石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 大津市和邇中 天皇神社宝塔及び層塔

2007-09-28 23:16:41 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市和邇中 天皇神社宝塔及び層塔

和邇中天皇神社は和邇川北岸、琵琶湖を望む小高い台地にある。本殿は鎌倉末期正中元年(1324年)建造の古建築である。20 社殿前の向かって左手、奥まった場所にある忠魂碑を挟んで東側に2基の石造宝塔、西側に層塔がある。宝塔はどちらも相輪を失い笠頂部までの高さ約1.6m。ともに花崗岩製で基壇等は見当たらず、直接地面に置かれている。北塔は下端が埋まっているが、基礎は幅:高さ比が低く安定感がある。三側面に輪郭を巻き格狭間を配し、正面(西側)にのみ三茎蓮華のレリーフがある。下方が埋まって確認できないが宝瓶式のものである。輪郭幅は側面の面積に比して狭くシャープな印象を与える。上下が狭く左右束はやや広い。田岡香逸氏は報文の中で基礎幅を64.2cmとし、大きさのバランスが取れないために別物とするが、掲載された写真を見てもそのようには見えない。そこで持参のコンベクスで実測すると基礎幅約84.5cmであり、おそらく6と8の計測数値の記入誤りであろう。基礎下端を掘り返して確認したと思われる田岡氏によれば基礎の高さは42.5cmである。幅が高さの倍近くあり、非常に背が低いことがわかる。格狭間は、中央花頭曲線の幅は十分とはいえないが全体に丸みのある大きめのもので肩の下がりも顕著でない。塔身は円筒形の軸部と2段の首部を一石彫成している。軸部は上部の饅頭型部の曲面は小さいが、縁板状の框座を持たず上端を水平に切って首部につなげる意匠は、すっきりした印象を醸しだすことに成功している。軸部西側に月輪を大きく陰刻し、月輪下部に5弁の蓮華座上に梵字「ア」を大きめに薬研彫している。文字は端正で力強い。2段の首部下段は匂欄を表現したもので、田岡氏によれば02 「上端に突帯を巻き…中略…縦連子6本を入れ、各それらの間を横連子でつないでいる。」という。肉眼ではこれを確認しづらい。上段は素面である。笠は全体に扁平で軒は厚く、隅に向かって力強い反りを見せる。笠裏には2段に斗拱を表現し、さらに軒口近くに薄い垂木型を刻みだす。四柱の屋だるみも適度で隅降棟は断面凸型の突帯を丁寧に刻み出している。露盤下で隣接する突帯の外側が連結する。露盤はあまり高くないが垂直に立ち上がりしっかりと仕事がしてある。笠幅74.5cm、高さ約43cm。現在の相輪は一見釣り合っているようだが石14 材の質感が異なり後補と思われる。首部や笠裏の段形や露盤の削り出しがシャープで、安定感のある基礎、平らな笠は細めの首部とあいまって伸びやかな印象を与えつつ厚めの軒と隅反にこもる力強さが全体を適度に引き締めている。各部のバランスや形状にも優れ、匂欄や笠裏の垂木型など細かい部分に配慮が行き届いている。また、塔身の月輪と蓮華座上の種子が絶好のアクセントとなっており、装飾的にも意匠的にも抜群の出来ばえを示す。規模も大きく、相輪の欠損が惜しまれるが、近江でも最も美しい宝塔のひとつと思う。銘は確認できず、造立年代は不詳ながら石造美術最盛期の鎌倉時代後期でも比較的古い時期、13世紀末から14世紀初め頃のものと推定したい。一方、南塔は基礎四面とも素面で、塔身は少し胴の張った円筒形の軸部の正面西側にのみ大きい鳥居型を薄肉彫りするほかは素面とする。首部は別石で写真に見るとおり自動車のタイヤ状を呈し、側面中央に平底の溝を廻らせて上下を帯状にする。上方がやや太く下方が細いので、天地逆転している可能性がある。笠は四柱の隅降棟の突帯表現がない。笠全体に高さがあるためか、さほど厚みを感じない軒の隅反りはかなりきつい。頂部には屋根の勾配を急激に立ち上げて露盤を表現している。きつい軒反と勾配を急激に立ち上げた露盤に挟まれた四柱部分の中央を見る限り、屋だるみは顕著とはいえずむしろ直線的である。笠裏には一重の垂木型を16薄く刻み出す。相輪は失われ五輪塔の空風輪が載せてある。装飾的で端正な北塔とは対照的に朴訥とした野趣溢れる魅力がある。基礎幅約78cm、高さ約46cm、笠幅約73cm。川勝博士は鎌倉中期とされ、一方田岡氏は笠の背が高いことや屋根の勾配が急で反転が強い点を新しい要素と考え1310年頃とされる。素面の基礎、首部を別石とし大きめの鳥居型を正面のみにレリーフする手法、隅飾棟の突帯を持たないなど、各部の特徴は北塔よりも古調を示し、基礎の幅:高さ比は北塔よりやや大きいものの高いとまではいえない。また、笠の反転がきつく見えるのは、強い軒の隅反りと露盤が与える錯覚で実際はかなり直線的である。したがって田岡氏の観察見解のように新しい要素とは小生は考えない。つまり北塔より造立年代が降ることを示す要素はない。あえていえば鎌倉中期末の13世紀後半頃ものと考えたい。異なる個性を発揮する大形の石造宝塔(元は7尺ないし8尺塔)が並び立つ姿は実に壮観で、いつまでも眺めていたい、去り難い気持ちに駆られる。また、層塔は現状4層で五輪塔の火輪と空風輪を載せている。元は5層ないし7層であろう。上端を平らにした大きい自然石上に据えられている。素面の基礎、塔身は舟形に彫りくぼめて如来坐像を四方に半肉彫りする。表面は風化が進み細かい欠損も多いが塔身の像容、軒反り、屋だるみなどに古調をとどめる。高さ現状で約1.5mと規模は小さいが鎌倉後期でも中期に近い頃のものとみられる。1295年頃と推定されている田岡氏に従いたい。

参考

川勝政太郎 『近江 歴史と文化』 62ページ

〃 『新装版 日本石造美術辞典』 182~183ページ

田岡香逸 『近江湖西の石造美術-小野・和邇中・比叡辻-』(後)「民俗文化」190号

〃『近江湖西の石造美術-天皇神社・妙盛寺・地蔵堂・光西寺-』(前)「民俗文化」202号


滋賀県 大津市栗原 水分神社宝塔

2007-09-26 13:10:38 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市栗原 水分神社宝塔

栗原は湖西道路の西、小高い山腹にあって琵琶湖を見下ろす静かな山村である。集落の北西、やや高い場所に水分神社が鎮座する。本殿が北東側に稲荷社が南西側に並んでおり、一段高くなった社殿前の玉垣内、古木の根元に囲まれるようにして石造宝塔がひっそりと立っている。11_2 花崗岩製。相輪は後補と思われ、現高約154cm、相輪を除く高さ約105cm、基礎幅45.5cm、高さ33.3cm、笠幅43cmである。(持参のコンベクスによる計測値)08_5 水船をひっくり返したような石の台の上に平たい自然石を載せて上面を平らにして宝塔を置いている。基礎は幅:高さ比が大きく背の高いもので、三側面に輪郭を巻いて格狭間を配し、背面のみ素面としている。輪郭の彫り込みは深いが、格狭間は内部素面、ほとんど線刻でその体をなさないまでに退化し、美術的観点からは醜悪な格狭間というしかない。素面の塔身は下がすぼまった胴張りの樽型で、曲線は硬く、全体にやや歪んでいる。軸部の上に太く低い縁板状の框座を回らせ、首部は二段となる。09 笠裏は二段で軒は厚みを欠き、軒口の上端は隅近くで弱い反りを見せるが下端はほぼ水平で反りがほとんど見られない。笠の頂部の面積が広いためか屋根の勾配は急で、屋だるみもほとんどない。四柱の隅降棟は凸状突帯式で隣接する隅降棟の突帯両脇部分が露盤下で連結するのは通例式だが中央突帯の幅を非常に広くとっている。露盤の削りだしも甘く、扁平なものでしまりのない鈍重な印象を与えている。相輪は番傘状に近いもので石材の質感も異なるので後補であろう。九輪部分が五輪しかない。基礎の格狭間を見ても明らかなように各部の退化が進んだもので、通例の意匠を踏襲しつつ彫り込む部分を最小限に抑えた形態になっており、美的に優れたものを目指そうとする創作意欲よりも労力を最小限に済ませようとする意図が勝った結果であろうか。到底鎌倉期のものと考えることはできず、室町時代に降る造立であることは明らかである。ただ、各部のバランスは何とか保たれ、同じ室町期ものでも先に紹介した竜王町岩井安楽寺塔のように、全く威厳をなくしてコミカルな印象を与えるまでには至っていない。紀年銘は確認できないが、おそらく室町時代も後半、15世紀後半から16世紀初頭ごろのものと推定される。湖西は石造宝塔の宝庫であるが、室町期の宝塔はそれ程多くない。相輪は後補ながら主要部分が揃っており、各部の退化が進んだ典型例として、これはこれで貴重なものである。

参考: 滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』

写真

左:パッと見の全景はまあまあ、でもよく見ると…

右上:ちょっとちょっとな隅降棟、写真右下:あんまりな格狭間…うーん…でもこれはこれで時代をよく示しているんですよね。


滋賀県 高島市安曇川町三尾里 満願寺跡宝塔

2007-09-20 01:10:51 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市安曇川町三尾里 満願寺跡宝塔(鶴塚塔)

民家の庭先のような一画にこの巨大な石造宝塔は立っている。満願寺跡といっても寺の面影はない。01_15 ただ、民家の裏手に回るとささやかな墓地があってわずかに寺院の痕跡を思わせる。相輪は後補でしかもやや短いが現高約4m、復元すれば4.2~4.5mはあったと思われ14~15尺塔で、大津市長安寺宝塔(牛塔)と並ぶ近江最大の宝塔である。花崗岩製。鶴の塔とか鶴塚と呼ばれる。ある武将が狩猟中に鶴を射落としたが首がなかった。不審に思いつつ獲物を持ち帰った。翌年再び射落とした鶴が干からびた鶴の首を羽の付け根に大切そうに抱えていた。それは去年射落とした鶴の首で、鶴が夫婦であったと気付いた武将は、鶴の夫婦愛に心を打たれ、深い悔悟の念から鶴の供養のためにこの石塔を立てたという伝説に基づいている。近江を代表する二大宝塔の別称にそれぞれ牛・鶴という動物名が冠され、それにまつわる伝説があっておもしろい。先に紹介した長安寺塔の異形に比べればこちらはオーソドクスなスタイルである。基礎は直接地面に置かれているようで側面は四面とも豪快に切り離したままの感じを残す素面で、高さ約52cm、幅は155cmに及ぶ。低くどっしりとしたものである。塔身は軸部と首部が別石で、首部には匂欄が表現されている。軸部は裾がすぼまり肩の張った釣鐘状で上部を構成する曲面(饅頭型部)のアウトラインはスムーズだが側面はやや直線的で長安寺塔のように全体的にゆるく曲線を描かない。西側に二仏並座を扉型内に薄肉彫りしているが表面の風化が進行し像容は判然としない。04_5 残る三方は素面である。下半に匂欄を薄肉彫りで刻み出した首部の立ち上がりは垂直に近くしかも細長い感じで、巨大な笠に比較すると脆弱な印象は否めない。また、首部の横断面が正円形でなく、何となく多角形にも見える。首部と笠の間には別石の斗拱型を挟みこむ。斗拱型は平面方形で下端を水平に切り、中央に大きく首部を受ける円穴を穿ち、各辺を斜め切って繰形状に持ち送って側辺につなげる。五輪塔などの繰形台座を天地逆にしたような形状である。笠裏は一重の垂木型を設け、中央を方形にくぼめて斗拱型を受ける。笠の軒口は比較的薄く隅の反りは力強さよりも伸びやかな印象で軒中央と隅の厚みが変わらない。四柱の屋だるみも顕著でなく、隅降棟の突帯表現がない。ただし笠全体としてはそこそこ高さがあり扁平感はない。頂部の露盤は高めにしっかり表現されている。相輪はいわゆる番傘状で表面の風化も少なく明らかに後補であるので記述しない。下半を内斜に切った別石の斗拱型を笠下に挟み込む例は市内安曇川町常盤木三重生神社塔や守山市福林寺塔に、多宝塔では先に紹介した湖西市長寿寺塔や廃少菩提寺塔に類例があり、古い手法とされる。廃少菩提寺塔の仁治2年(1241年)銘がいちおうの参考になる。加えて低い素面の基礎、軒と屋だるみの形状、隅降棟突帯がない点、法華経見塔品に基づく宝塔本来の本格を示す軸部の二仏並座像など各部古様を示し、鎌倉中期に遡るものとして差し支えない。川勝政太郎博士は鎌倉中期とし「全体として鎌倉前期に近い様式を示す。…中略…近江に鎌倉時代の宝塔は多いが、その中でも形が大きく、年代も古い優作である。」と評価されている。瀬川欣一氏は「大吉寺の建長3年塔よりも以前に建てられた、県下では最大で最古に属する石造宝塔といえる」とされている。これに対し田岡香逸氏は建長3年(1251年)銘の野瀬大吉寺跡塔、志那中惣社神社塔、弘安8年(1285年)銘の最勝寺塔の各特徴を列記し、無銘の惣社神社塔を大吉寺跡塔と最勝寺塔の過渡形式として文永5年(1268年)頃と位置づけた上で、この満願寺跡塔を「惣社神社塔と最勝寺塔の過渡形式であることが容易に理解されよう」とし「建治3年(1277年)ごろのものと推定するのが、合理的な編年であることに論を俟たない。」とされる。しかし報文を読む限り「惣社神社塔と最勝寺塔の過渡形式」であることの具体的な説明がなされておらず、いまひとつ説得力に欠ける。志那惣社神社塔をもう少し古く考える小生としては田岡説を支持することはできない。小生は川勝、瀬川両氏による評価がより妥当と考える。後補の相輪が美観を損なっているが大きさの割に間延びしたようなところはなく、気宇が大きく各部の均衡もとれたまさに優品である。

参考

川勝政太郎 『新装版日本石造美術辞典』 248ページ

田岡香逸 『近江湖西の石造美術』(後)-勝安寺・鶴塚・樹下神社-「民俗文化」142号

瀬川欣一 『近江 石の文化財』 48~49ページ


滋賀県 近江八幡市東川町 東川町公民館宝篋印塔

2007-09-18 10:15:09 | 宝篋印塔

滋賀県 近江八幡市東川町 東川町公民館宝篋印塔

近江八幡市の南西端、集落のそばを流れる日野川のすぐ南は竜王町弓削である。集落内南西寄りにある公民館前の広場の南隅に目指す宝篋印塔がある。高さ2.65m、花崗岩製。01_14 基礎は、大半が埋まっているが、ほぼ同形同大の切石二石を並べ、上端に別石の反花座を載せて塔身を受ける。埋まっている基礎下端を確認できないが、田岡香逸氏の報文によるとそのサイズは高さ35.8cm、幅95.5cmで、基礎の下に基壇はなく、直接地上に据えられているという。側面は四面とも素面のようである。反花座は、左右隅弁の間に3弁をはさむ複弁式で、弁間に小花が覗く。反花は比較的平板で傾斜がきつく弁先がやや反るものの花弁全体から抑揚感はそれ程感じない。反花の下に薄い框状の一段を設けている。塔身は四側面に金剛界四仏の種子を薬研彫し、アク面を除き種子の周りに月輪と蓮華座を陰刻する。文字のタッチは弱い。アク面だけは月輪がなく蓮華座のみで、左右に各一行の刻銘がある。肉眼では判読できないが、川勝博士によれば「正和四季(1315年)乙卯八月日願主/源円阿弥陀仏為二親」という。「おそらくこの地方の土豪源氏が在俗出家して円弥陀仏の法名を名のったもので、両親の追善のための造塔」との川勝博士の考察のとおり、鎌倉後期、14世紀前半、大きい宝篋印塔を造立できるだけの経済力のある相応の階層に属する人物である源の某が(法名の阿弥号から浄土教系の影響をみる)両親の供養のためにこの宝篋印塔を造立したことが分かるのである。なお、現状各面と02_23も東西南北が逆で180度方角がずれている。笠は上6段下2段で、軒以下と以上、隅飾が別石である。軒は厚く、各段形はやや傾斜がついて彫成は少々甘い。隅飾は3弧輪郭式で、輪郭が下辺に及んでいる。輪郭内に種子があるようにも見えるが肉眼でははっきり確認できない。川勝博士、田岡氏ともこのことには触れられていないので隅飾輪郭内は素面なのかもしれない。隅飾はかなり長大で先端部は段形の5段目の高さに及びやや直線的に外傾する。相輪は異形で、伏鉢上がすぐ九輪で下請花がなく、単弁の上請花は低く、宝珠との間に広い首03_8部を作り付けている。宝珠は重心が低く押しつぶしたような形状である。九輪は逓減が少ない。川勝博士は基礎と相輪を後補とされ、田岡氏は相輪について後補の可能性を指摘しつつ一具ものとされている。小生としては、このような各部別石式の宝篋印塔では基礎二石の例が少なくないので、基礎は当初からのものとしてよいと思うが、相輪については後補の可能性が高いと思う。このような各部別石式の宝篋印塔は、先に紹介した嵯峨清涼寺源融塔や二尊院塔、誠心院塔や勝林院塔など京都に比較的多く、高山寺式宝篋印塔の流れを汲むものと推定している。この式のものは、大和には、壺坂寺や須川神宮寺、奈良国立博物館など優品があるが、管見の及ぶ限り近江には他に例をみない。しかも紀年銘を有し、その点からも極めて注目すべきものである。なお、傍らにある小形の宝篋印塔の残欠の笠は、室町時代に降りそうな小さいものであるが、よくみると笠上が8段もあって非常に珍しいものである。

参考

田岡香逸 『近江東川と稲垂の宝篋印塔』 「民俗文化」44号

川勝政太郎 『新装版日本石造美術辞典』 215ページ

橋を渡ってすぐ南、竜王町弓削の集落内にある阿弥陀寺に、正安2年銘の立派な宝篋印塔があるのであわせて見学されることをお勧めしたい。


近江には五輪塔が少ないのか?

2007-09-15 07:59:32 | うんちく・小ネタ

近江には五輪塔が少ないのか?

近江は石造美術の宝庫である。中世の石造宝篋印塔や石灯籠、石造宝塔がたくさんあることについては、京都や奈良を凌ぎ全国随一といっても過言ではない。一方、一般的に古く立派な五輪塔は少ないとされている。しかし、このことは、ともすれば近江に五輪塔は少ないという誤解を招きかねない。結論、近江には五輪塔が多いのである。鎌倉様式の大形の五輪塔が、宝篋印塔や宝塔などに比べると多くないというのが正しい。22_2 「多くない」=「少ない」ではない。また、小形の五輪塔や一石五輪塔は、千や万の単位で集積された、旧蒲生町の石塔寺や旧愛東町引接寺、大津市の西教寺はいうに及ばず、近江の寺や墓地などを巡ると至る所に数多く見られる。その数はまったく奈良、京都にひけを取らない。いくら近江に宝篋印塔や宝塔が多いといっても絶対数では五輪塔にはるかに及ばないのである。01_13少ないとされる鎌倉~南北朝時代の大形五輪塔にしても、実際に歩いてみると残欠も含めればその候補は案外多いことがわかるし、在銘にしても5指に余るだろう。 13世紀~14世紀代の在銘の五輪塔がいったいどのくらいあるか府県単位や旧国(摂津、尾張など昔の行政区分)単位で指折り考えてみればわかる。近江は十分にアベレージをクリアしているだろう。要するに石造美術最盛期の宝篋印塔や宝塔に比べ五輪塔が相対的に少ないというに過ぎない。宝篋印塔や宝塔、石灯籠が段違いに多いため、五輪塔も平均以上に存在しているにもかかわらず埋没して捉えられているのである。(層塔も似たような状況)

五輪塔を例に述べたが、結局こうした数量的な地域特徴も含め、石造美術の種別や構造形式、石材といった各属性を把握分析し、その上で地理的・時期的分布の濃淡や重なりぐあい(位相とでもいうのだろうか)を解明しその背景を考察することが、単に美術史にとどまらず祖先たちの精神面や経済面も含めて中世日本の社会構造を理解することにつながるのだろう。

写真(いずれも大形の優品ながら紀年銘はない)

左:西浅井町大浦観音堂五輪塔(13世紀前半~中頃)近江最古の五輪塔のひとつとして知られています。近江の五輪塔を語る場合これは外せないでしょう。

右:東近江市勝堂墓地(14世紀中頃)こっちはそれほど有名じゃないけど結構いけてます。


滋賀県 東近江市長勝寺町 長勝寺宝塔

2007-09-08 08:38:30 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 東近江市長勝寺町 長勝寺宝塔

旧神崎郡能登川町の東方、愛知川の西に和田山がある。和田山は旧五個荘町にまたがる標高約180mの独立丘陵で、観音寺城の支城和田山城跡の遺構が残っている。ピークから西に伸びる尾根上にある長勝寺(臨済宗妙心寺派如意山長勝禅寺)へ向かう長い石段の参道を登ると、中腹に花崗岩製の石造宝塔が立っている。03_7 石垣状の基壇は後世のもの。基礎は側面3方に輪郭、格狭間内に三茎蓮華文を配する。背面のみ素面。基礎は背が高い印象だが基礎底面は不整形でどこから高さを測るかにより幅:高さ比のパーセンテージは変わるだろう。輪郭幅は薄く、三茎蓮華文は宝瓶を備えいずれも概ね対称的だが、3面それぞれ少しずつデザインを変え、なかなか凝っているが、格狭間に関しては、脚部が長めでハ字に開き、花頭中央が狭く、連続する弧から側線につづく曲線もややぎこちなく、意匠的には洗練されているとはいえない。塔身は首部と軸部の間に匂欄部を配した一石作りで、軸部はやや下端がすぼまり、上部饅頭型部分の曲線は弱い円筒形で、首部に比べ匂欄が高い。軸部正面にのみ鳥居型を大きく薄肉彫するほかは素面。笠裏の斗拱型は2段で上段はやや薄く、下段は厚いが幅は軒幅に比べ狭い。四柱の屋だるみ、軒反りともにかなりきついが、軒先の厚みがそれ程でもないので軽快な感じである。隅降棟は断面凸状突帯で、隣接する左右が露盤下で連結する。露盤は高い。相輪は第1輪以上を欠損し、無縫塔の塔身らしきものが載せてある。伏鉢・下請花の曲線は良好で、下請花は複弁。田岡香逸氏によれば素面の基礎側面に「嘉暦二年(1327年) 六月日/願主 阿闍梨…」の銘があるといわれるが肉眼で02_22は確認できない。基礎、匂欄、斗拱部といったディテールを高めにしているためか塔全体のフォルムが縦長で安定感に欠け、落ち着かない印象の意匠になっている。相輪は大半を欠損しているものの残存部を見る限りその表現は優秀である。現高約2.2mで元は10尺塔と思われ、規模も大きい。紀年銘とあいまって鎌倉末期の指標となる貴重な遺品である。

 なお、石段登口に右手に「一字一石血書法華塔」碑がある。 近世のもので、小石に法華経の一文字を書いて納めた一字一石の経塚は少なくないが、このように血書と明記したものは稀である。大勢の結縁者がそれぞれ血を混ぜた墨で文字を書いたのだろう。(一人でやると貧血で倒れそう…)法華経の文字数である万個弱の小石がこの下に埋めてあるのだろう。祖先の信仰への思いを伝えるものとして注目される。

先に紹介しました旧五個荘町の河曲神社や下日吉の山の脇の宝塔とは1km内外の至近距離にあり、それぞれに個性があって、構造形式や意匠の相違点や共通点を見比べてみるとおもしろいと思います。あわせて見学されることをお勧めします。

参考:田岡香逸 「近江能登川町の石造美術」(1) 『民族文化』55号

   瀬川欣一 『近江石の文化財』 129ページ


記事について

2007-09-04 09:07:27 | ひとりごと

だんだん書きためてきた記事を改めて読み返すと、いろいろ誤字脱字や遺漏があることに気づきます。また、改めて稚拙な文章に嫌気がさすこともあります。誠にトホホな話ですが、誤字脱字などは気づき次第、こっそり訂正して更新をかけています。お許しください。ただし、大勢に影響のない範囲です。大きい訂正ごとがあれば、そう、例えば表明した年代観などが再考の結果、やっぱり誤りでしたというようなことがあれば、それはそれで説明責任を果たすべく新たな記事をおこさなければならないと考えています。もとより不勉強ですので、記事内容に疑義や勘違いが溢れていることは否めないと思います。博学諸兄のご叱正を請いたいと痛感しています。敬白