石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 近江八幡市安養寺町 安養寺跡層塔など

2009-03-23 00:44:30 | 五輪塔

滋賀県 近江八幡市安養寺町 安養寺跡層塔など

安養寺町集落の東の外れ、JR東海道本線篠原駅の東南約300m、篠原町との境にある国道477号が南北から東西に向きを変える。道路南側の法面、ガードレール越しに立派な石造層塔が立っているのが見える。05花崗岩製で高さ約4.2m。五重層塔である。基礎は幅は約99.5cm、北側が法面で埋まり、南側も下端が土中にあって明らかでないが高さは53cm以上ある。01埋まって確認できない北側を除く3面は輪郭で枠取りし、輪郭内いっぱいに大きく格狭間を配し、格狭間内に三茎蓮のレリーフで飾る。基礎全体の大きさに比べ輪郭の幅は非常に狭く、束部で約5.5cm、葛部で約5cm程度である。格狭間は大きく左右の差渡しは約82cmもある。側線はスムーズな曲線を描き、上部花頭曲線中央を非常に広くとって左右の2つづつの弧は小さく隅に偏っている。三茎蓮のレリーフは大ぶりで、中央は未開敷蓮花(蕾)と思われ、左右に外向きの蓮の葉の側面観と思しき平らな三角形を縦にしたような図柄をシンメトリに配している。02確認できない北面を除く3側面ともほぼ同様のデザインである。初重軸部塔身は高さ約73cm、幅約62cmと高さが勝る。各側面とも7葉の蓮華座を薄肉彫りした上を舟形背光型に彫り沈め、内に体躯のバランスのよい四方仏坐像を厚肉彫りする。植え込みのツツジの陰に隠れた西面は定印を結ぶことから阿弥陀如来、ほかの面はいずれも右手を胸の辺りに上げる施無畏印、左手は膝の辺りにあって与願印ないし触地印らしい。顕教四仏、釈迦如来、薬師如来、弥勒如来と思われるが風化ではっきりしない。面相は総じて摩滅が激しいが、西面は比較的残りがよく、南面は特に摩滅が激しい。この初重軸部南面に鎌倉時代中期、寛元4年(1246年)の銘があるとされるが、肉眼では確認できない。笠の軒幅は初層約88cm、軒口の厚みは中央で約14cm。二層目軒幅約84.5cm、三層目同約80.5cm、四層目同約76cm(五層目は高くて手が届かず計測しようと思うと脚立が要ります)。笠裏は素面で垂木型などは見られない。最上層の笠は頂上に薄く露盤を刻出している。各層屋根軒口は隅に向かって緩く全体に反り、軒厚の隅増が目立たないこととあいまって古風な趣きを示している。笠と同石の03_2軸部の背が高いのは層数の少なさの影響であろう。注目すべきは5層目軸部を4層目笠と別石としていることで、こうした手法は鎌倉中期以前の古い層塔に多く見られる。本塔のように同石とする手法と別石の手法が混合する構造形式は割合珍しく、文永7年(1270年)銘の松尾寺九重層塔(2008年9月25日記事参照)に例がある。鎌倉前期と推定される日野町猫田の禅林寺塔では、笠軸部が全て別石であり、鎌倉中期頃本塔のような混合形式を経て鎌倉後期には同石式に統合されていく大まかな流れが見て取れるのではないだろうか。04_2もっとも、倒壊するなどして欠損した軸部をはつり取って別石の軸部を後から補った可能性も否定されているわけではないことから、これが本当に当初からのものか否かの判断には、なお慎重さが求められよう。相輪は全体に太く凹凸感に欠け、下請花と相輪最下輪を亡失している。伏鉢は全くの円筒状で、九輪は太く線刻表現で各輪を画し逓減が少ない。上の請花は低く、蓮弁は摩滅して確認できない。先端宝珠の側面は少し直線的である。伏鉢や宝珠は一見退化形状とも思えるが、風化の程度や石材の質感には特に違和感がなく、かえって古拙な印象を与えている。しかし、いちおう相輪は後補を疑う余地は残るだろう。ともあれ、5層と層数が多くない割に高さが4mを超える気宇の大きさと全体に醸し出される古雅な雰囲気は見るものを惹きつけ飽きさせない。しかも基礎にある三茎蓮は、近江式装飾文様の在銘最古例として貴重な存在である。重要文化財指定。五重層塔の周囲は低い土壇状になって石仏、石塔残欠が集められている。西側には笠塔婆と空風輪を欠く五輪塔2基、東側には宝塔の塔身に宝篋印塔の笠を載せた寄集塔と四門の梵字を刻む五輪塔があり、これらも鎌倉時代後期から南北朝時代頃にかけての造立と推定できる立派なもので見逃してはいけない。

参考:滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』

   瀬川欣一 『近江石の文化財』

   平凡社 『滋賀県の地名』 日本歴史地名体系25

写真上右:遠くに見える高架はJR東海道新幹線です。写真下右:画面左の笠塔婆の現高約122cm、画面中央の五輪塔の火輪の軒幅約55cm。写真下左:この五輪塔は地輪を除く現高約137cmといずれも小さいものではありません。創建は奈良時代に遡り、壮大な伽藍を誇った安養寺は、戦国期に兵火で退転したとされ、わずかに北方に今も残る荘厳寺に古い仏像などを伝えるに過ぎません。石造物たちは今は跡形もない安養寺の旧物なのでしょうか。失われた歴史を知る証人として石造物は幾百年の歳月を黙ってそこに立っているのです。こうした石造物たちは、たいてい触れることができる身近な存在です。彼らに問いかけ語ってもらうことができるよう、石造物に対する理解を深めていかなければならないと感じる小生であります、ハイ。


滋賀県 近江八幡市上田町 篠田神社宝篋印塔

2009-03-16 01:18:17 | 宝篋印塔

滋賀県 近江八幡市上田町 篠田神社宝篋印塔

近江八幡市上田町の東寄りに鎮座する篠田神社境内の西側の道路に面して立派な宝篋印塔が立っている。01やや青みがかったような白色の良質な花崗岩製で、切石を組み合わせた基壇を据えた上に基礎を置く。この基壇は不整形で、一部は風化の程度が合わないように見えることから、当初からのものかどうかは疑問である。02基礎、塔身、笠は一具のものと考えられる。相輪は亡失し、今は別の小形の宝篋印塔の塔身と笠、灯篭の宝珠と思われるものを載せている。基礎下から笠上までの現存高さ約154cm、元は8尺塔であろう。基礎は壇上積式で上端は反花とする。羽目部分には整った格狭間を大きくいっぱいに配し、四面とも開敷蓮花のレリーフで飾る。基礎は高さ約58.5cm、幅は葛及び地覆部で約80.5cm、束部分は約1cm狭い。側面高は約46.5cm、束の幅約9cm、葛幅約5.5cm、地覆幅は約6cmを計る。基礎上の反花は、側面から弁先までの間が約4cmとやや広くとっている。反花は、稜を設けた単弁の左右隅弁の間に複弁3葉の主弁を挟み、弁間には計4枚の小花を入れる。抑揚のあるタイプであるが、傾斜の緩い優美で伸びやかなもので、彫りはしっかりしている。03塔身受座は高さ約2.5cm、幅は約49cmある。格狭間は上部花頭曲線が水平方向に広がり、肩はあまり下がらない。側線もスムーズで短い脚部は逆八字になって脚間はやや狭い。羽目は丁寧に平板に仕上げ、中央に開敷蓮花のレリーフを半肉彫りする。塔身は高さ約40.5cm、幅約39.5cmと若干高さが勝る。各側面に径約32㎝の月輪を陰刻、月輪内に陰刻した蓮華座上に金剛界四仏の種子を薬研彫する。東方阿閦如来のウーンが西面することから、塔身は方角が180度ずれている。塔身の種子は端正な刷毛書ながら、あまり大きいものではなく、豪放さには欠ける。近江ではこの手の梵字表現があまり強くないのが普通である。笠は上6段、下2段の通有のもので、軒幅約69.5cm、高さ約55cm、軒の厚さ約8.5cm。隅飾は基底幅約22cm、高さ約25.5cm。04_2三弧輪郭式のもので輪郭の幅は約2cmと薄い。隅飾は、軒と区別してほぼ垂直に立ち上がるが、軒先からの入りは0.3cm程度でごく小さい。各面とも輪郭内には蓮華座と円相を平板に陽刻し、円相内にはアの梵字を陰刻する。笠最下部幅は約49cm、笠頂部幅約24cm。全体にシャープな印象で、各部のバランスも良く、素晴らしい出来映えを示す。基礎東側束部に「正安三年(1301年)辛丑二月廿七日(一説に五月十七日)□□/願主平?茂?氏」の刻銘があるとされる。光線の加減もあり肉眼でははっきり判読できない。近江の在銘の壇上積式の基礎としては日野町北畑八幡神社宝篋印塔(正安元年銘)、竜王町弓削阿弥陀寺宝篋印塔(正安2年銘、2007年12月5日記事参照)に次ぐものである。紀年銘のある宝篋印塔の遺品を見る限り、東近江市柏木正寿寺塔(正応4年銘(1291年))、同市妙法寺薬師堂塔(永仁3年銘(1295年))などでは、細部にプリミティブな意匠を残し、なお発展途上とみられ、米原市清滝徳源院の京極氏墓所の氏信塔(永仁3年銘(1295年))あたりで概ね整備されてきた関西形式の宝篋印塔のデザインアイテムが、弓削阿弥陀寺塔や本塔で壇上積式基礎を加え、フルスペックとなり、いちおうの完成をみるとの趣旨のことを川勝博士、田岡香逸氏ともに述べておられる。そうした意味においては画期的な宝篋印塔のひとつである。

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展」(二)『史迹と美術』357号

   〃 新装版「日本石造美術辞典」

   田岡香逸「石造美術概説」

   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』

とにかく素晴らしい宝篋印塔です。いつまでも見飽きません。それにしても相輪の亡失が惜しまれますが流石の市指定文化財です。地元の方のお話では金鶏伝説があって、以前積み直した際に地下を掘ったが何もなかったとのこと。さらに今の基壇は積み直す前からあったらしいとのこと。どうも原位置から移動している可能性があるように思われます、ハイ。


滋賀県 高島市新旭町針江 日吉神社宝塔及び板碑

2009-03-10 23:30:39 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市新旭町針江 日吉神社宝塔及び板碑

針江集落の西寄り、鳥居の前を流れる水路の澄んだ水が印象深い日吉神社は、永仁2年開基の石津寺の鎮守社として寺と同時に創建されたと伝えられる。祭神は玉依姫。明治初期までは石津十禅師と称した。22境内は手入が行き届き、社杜の木立は遠くからもよく目立つ。石津寺の方はすっかり退転しているが今も境内を接するように小宇が残されている。拝殿の北東側の境内東側、椋の巨木の根元に古い石造宝塔が立っている。17あるいは石津寺の遺品なのかもしれない。宝塔の北側には板碑が、南側には層塔の残欠が接するように並んでいる。宝塔は花崗岩製で直接地面に基礎を据えているらしく基壇や台座は確認できない。相輪を亡失し、現高約200cm余。元は10尺塔と推定される巨塔である。基礎は幅が約93cmもあって、高さは約56cm、側面は四面とも素面で、西側正面に2行にわたり「徳治弐年丁亥/11月日」の刻銘があるとされる。摩滅が進み辛うじて文字らしきものがあるのが認められる程度で肉眼では判読できない。塔身は軸部、匂欄部、首部の3部を一石で彫成し、高さ約83cm。円筒形の軸部は素面で鳥居型などの装飾は見られない。匂欄部、首部ともにやや高さがあってその分軸部の高さが足りない感じを受ける。笠は軒幅約80cm、笠裏には2段の段形により斗拱部を刻出する。軒口は厚く、隅に向かって厚みを増しながら反転する軒反は、下端に比べ上端の反りが目立つものの非常に力がこもっている。頂部には露盤を削りだし、四注の隅降棟の突帯は、断面かまぼこ状で明確な三筋になっていない。露盤下で左右が連結するのは通例どおりである。12相輪の代わりに五輪塔の空風輪を載せている。基礎と塔身のサイズに比べ笠がやや小さい感じがありアンバランス感を禁じえない。塔身首部の径が約40cm、笠裏の下端の幅が約42cmでほとんど同じ幅である点も不審である。石材の質感や風化の程度からは違和感はなく接合面の枘などを観察しないと即断できないが、笠は別物の可能性も完全には否定しきれないように思う。もっとも田岡香逸氏は一具のものとして支障ないと判断されており、もともとこういうデザインだったのかもしれない。格狭間や鳥居型などの装飾的表現を排したシンプルさは、笠の軒の力強さとあいまって何というか質実剛健な印象を受ける。石造宝塔の多い湖西でも屈指の巨塔で、徳治2年(1307年)の紀年銘がある点も貴重。また、宝塔の北側に2本の石柱が立っているのを見逃してはならない。これは近江では比較的珍しい板碑である。花崗岩製で石材の性質上、平らに彫成するのが難しいため、関東に多い扁平なタイプの板碑ではない。それでも幅が奥行きに勝る柱状を呈する碑伝系もので、現在の地上高はそれぞれ約1.2m前後、幅約36cm程である。手前西側の石柱は上端を山形に尖らせ、その下に2条線を刻み出し額部に続く。山形の先端は少し欠損している。23二条線及び額部の彫りは正面だけでなく左右側面に及んでいる。平らに彫成した身部に枠線はなく、正面上寄りに薬研彫された大きい梵字が上下に配されている。上は金剛界大日如来の種子「バン」、下は胎蔵界大日如来の種子「ア」で、金胎大日の種子碑というべきものである。東側後方のものは素面の断面長方形の石柱状で上端に円形の枘穴があり、前後の石を継ぎ合わせていたものと考えられている。2つあわせた高さは3mを越えると推定されている。現状では銘は確認できないが、埋まっている部分におそらく銘があるものと田岡香逸氏は述べておられる。また、田岡氏は日野町村井の杜氏墓地の延慶3年(1310年)銘の板碑などとの比較から、延慶初年から2年頃のものと推定されている。形状や細部表現の比較だけで1年や2年の違いを実証するのはいくらなんでも困難であると思われるので「延慶初年から2年」というのをそのまま受け入れることはできないにしても、造立年代として鎌倉時代後期14世紀初め頃というのはひとつの見方であろう。ただ、小生は種子の書体や二条線の切れ込みや額部の彫成にいまひとつ鋭さが感じられないことからもう少し新しく14世紀中葉頃に降るように思う。この点、後考を俟つしかない。南側の層塔残欠は、四面素面の基礎、四方仏の像容を舟形光背形に彫りくぼめた中に半肉彫りする初重塔身軸部、それに笠が1枚残る。五輪塔の水輪を一番上に載せている。塔身軸部と笠は一具のものと思われるが、基礎は風化の程度が異なり、別物か五輪塔の地輪かもしれない。寄せ集めの残欠に過ぎないがこれらも中世に遡る古いものである。

参考:田岡香逸 「近江の石造美術2」 民俗文化研究会

写真ではあまり大きさを感じませんが宝塔は相輪を欠いた現状でも2mを越える大きいものです。なお、田岡香逸氏の記述によれば、最初に徳治2年銘を判読されたのは川勝博士だそうです。流石です、ハイ。


滋賀県 湖南市朝国 観音寺跡宝篋印塔

2009-03-01 23:22:45 | 宝篋印塔

滋賀県 湖南市朝国 観音寺跡宝篋印塔

甲賀市と湖南市の境、南東から北西に向かって流れる野洲川を挟んで南北から丘陵がせまる国道1号線横田橋付近は、川沿いの平地が最も狭隘になる場所である。この付近は渡河地点として野洲川沿いに往来する場合には、必ず通らなければならない交通の要となった場所である。01この横田橋の北方約500mの野洲川北岸、TOTO滋賀工場が位置する丘陵の西麓、物流会社の倉庫裏の雑木林が観音寺の跡とされており、ここに宝篋印塔が残されている。周辺は竹薮や雑木林で西側の水田よりも一段高いなだらかな平坦地で、東側は丘陵斜面に続いている。03丘陵裾の宝篋印塔がある場所だけは下草が刈られ、周囲よりもさらに一段高く、丘陵を背に南北に細長い土壇状に整形されている。宝篋印塔はこの土壇の北寄りの場所にある。脇には小形の五輪塔の残欠数点が無造作に積まれている。切石を組み合わせた一辺約146cmの基壇を備え、その上に基礎を置いている。きめの細かい緻密な感じの花崗岩製である。基壇はやや崩れぎみで下端が埋まっているが、高さは約18.5cmある。相輪を亡失して五輪塔の空風輪が代わりに載せてある。基礎から笠上までの現高約153cm。基礎の幅は約80cm、高さ約58cm、側面高約45cm。上2段式で、各側面とも輪郭枠取りとし、輪郭内にいっぱいに大ぶりな格狭間を入れる。輪郭の幅は比較的狭く、格狭間は、花頭部分が伸びやかに水平方向に広がり、左右の側線がはスムーズな曲線を描いてに短い脚部につながって整った形状を示す。輪郭内、格狭間ともに比較的彫りが深く、格狭間内は珍しく四面とも素面で近江式装飾文様は作らず平板に調整されている。基礎南面向かって左の束部分と西面向かって右の束部分に刻銘がある。「正和二年(1313年)癸丑三月十八日奉造/立之願主沙弥道念敬白」とあるらしいが、肉眼では部分的にしか判読できない。塔身は幅、高さとも約40cm。各面とも素面で正面、西側に「法界」の2文字を陰刻している。通常、宝篋印塔の塔身には四仏の像容か種子を表現するのが一般的であり、このような事例はまず見かけない。もっとも石材の質感や風化の程度が笠や基礎と若干異なることから、塔身は後補と思われる。現状の塔身でもサイズ的には違和感はないが、基礎上端の幅が約52.5cm、笠下端幅が約50cmであることから本来の塔身は若干(2cm前後)大きかったのではないかと思われる。05笠は上6段下2段で、軒幅約76cm、高さ約55cm。上端幅は約28cm。軒から2cm弱入って直線的にやや外傾する隅飾は、基底部幅約23cm、高さ約27cmと大ぶり。三弧輪郭付で、輪郭枠取の幅は約2.5cmと薄い。輪郭内は各面とも素面とし、装飾的なレリーフなどは見られない。現在失われている相輪について、池内順一郎氏は、大正15年刊の『甲賀郡志』にある台石を含む高さが8尺6寸5分(約260cm)との記事から、大正頃には相輪が残っていたものと推定され、基壇を含む現高から、相輪の高さが約87cmであったと推定されている。とすれば復元塔高は約240余cmとなり、まさに8尺塔となる。今の塔身は風化の程度から、補われた時期がかなり古いようであり、大正年間まであったらしい相輪が後補でない確証はないものの、まだそのあたりの藪の中などに転がっている可能性もある。なお、基壇と笠、基礎については、石材の質感やサイズから当初からのものとみて支障ないであろう。近江式装飾文様などの装飾的レリーフが見られないのでやや寂しい感じもするが、非常にシャープな全体的な彫成の出来映えとあいまって逆にスッキリした印象を与える。02_2なお、この石塔は古くから地元で「時頼小塔」と呼ばれ、最明寺入道道崇、すなわち執権北条時頼の供養塔との伝承がある。お忍びで全国を巡廻した時頼が朝国山観音寺の開基と伝えられているようで、正和2年は弘長3年(1263年)11月に没した彼の50年忌に当たる。興味深い話ではあるが事実関係については不詳とするしかない。観音寺は明治初期に廃寺となり、集落内の西徳院に併合されたらしく、今、現地には宝篋印塔や若干の石塔残欠のほかに何も残っていない。田岡香逸氏は、庶民仏教の所産である石塔類が、権門たる寺社の境内に建てられることはなく、たいていは埋め墓に立てられ、現在も寺社に残る石塔類は後世に移建されたか、近世の寺院がおしなべて中世の埋め墓の上に建てられているためだとする持論を元に、この場所が寺院の立地場所としてふさわしくないと判断されているが、丘陵裾が平坦に整地され、低い土壇状に整形された場所があるなど、いかにも寺院跡の趣を漂わせており、田岡氏の説を支持することはできない。このほか雑木の中には鎌倉時代に遡りうる大きい五輪塔の空風輪が転がっており、往時の寺観を彷彿とさせるものがある。市指定文化財。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 6~7ページ

   田岡香逸 「近江蒲生郡と甲賀郡の石造美術」(後)『民俗文化』131号

   池内順一郎 『近江の石造遺品』(下) 376、419~412ページ

   平凡社 「滋賀県の地名」日本歴史地名体系25

現地には説明板がありますが、非常に目立たない場所に立っている宝篋印塔で、捜すのに苦労しました、ハイ。

写真上左:どうですこの威厳にみちた佇まい。シビレますね。写真上右:三弧隅飾の裏側を上から見たところです。珍しいアングル。色っぽい「うなじ」ですね。カプスに沿って裏側まで溝を彫ってしっかり作り込んでいるのがわかると思います。写真下左:基壇が崩れかかっています。写真下右:近くにあった大きい五輪塔の空風輪。手前の四角いのはタバコの箱です。一抱えくらいはありました。