石造美術紀行

石造美術の探訪記

石造美術のシチュエーション・見学者のわがまま(ひとりごと)

2011-04-12 22:52:20 | ひとりごと

石造美術のシチュエーション・見学者のわがまま(ひとりごと)

 

石造美術は、歴史を秘めた石の造形であり、祖先の祈りや思いを現代に伝える貴重な遺産です。ほとんどがPhoto元々は信仰上の必要から作られたもので、そもそも鑑賞的な美術品ではありませんが、人間は本質的に美しいものを志向するため、美術的要素は石造物の造形や装飾のうえに多少を問わずに表れているというのが川勝政太郎博士のお考えです。さらに、展示ケース越しにしか見ることができない美術品ではなく、身近にあって、親しく陽光の下で観察できるのも石造美術の大きな魅力と言えます。幾百年の風雪に耐え、自然の風景と融合して四季折々の姿を見せてくれます。青空の下で散る桜と層塔、あるいは苔むした石仏の傍らに南天の赤い実ある風景、竹林の緑に映えるのは宝篋印塔でしょうか…。Photo_2むろんあくまで歴史的な資料として渇いた眼で見つめることも重要ですが、こうした情景を楽しむことも石造美術を訪ねる際の醍醐味のひとつとして決して否定されるものではありません。ここからは小生のような石造マニアのわがままな放言としてお聞き流しいただきたいのですが、我々見学者にとっては、石造物が置かれた条件や環境は、基本的にそのまま受け入れるしかないわけです。しかし、狭い祠内などに祀られていたり、植栽や保護措置のための柵などで見えにくいのは困ります。現地を訪ねてがっかりしてしまうことがしばしばあります。小生などは美しい情景も楽しみたいし、全体像をいろんな角度から見たいし、細部の様子も近づいて見たい。加えて保護措置も大切だと思うし信仰の対象としてのあり方も否定しない。あれもこれも全部満足させるのは難しいとわかっていてもそうあって欲しいと願うわけで、これをわがままというんでしょうね。しかし、こうした見学者のわがままを高いレベルでクリアしてこそ石造物の魅力を最大限発揮できるし、等閑視されがちな石造物の価値の発揚につながると思うわけです。

じゃあどうすればいいのか具体的にあれこれ考えてみると、樹木草花は情景を構成する要素としてあった方がよいが、極端に近接しては植えない。観察の妨げになるし、枯葉などは酸性ですので表面に堆積すると保存上よくないんじゃないかなと思います。Photo_3柵や覆屋を設置する場合も工夫が欲しい。Photo_3酸性雨、結露や雨水の浸透と凍結による剥離や亀裂を防ぐためには覆屋はあった方がいいし、柵は盗難防止やたくさんの人がみだりに触れたり擦ったりして摩滅を進行させるのも防げる。しかし、覆屋は万一の火災や倒壊した場合には被害が拡大するおそれがあり、柵は地震などで石造物が倒れ、柵も倒れた場合に互いが交錯して破損を助長する可能性があります。覆屋を作る場合は、しっかりした構造で燃えにくい材料が望ましい。ただし、屋内でも全体像を把握でき、少なくとも人ひとりがしゃがんで観察できる程度の壁からの離隔が欲しい。また、暗がりでは細かい部分が見えないので、十分な自然光を四方から取り入れる工夫も欲しい。また柵などは少なくとも石造美術の背丈と柵の長さを合わせた以上の離隔をとるべきと考えます。案内看板もあまり間近に立てない。案内看板の陰になって肝心の石造物が見えないという本末転倒も時々見受けられます。こうして考えてみると、ちょっとした工夫さえあれば小生のわがままもある程度はクリアできそうに思えます。

 

写真:背景のツツジが美しい京都府木津川市岩船寺十三重層塔、桃の花と奈良市般若寺の笠塔婆、去年の写真ですがちょうど今のシーズンがお薦めの春の情景です。雪の一石五輪塔群の寒々とした侘しい情景は東近江市の瓦屋寺です。鮮やかな緑のじゅうたんが敷かれたような苔に映える京都市今熊野墓地の宝塔です。無粋な柵や植栽に囲まれ、窮屈な覆屋に監禁された石造物ではこうした季節感のある情景は期待できません。なお、視界を遮る無粋な邪魔者があるといい写真も撮れないので(腕の問題はさておくとして…)ご紹介もできないわけです。心に残る情景に接した時、立ち去りがたく、何度も訪れたくなります。逆に何度も訪れることによって、はじめて四季折々さまざまに表情を変える石造の魅力に気が付く場合もあります。