石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 木津川市加茂町岩船 岩船墓地六地蔵石仏龕

2010-03-23 01:00:23 | 京都府

京都府 木津川市加茂町岩船 岩船墓地六地蔵石仏龕

岩船寺門前の北、約250m、府道から東に小道を折れ、岩船地区の共同墓地への坂道を登っていくと坂道の左手に笠石を載せた長方形の龕部に六地蔵を刻んだ石仏龕がある。02花崗岩製。箱仏、笠仏のバリエーションのひとつであり、一石六地蔵と呼んでもいいかもしれない。基礎部分には平らな石材がのぞくが、地面に埋まって判然としない。04この基礎部分を除く現高約110cm、寄棟造の笠石は高さ約34cm、間口の軒幅約150.5cm、妻部分の軒幅約71cm。大棟部分は幅約50cm、奥行き約12cm、高さ約5.5cmのかまぼこ状を呈する。軒口は垂直に切り落とし隅に向かって徐々に厚みを増しながら隅近くで緩く反転する。笠裏の垂木型はない。軒厚は中央付近で約8.5cm、隅で約12.5cm。四注並びに屋だるみの曲線はスムーズで、軽快かつ伸びやかで硬い感じは受けない。龕部は幅約130cm、高さ約77cmの横長の長方形で、側面の平らな部分の奥行きは約26.5cm、正面と両側面は平らに彫成しているが、背面は粗叩きのままとし、平らでなく中央付近で厚みが大きくなるので奥行きは最大約30cmほどになる。01正面に幅約114cm、高さ約59cm、四隅を幅約11cmに隅切をした長方形に深く彫り沈め、蓮華座上に立つ地蔵菩薩6体を厚肉彫する。各尊とも蓮華座を合わせた高さ約43.5cm、像高は約38cmである。光背は見受けられない。03面相や衣文は風化・摩滅によりハッキリしない。印相・持物も判然としないが、向かって左から錫杖、宝珠、合掌までは視認できる。右側の三体は柄香炉、宝幢などと思われるが摩滅して確認できない。六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)輪廻の衆生を救済する六地蔵の各尊名、印相、持物は出典により異なり一様でない。体躯のバランスがよく、袖先の衣裾をあまり長くしていないなど像容は古風を伝えており、笠石の軒の様子なども勘案し、南北朝時代頃、概ね14世紀中葉の造立と推定されている。作風優秀で、墓地に置かれる六地蔵としては最古の部類に属する。規模も大きく、一具の笠石も伴っており、笠石付石仏龕(=箱仏、笠仏)のあり方を考えるうえからも注目すべき石仏である。

山本寛二郎 「南山城の石仏」(上)綜芸舎 1986年

中 淳志 「当尾の石仏めぐり」東方出版 2000年

写真右上:六体のお地蔵さま、今も香華が絶えない地元の厚い信仰がうかがえます。長い間撫でられたりしてきたんでしょうか、面相は摩滅しています。向かって左端のお地蔵さまは残念ながら顔面が剥落しています。写真左下:背面の様子、写真右下:寄棟の笠石を上から見たところです。造立時期について、あるいはもう少し降るかもしれませんが、それでも14世紀後半でしょう。例により法量値はコンベクスによる略測なので多少の誤差はご諒承ください。


京都府 木津川市加茂町西小 浄瑠璃寺道町石笠塔婆と「ツジンドの焼け仏」弥陀三尊石仏

2010-03-22 11:46:34 | 京都府

京都府 木津川市加茂町西小 浄瑠璃寺道町石笠塔婆と「ツジンドの焼け仏」弥陀三尊石仏

西小集落の北端、尾根の先端付近の旧道脇の法面のような草地にぽつんと一基の石柱が立っている。01基底部はコンクリートに埋め込まれているが、花崗岩製で現状高約135cm。西側が正面で、幅約26cm、奥行き約21.5cm。上端面は平坦で中心部に径約9cm、高さ約2cmの枘があるので、笠石を載せていたことはまず間違いない。02平らに整形した正面は上方に高さ約13cm、厚さ約1.5cmの薄い額部を作り、すぐ下に五点具足の胎蔵界大日如来の種子「アーンク」を薬研彫し、広く取った中央部分には何も刻まず、下方に「,佛」と陰刻する。この「,」が何を意味するのかは見当がつかない。また、下端にも額部に対応する同様の突出面を作っている。左右側面は平坦に整形しているが素面で刻銘等は何も確認できない。背面は粗叩きのままとする。05なお、ここからほんの10mばかり坂を南に上ったところにある通称「ツジンドの焼け仏」の傍らには箱仏や五輪塔の部材と思しき残欠が数点集積されており、その中に、この笠塔婆の笠石と思しきものが置かれている。平面長方形で約38cm×約34cm、高さ約18cm、軒は垂直に切って穏やかな軒反を示す。屋根は四注を設けた宝形造だが、頂部に露盤はなく、丸く整形する点は珍しい。底面中央に径約9.5cm深さ約2.5cmの枘穴がある。サイズといい枘穴といい、至近距離にある「アーンク」の笠塔婆の笠石としてちょうどいいように思われる。浄瑠璃寺に至る道路沿いにこれとよく似た笠塔婆が2基がある。どれも上端面に枘を有し、笠石を失っている。01_2それぞれ「ウーン」=降三世明王?、「バン」=金剛界大日如来の種子がある。「ウーン」の笠塔婆にだけ月輪がある。03_2金胎両大日と不動明王や金剛薩埵券などの脇侍をあわせ元々は6基があったものが、3基が残ったとされ、従来町石と考えられている。ただ、具体的に何丁と書かれているわけではなく、詳しいことはわからない。なお、500mほど府道を浄瑠璃寺方向に進むと東側に立っている「ウーン」の笠塔婆には、倒木に隠されて現状では下半が確認できないが「応安6年(1373年)癸丑五月十五日…」の銘があるというから、一連の笠塔婆はこの頃に造立されたと考えて大過ないだろう。一方「ツジンドの焼け仏」は、集落入口の旧道の交差点の南西側、元は小堂内にあったものが、80年余り前の昭和2年9月に覆堂が火災に遭い、中に祀られていたこの石仏も焼損したと伝えられる。02_3「ツジンド」というのは「辻堂」の訛変と思われる。現高約2mほどの花崗岩の自然石の平らな面を正面とし、挙身光背を平らに彫り沈めた中に半肉彫の立像を刻み出したものと推定できる。熱による損傷が著しく、表面がボロボロに剥離し、頭部を中心に放射状に数条の大きな亀裂が入り、亀裂は石材背面にまで及んでいる。おぼろげな像容が視認できる程度になってしまっているが足先が残ることから立像であったことは確認できる。03_3像高約165cm、頭光円の径約58cm。特に上半身の破損が激しく、両耳が何とか確認できる外は面相は確認できない。肩の線も定かでない上半身に比べ、下半身はいくぶん残存状況がましで、腰のあたりの衣文や左手の印相が確認できる。左手は掌を正面に向けて親指と人指し指で輪をつくる来迎印で、これによって尊格は阿弥陀如来と推定できる。よく眺めれば肩の辺りに差し上げた右手の痕跡らしき部分も何となく見えてくる。また、左右の足元には小さい脇侍の痕跡が見てとれる。04中尊の挙身光背に包まれる形で、両方ともに蓮華座と錫杖の先端付近が残っており立像と思われる。山本寛二郎氏は左脇侍(向かって右)は持物の蓮華が、右脇侍(向かって左)には僧形の頭部と宝珠の痕跡があるとされ、左脇侍を長谷寺型の観音菩薩、右脇侍を地蔵菩薩と推定されている。観音と地蔵を従えた変則的な組み合わせの弥陀三尊であるが、来世の救済を意図する浄土系信仰の産物と思われ、浄瑠璃寺に近い藪中三尊磨崖仏でもこの組み合わせが見られる。(ただし藪中の場合は中尊が地蔵菩薩となる。)向かって左下の脇侍は痕跡がはっきり残っており、像高は約48cmである。錫杖以外の持物は肉眼では確認できない。下端は埋まって確認しずらいが大きい単弁の蓮華座が挙身光背の下にあるように見える。このように立派な古い石仏が焼損したのは惜しみても余りあることだが、幸い背光面向かって右に「願主 賢範」、向かって左に「元亨三年(1323年)癸亥六月八日造立之」の刻銘が焼け残り造立時期を知ることができる。

参考:中淳志 「当尾の石仏めぐり」東方出版 2000年

   山本寛二郎「南山城の石仏」(上)綜芸舎 1986年

写真右最上:五点具足の胎蔵大日「アーンク」です。写真右上から2番目:この"チョボ"「佛」っていったい何なのでしょうか?謎です。写真右上から3番目:この笠石は笠塔婆のものと思われます。写真左最下:「バン」の笠塔婆。西小墓地の近くの府道脇にあります。今は別物の五輪塔火輪が載せてあります。写真右最下:「ウーン」の笠塔婆、これだけはなぜか種子に月輪があり、応安銘があるそうです。ツジンドの焼け仏は昭和初期の火災以降に「焼け仏」称され始めたのか、それ以前から「焼け仏」とだったのかは定かではないので、少し手遅れの感がありますが、古老から詳しく聞き取りをしておく必要があったかもしれませんね。旧加茂町の南方の山手にある当尾(「とうの」と読む)地域は、中世を通じて南都興福寺の勢力下にあり、浄土信仰の別天地だった考えられている場所です。墓地や寺院ないし寺院跡と伝えられる場所には必ずといっていいほど古い石造物があり、石造美術の宝庫として著名です。目を見張るような立派な五輪塔や古い在銘の石仏などが次から次に現われ、全く時が経つのを忘れます。無数の箱仏や名号碑など細かく見ていくとキリがないほどです。まぁ主要な石造物だけでも1日で見て回るのはまず不可能でしょう、ハイ。西小というのは浄瑠璃寺のお膝元、地名は本来「西小田原」で、今では略されています。興福寺の別所が置かれた由緒ある地名です。