石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 東近江市下羽田町 光明寺宝篋印塔

2007-02-28 22:26:30 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市下羽田町 光明寺宝篋印塔

下羽田町と上羽田町、柏木町との境近くの三叉路の東に光明寺がある。立派な山門をくぐって広い境内の南に広がる墓地に入るとすぐ右側に歴代住職の墓所と思われる一画があり、生垣に沿って無縫塔がずらり並んだ東端に花崗岩製の宝篋印塔が立っている。高さ約210cmの7尺塔。地面に直接置かれ、基礎西側は植え込みに隠れていDscf3243 る。各側面とも輪郭内に格狭間を入れ、格狭間内は素面のようである。格狭間は花頭曲線が崩れ、側線のカーブもスムーズさを欠いて、何というか、しまりのない南瓜のような形になっている。基礎上は反花で、間弁は隅弁と中央弁の間に隠れ先端がヘの字形に覗き、蓮弁の曲線は全体的に抑揚感がなく扁平になって硬直化した表現である。輪郭、格狭間ともに彫りが浅く、輪郭の左右が広めで、反花の花弁先端が基礎側辺に接しているのも新しい要素である。塔身はやや上寄りに月輪を陰刻し、内に種子を刻む。文字は彫りが浅く線も細い。四面ともキリークとしているのは異例である。笠は上6段、下2段、隅飾は軒と区別して直線的に外反し、2弧輪郭付。輪郭内は素面で、茨の位置が低く、弧が直角で下部の幅が広いのも新しい要素といえる。相輪は、伏鉢の曲線がやや硬く、複弁請花が直線的に広がって九輪は逓減が強めで下部がかなり太く寸詰まりの印象。いわゆる「番傘スタイル」に近づいている。上の請花は扁平な単弁で宝珠は重心が上に偏って先端の尖りが大きめになっている。全体的に保存状態は良好で目だった欠損もなく基礎から相輪まで完存している点は貴重。紀年銘は確認できないため造立時期は不明とするしかないが、相輪や隅飾、基礎の反花など室町時代の特徴をよく示している。恐らく15世紀後半~末ごろのものと思われる。

参考

八日市市史編纂委員会編 『八日市市史』 第2巻中世 637ページ

川勝政太郎 『歴史と文化 近江』 152~153ページ


滋賀県 東近江市野村町 八幡神社宝篋印塔

2007-02-26 22:23:10 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市野村町 八幡神社宝篋印塔

野村町集落の東のはずれに八幡神社がある。目印になるような森や大木もなく、水路沿いの狭い里道の先に小さな祠があるだけで、ちょっとわかりにくい場所にある。祠の裏手にあるゲートボール場の片隅、コンクリート擁壁で仕切って一段高く整地した一画に石塔類が集められている。中央に完形の宝篋印塔がある。明らかにDscf3331 後補の切石の基壇に載せてある。基礎は側面の幅が比較的広く、安定感がある。四方とも輪郭を巻いて格狭間を入れ、3面を側平面より高く盛り上がる開蓮華、一面は珍しく中央を蕾としないで開花とした三茎蓮で飾る。格狭間は横幅があって中央の花頭形が高く左右の弧が下がって、脚部に至る曲線に豊かさがない。上は抑揚のある複弁反花式。花弁先はシャープで側面からの距離があり、塔身受を高めに彫成している。塔身は月輪を廻さないで直接種子を薬研彫するが、彫りは浅く文字も大きくない。種子は風化も手伝ってかはっきり確認できない。どうも通常の四仏種子に見えないので首をひねって眺めていると、天地逆に積まれていることに気づいた。金剛界四仏の種子である。笠は上6段、下2段で、軒からかなり入って二弧輪郭の隅飾が直線的にやや外反しながら立ち上がる。茨の位置はやや低く、輪郭内は無地。笠上に比べ笠下の段形が薄い。相輪も当初のものと思われ、無地の伏鉢と複弁の請花、九輪は各輪間が狭く浅い溝状で、上の宝珠は単弁、宝珠は重心が高い。基礎に大きいヒビが斜めに入っている。基礎から相輪まで当初からのものが揃っていると考えてよい。格狭間の形状、隅飾の茨の位置が低いこと、相輪の宝珠の形などはやや新しい要素で、「八日市市史」では南北朝後半から室町初期とし紀年銘に触れていないが、塔身のキリーク面の左右に正中三年(1326年)丙刀/二月日の紀年銘があるとされる。ただし肉眼での判読は困難である。花崗岩製。高さ約165cmで5尺半塔。白っぽい花崗岩が青空に映え、背景の田園風景とのコントラストが印象深く、いつまでも眺めていたい探訪であった。

参考

滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 126ページ

八日市市史編纂委員会編 『八日市市史』第2巻中世 639~640ページ

 

ちなみに『八日市市史』の石造物に対する記述は総じてあまり詳しくないが、本塔に対する記載を見ると、特殊な三茎蓮や紀年銘に特に触れず「全体としてとくに取り上げるところはなく、中世の一般型といえよう。」と中世の石造美術が希薄な地域に住む小生などから言わせれば信じられないような粗略な扱いを受けている。逆に考えれば、野村八幡神社宝篋印塔でもさほど珍重されないくらいこの地域には中世の石造美術が濃厚に分布していることを示しているともいえる。


滋賀県 東近江市小今町 称名寺宝篋印塔

2007-02-25 09:17:03 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市小今町 称名寺宝篋印塔

小今町の称名寺は集落の中央にあって、東側の蛭兒神社と隣り合い、落ち着いた雰囲気を漂わせている。山門を入ってすぐ右手、築地塀に囲まれた細長い一画が墓地になっており、その一番奥の一段高くなった狭い場所に立派な宝篋印塔が窮屈そうDscf3237 に立っている。墓地は参道から山門をくぐり、境内側の入口から山門方向に戻るようになっているので、一番奥まったところは山門よりも外側で、築地塀を挟んですぐ道路である。道から塀越しに笠と相輪が見える。当初からのものかは不明だが切石を方形に組んだ基壇を2段に設けている。基礎は比較的背が高く、彫りが浅い壇上積式で、基礎の幅に対し高さが高いこともあるが格狭間は円形に近い形状で左右の広がりに欠け中央の花頭曲線の幅がとれていない。また脚が高く退化傾向にある。格狭間内には、正面に開蓮華、右に三茎蓮を入れている。築地塀の陰になって確認できない左側と裏面はそれぞれ散蓮と素面とのことである(※)。基礎上は2段。塔身には月輪を入れず直接金剛界四仏の種子を入れるが、彫りは浅く文字も小さい。笠は、下2段は普通だが、上は珍しく7段。最上段は広めで軒からの逓減は大きくない。隅飾の3弧輪郭のアウトラインは半円の弧線というよりヘの字状で、茨の位置が低く、先端に向かって鋭角的に尖る独特の形状をしている。隅飾裏側つまり段形側の彫成が甘く、4段目に接合する様子が正面からも見えるのは手抜きか未成品のように感じる。軒から入って直線的に外反するが、不思議と正面観ではほぼ直立して見える。隅飾輪郭内部には蓮華座上に月輪を浮彫りにして種子を入れているようだが、判読できない。基礎上と笠の段形は垂直でなくかなり傾斜している。笠は全体的に背が高い印象。相輪は完存しており、低めの伏鉢、複弁の請花、凹凸のはっきりした九輪は逓減率がやや大きく、単弁請花、宝珠と続いていく。伏鉢と下の請花、上の請花と宝珠のくびれは大きい。先端突起はハッキリしているが宝珠は全体にやや扁平で曲線に硬さはない。確認できなかったが塔身ウーンを挟んで永和元(1375)年5月の銘があるという(※)。高さ約232cm(※)は8尺塔の範疇である。細部のディテールには退化傾向や硬さがあるものの、全体的なプロポーションはバランスがとれシャープで美しい。遺存状態も良く、年代指標となる点も貴重。

滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 127ページ


奈良県 天理市稲葉町 三十八柱神社宝篋印塔

2007-02-20 08:55:38 | 奈良県

奈良県 天理市稲葉町 三十八柱神社宝篋印塔

天理市稲葉町集落の南西にこんもり茂る樹木が見える。これが三十八柱神社で、すDscf0893 ぐ北側は塀を隔てて成安寺という小寺院と隣接している。境内の南西隅に近世の常夜灯と並んで宝篋印塔が建つ。相輪は欠損している。笠下2段、笠上6段で、6段目の上には伏鉢を一体成型し、伏鉢に枘穴を穿っている。伏鉢は半分ほど欠損している。隅飾は軒と区別してほぼ直立しているが、まっすぐ立ち上がって途中でやや外反する。現状は1弧無地に見える。かなり風化が進んでおり、2弧輪郭付の痕跡のような部分もあり判然としない。4つとも概ね残っており、笠全体に比して大き過ぎず小さくもない。塔身は四方に月輪を陰刻し、その中央に金剛界四仏の種子を薬研彫する。文字は雄渾な印象は受けないが貧弱さはない。基礎は上2段で、側面四方無地。基壇や台座はなく、代わりに四角く平べったい自然石の上に置かれている。下端の1部はコンクリートで補修されている。基礎は幅に比してやや高さが高い。埋込みを意識して当初から基礎の底が不安定な形状であったためコンクリートで補修された可能性もある。その場合は基礎の相対高が大きいことを差し引いて造立年代を考えなければならないだろう。表面がざらついた感じの材石で、「奈良県史」では花崗岩製とするがやや疑問が残る。欠損する相輪を除く高さ約1mとさして大きいものではない。全体的に均整の取れた造形で、表面の風化は進行しているが、欠損している相輪と伏鉢以外の保存状態は悪くない。造立時期について「奈良県史」では鎌倉末期の造立とされる。笠上伏鉢の構造形式は先に紹介した滋賀県米原市の朝妻神社の宝篋印塔に類例があり、定型化以前のスタイルと思われ、基礎がやや高いのが気になるものの、鎌倉後期に遡っても不思議ではない。隣接する成安寺の西側の本堂裏は墓地になっており、神社の境内に続いている。もとはこっちにあったのであろうか。神社と寺院が隣接していることはしばしばあることであるが、墓地と境内が続いていることは珍しいように思う。

参考 清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 192ページ


石造美術の難しいところ

2007-02-18 10:31:20 | 石造美術について

石造美術の難しいところ

石造物は、身近であるがゆえに状況や環境が変わりやすいものである。これが石造美術研究の難しさのひとつとされる。正しい理解を進める上で混乱を招き、時には保護保存を考える妨げになる。

①さまざまな残欠が適当な部材と組み合わされ寄せ集めになる。②地震などで倒壊し組み直す際に寄せ集めになる。③バラバラになっていたものが復元され本来の形に戻る。④場所が移動する。⑤廃棄される。⑥盗難にあう。などなどが考えられる。偶然か作意か、また善意か悪意かは問わない。状況や環境の変化が多少あろうとも、後世に正しく伝えられていけばそれでいいわけだが、破壊、散逸、誤解を招くような改変は避けなければならないことは当然である。残欠や希少価値の少ないもの、時代が下るものといえども歴史的、文化史的な資料であり、地域における生涯学習や観光の資源たる、「文化“財”」なのである。こうした価値認識が地域で、もっといえば所有者や管理者、住職や檀家、自治会有力者、行政などを含んで正しく理解され、引き継がれていくべきなのだが、数十年や百年の単位でそれを期待していくことは不可能に近い。結局のところ、文化財保護を担う自治体など公的機関の責任において悉皆調査し記録保存し、定期観測していくしかないと考える。そのために公的機関がすべて人やお金を出すということではない。専門家や研究者と連携し地域やボランティアの力などを活用していけば、公的な「持ち出し」を最小限に押さえることも不可能ではないと思う。そして、価値認識を普及させるために、大衆向けに説得力のあるものとして、美術的に優れた石造物の構造形式や時代変遷を明らかにし、背景にある祖先の信仰や思想、生活と伝統などにも思いをいたすことができるように総合的に研究するのである。そしてそうした優品をいわば「広告塔」として石造物全般に価値認識を広く普及させていく、つまり美術的に優れた石造物を研究する目的は、実は残欠や美術的には劣るとされているような石造物の価値を再発見させることにあると思う。川勝博士がそうした考えに基づいておられたことは「石造美術入門」など普及を目的にした著作の前文などを読めば理解できると思う。石造美術研究は価値観を優品だけに特化集約し優品以外は省みないことではない。それでは創始者川勝博士の趣旨を見失った木をみて森をみない姿勢だと思う。


滋賀県 愛荘町畑田 広照寺宝篋印塔

2007-02-18 00:30:33 | 宝篋印塔

滋賀県 愛荘町畑田 広照寺宝篋印塔

畑田集落の南西、公会所に面したささやかな境内が広照寺である。田園集落の寺の風情が漂う。本堂向かって左手に墓地があり、西側の破れかけたフェンス沿いに歴代住職の墓と思われる江戸時代の無縫塔が並んだ一角に、残欠を含めて数基の宝篋印塔がある。

01_1 中央寄りのものは最近新調された切石の基壇上に立ち、ひときわ目立っている。真新しい基壇には明光院念誉善教居士/追善菩提/施主…/平成4年5月吉日と刻まれている。目測5尺塔であろうか。壇上積式基礎、四面とも格狭間を入れ、向かって正面の東側は開蓮華、左は三茎蓮、右は二茎蓮のようで裏面は無地としている。基礎上は側面中央の1弁と隅弁の間に左右に幅を広めに間弁を入れた複弁反花式で、抑揚感はそれ程なく、傾斜の緩過ぎず強過ぎず奥行きのある優美なものである。塔身受部分はそれ程高くない。塔身は陰刻した月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫にする。種子はやや上に偏っていて文字は小さめで雄渾というには程遠い筆である。本来とは逆に東面するキリーク面には丸い傷孔があって美観を損なっている。笠上6段笠下2段、隅飾は軒と区別してほんの少し外反する。二弧輪郭付きで、輪郭内は無地だがほとんど欠損がない。川勝博士が調査された時は相輪上半を欠いていたようだが、何故か現在は相輪も完存しており、伏鉢は低からず高からず、下の請花は複弁で低め、九輪は線刻式、上の請花は単弁、宝珠はややくびれが目立つが側辺に直線的なところはない。花崗岩製。塔身だけはやや石の質感が異なるように見える。寄せ集めの可能性も否定できないが各部のバランスはとれている。銘文は確認できない。開蓮華に2茎蓮と3茎蓮を交える基礎の近江式文様が特徴で、目立った欠損もなく、寄せ集めの疑問は残るがいちおう完存している点は評価されるべき宝篋印塔である。造立時期について川勝博士は鎌倉末期とされる。14世紀前半から中頃ものだろう。

川勝博士は触れておられないが、歴代住職墓地の南隅近くにも小さい宝篋20_2印塔がある。4尺塔だろう。近世墓石基礎上に立つ。相輪は九輪の6段目から上は欠損している。基礎は中央塔同様複弁反花式だが壇上積式ではなく各面に輪郭を巻き格狭間内に開蓮華を飾るようである。(実は西側側面の格狭間内文様の確認を忘れました…)基礎反花は中央弁と両隅弁と左右の間弁よりなり、抑揚感がなく傾斜は緩く、基礎は低く安定感がある。塔身はほぼ正方形で金剛界四仏を大きめに薬研彫するが、月輪はなく、彫りが浅く文字は不明瞭。笠は下2段であるが上は4段しかない点は珍しい。隅飾は2弧輪郭付きで、軒と区別してやや外反する。笠上に比べ笠下の段形は垂角に立ち上がらず傾斜をつけなおかつ低い。規模が小さいので室町時代前半ごろの造立年代が想定されるが、低い基礎、塔身種子が大きめである点は古い要素である。壇上積式と単純輪郭式の相違はあるが、ほぼ同12規模の嘉暦元年(1326年)東近江市五智町興福寺塔の例があり、鎌倉末期まで遡る可能性も残る。笠上4段は類例が少なく面白い。このほかに残欠を寄せ集めた宝篋印塔が2基ある。その内南側寄せ集め塔の笠は、上5段下2段、軒と区別せず輪郭を巻かない素面に直接種子を陰刻した二弧の 隅飾を持つ。川勝博士は鎌倉中期の古式を示すとされるが、小生は、隅飾のサイズと形状、各面に種子を刻む意匠などから13世紀代にもっていくにはちょっと抵抗感がある。川勝博士が調査された数十年前は墓地に転がっていたというが、現在は近世の墓石基礎上に五輪塔の地輪を据え、その上に背の高い塔身とともに載っている。相輪も4輪以上欠損のものを載せてある。全くの寄せ集め状態であるが、塔身は古風でサイズ的にさほど不自然さは感じない。もう1基は全くの寄せ集めで笠と塔身があり室町時代前半のものと思われる。

参考 川勝政太郎 『歴史と文化 近江』 166ページ


滋賀県 蒲生郡竜王町岩井 安楽寺宝塔

2007-02-17 02:34:09 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 蒲生郡竜王町岩井 安楽寺宝塔

 

本堂右手の一角、江戸時代の納経塔らしき大きい石塔の傍らにちょこんと置いてある。基壇は見当たらないが、基礎から相輪まで完存している。高さ約130cm、花崗岩製。基礎は高く立方体に近い。四06_2方輪郭を巻き、退化してチューリップのような線刻の格狭間を入れる。格狭間内は素面。塔身は全体に球形で、上から1/4ほどのところに円盤状の框を廻らせ首部と軸部を分けているが首部は垂直に立ち上がるものではなく軸部の球形の曲線が框部を隔ててそのまま続いている。首部は無地だが軸部の四方に扉型を浅く線刻している。扉型の表現は形式的である。笠も全体に高さが勝って安定感に欠け、軒下2段にやや厚めの垂木型を削り出す。軒は薄く隅に向かって反っているが力強さがない。四注には断面凸形で降棟が表現され露盤下を経由して隣どうしがつながっているのは鎌倉時代からの伝統的な宝塔の笠の特徴をいちおう踏襲しているものの表現に力強さがない。笠の頂きは垂直気味に立ち上げて露盤を表現する。相輪は伏鉢が高く、筒形の上辺のみ丸く彫成し、その上の複弁請花とのくびれも浅いものとなっている。下請花と相輪の境目は太くしまりがない。九輪は下が太く上が細く凹凸は浅く線刻に近い。上の請花は間弁付単弁で九輪との境目が太くしまりがないのは下と同様である。最上部の宝珠は側面の直線が目立ち、先端の尖りが大きく発達する兆しを見せる。番傘状相輪の一歩手前といった感じである。全体として塔身と相輪が大きめで笠や基礎が小さく、安定感や均衡のとれた風格といったものが全く感じられないが、一種コミカルな風情があり、これはこれで愛すべき作品である。紛れもない宝塔だが、塔身が球形になっているせいか何となく五輪塔の風情が漂う。また、笠下の2段は垂木型というよりは宝篋印塔の笠下の趣で、石工にとっては作り慣れた五輪塔や宝篋印塔の製作手法を基本に少し工夫したという感じも受ける。紀年銘は確認できないが、背の高い基礎、退化した格狭間や相輪の形状などから室町時代も後半15世紀末から16世紀前半代のものと推定される。こういう宝塔もなかなか面白い味わいがある。

 

 

 

参考:池内順一郎 『近江の石造遺品』(上) 206~207ページ


京都市右京区 嵯峨ニ尊院門前長神町 二尊院宝篋印塔ほか

2007-02-14 00:33:20 | 京都府

京都市右京区 嵯峨ニ尊院門前長神町 二尊院宝篋印塔ほか

夕暮れ迫る冬の二尊院を参拝した。拝観時間ぎりぎりにお願いしたがゆっくりして構わないとのこと。帰りは山門を閉めてしまうから木戸から出るよう案内していただいた。小倉山の山腹に、凛とした空気が漂う静寂な境内には時間帯のせいもあってか観光客はほとんどいない。本堂の北側、墓地に続く階段をいくと段々状に整地された山腹に近世の立派な石塔が累々と並んでいる。貴族や歴史上の有名人の墓も含まれるようだが、また別の機会とし、階段を登ると小堂があって扉が開いている。法然上人円光大師の廟堂とされる。実は湛空上人の廟所である。扉の中には空公行状碑が見える。羽目石を格狭間で飾る壇上積の立派な基壇上には反花座を葛石と同石で彫り出し、櫛形(に似た形状)の碑を据える。建長5年(1253年)の湛空の示寂から間もない頃の造立と考えられる。この碑に南宋慶元府すなわPhoto_1ち明州、今の寧波出身の梁成覚なる石工の手になる旨が刻まれている。伊派石工の始祖、伊行末と同時代の同郷の同僚にあたる。東大寺再興に尽力し、大野寺の磨崖仏も作った宋人字六郎ほか四人の一人ないし関係者の可能性もある。湛空は法然の高弟であり、石工を宋から招いた重源は法然から推薦され東大寺大勧進職に就いたという説もあり、興味は尽きないが、非常に丹念に作られ、後世の手本にもなったであろう鎌倉中期の宋人石工の手になる意匠や作風を理解するためにも、ここの格狭間や反花はしっかり目に焼き付けておきたい。

墓地の西北端、一番奥まった高所、長方形に整地され低い石垣に画された一角に北から十三重層塔(現十重)、五重層塔、宝篋印塔のPhoto_2順で南北に古石塔が並んでいる。いずれも花崗岩製。案内看板によれば土御門、後嵯峨、亀山の各天皇のものとあるが土地柄から後世付会された伝承であろう。亀山天皇のものとされる宝篋印塔は一説に後奈良天皇のものとされ、やや崩れかけた切石基壇には五輪塔の地輪を流用している部分があり、当初からのものか疑問も残る。基礎は非常に低く、壇上積式で四方に端正な格狭間を入れる。基礎上2段は別石とし、塔身は蓮華座付き月輪内に金剛界四仏の種子を陰刻する。書体は端正だが文字は小さい。笠下2段も別石で、笠上は6段だが、厚めの軒とその上一段が同石で、2段目以上が別石となる。各隅飾も別石で、3弧輪郭付で内部に蓮華座付月輪を平板状に陽刻し内に種子「ア」を陰刻する。隅飾は5段目Photo_3 の高さにまで及び長大で、直線的にかなり外反する。3弧にあわせた曲線が目に触れにくい背後にまで続いていく点は凝った意匠である。相輪は低い伏鉢に比べ下請花がやや大きく、蓮弁は摩滅して判然としない。九輪は凸凹がはっきり刻まれ、その上に水煙を付け、その先は欠損する。かつての写真では笠上に載っているが、今は傍らに置かれている。水煙付相輪を宝篋印塔が採用する例は少なく、通常は層塔に多い。現に層塔がそばにあるので、いちおう入れ替わっている可能性を疑ってよいと思う。鎌倉時代後期の中ごろのものとされる。川勝博士は石造美術発達の頂点の時代感覚を示すもので、“雄大整美”と表現されているがぴったりのPhoto_4形容表現と思う。相輪を含め高さ約260cmと大きい。北の十三重層塔は、現在十一重で相輪を欠く。基礎は2/3以上埋まっており、薄めの輪郭を巻いて格狭間を入れているようだがはっきり確認できない。塔身はやや背が高め、四方舟形に彫りくぼめ蓮華座に坐す如来像を半肉彫する。摩滅気味で少し彫りが平板ではあるが像容は優れている。初層から第四層目までと第五層目から第九層までは軒反の調子がやや異なるように見える。また、第六層と第七層の間、第九層以上がそれぞれ抜けているようで最上部笠だけに垂木表現がなく別物かもしれない。こうした不ぞPhoto_5ろい感からか三石塔でこれだけが重要美術品指定から漏れている。軒反は総じて温和で力強さは感じられない。鎌倉後期から末ごろのものとされる。真ん中の五重層塔は、切石基壇上に四方輪郭格狭間入りの基礎を置き、背高の塔身四方を舟形に彫りくぼめて蓮華座上に如来坐像を半肉彫する。裏に一重に垂木を刻んだ笠の軒は厚く、軒反も力強くシャープな印象を受ける。第二層と第三層の間の逓減に違和感があり、恐らく第三層目と第四層目の二層分が抜けているとみられる。したがって元は七重であったのではないかと推定する。以前の写真を見ると上部を欠損した相輪が載っているが見当たらない。基礎の格狭間は、花頭曲線中央部分に幅があって伸びやかな曲線をみせ、ふくよかな左右側面の曲線と短い脚部の美しい格狭間である。亡失相輪を含め高さ約3.3m余というから現高3m程度。小さいがあなどれない細部を持つ石塔で鎌倉中期の造立とされる。

参考

竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 157~159ページ

川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 196~197ページ

川勝政太郎 『石造美術の旅』 99~101ページ


奈良県 桜井市上之宮 春日神社宝塔

2007-02-11 00:50:55 | 奈良県

奈良県 桜井市上之宮 春日神社宝塔

桜井市の南部、談山神社への街道を挟んで東西に近接する集落に瓜二つの2つの宝塔がある。ひとつは浅古会所前にあるもので、暦応4年(1341年)在銘でしばしば紹介されている。ここでは、もうひとつの方、上之宮の春日神社にある宝塔を紹介したい。

日本最大Photoの埴輪が出土した古墳時代前期の巨大前方後円墳メスリ山古墳の後円部すぐ南東、集落の中ほど、南北に伸びる尾根上に境内を共有するように上宮寺と春日神社がある。寺といっても無住で会所になっている。そこからやや奥まったところ、神社境内東寄りの一段高く整地した場所に麗しい宝塔が立つ。硬い良質の花崗 岩製でところどころ黒雲母が多い部分が斑紋をなして縞状に見え、石材の美しさをいっそう引き立たせている。(縞状の斑紋は変成岩系の特徴とされ花崗片麻岩とすべきかもしれない。)高さ約165cm。最下部には切石基壇状のものがあるようだがほとんど埋まっていて確認できない。その上に端正な繰形座を据え、さらに横3区の輪郭を巻いた低い基礎を大小二段重ねとする。塔身は小ぶりで、軸部はほぼ円筒形で高さと幅に大差がない。軸部の四方に桟唐戸の表現を丁寧に刻み、正面のみは扉を開けて方形に彫りくぼめた内に半肉彫の如来坐像を安置する。軸部上に框状の表現はなく、饅頭型にあたる曲線を経てすぐ首部に続く。首部は細いが匂欄を表現し手の込んだ意匠である。笠は塔身に比べ大きく、笠下には中心に円形の首部受を彫り出し、02_1軒先に向かって二重に垂木を幅広に表現している。軒は四隅で厚みを増して反り上る。軒上端から軒厚の1/3程のところに一条の線刻を四周させて軒先面を上下に区分することで桧皮葺型を表現する。四注の降棟は二重の突帯で露盤下に続き、軒先近くで止めた先に鬼板を表現している。露盤はあっさりしていて、側面素面で低い。相輪は九輪8段目以上を欠損する。伏鉢は比較的背高で続く請花は低くハッキリ確認できないが複弁ないしトリム付の単弁のようで、伏鉢とのくびれはそれほど顕著でない。九輪は凸凹を明確にしたタイプである。この宝塔の最大の特徴は二重の基礎で、浅古会所塔以外に類例を見ない。2つの基礎の大きさの違いと小さい塔身、細く脆弱な首部と大きく伸びやかな笠がみせるバランス感覚は絶妙で、しかも繰形座も含めた全体として均衡を保ち、見る者に精妙で繊細な印象を与えることに成功している。木造建築を模倣し、手の込02_2んだ意匠を随所に見せるところは都祁来迎寺塔や吉野鳳閣寺塔、長谷寺宝塔と共通する大和系宝塔の特徴だが、低い基礎に横三区の輪郭は、先に紹介した滋賀県野洲市比留田蓮長寺宝篋印塔基礎などの例があるが類例は少なく、繰形台座は叡尊塔をはじめ西大寺流の五輪塔に集中的に採用されているが、一般的な複弁反花の台座に比べれば稀で、この宝塔は珍しい構造形式、意匠の宝塔といってよい(もっ とも宝塔自体が大和では珍しい)。遺存状態良好で、規模、構造形式、彫技・意匠とも浅古会所のものとほぼ同じで、甲乙つけがたく、違いは刻銘の有無だけである。同一人か同系の師弟など極めて近しい石工の手により、ほとんど同時期に造立されたともの考えてよい。重要美術品指定(建造物)。大和にあって北嶺延暦寺との結びつきが強く興福寺と血の抗争を繰り広げてきた多武峰に近いこの場所に、天台系とされる石造宝塔が2基あるのは何かあるとかんぐってしまうのは考え過ぎだろうか?造立の歴史的背景への興味は尽きない。

写真…上と中:春日神社宝塔、下:浅古会所宝塔

参考

清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術 238~239ページ


滋賀県 湖南市(旧甲賀郡甲西町)岩根 常永寺五輪塔

2007-02-07 00:49:54 | 五輪塔

滋賀県 湖南市(旧甲賀郡甲西町)岩根 常永寺五輪塔

旧甲西町岩根は北東部を中心に開発が進んでいるが、南西部は山裾に広がる農村のDscf7827 のどかさを残している。常永寺は旧来からの集落部分の東寄りにある。山門を入ると右手、境内東の庭池のほとりに立派な五輪塔があるのがすぐわかる。元は左手の墓地にあったのを移建したという(※1)。2重の切石基壇上に立ち、反花座はない。花崗岩製で塔高188cm。上段の切石基壇は、長短4つの切石からなり、平板な長い切石の広い面を上下にして約30cm弱間隔で平行に並べ、上を跨ぐように五輪塔の地輪を据え、前後の隙間を短い切石でふさぐ形に並べて地輪下には空間が設けられる構造で、北側地輪下の中央付近に接する切石上面に5cm程の半円形の穴が穿たれており、地輪下のスペースへの埋納(火葬骨を落とし込んだ?)を意図した基壇構造であることがわかる(右写真参照)。こうした例はしばしば目にする。五輪塔本体は各部に四門種子をやや小さい文字で陰刻する。空輪は西側背面が1/4ほど縦に欠けていDscf7825 る以外遺存状態は良好。地輪は若干背が高めながら、下部が上端より少し広いため安定感がある。西側背面の「ア」種子の左右に「康永4年(1345年)乙酉二月七日/一結衆敬白」の刻銘があるという(※2)が肉眼ではハッキリ読みきれない。水輪の曲線は美しく、重心はやや上にあるが裾窄まりの印象は受けない。火輪は軒厚く隅の反転はほどほどで力強さはあまり感じない。空風輪のくびれがやや目に付き、空輪宝珠形先端の突起が尖りぎみであるが、曲線はスムーズ。各部のバランスもよく、整美な印象の実に好感が持てる五輪塔である。各部の特徴は南北朝時代前期の傾向をよく表し、塔自体の美しさや良好な遺存状態に加え、紀年銘があることは貴重。市指定文化財で案内看板が傍らに立つ。松の木や銅像に接していて、ちょっと窮屈そうに見える。下段切石基壇の左右に大きめの花立をコンクリートで固定してあるのは、鑑賞する上で視界が遮られるし、基壇も含めた全体構造を保護するという観点からもあまり好ましいとは言えないが、信仰の対象である以上致し方ない。

参考

※1 池内順一郎『近江の石造遺品』(下)409~410ページ及び368ページの図

※2 川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 122ページ