石造美術紀行

石造美術の探訪記

何これ?

2016-05-16 22:08:46 | うんちく・小ネタ

何これ?
 福井県の石造物を見せていただく機会を得ました。日引石や笏谷石という凝灰岩系の石材の産地でもあり、地域色豊かな石造文化が花開いた地域です。
 何せ駈足の見学でしたので、ざっと一瞥した程度の観察で、
とても何かを語れるような資格は小生にはありませんが、近江や大和などではあまり見かけない変わったのがあって、面白かった。やはり石造にはいろんなのがあって地域色が色濃く出るものだなぁということを改めて感じました。せっかくなので印象に残った「何これ?」というのをいくつかご紹介しときます。
 しばらく更新しないと変な広告が勝手に入るので、とても記事にできるような状態ではありませんがとりあえずUPしときます。

宝塔レリーフの箱仏?よく見ると格狭間もあります。文明15年銘。

題目箱仏?明応元年銘。蓮座や宝珠があります。上の方にあるピロピロは天蓋?レリーフの元になったモチーフは何でしょうか?上端に枘があるので別石の蓋屋が載っていたと思いますが…不明。何これ?

宝篋印塔レリーフ板碑。無銘。切石基壇に載り基礎に格狭間が。背光宝篋印塔は大和でもちょくちょく見かけますが、これは額部と二条線がある。塔形の像容板碑?何これ?

題目笠塔婆レリーフ箱仏。大永銘。何これ?

五輪塔レリーフ箱仏。江戸時代初め頃だろうと思いきや、げっ文明の銘が…何これ?

一石題目笠塔婆。慶長銘。別石造の立派なのは京都でも見かけますが、一石はあまり見ない。一石五輪塔の向うを張ったんでしょうか?

一石五輪?板碑?私はいったい誰でしょう。
破損が目立ちますが、ほぼ完全な一石五輪塔が何故か板状の石材にくっついちゃってます。ってことは超立体の五輪板碑か?何これ?


古典などに登場する石造(その4)「道陸神発明の事」

2016-02-21 09:19:34 | うんちく・小ネタ

古典などに登場する石造(その4)「道陸神発明の事」
 今回は『百物語評判』の第3巻の2「道陸神発明の事」というお話を取り上げます。石仏のことが出てきます。
内容は、道陸神、つまり道祖神の説明から始まっています。その部分はだいたい次のような感じです。道陸神は道祖神や祖道とも言って、『春秋左氏伝』では「祖す」といい、『袖中抄』には「みちぶりの神」とある…以下和漢の古今の故事を引いて…要するに旅路の安全を祈る神であると…。そのあと話は突如、路傍に捨てられた石仏に進みます。道祖神が旅の安全を祈る神だと説明し、唐突に路傍の石仏に話がとぶのに少し違和感があります。道祖神と石仏が混同されているようです。なぜでしょうか。おそらく当時、路傍の石仏に旅の安全を祈る習慣があったためではないかと思います。そして石仏と墓標に関して説明が続きますが面白いので煩をいとわず原文をあげます。「然るを今の世に、田舎も京も女童部の云ひならはし侍るは、道路に捨てたる石仏、さまざまの妖怪をなし、人を欺き、世を驚かすと云へり。つらつら按ずるに、中昔のころ、なき人のしるしの石をたつとては、かならず仏体をきざみて、其の下に亡者の法名をしるせり。今の石塔毎に名号をゑりつくるがごとし。その法名などは、星霜ふるに随ひて、石とても消えうせ侍るに、仏体ばかりは、鼻かけ、唇かけながらのこりけるを、聞き伝ふるばかりの末々も、はかなく成りうせて、道に捨てられ、岐にはふらかされて、何れの人のしるしとも覚束なし。只、石仏とのみ、みな人おもへり。思ふに仏は抜苦与楽の本願、六波羅蜜の行体なり。菩薩常不経の法身を具し給へば、まして仏体において、人に捨てられ、世に用ひられずとて、かかる災をなし給ふべきや。その妖をなせるは石仏にはあらず。其のとぶらはるべき子孫もなき、亡者の妄念によりて、天地の間に流転せる亡魂、時に乗じ気につれて、或ひは瘧の鬼となり、又は疫神ともなりて、人をなやまし侍るなるべし。それゆへ、世に瘧疾、疫癘はやり侍る時は、道端に捨てられたる石塔を、縄もてしばり、或ひは牛馬の枯骨を門戸にかけて、其の悪鬼をおどし侍る、まじなひあり。…中略…是れ仏をしばるにあらず。其の石塔に属する所の、亡魂をいましめこらすなり。」そして、疫病が快復した後は、縛った石仏を引き続き供養すべき旨が述べられており、こうした理屈をよくわかってない者が行う「まじない」にも効果はあり、最初に「まじない」を考案した者の功績は大きいと結ばれています。
 17世紀後半当時、京都やその郊外で、路傍に捨てられた石仏が怪異をなすと物見高く口さがない若者たちがまことしやかに言っていたというのです。今でいう都市伝説のような感じだと思います。先に取り上げた『平仮名本・因果物語』「石仏の妖けたる事」もその一種かもしれません。小型の
石仏が元は墓標だったことは、山岡元隣のような一部の識者からは認識されていたようですが、一般的にはすでに忘れ去られようとしていたことがわかります。「中昔」というのは、鎌倉・室町時代でしょうか、その頃は石に仏の像容を彫って墓標とし、法名を刻んだのだと言っています。またそれは、江戸時代前期当時一般的だった石塔に名号を刻むようなものだとも言っています。ここでいう石塔は駒型や櫛型の石塔と思われ、選り作るとあるので、六字名号ではなく戒名でしょう。墓標として造立された石仏も長い年月を経て風化が進み、法名は判読不能となり像容もおぼろげになってしまう。祀るべき子孫も絶えて誰の墓標かもわからなくなり、やがて道や巷に放擲されているのだという解釈は、実に的を射ていると思われます。
 現在でも京都や奈良では古い墓地などに中世に遡る小型の石仏(双仏石、
龕仏、像容板碑を含む)がたくさん見られます。おそらくこうしたものを指していると思われます。そして瘧(マラリア)などの疫病が起きると、石仏を縄で縛る「まじない」が行われていたというのはたいへん興味深い話です。この頃は赤い前掛けはまだ無かったのでしょうか…。
 
今日見る小型の石仏の多くは無銘で、紀年銘や法名を刻むのはむしろ稀です。したがって必ず像容とともに法名を刻んだという点は少し正確ではないようです(法名などは墨書されていた可能性もあります…)。ともあれ、石塔に比べ石仏、特に無銘の小型石仏の詳しい研究はあまり進んでいないように思われ実態はよくわかっていません。かなり古い段階から中世を通じて造立されていた可能性もあります。石仏を考える時、『百物語評判』の記述は興味深い示唆を含んでいます。なお、道祖神というと、ふつう男女の神像を彫った石像を思い浮かべますが、これはたいてい江戸中期以降のものらしく、中世以来の小型石仏とは分けて考えるべきかと思います。少なくともここでははっきり「仏」と言っている点は注意すべきです。地蔵や阿弥陀の像容を刻んだ双仏石が、道祖神と混同されはじめたのもこの頃かもしれません。

参考:高田衛編・校注『江戸怪談集』(下)

『百物語評判』:『諸国
物語評判』ともいい、編者は山岡元恕。貞享3年(1686年)開板。寛文12年(1672年)に42歳で亡くなった俳人で歌学者の山岡元隣が京都六条の自宅で開いた百物語怪談会の話題を一話ごとに批評していく内容です。編者の山岡元恕は元隣の子息で、亡父の遺稿を編集刊行したのだそうです。陰陽五行説を中心に広和漢の典籍を引用してさまざまな怪異現象をQ&A形式で分析・解説していきます。怪談モノと言ってしまえばそれまでですが、当時一流の知識人が、その幅広い知見に基づいて怪異現象を合理的に解釈しようとする姿勢は、むしろ科学的ですらあります。むろん現代の知識からみれば、トンデモなところも含まれますが、卑俗な怪談モノとは一線を画するものです。合理的といっても霊的な世界や信仰宗教を否定しているわけでなく、懐深さのある視点も特長でしょう。江戸時代前期、当時一流の文化人による物事に対する理解の仕方の一端をうかがわせるものと評価できると考えられます。

無縁仏として集積された小型石仏。多くが中世に遡ると見られる(京都市内)


双体の道祖神(現代)「わたしたちは墓標じゃないですよ」

双仏石(三重県伊勢市内 寛永年間)「わたしたちは墓標ですが…何か?」

「そんじゃ、わたしたちは誰なんでしょう?」
辻の小祠に祀られる小型石仏。赤い前掛け&顔が描き直されています。(京都市内)


古典などに登場する石造(その3)

2016-01-05 00:21:39 | うんちく・小ネタ

古典などに登場する石造(その3)「石仏の妖けたる事」『平仮名本・因果物語』巻六の六

 今回は石仏がばけるというお話。だいたい次のような内容です。京都の中京区、坂本町の牢人が、雨の夜更けに横町の小門(挿絵によれば木戸のような所)を通ると門の鴨居に唐傘がくっついて離れない。引っ張っても動かないのを何とか引きはがして家に帰って見てみると、笠の先端部分が引きちぎられていた。「くやしい、化物に唐傘を取られたと笑われるのは恥ずかしい。もう一度戻ってみよう。」と大小を差して勇んで出かけた。傘が鴨居にくっついた横町の小門のところに来ると、何者ともわからない身の丈九尺(約270㎝)ほどの大入道が牢人の腕を捩じ上げて刀を奪うとかき消すように見えなくなった。刀を取られた牢人は力なく家に帰ったが、その後原因不明の病にかかって30日程寝込んでしまった。取られた大小の刀は翌朝、例の小門の近くの水筒桶の上に十字に重ねて置いてあったという。その後もたびたび付近で怪しいことが起きたという。何かの拍子に水筒桶の下に古い石仏を敷石にしてあるのが発見され、妖怪はこの石仏の仕業だったのかと掘り出して大炊の道場に持って行ったところ、その後は怪しいことは起きなくなったと嶋弥左衛門という人が語ったという。
 この話は高田衛編・校注『江戸怪談集』(下)にあり、高田氏の解説によれば、著者は不詳で、鈴木正三の門人といい、寛文年間以前の刊行とされる『片仮名本・因果物語』に新たに巻四以降の話が付加されたものらしい。師の鈴木正三が蒐集した怪談をまとめたものとされています。ともかく時代設定は江戸初期頃と考えていいと思われます。横町というのが何処かわかりませんが、坂本町も大炊の道場も今の中京区、御所御苑の南、竹屋町通の付近なので、そのあたりかそう遠くないところだろうと思います。
 肝心の石仏に関する記述がまるでないのですが、大きい水桶の敷石になるくらいだから、そこそこの大きさだったのではと思います。九尺ほどの大入道というのがそれを示唆しているように思います。
 京都では今も墓地に立派な古い石仏をちょくちょく見かけます。小さい箱仏のようなのも辻に祀られていたりします。このあたりは京でも御所に近い町中で、石仏があるのは少し不思議な気もしますが、交通の要衝に設けられる木戸のようなものだったとすれば横町の小門というのも謎を解くヒントかもしれません。大炊の道場というのも気になります。いずれにしても、何かいわくありそうな古い石仏が、江戸時代の始め頃には既に人々の記憶から忘れ去られ、水桶の敷石に転用されていたということに注意したいです。嶋弥左衛門も不詳。どうも大阪の陣でも活躍した武士らしい。鈴木正三(15791655)は江戸初期の禅僧。元は大阪の陣で活躍した三河武士で、旗本の立場を捨てて出家し、因果物語のような説話を活用するなどして衆生教化に努めた人物。嶋弥左衛門とは旧知の間柄だったという設定でしょうか。大炊の道場というのは聞名寺で、時宗の念仏道場として著名だったところ。江戸時代中頃の火災で移転し今は左京区東大路仁王門通上ルにあります。境内に千本の石像寺(釘抜き地蔵)のレプリカのような立派な「叡山系石仏」が残されています。鎌倉時代の作とされていますが、ま、まさかこれではないでしょうね…。
高田衛編・校注『江戸怪談集』(下)岩波文庫
川勝政太郎『京都の石造美術』


※聞名寺の石仏
二重円光背に小月輪種子を並べた手法が「叡山系」。面相は穏やかでややしもぶくれ気味。
石像寺の凛とした雰囲気がない。頭部、右手、両手先に補修痕があり、うまく継いでますが後補の可能性も否定しきれないようにも思われます…。
「はて、因果物語?大炊の道場はたしかに今はここじゃが、わしゃなんも知らんよ…」


古典などに登場する石造(その2)「亡魂水を所望する事」

2015-01-12 23:31:19 | うんちく・小ネタ

古典などに登場する石造(その2)「亡魂水を所望する事」『義残後覚』巻二の八

 備州谷野(備後甲奴郡矢野郷(広島県府中市上下町)付近に比定)に、介市太夫という人が夜念仏をして三昧(墓地)を廻っていた。田舎では、宵から明け方まで鉦を叩いて念仏を唱えて歩くという念仏行があった。
 ある時、石浜勘左衛門という人が、所要があって偶々夜中に谷野の墓地を通ったところ、石塔・卒塔婆の陰から二十歳くらいの女の人が白い帷子を着て髪を乱した姿で現れ「水を一口ください」と請う。すると勘左衛門、「何だお前は!幽霊が誑かそうとするか!」と刃一閃、斬りつけると女は跡形もなく消えてしまった。勘左衛門は足早に自宅に立ち帰るなりぶるぶる震えて寝込んでしまい、病みついて百日後に死んでしまった。
 それを聞いた介市太夫が、早速鉦を頸にかけて夜半に出かけた。念仏をして墓地を回ると例の幽霊が出てきて念仏に感謝し、自分が死んだ際には、供養してくれる出家者もなく、信心もなかったのでこうして浮かばれずにいたが、あなたに剃髪してもらい供養してもらいたい、と頼んできた。今日は剃刀の準備がないので、明日の夜、用意をして髪を剃ってあげよう、と答えると、幽霊は感謝し、さらに喉が渇くので水を一口くださいという。介市太夫は谷間に行って鉦に水を汲んできて飲ませた。
 宿に帰った介市太夫は、「侍衆」にこんな不思議なことはないので、夕方に墓地に行って離れてご見物なさいと伝えると、大勢が墓地のそこかしこに隠れて様子を見守った。夜半に介市太夫が墓地に行くと、例の女の幽霊が現われた。念仏を勧めながら女の頭に剃刀をあてがって髪をそろりそろりと剃っていく。
 やがて東の空がほのぼの明け始める。隠れていた侍衆が集まってきて見れば、介市太夫が剃刀をあてがっていたのはなんと二尺ばかりの「五輪のかしら」で、古ぼけた五輪塔を覆っていた蔦や苔を剃刀でそぎ落としていたのだった。こういうこともあるのだ、と猛々しい武士たちも菩提心を深くし、亡霊も成仏したとみえてその後は現れなかった…というお話。

 小生も打ち捨てられた五輪塔の残欠が苔むしているのをよく見かけますが、怖いというより何となく物悲しい印象のお話です。
 高田氏の解説によると、出典の『義残後覚』の編著者は愚軒、文禄5(1596)年の識語が国立国会図書館蔵の転写本にあるとのこと。16世紀末頃の成立らしい。愚軒という人物は詳細不詳で、高田氏は豊臣秀次の伽衆の一人と推定されています。『義残後覚』の内容は、怪談に特化したものではなく、戦国時代の様々なエピソード集だそうです。
 この話からは、16世紀末頃には既に誰にも供養されず苔むした五輪塔が三昧にあったらしいこと、地方などでは、往々にしてこうした夜念仏が行われていたらしいことがわかります。夜念仏供養関係の石造物は各地にあります。さらに、白い帷子で髪を振り乱すという幽霊の定番のキャラが江戸時代以前、既に出来ていた可能性を示しています。亡霊が勘左衛門に水を請うくだり、原文では「この石塔にあふて、ねがわくは水を一くち賜び候へ」とあり、「石塔にあふて」の意味が今ひとつわかりにくいですが、有名な『餓鬼草紙』の「食水餓鬼」のシーンを思い出せば、「石塔にあわせて」とか「石塔ごしに」or「石塔にそわせて」というような意味なのかなと思います。介市太夫が水を与えるくだり、原文は「はるばる谷へ行きて、叩き鉦にすくふて、亡魂にぞ与えける」とあります。その三昧は、近くに水場がない少し高い場所に立地する設定だと思量されます。中世墓は往々勝地にあり、墓地のそういう立地条件を読み取れるかもしれません。「侍衆」と介市太夫の関係はよくわかりませんが、日ごろから付き合いのあるスポンサーのような帰依者という設定なのか、彼自身が侍衆の一人で在家の念仏者だったのか…、少なくとも侍衆と念仏者が近しい関係だという設定かと思われます。「五輪のかしら」とあるのは五輪塔の空風輪部分と思われ、2尺ばかりというから約60㎝、空風輪としてはかなり大きいものです。それとも塔高が約60㎝の小型五輪塔の空風輪部分をいうのかは不詳です。人頭大ということを言いたかったのでしょうか…。
 こうした話が読者に受け入れられるには、いかにもな、まことしやかな設定、信ぴょう性のあるフィクションが求められるので、話の設定の裏に、当時の世間一般的な"事象"に対する常識的な理解の仕方というものが潜んでいるはずです。そういう穿った読み方をしていくと面白いと思います。むろん、史実や真実の立証のためのツールということではあまり使えそうにありませんが…。
参考:高田衛編・校注『江戸怪談集』(上)岩波文庫


夜念仏関係の石造物の例(奉寄進常夜灯/夜念仏願主)享保年間の石灯籠の竿の銘。
伊賀市内某廃寺。怪談の舞台のような荒れ果てた山中の無住廃寺。本文とは直接関係ありません。


伊賀の石仏拓本展に行ってきました

2013-09-26 00:12:32 | うんちく・小ネタ

伊賀の石仏拓本展に行ってきました
伊賀の石仏拓本展に行ってきました。
中ノ瀬磨崖仏、清岸寺阿弥陀石仏龕、新堂寺如来石仏、長隆寺阿弥陀石仏、新大仏寺石造須弥壇、日神石仏群、蓮福寺双仏石、蓮花寺十三仏、北山応安地蔵、寺田毘沙門寺文亀箱仏、射手神社裏山明応散蓮地蔵、咸天狗社磨崖鬼子母神…等々、01_3総高4m近い見上げるような磨崖仏から小さな箱仏まで、伊賀の石仏の代表選手ともいうべき有名どころをはじめ知る人ぞ知る隠れた名品も含め、市田進一氏が採拓された大小の貴重な拓本三十数点を間近に見ることが出来ました。
写真では伝わりにくい、実物を現場でしげしげと眺めても気づきにくい特長も、拓本になってはじめて見えてくることも少なくありません。02_5特に石仏は、造形が単純な石塔類に比べ、表情や雰囲気といった伝わりにくい特長があって、実測図でもそこはなかなか及ばない。拓本ならではの表現力というものに改めて感心させられました。さらに、会場では市田さんご本人から興味深いお話を直接うかがうこともできました。
会場は伊賀上野城の大天守閣一階で10月20日まで、おすすめです。
 伊賀上野城は、大和から転封された筒井高次が築き、筒井家改易の後、津藩領に組み込まれ、藤堂高虎が大幅に改築してほぼ現在の姿になったとされています。30mの高石垣は大阪城と1・2を争う高さを誇り、昭和の復興天守閣が威容を見せています。平地に囲まれた小高い台地を利用した平山城で、天守は早くに失われ再建されることはなかったようです。現在の復興天守は三層の所謂模擬天守で、五層の層塔型であったと推測される藤堂高虎築城当時の姿を正しく伝えるものではありませんが、白亜の城壁は「お城」の雰囲気を盛り上げるのに一役買っていることは確かです。また、松尾芭蕉の遺徳を偲び城跡の一角に建てられた「俳聖殿」は、屋根の曲線が独特の檜皮葺の重層建築で、日本建築史の泰斗、かの伊東忠太博士の設計になる建築です。なお、筒井氏の拠点が置かれる以前、この付近に平楽寺という中世寺院があったとも言われています。そのせいか城跡には石塔の残欠が散在し、小型の五輪塔や宝篋印塔の笠石などが集められている箇所もあります。中には室町時代の紀年銘も確認されているそうです。


川勝博士怒る

2013-02-09 22:39:05 | うんちく・小ネタ

川勝博士怒る
 川勝政太郎博士がひどく怒っている記事を見つけました。生前に親しく謦咳に接する機会はありませんでしたので、実際の人となりを知っているわけではありませんが、少なくともお人柄について書かれたものは、おしなべて穏厚な人格者で、博士の文章を読んでも、常に啓蒙的なスタンスから高度な内容を平易に述べる穏やかな文体で、文章からもそのお人柄がうかがえます。また、他者への反論や批判めいたことを書かれることは多くなく、その場合でも言葉を選んでやんわりと書かれていることが多いように思います。(このあたりが舌鋒鋭い西宮のT先生と違うところですが…)
 その川勝博士が珍しく厳しい口調で怒っておられます。それは「京都林泉協会の「石造美術」に対する説明について」という文においてで、昭和42年2月1日発行の『史迹と美術』第372号に載せておられます。内容は、京都林泉協会編のある書物の中に、石造美術という語がそもそも庭園の関係から生まれ、庭園に配置される石灯籠や見立物に転用された石塔類に注目して研究がスタートし、やがてそれ以外の石仏や石標、石橋なども含めて扱うようになったという趣旨のことが書いてあったことに対する反論です。以下一部を引用しますと、「我田引水を通り越して、事実を曲げる文章である。昭和八年五月に発行された京都美術大観『石造美術』を私が執筆した。この時に石造美術という語がはじめて生まれ、この書物の第一頁に「石造美術という名称は、石で作った美術という意味で、従ってこの名称の下に属するものは頗る広汎に亙るわけである。今その種類を挙げて見ると。石仏・五輪塔・宝篋印塔・層塔・多宝塔・宝塔・板碑・石幢・石燈籠・石鳥居・石龕・石壇・狛犬・石橋・手水鉢等を含むことになる。」と述べているのである。石造遺物の総合研究のために生まれた語であって、「庭園の関係から生まれた語ではない。」…中略…(石灯籠と石塔類以外の石仏なども)最初から対象にしている。私たちは石造美術の形式学的研究、文化史的研究にとりくんでいるのであって、庭の石造品のためにやっているのではない。庭園研究家がこれを利用されるのは当然であるが、公開の単行本の上での暴言に対しては黙っているわけにはいかない…後略」
 京都林泉協会は川勝博士と関係浅からぬ重森三玲氏が主催された庭園を扱う有志の研究会で、川勝博士も創設以来役員か何かの委員をされておられたはずです。戦後すぐの一時期、重森邸に居候させてもらったこともある川勝博士の史迹美術同攷会とは友好関係にあったはずですが、その京都林泉協会の書物に対して強い口調で反論されるからには、よほど腹に据えかねたのだと思われます。庭の石造品のための研究というのは確かに本末転倒で言語道断、石造美術という用語の産みの親である川勝政太郎博士の思いが伝わる興味深いエピソードです。なかんずく「石造遺物の総合研究のため」、「形式学的研究、文化史的研究にとりくんでいる」という表現に我々は注意する必要があると思います。


天沼俊一博士

2012-06-27 00:27:04 | うんちく・小ネタ

天沼俊一博士

先ごろ黒谷金戒光明寺を訪ねた際、天沼俊一博士(1876-1947)のお墓にお参りさせていただきました。ここの御影堂を設計された京都帝大教授であった工学博士です。Photo建築史学、とりわけ細部様式のオーソリティですが、実は石造の研究のパイオニアのお一人で、川勝政太郎博士が師事されたことで知られています。川勝博士は次のように述懐されています。「昭和3年の春天沼先生の知遇を得た頃、私は23歳の青二才であったが、先生から古建築についていろいろのことを教えて頂くために、自分で質問を準備して京大の建築学教室へ三日にあけず足を運んだ。…世間では気難しい先生、偏屈な先生という評判もあったのだが、私はそんなことを何も知らなかったから、ずいぶん無遠慮におそれ気もなく推参していた。そして先生も迷惑らしい顔もされず、何時でも親しく教えてくださった…」、「青年の日から指導を受けた関係から、学問上のことやその他のことにも私は天沼先生の影響を多く受けている。私はそれを喜んでいる…見学に月の半ばを割いてお伴をし、数年の間は家に半分、先生と旅行が半分というほどの熱の上げ方で、実地について古建築の研究を教わった。まったく私は幸運な一人であったと思う」、「図面と写真と拓本…この3つを作ることは物を注意深く模索することになる。自分の観察したところを書けというのが先生の常々の教えであった」。

また、その後当時25歳の川勝博士が昭和5年に史迹美術同攷会を立ち上げ『史迹と美術』誌を発刊される際、逡巡されていた川勝博士に発刊を勧め、困った時はいつでも原稿を寄せると天沼博士に励まされたことで決心がついたといわれています。天沼博士との出会いや勧励がなければ、あるいは、のちに石造美術研究を大成された川勝博士の業績はなかったかもしれないということを考える時、小生の天沼博士への関心はいやがおうでも高まります。そこで、石造の分野でも最近はあまりお名を耳にし目にする機会も少なくなった観もある天沼博士について少しご紹介したいと思います。

 我国近代建築学の父と称されるのが、欧米から招かれ明治近代化の先導役を努めた所謂お雇い外国人の一人であったジョサイア・コンドル(JosiahKondoer(1852-1920))だと言われています。その最初の教え子で我国近代建築界の大立物だったのが辰野金吾(1854-1919)で、辰野の教え子に日本建築史学の草分けであった伊東忠太(1867-1954)や関野貞(1868-1935)がいます。さらにその教え子だったのが武田五一(1872-1938)や天沼博士で、ともに京都帝大の建築学科立ち上げの際の教官でした。

 天沼博士は東京芝区南佐久間町(現在の港区西新橋)のご出身で、少年時代は昆虫採集が好きなちょっとエキセントリックな子供だったそうで、昆虫学を専攻したいと考えておられたようです。それでも親の勧めもあって当時は東京に「帝国大学」がただ1つだけだったという大学の土木学科に入学することになりましたが、入学一週間前に建築学科に転科を願い出られ認められたそうです。とはいえ初めはあまりやる気がなかったようで、「そこでまぁ建築学科へ入ったには入ったが、さて、どうも何だか仕方がなしに入ったというような気がして、どうもやる気になれなかったから、そういってはすまないが、いやいやながら毎日学校へ通っているという調子であった」と述懐されています。その後、古建築の魅力に目覚められて大学院に進み、日露戦争で歩兵少尉に任ぜられ東京郊外で工廠建設の現場監督をされた後、明治39年、31歳の時、恩師である関野貞の勧めで奈良県に古社寺修理の技師として赴任されました。この時には東京駅はまだなくて新橋から汽車に乗って出発されたそうです。そして奈良にあること12年、東大寺大仏殿や唐招提寺講堂といった名だたる古建築の修理に携わられる傍ら、給料泥棒と揶揄されるような比較的自由度の高い環境で精力的に古建築や石塔等の調査に勤しまれたとのことです。大正7年に京都府の技師に転じ、翌年工学博士となり、京都府技師兼務で京都帝大助教授に就任されました。大正10年から2年間の海外留学を経て大正12年には教授に昇られました。武田・天沼の両御大に支えられた京都帝大建築史の学統からは村田治郎(1895-1985)、藤原義一(1898-1969)、福山敏男(1905-1995)等々優れた建築史家を輩出します。昭和11年に定年退官、退官後も多数の著作をあらわされ、四天王寺五重塔(戦災で焼失)や金戒光明寺御影堂などの設計を手がけられています。ちなみに天沼博士が設計に携われた建築物としてはこのほか東福寺本堂、本能寺本堂、道明寺正門・本堂などがあり、高野山の金堂並びに大塔は武田五一との共同作業です。戦後間もない昭和22年9月1日、脳溢血により忽然世を去られました。享年72歳。心墖院天眞抱一居士。生前親しく交際された法隆寺佐伯管主による法名だそうです。

 奈良に赴任されていた頃、石塔をはじめとする石造物の調査に熱をあげ、その後何年かして止めてしまったが石灯籠だけはその後も続けている旨の記述を残されています。国東半島を中心に分布する独特の石造宝塔に「国東塔」との名を付けられたのも天沼博士です。天沼博士の石造物研究の後を継ぎ、一層発展させたのが川勝博士と言えるでしょう。天沼博士は古建築の細部様式を中心に深く探求されると同時に、名著といわれるような我国建築史を通覧する図録やテキストをまとめられています。何かと誤解され、あるいは忘れ去られつつあった古建築の実情に対する問題意識を強く持っておられたようで、日本古来の建築の素晴らしさや正しい理解を世に広めるために著作、講演、エクスカーション等々熱心に取り組まれました。同じようなことは石造物にも当てはまります。川勝博士の学風に啓蒙的なところがあるのは天沼博士の影響が大きいと思われます。川勝博士をはじめ小川晴暘(1894-1960)、高田十郎(1881-1952)、重森三玲(1896-1975)、中野楚渓(?-?)、大脇正一(?-1946)といった在野のユニークな研究者達(それぞれ一家を成す錚々たる人達です)と親しく交際・指導されたり、芸苑巡礼会あるいは天王会という有志の勉強会の顧問役となって同好の士のネットワーク形成に協力されていたというのも天沼博士の啓蒙的な取組みの一環だったといえるでしょう。天王会ではメンバーをあだ名で呼ぶ決まりがあり、川勝博士は「式部卿」と呼ばれていたといいます。興味深いエピソードですね。ところで、天沼博士は「八戸成蟲楼」という面白いペンネームを用いられました。これは、やっと今頃になって博士の学位をもらったという喜びを少々自嘲気味に表現されたお気に入りのペンネームだったらしく、昆虫採集が好きだった少年時代の痕跡を認めることができます。当時学生だった村田治郎博士(後の京都帝大教授)はペンネームの由来や読み方を知らなかったため、天沼博士のお住まいに「成蟲楼」という額が架かっているかもしれないとわざわざ見に行ったそうで、後から武田五一博士に「成蟲はイマゴ(Imago)と読むんだよ。英和の字引を引いてみたまえ。イマゴに成蟲という訳がちゃんと出ているよ。だからヤットイマゴロさ。学位をもらった記念だね。天沼君だいぶんご自慢のようだぜ」と教わったというエピソードを述懐されています。さらに「天沼先生は万事につけて理非をはっきりさせて、些細なことでもいい加減に済ませることは決してされなかった。正反対の武田五一先生と「天沼君は神経質過ぎるよ」「あなたの方が無神経なんですよ」とよく応酬されているのを聞いた」というエピソードを藤原義一博士が書かれています。武田博士は天沼博士の先輩で、関西建築界の父と称される偉い人物ですが、なかなか磊落な方だったようで、何だかその様子が目に浮かぶような面白いお話です。

 天沼博士のお人柄について、学問は言うまでもなく礼儀作法に厳しく、何事もきちんとしていないと気が済まない恐ろしく生真面目な方だったようです。それでいてシャイでちょっとシニカルな気難しい人物という話もありますが、江戸っ子気質で洒落を解される側面があり、実に人間味あふれる方だったようです。また、個人主義、つまり高いインテリジェンスで自己統制された個々人の独自性や自律性を重んじるというインディビジュアリズミックな方だったようです。「夏目漱石(1867-1916)の「坊ちゃん」などとものの考え方がすごぶるよく似ている」と評されたのは高田十郎氏で、なるほどわかりやすいたとえだと思いました。藤原博士によれば「ネクタイも、カラーもきちんとして、寸分の乱れもない実に几帳面な感じの先生であった」、「準備なしに事を運ばれることは絶対になかったといってよい」とされています。さらによく一緒に旅行した小川晴暘氏は「先生は、ずいぶん気難し屋さんだという噂であるが、汽車中の先生は、ユーモアたっぷりの話し上手で、長の道中を少しも飽きさせない。座談は名人だと思った。しかしきちんとした紳士で、時々は気難しいことを言われる。私はそのおかげで、先生に古建築だけでなく、人間としての心がけや、西洋流の行儀作法までも教わる機会を得たことを今でも喜んでいる」と述べられています。さらに旅行中のエピソードとして、おなじみの宿に泊まると「宿の主人がお湯が沸きましたからお風呂にお入りと言ってきたので先生と二人で五右衛門風呂に入りにいった。先生は湯につかる前に、石鹸で体をすっかり洗い流してから入られる。そしてタオルは湯槽の外に置かれて、静かにつかっておられた。私は、お湯を汲み出して体を洗ってからまずお湯につかって、流し場で石鹸を使う習慣にしていると申し上げると、先生は、我々に今日の初風呂をすすめてくれたのであるから、後から入る人の迷惑にならぬように、一日の垢を十分洗い落としてからお湯は温まるだけにすべきだと言われた。…先生の入浴ぶりは、先生独特の道徳観からであり、万事がこのお気持ちから出ている事をみて、他人のいう「気難しい先生」を一層尊敬せずにいられなかった」と述懐されています。川勝博士も「…学者として高い地位を占められていたにもかかわらず威張られることはなかった。それはまた威張る人をお嫌いであったということでもあった。人との応接は非常に丁寧で私ごときも一度も粗略に扱われたことがない。実に偉い先生だと一層感服した」、「先生はなかなか几帳面な方であり、また人に迷惑をかけるのを恐れ、自分も迷惑をかけられることを嫌われた」などと述べておられます。何でも川勝博士がみどり夫人と結婚される際、仲人を頼まれ気安く引き受けたはいいが仲人は夫婦揃ってするものと知らず奥さんからそのことを知らされ、驚いて翌日には断って式には一人で出席したとか、家族に告げた予定の日時より早く旅行から京都に帰ることになった際に、わざわざ駅前のホテルで一泊してから予定の日時に帰宅したという面白エピソードが残されています。こうしたエピソードを知るにつけ、天沼博士に対するリスペクトが俄然高まっている小生であります。

 

参考:天沼俊一『成蟲楼随筆』

        〃    『続成蟲楼随筆』

        〃    『続々成蟲楼随筆』

     八戸成蟲楼「古建築追懐」『史迹と美術』第84号

     村田治郎「大正九年ころの事」『史迹と美術』第187号

     藤原義一「氷雨降る妙成寺」『史迹と美術』第187号

     小川晴暘「朝鮮古寺巡礼の想出」『史迹と美術』第187号

     川勝政太郎「天沼先生の人間味」『史迹と美術』第188号

     天沼 香『ある「大正」の精神―建築史家天沼俊一の思想と生活―』吉川弘文館

  ※ 勝手ながら文中引用部分の仮名遣い等一部改めました。


各部の名称などについて(その5)

2008-11-16 23:26:23 | うんちく・小ネタ

各部の名称などについて(その5)

時代区分について、石造美術関連で真正面から取り上げられたのは田岡香逸氏です。その著書「石造美術概説」や「近江の石造美術6」等において、石造美術を扱う場合に特に重要な中世、つまり鎌倉時代から室町時代の区分について、概ね次のような私案を示しておられます。

鎌倉時代前期前半:1185年(文治元年)~1209年(承元3年)

鎌倉時代前期後半:1210年(承元4年)~1234年(文暦元年)

鎌倉時代中期前半:1235年(文暦2年/嘉禎元年)~1259年(正元元年)

鎌倉時代中期後半:1260年(正元2年/文応元年)~1284年(弘安7年)

鎌倉時代後期前半:1285年(弘安8年)~1309年(延慶2年)

鎌倉時代後期後半:1310年(延慶3年)~1333年(元弘3年/正慶2年)

南北朝時代前期前半:1334年(元弘4年/建武元年)~1344年(興国5年(康永3年))

南北朝時代前期後半:1345年(興国6年(康永4年/貞和元年))~1354年(正平9年(文和3年))

南北朝時代中期前半:1355年(正平10年(文和4年))~1364年(正平19年(貞治3年))

南北朝時代中期後半:1365年(正平20年(貞治4年))~1374年(文中3年(応安7年))

南北朝時代後期前半:1375年(文中4年/天授元年(応安8年/永和元年))~1384年(弘和4年/元中元年(永徳4年/至徳元年))

南北朝時代後期後半:1385年(元中2年(至徳2年))~1393年(明徳4年)

室町時代前期前半:1394年(明徳5年/応永元年)~1430年(永享2年)

室町時代前期後半:1431年(永享3年)~1467年(文正2年/応仁元年)

室町時代中期前半:1468年(応仁2年)~1504年(文亀4年/永正元年)

室町時代中期後半:1505年(永正2年)~1541年(天文10年)

室町時代後期前半:1542年(天文11年)~1578年(天正6年)

室町時代後期後半:1579年(天正7年)~1615年(慶長20年/元和元年)

安土桃山時代は室町時代に含めてしまい、各時代を単純に三等分し客観性を担保するというのが田岡氏の趣旨です。(さすがの田岡氏も境目の年は両方にとれるように記載されていますので、どちらでもいいのですが、境目の1年が両方に属するのはおかしいので、「時代」区分は境目の年を新しい時代に入れ、「三期」区分では古い方に入れています。)政治に関係の薄い文化を考える場合、文化史的な観点は重要ですが、特定の形式や様式なりが息長く続いたり、逆にすぐに収束し淘汰されてしまうのに応じて各時代の時系列が伸びたり縮んだりするのは変です。その意味で田岡氏の主張には一定の説得力があります。小生は基本的に便宜上、田岡香逸氏の時代区分に沿って理解しています。(とはいえ短い南北朝の三期区分をさらに前後に分けるのはいかがなものかと思いますが…)一方、川勝政太郎博士は鎌倉時代について「私の前・中・後期の分け方は、鎌倉時代148年間の中ほど嘉禎ごろから正応末年ごろまでを中期とする。58年も幅があるが、必要に応じて中期はじめ、後半、末などと称する。」(「近江宝篋印塔補遺」『史迹と美術』380号)と書かれています。いずれにせよだいたい嘉禎年間から弘安年間が鎌倉時代中期として考えていいわけです。5年や10年程度の違いに拘泥する意味は感じません。また、だいたい室町時代後半を戦国時代ということもありますし、安土桃山時代を使う場合もあります。もう一度言いますが、これらはわかりやすくするための便宜上の目安、方便と考えることが大切です。「西暦○×年○月×日の午前0時00分をもって○×時代中期が終わるのだから11時59分に作られた作品と0時01分に作られた作品には明確に時代の違いというものを認識すべきだ」などという話がナンセンスであることは、どなたにもわかってもらえると思います。要はあまり細かい点に拘泥せず大まかに捉えるべきだと小生は考えるわけです。もうひとつ、時代区分を冠した様式の表現があります。鎌倉後期様式の五輪塔というような場合です。一定の時期に構造形式や意匠表現が定型化し普及した特定の様式をいうわけですが、これは便宜上様式に冠しただけで、必ずその時期の造立であるわけではありません。鎌倉後期様式の五輪塔は絶対に鎌倉後期の造立でなければならないことはなく、南北朝時代の造立になることもありえるので注意を要します。(続く)


各部の名称などについて(その4)

2008-11-16 23:11:46 | うんちく・小ネタ

各部の名称などについて(その4)

石造物に関係する文章や書物を読むと、よく出てくる造立年代にかかる表記、つまり「鎌倉時代前期」とか「室町時代後期」などいう時代区分の表現について述べさせていただきます。

例えばある石造物に元徳2年の造立紀年銘があるとします。造立年代について記述される場合、次のような表現になるでしょう。①西暦の1330年、②文字どおり元徳2年、③鎌倉時代末(または末期ないし終り)、④鎌倉時代後期(ないし後期末)。いったいどの表現が最も適切なのでしょうか、どれも正しく、偽りではありません。時と場合に応じて適宜使い分ければいいわけです。①は一番スッキリしていますが、③や④と組み合わせるといっそうわかりやすいですよね。②だけでは一般にほとんど理解してもらえないでしょう。③や④単独でも何か物足りない感じがします。初めは小生もどうということもなく過ごしてきましたが、色々な本などを読むうちにだんだん疑問が生じてきました。室町時代初め頃と南北朝時代の終り頃って同じじゃないの?同じ対象を人によって鎌倉中期終りとしたり鎌倉後期初めとしたりしているが、鎌倉中期の終り頃って何年頃なんだろう?という具合に「もやもや感」がありました。

そもそもこうした○○時代という区分はたいてい政治史の上の呼び方で、しかも始め・終わりを何年にするのかについては諸説ある場合が多く、いっそう話しをややこしくしています。しかし、一方でこうした時代呼称は広く用いられているので一般にわかりやすいという利点があります。この「わかりやすい」ということは、専門的になればなるほど微細な事柄の正確さを追求するのみに偏重し、時としてひとりよがりなものとなりがちな弊害を考えるとたいへん重要なことです。とりわけ石造物という地味で身近なものの価値を顕彰していこうとする場合、「わかりやすい」ということは特に大切と考えます。

政治権力の担い手が変わろうと、その瞬間から定規で測ったようにピシッと文化芸術面でも著しく様相が変わってしまうということはまずありえません。石造美術のように文化史的な事柄を考える場合、わかりやすく理解を進めるための目安程度に理解しておくべきものと考えています。また、こうした各時代を前・中・後の三期に分けて考えることがあります。しかし、これまたそれぞれ何年から何年までなのかについて明確に規定したものがありません。やはりこうした区分も元々便宜上の目安、わかりやすくするための方便のようなものなので明確に規定することにさして意義を感じません。時代区分に基づく表記に加え、西暦を用いて、○○世紀の中葉とか第○四半期とか初頭とか末頃などの表現を交えて説明しておけば事足りると小生などは考えるわけです。しかし、こういった時代区分の呼称が持つ曖昧さを許せない性分の人もいらっしゃいます。「もやもや感」を解消したい場合はすっきりしますし、それが実際上役に立つのであればいっこう構いません。ところが、これも諸説あって何ともいえないのが現実のようです。このあたりはいったいどうなっているのでしょうか…。(続く)


各部の名称などについて(その3)

2008-10-20 23:16:39 | うんちく・小ネタ

各部の名称などについて(その3)

次に石造宝塔です。宝塔(ほうとう)という言葉自体は塔婆(とうば)類全般を指す美称として用いられることもありますが、ここでいう宝塔というのは単層の多宝塔(たほうとう)のことです。10_2下から基礎、塔身(とうしん)、笠(かさ)、相輪(そうりん)で構成され、五輪塔に比べるとやや複雑に見えますが空風輪の代わりに相輪になっているだけでその基本構成は同様です。稀に相輪ではなく請花(うけばな)と宝珠(ほうじゅ)を載せていることもあるようです。08基礎は四角く、上面は平らで、側面には輪郭や格狭間などで装飾されることがあります。上面に塔身受を設ける例がありますが数は少ないようです。基礎の下には基壇や台座を設ける場合もあります。塔身は平面円形の円筒形や宝瓶形で、基本的に首部(しゅぶ)と軸部(じくぶ)からなり、首部の下に匂欄(こうらん)部を設けたり、軸部の上に縁板(えんいた)(框座(かまちざ))を設けることもあります。軸部には法華経の見宝塔品(けんほうとうぼん)にある多宝如来と釈迦如来の二仏並座像を表現する場合のほかに、種子を薬研彫したり単独の如来坐像を刻むことがあります。また、扉型(とびらがた)や鳥居型(とりいがた)を突帯で表現する例も少なくありません。円筒形の軸部の上端が曲面になっている場合は饅頭型(まんじゅうがた)ないし亀腹(きふく)を表現したものと考えてよいと思われます。屋根にあたる笠は普通、平面四角形で、底面にあたる笠裏に垂木型(たるきがた)や斗拱型(ときょうがた)を表現する段形を設ける例が多くみられます。垂木型と斗拱型の違いは厚みと位置で判断します。軒口に近い位置に薄く段形がある場合は垂木型、首部に近い位置に厚めに表現される場合は斗拱型となります。両方を組み合わせる場合もあればどちらなのか判断できない場合もあります。また、斗拱型は別石で表現される場合がありますが、垂木型は別石にすることはほとんどありません。笠の四注(しちゅう)には3筋の突帯で隅降棟(すみくだりむね)を刻みだし、その先に鬼板(おにいた)や稚児棟(ちごむね)まで表現する場合があります。Photo残欠になっている場合、層塔の最上層の笠とは四注の隅降棟の突帯表現の有無で見分けることができます。また、ごく稀に瓦棒(かわらぼう)や垂木(たるき)を一本一本表現した例があります。笠頂部には露盤(ろばん)を表現した方形段を設けている場合が多いようで、これは層塔の最上層の笠と共通しています。笠上には層塔や宝篋印塔と同じように相輪を載せています。相輪は下から伏鉢(ふくばち)、請花(下)、九輪(くりん)、請花(上)、宝珠の各部位で構成され、ほとんどの場合は一石で彫成された細長い棒状になっていて、下端に枘(ほぞ)があって笠頂部の露盤に穿たれた枘穴(ほぞあな)に挿し込むようになっています。相輪の本格的なものは九輪の上に水煙(すいえん)を設け、上の請花の代わりに竜車(りゅうしゃ)を配しますが、層塔の相輪に多く宝塔や宝篋印塔では非常に稀です。相輪は細く長いため、どうしても途中で折れて先端が亡失することが多いようです。垂木、匂欄、露盤などというのは、建築用語から来ています。石造宝塔の直接の祖形が木造建築等にあるのかどうかはわかりませんが、石造に取り入れられた意匠表現には、木造建築物や工芸品類を手本にしているか、少なくとも意識はしていると考えられる部分が多く見られます。09中世前期に遡るような古い木造建築の宝塔で、石造宝塔と同じ形をした単層のものは残念ながら1基も現存していませんが古い絵図や記録を見る限り確かに存在したようです。雨を基礎に近い部分に受けやすく、腐食が進みやすい構造上の欠陥が原因ともいわれていますが、残っていない本当の理由はよくわかっていません。裳腰(もこし)付きの宝塔である多宝塔(たほうとう)の木造建築はたくさんありますし密教系の仏壇には組物などの複雑な建築構造を表した金属製などの工芸品としての宝塔が多く見られることからも、木造建築や工芸品の意匠表現を石造に導入したと類推をすることは可能です。もっとも石で木造建築の複雑な構造を詳細に表現することには限界があるので、直線的にデフォルメされ、単なる段形や框座になっています。少なくとも逆に石造宝塔をモデルにして後から木造の宝塔や金属工芸の宝塔が創作されたとは考えにくいと思います。そういえば工芸品は除くと、五輪塔や宝篋印塔の木造建築という例はないようです。一方で裳腰付きの宝塔である多宝塔と層塔は、木造建築の方が本格的で、石塔はどちらかというと代替的な感じがします。逆に石造が本格である五輪塔・宝篋印塔とはこの点で一線を画すると考えることが可能です。そして石造の層塔や宝塔は五輪塔や宝篋印塔よりも成立が遡るという点も甚だ興味深いものがあります。脱線しましたが、石造宝塔を考える場合は、五輪塔や宝篋印塔に比べると古建築に関する情報を押さえておくべき度合いが高いということを申し上げておきたかったわけです。なお、宝塔の教義的な裏づけは法華経の見宝塔品にあることが定説化しており、法華経を重んじる天台系の所産と考えられています。比叡山のお膝元である滋賀や京都に石造宝塔が多いこともその証左になっています。しかし見宝塔品には多宝如来のいる宝塔の塔形についての具体的な言及はされていないようです。また、真言宗でも瑜枷塔(ゆがとう)をはじめ同様の塔形を見ることができます。有名な奈良長谷寺の銅版法華説相図(奈良時代前期)に描かれた多宝・釈迦二仏が並座する塔は平面四角の三層構造で、ここでいう宝塔の形状とは似ても似つかないものです。宝塔の塔形が固まってくるのは平安時代の初めに密教が唐から導入されて以降とされており、石造・木造に限らずですが宝塔の形状のルーツについてはまだまだ謎が多いとするしかないようです。(続く)

写真左上:守山市懸所宝塔(14世紀初め頃、近江でも指折りの巨塔で最も手の込んだ意匠表現を見ることができます)写真右:相輪(これは宝篋印塔ものですが宝塔でも同じです)