
謎に包まれた山岳寺院の実態について、少しづつ明らかになりつつあるようだが、今のところはその詳細な解明が今後一層進むことに期待するしかない。湖南三山や湖東三山のような寺院がその法灯を今日に伝えているのは、むしろ稀有の例と言えるかもしれない。
これらの寺院には、優れた古建築や古美術の陰に隠れてそれほど知られていないが、実は見るべき石造美術がたくさん残されている。長寿寺の石造多宝塔もそのひとつである。02現状高3.6m余、相輪が揃っていれば4mを優に超える花崗岩の巨塔である。
詳しくは2007年1月24日の記事を参照いただきたいが、改めて見るべきポイントをかいつまんで述べておく。割石・自然石を組み合わせた二重の方形基壇、低平で大きくやや不整形な基礎、基礎上端面の塔身受座の段形、縦長の塔身と面取り、饅頭型部や斗拱型の石材の切り合い、重厚かつ温雅な軒反の様子、二重にした上層笠の錣葺などで、これらの点に留意して野洲川対岸の廃・少菩提寺跡の石造多宝塔と見比べてもらい、近江における鎌倉時代中期の古石塔の真髄をご堪能いただければと思う。

付近の石造物についても若干触れると、長寿寺門前に道を挟んで甍を並べる十王寺の門前の箱仏群、地蔵の種子「カ」を刻んだ板碑、十王寺境内の石造宝塔残欠は少なくとも2基分があり、うち寄せ集めになった笠だけの残欠は露盤上に特色がある。それから集落を北に少し下った道路脇にある東寺集落共同墓地は中世石造物の宝庫で、数基ある大きい五輪塔には鎌倉末から南北朝頃のものが含まれ、地輪に2体の像容を刻んだ珍しいものもある。さらに墓地入口の地蔵石仏は格狭間のある台座に立つ優品。また、内壁に五輪塔レリーフを刻んだ大きい石龕も見落とせない。かつては中に石仏か五輪塔を安置したものと考えられ、宝珠や笠の軒反からおそらく室町初期を降らない頃のものと思われ貴重。これらについてはいずれ改めてご紹介したい。
 
写真左下:十王寺門前の地蔵種子板碑、下端は欠損している模様。右下:十王寺境内の宝塔残欠のうち笠と塔身が一具と思われる方のもの、基礎と相輪を失うが瀟洒な作風で14世紀中葉頃の作だと思います。
 
長寿寺本堂は鎌倉時代初め頃のもの、お隣の白山神社の拝殿は室町中期の建築で、神社横の高台にある三重塔跡には今も礎石が並んでいますが、安土城に建っている木造三重塔、あれが昔ここにあったんだそうです。織田信長によって總見寺に移築されたそうです。それから、はじめに触れたように、この秋は、長寿寺のご本尊、秘仏・地蔵菩薩立像のご開帳です。ご開帳は50年に1度のことだそうで、次は50年後かもし
れませんよ。見逃せませんね。美しい紅葉に彩られた今のシーズン、観光客も思ったほどではないので、ぜひお薦めです。小生は湖南三山の中では長寿寺の落ち着いた佇まいが一番お気に入りです。


デザインを変更しました

2012-11-07 23:26:53 | お知らせ

デザインを変更しました
久しぶりにデザインを変更しました。前回の変更はもういつだったか覚えていません。
ちょっと見やすくなった気がしますがいかがでしょうか。気分転換です。
ちょくちょくデザイン変更も試みたいと思います。
まぁ気分転換です。気分転換。
それにしてもUPのペースがにぶくなってしまっています。
今年も、もう11月、もっとねじを巻かないといけないかもしれませんね。
でもあんまり無理もしたくないし、常歩無限、ぼちぼちとやっていきます。
六郎敬白


三重県 伊賀市治田 治田地蔵十王磨崖仏

2012-11-05 20:51:36 | 三重県

三重県 伊賀市治田 治田地蔵十王磨崖仏
国道25号名阪国道、名張川にかかる新五月橋の東方約1Km、川の北岸は三重県伊賀市治田、04南岸は奈良県山辺郡山添村中峰山で、支流・予野川の合流点の下流側に張り出した高さ10m程の岩壁面の南、川に面して地蔵十王の磨崖仏がある。

01_3名張川の対岸は縄文時代早期「大川(おおこ)式」の押型文土器で有名な大川遺跡である。現在は史跡公園とキャンプ場を兼ねたようなカントリーパーク大川というレジャー公園に整備されている。
このレジャー公園から川原に下りて川越しに眺めるのが通常の見学であるが、実は三重県側の間近まで歩いて行くことが可能である。予野川にかかる白拍子橋と名付けられた吊橋を渡り、南西方向に降っていく山道を進むと、やがて視界が開け、名張川の水面が眼下に広がる場所に出る。02_3その足元の直下に目指す地蔵磨崖仏がある。すぐ山手に粘板岩に薄肉彫りされた地蔵菩薩立像が祀られているがこれは近現代の作品と思われる。
垂直に切り立った岩壁を迂回して川原に下りると磨崖仏の直下に出る。00_2ごつごつした花崗岩の岩塊が川岸沿いにずっと連続している地形で、付近には地蔵瀬の渡しという古い渡し場があったという。
下流の高山ダムの湛水域になるため、ダムの貯水量が多い時は地蔵磨崖仏の腰の辺りまで水没してしまうので、いつでも磨崖仏の直下に降り立つことができるわけではない。
中央の地蔵菩薩像(1)は像高約4m、蓮華座上の堂々たる立像である。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ一般的な姿で、頭光円を二重にして、外側の円光は線刻、内側の円光内を彫り沈め、頭部と錫杖上部を薄肉で表現する。03肩から下は線刻表現だが、体側線を特に広く深く彫ってアウトラインを強調する手法に注意したい。頭部の輪郭はやや角ばり、目鼻の大きい面相には写実的なところがあって、表情には威厳が感じられる。一方、衣文や手足の表現は簡素かつ稚拙で、お顔とのアンバランス感が激しい。特に膝から下の両足の表現はまるで子供の落書きのように見える。線刻の蓮華座の蓮弁も退化傾向が見られ、室町時代を遡るとは思えない。05室町
中期という説もあるが(初期説も)、室町時代も末に近い頃のものではないだろうか。地蔵像の左右に脇侍のように冥官の坐像が一対刻まれている(向かって左2、右3)。どちらも中国官人風の衣冠姿の線刻像で、風化に加え近づけないこともあって細部ははっきりしないが、何か持物を手にして、厳しい表情が見て取れる。たぶんに漫画チックな表現だが、体側線を強調する手法は地蔵像と共通する。06像高は地蔵像に比較して半分に満たないので約1.5m前後といったところであろうか。さらに西側に約5m余り離れたところにも冥官坐像が2体並んでいる(向かって左4、右5)。風化がかなり進んで細部は明確でないが、長方形の台座があるのがわかる。像高は1m程である。また、4・5の上方の薮の中にある岩塊の壁面にも3体の冥官像が刻まれている。木々に隠れて対岸からは目視できない。三体のうち、西端の一体(6)は方形台座上の坐像で風化が進行しているが、作風・手法は4・5と共通している。07_2中央のもの(7)と東側のもの(8)はともに立像で、2~6と作風・手法が異なる。7の向かって右脇には大きい文字で「泰山王」の陰刻銘がある。8の向かって左下にも小さい文字で「□□王」(初江王?)の陰刻銘がある。衣冠の道服姿で何か持物を手にしている。7・8は追刻ではないかと思われる。
ようするにこれらは地蔵菩薩を中心とする十王像とみ
られるが、現在残された冥官像は都合7人で3人足りない。ただ、4・5の西側の下方岩盤に、ほとんど姿もとどめないが、4・5に似た痕跡のような部分が認められる。これが本当に痕跡であるならばここに3体あったのだろう。あるいは付近の岩壁や薮の中の岩塊を丹念に調べればまだ見つかる可能性も否定できない。おそらく地蔵菩薩と脇侍の2体(1・2・3)が当初からのもので、2・3は十王の内でもっともメジャーな閻魔王と泰山府君(=太山王)と思われ、十王像の残る8体を付近に順次刻んでいったのではないだろうか。その後、洪水などで岩盤の崩落や剥離が起き、失われた分が追刻されたのではないかと推定したい。
なお、7・8に泰山王、初江王?の刻銘があるからには、その追刻時に持物や印相、位置や順番など十王の各王を特定する何らかの判断材料があったに違いないだろうが、今のところ不詳とするほかない。今後更なる精査が期待される磨崖仏と言えるだろう。

 
 写真左上から2番目画面向かって左から2・1・3、左上から3番目向かって左から4・5、右下から2番目8(□□王)、右下6、左下7(泰山王)。下手な写真で見づらいですが、写真にカーソルを合わせてクリックすると少し大きく表示されます。
 大川遺跡に復元された竪穴住居があります。遺跡をキャンプ場にするのもどうかという気もしますが、実に静かで風光明媚な穴場スポットです。
ごらんのとおり地蔵さんの足はちょっと何というか、その…言葉が見つかりません。あまりといえばあまりな表現なので、ひょっとすると膝から足首にかけての線は裳裾の襞の線のつもりなのかもしれません。
ちなみに6・7・8の辺りは非常に足場の悪い急斜面で満足に写真も写せません。カメラに気をとられていると転落の危険がありますのでくれぐれもご注意を。


 
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
   清水俊明 『関西石仏めぐり』
   望月友善編 『日本の石仏』4近畿篇