石造美術紀行

石造美術の探訪記

和歌山県 新宮市新宮 熊野速玉大社種子板碑

2009-09-27 10:56:23 | 和歌山県

和歌山県 新宮市新宮 熊野速玉大社種子板碑

熊野三山のひとつ熊野速玉大社の礼殿南側、烏集庵なる茶室に向かう通路の脇にひっそりと小振りの板碑2基が佇んでいる。01これらは速玉大社の元々の鎮座地だったとされる神倉山にあったものとされ、いつの頃か現境内に移されたものらしい。04大小2基が北面して東西に並んでおり、いずれも基底部はコンクリートの土台に埋め込まれた現状である。西側のものが大きく、現状高約60cm。下方幅約24cm、額部の幅約23cm。厚みはだいたい約8cmくらいであろうか。先端を山形に整形した縦長の板状の外観で、正面と側面は丁寧に整形されるが、背面は粗くたたいたままとする。材質はハッキリわからないが流紋岩ないし花崗斑岩と思われる。頭部山形は広角で尖りは緩く、幅約2.5cmの切り込みは一段で、その下の額部は幅約4.5cm、額の張り出しは約0.5cm程度で低い。碑面には径約19.5cmの薄く平板な浮き彫りにした円相月輪を配し、内に端正な刷毛書の書体で「キリーク」を薬研彫している。月輪下には大きめの蓮華座が月輪と同様の手法で浮き彫りにしてある。蓮弁は大きく伸びやかな形状で優れた手法を示している。刻銘は確認できない。02一方、東側のものはひとまわり小さく現状高約45cm、下方の幅約19.5cm。西側のものと比べると全体に厚手で、厚みはだいたい14cmくらいある。特に背面は粗く彫成したまま平らにしていないので断面はかまぼこ状になる。西側に比べ先端山形の尖りが急角度で高さがあり、先端中央に稜を設けて舟形光背のように先端が若干前のめりぎみになるのが特徴。切り込みは西側のものと同様に一段で額部の張り出しが約1.5cmと西側のものよりも少し出が強い。蓮華座上の月輪内に種子を薬研彫する点は同じ。03ただし月輪が線刻になっており、蓮華座は平板でなくやや立体感のある薄肉彫り風になる。種子は「ア」である。蓮華座の形状が西側のものに比べ形式的でそれだけ時期が降るものと考えられる。こちらは蓮華座の下に刻銘があるとされるが確認しづらい。コンクリートで埋まって上の方だけが覗いている状態で「奉納一…/開結二…/後生善…/応安…」と部分的に読まれている。応安は南北朝時代後期14世紀後半の年号(1368年~1374年)である。西側のものは全体の作り、種子や蓮弁の様子などからこれよりも遡ると考えられ、鎌倉時代後期頃のものと推定されている。「キリーク」は阿弥陀如来を指すことが多いが千手観音や大威徳明王なども「キリーク」である。「ア」は諸仏通有の種子であることから、これらの種子の尊格を特定することは難しい。熊野速玉大社の祭神のうちのいずれかの本地仏を示すものとみられる。ちなにみ熊野三山の12柱の主要神の本地は次のとおり。メインの三所権現、速玉大社は薬師如来、本宮大社は阿弥陀如来、那智大社は千手観音であり、関連する五所王子と四所明神はそれぞれ十一面観音、地蔵、龍樹、如意輪観音、聖観音、文殊・普賢菩薩、釈迦如来、不動明王、毘沙門天とされている。

参考:川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」77ページ

初の和歌山県に突入です。川勝博士の記述では茶室の庭にあるとのことで見学できるか心配でしたが、茶室に向かう通路の脇にありました。参拝客は誰も省みないような場所で、まったく忘れられたように蔦がからみ苔むしてひっそりと立っていました。冷や飯を食っている感は否めませんね。お気の毒です。もっと厚遇されてもいいんじゃないかなと思います。すぐ裏側、数メートルの距離の茂みの中には室町時代風の小型の五輪塔が見えましたが草が茫々で進入できませんでした。写真左下:大きい方の蓮華座と月輪、そして「キリーク」です。なかなかいいでしょう。写真右下:小さい方の先端部分です。山形部分の先端に特長があります、写真でわかりますでしょうか。


滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その3)

2009-09-02 00:24:21 | 宝篋印塔

滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その3)

基壇の配石構成あるいは基礎の素面の東側が裏面と考えられたことから、本来の正面が西側であったと推定され、解体修理に際しては塔身四方仏を本来の方角に合わせるため時計回りに90度、笠は東面していた隅飾「バン」の面を180度ずらせて西向きになるよう、それぞれ積み直されている。02造立時期について、能勢丑三氏は鎌倉時代とだけ述べられ、服部勝吉、藤原義一両氏は鎌倉時代中期、解体修理報告に記された重要文化財指定説明では鎌倉時代中期(鎌倉時代を前後2期に区分すれば後半)、川勝博士は鎌倉後期ないし末期とされている。03田岡香逸氏は鎌倉時代後期前半と述べられている。解体修理では多量の人骨片に交じって平安末期、鎌倉、室町初期の3種の灯明皿、鎌倉時代の古瀬戸の瓶子と四耳壺の小破片などが検出されているが報告書では塔の造立時期を特定するには至っていない。四隅に鳥形を配した塔身の特異な意匠表現については、能勢氏、服部・藤原両氏が早く指摘しておられるように、銭弘俶の金塗塔や阿育王塔などと称される中国製の金属製工芸品や意匠的にその系譜につながり、日本最古の呼び声も高い旧妙真寺塔などに見られる。本塔が旧妙真寺塔よりは下るというのは諸賢の一致するところで動かないだろう。そして本塔は中国の金塗塔などの金属製工芸塔から旧妙真寺塔を経て定型化した形状の宝篋印塔とをつなぐ系譜にあるものと考えるのが妥当だろう。基礎の孔雀文に着目すると、近江における石塔の孔雀文の紀年銘史料は14世紀初頭を遡る例はなく、田岡香逸氏によれば、無銘ながら卓越した作柄を示す日野町村井の蒲生貞秀廟塔の部材に転用されている宝塔の基礎が最も古く13世紀末の正応頃と推定されている。本塔の孔雀文のやや稚拙な雰囲気からは、貞秀塔に先行するものとは考えづらい。07また、段形式との折衷のような珍しい形状の基礎上反花に着目すれば、大和上小嶋の観音院塔などとの類似性から田岡氏が1280年ごろを降らないと評価されている野洲市の木部錦織寺の基礎残欠に注目したい。田岡氏は錦織寺基礎と本塔の関連性については触れておられないが、両者はよく似ている。両者が近い時期のものと仮定すると、孔雀文が正応頃を初現とする田岡氏の推論と10年程の矛盾が生じてしまうが、現時点では総合的に判断して鎌倉中期末から後期初め13世紀後半というとらえ方で大過はないのではないかと思う。01一方、基礎側面の一面を素面とする手法、隅飾の輪郭を線刻にする点を退化というか一種の手抜きと理解するならば、鎌倉末期まで時期を下げる要因になりうるかもしれない。仮に14世紀前半まで時期を下げて考えると、13世紀でも前半代に遡るということが定説になっている旧妙真寺塔との間に100年近い時間差を与えることになり、今日では否定的にとらえられているが田岡氏のいうように逆に旧妙真寺塔の時代を下げなければならない可能性も出てくる。類例の少ない特異な意匠表現を備え、宝篋印塔の初現問題にも多少関わる貴重な存在であり、慎重な検討が必要であるが、共通する意匠を踏襲する旧妙真寺塔との間に100年近い時期差があるとは考えにくいと思うがいかがであろうか。このほか付近には一石五輪塔や小型の五輪塔の残欠、箱仏などがみられる。

参考

能勢丑三 「鏡山鳥影宝篋印塔」(上)・(下)『史迹と美術』74・75号…オリジナルは「滋賀県史蹟調査報告」第六冊

服部勝吉・藤原義一 「日本石造遺宝」(上)

川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」

〃 「歴史と文化 近江」

池内順一郎 「近江の石造遺品」(上)

滋賀県教育委員会編 「重要文化財鏡神社宝篋印塔修理工事報告書」

〃 「滋賀県石造建造物調査報告書」

平凡社 「滋賀県の地名」日本歴史地名体系25

田岡香逸 「近江木部錦織寺と志那吉田観音堂の石造美術」『民俗文化』95号

〃 「近江の石造美術」3

〃「石造美術概説」

吉河功 「石造宝篋印塔の成立」

山川均 「中世石造物の研究-石工・民衆・聖-」

写真左下:鳥形です。フクロウに見えますか?orオウムに見えますか?カルラに見えますか?ってカルラはつまりガルーダでしょ、実在の鳥ではないので本物を見た人はたぶんいないですね。なお、基壇は修理前より30cm程嵩上げされているようです。それから大量の人骨片は元どおり埋め戻されたそうですので訪ねられる際は心してくださいね。

写真右下:野洲市木部錦織寺墓地の基礎の写真を追加します。基礎だけの残欠ですが幅約80㎝もあり鏡神社塔と遜色ない大きさです。褐色の色調や質感もさることながら基礎上の手法はそっくりです。


滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その2)

2009-09-01 23:59:33 | 宝篋印塔

滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その2)

石燈籠のある付近は山麓の斜面を整地した南北に長い平坦地で、その北寄りの場所に宝篋印塔が立っている。01花崗岩製で、笠や基礎には苔が付着しているが塔身は苔一つ見られず、褐色がかった石肌が鮮やかである。戦前に詳細な報文を書かれた能勢丑三氏は鳥影宝篋印塔と呼んでおられる。意匠表現に優れた宝篋印塔として古くから名の知れた優品で昭和39年に重要文化財に指定されている。30年以上も前、当時から既に基壇が傾き倒壊の恐れが高まっていたところ、昭和49年、盗掘に遭って基壇の石材が抜き取られ、いよいよ危険になったことから、昭和50年に積直し修理が行なわれた。周囲には修理に際して設けられた保護柵が回らされている。相輪先端を欠いた現状塔高193.6cm、基壇を合わせた総高245.1cm。上下2段の切石基壇を備え、下位基壇は幅180cm、下半が埋まっているので現状地表からの高さ(厚さ)は約17cm、(本来は約27cmとされる)長短1対づつの4本の切石を組んだもの。上位基壇は、幅約131cm、高さ(厚さ)は約25cm。04それぞれ大きさの異なる3枚の板石からなり、東側の接合面の基礎との境に径10cmほどの半円形の奉籠穴がみられる。解体修理の記録によれば、この奉籠穴は基礎下で大きく拡がっているらしい。また、基壇の下には自然石を方形に組んだ90cm×85cm、深さ1m余の石室があって細かい人骨片が充満していたという。この基壇は当初から石室と一体構造であったと考えられ、基壇上の基礎がちょうどこの埋納施設の蓋の役割をしていることになる。基礎は高さ48.5cm、幅81.8cmで側面高は約37.5cmと低く安定感がある。素面の東側を除く各側面は輪郭を巻いて格狭間を入れる。格狭間は横幅が広く、花頭曲線が水平に伸び、側線の肩の下がらない整った形状を示す。格狭間内には対向する1対の孔雀のレリーフを配する。05基礎上は反花式。ただし、通常の基礎上反花とやや趣が異なり、基礎側面から約8cm入って階段状に約5cm立ち上がってから反花を置く。ちょうど基礎上2段式の上段が反花になったように見える。まるで基礎上2段式と反花式の折衷のようである。反花は傾斜が緩く、両隅弁の間に3枚の主弁を配し、それぞれの間にやや幅の広い小花を入れている。主弁は塔身受座近くで幅がやや狭くなって全体に丸みを帯びた平面形を呈し、弁央から弁先の尖りに向けて稜を設けている。図面を見るとこの稜の線によって複弁のように見えるが、複弁では通常この線が溝になることからこの場合は単弁とすべきと考える。また、解体修理報告に記載された図面や池内順一郎氏の図面では花弁に覆輪があるように見えるが実際には覆輪はない。これは弁央の稜線の両側を少しへこませてから花弁の縁近くで高まりをもたせ、縁に沿って稜線状にしているためで、この点、能勢氏の図面が最も正確である。反花上の塔身受座は幅約49.5cmに対して高さは約1cmと非常に低い。解体修理記録によれば塔身受座の中央に径10cm、深さ2cmの枘穴があるらしい。06塔身は幅、高さとも43cm、枘穴に対応する枘が上下にあるとされる。塔身の下端から約10cmは平らな框状の素面とし、そこから一段彫り下げて蓮華座と月輪を線刻し、月輪内に端正なタッチの金剛界四仏の種子を薬研彫している。さらに四隅には、羽をたたみ胸を張って立つ頭の大きい鳥形の像容が刻まれている。これは伽楼羅形と呼ばれるが、フクロウ・ミミズクの類インコ・オウムの類とも考えられている。笠は上6段下2段で、笠裏には塔身の枘に対応する枘穴が確認されており、軒幅約77cm、高さ約63.5cm。軒の厚みは約8.5cm。08三弧で輪郭式の隅飾りは軒から約1cm入ってやや外傾するが、ほぼ垂直に近い立ち上がりを見せ、基底部幅約21cm、高さ約30cmとかなり長大な部類に入る。輪郭内の彫り沈めがほとんどみられず、輪郭がほぼ線刻である点も面白い特長のひとつである。輪郭内には蓮華座上に月輪を線刻し、月輪内に種子を刻む。蓮華座は摩滅がひどく肉眼ではなかなか確認しづらい。隅飾の種子は西側2面が金剛界大日如来と思われる「バン」、残る6面は地蔵菩薩と思われる「カ」である。また、笠上は4段目以上を別石としているのも注目すべき特長のひとつである。平らにした3段目上端に4段目下端のサイズに合わせ44cm四方、深さ1cmほどに彫り沈めを設け、4段目以上をそこに嵌め込んでいる。笠を2石とするのは近江ではほとんど例がない。相輪は九輪の8輪目で折損し先端部は失われている。請花の弁は摩滅して確認できない。九輪は線刻に近く、凹凸を深く刻んだものではない。相輪の枘は径約9.5cm、長さ約7cmで笠頂部にある枘穴(径約12cm、深さ約9.5cm)とマッチしないことから別物を適当にあつらえて載せてある可能性が高く、能勢氏も指摘されている。しかし、近世の補作ではなく古いものでサイズ的にも一見した限りまずまず釣り合っているように見える。(続く)

写真右上:別石の笠上、写真左中:基礎上の反花、写真右下:基礎側面の孔雀のレリーフ、写真左下:素面の基礎。基礎下の基壇の境目に奉籠穴が見えます。鏡神社宝篋印塔といいますが、鏡山塔ともいい、西光寺跡塔でもいいのですが鏡神社の管理下にあることからこう呼ばれています。国道沿いの鏡神社の境内にはないので注意してください。

参考図書は続編にまとめて記載します。