石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 京都市伏見区 深草薮ノ内町 伏見稲荷大社石灯籠

2013-01-28 23:53:19 | 京都府

京都府 京都市伏見区 深草薮ノ内町 伏見稲荷大社石灯籠
全国に三万とも四万ともいわれるお稲荷さんの総本宮である伏見稲荷大社は近畿最多の初詣客数を誇り、旧官幣大社に列せられた式内社。東面する本殿の南側、能舞台の手前のちょっとした庭のような一画に立っている石灯籠に注目する参拝者は皆無と言って過言ではない。01現高221cm。花崗岩製。古いのは中台以下で、火袋と笠、宝珠は昭和29年に川勝政太郎博士が推定復元・設計され新谷素生氏が施工されたものである。八角型で、基礎の過半は地表下に埋まって確認できないが、川勝政太郎博士の『京都の石造美術』202ページに掲載された写真をみれば、基礎の各側面ごと輪郭を設けて内に大きめの格狭間を入れていることがわかる。03基礎の上部は、側面からやや内に入って框状の一段を設け、その上に複弁反花を刻出して基礎上端の竿受座を囲んでいる。竿受座は平面円形で、円柱状の竿を受けている。竿はやや短めで、中節は三筋、上下二筋の穏やかな突帯を巻いている。中台下端の竿受も円形で、中台下は各角に間弁(小花)が来るようにデザインされた大きい単弁の請花で飾り、請花の蓮弁は弁央に稜線を設けて先端には反りを持たせて側面より若干外に出しているように見える。また、中台側面は厚みを押さえて各面とも二区に輪郭を枠取りしている。輪郭内は素面。中台上端面には八角形の一段を設けて火袋の受座としている。中台までの高さは126cm。川勝博士の設計で推定復元された火袋以上も簡単に説明すると、火袋は四方の火口を大きくして間面は扉型とし、上区は二区に連子を側面ごとに縦横交互に配し、下区は一区格狭間とする。笠はやや大きめで蕨手は小さく、上端に低い請花を設けて首部付きの宝珠を受ける。02
全体に重厚かつ洗練された意匠表現で、それを損なうことなく後補部分もよく調和している。
肉眼では確認できないが、竿の中節の上に「右造立志/者為沙弥西佛沙弥/尼了妙并/与力衆等/□惠□□/□□□□□」、中節の下には「砂子川事/伏水鍵本文右衛門/□□成法/□□善□/…以下6行…/年正月日」と陰刻銘があるとのこと。このうち「砂子川事伏水鍵本文右衛門」は後刻で、江戸時代の再興時のものらしく、元の銘文を叩き潰してその上から刻んでいるらしい。この砂子川こと鍵本文右衛門については不詳だが、伏見の有力者であろう。このおかげで明治初期の廃仏棄釈の際の撤去されずに済んだとの見方もあるので何が幸いするかわからない。今のところ伏見稲荷大社内で唯一の鎌倉時代に遡る石造物である。年号は鍵本による故意または自然風化で摩滅し
確認できないとのこと。おそらく鎌倉時代後期も早い頃のものであろう。川勝博士の『京都の石造美術』によれば、以前は「立っている場所が拝殿の後の石段を上った左手で下からは石の玉垣があり、それが中台から下を隠し、玉垣から上に見える火袋と笠・宝珠は全然問題にならない江戸時代の拙い後補で、その下の中台以下が古いものとは気付きにくい。」とあり、現在の場所に移建されたのは昭和29年以降である。また、『京都古銘聚記』図版第9頁には昭和29年以前の様子を川勝博士が撮影した写真が掲載されている。拙い江戸時代の火袋・笠・宝珠を載せて玉垣の脇の松の木の横に窮屈そうに立っている様子がうかがえ貴重である。笠の蕨手の感じから江戸時代前期頃のものように見受けられる。砂子川こと鍵本文右衛門による再興はその頃かもしれない。この写真の背景から、どうも本殿裏の玉垣のそばのようにも見える。

 
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
     〃   『京都の石造美術』
     〃・佐々木利三 『京都古銘聚記』

 
なお、『日本石造美術辞典』では砂子川文右衛門が後刻銘を施したのは明治初期のことのように記されていますが、『京都の石造美術』や『京都古銘聚記』を見る限りそのようには読めません…謎?
一月ももう終りですが商売繁盛でたいへん御目出度い伏見のお稲荷さんから本年一発目スタートです。学生の頃以来久しぶりに参詣しました。広い境内には近世の石灯籠や石鳥居、神狐等さまざまな石造物がたくさん残されていますがぜんぜん古いのは見られず江戸時代以降のものばかりです。まぁこれらはこれでまた面白いのですが…。この石灯籠が鎌倉時代、本殿正面にでんと据えられていたとすれば、かの骨川道賢もこれを見ていたかもしれないですね。

ネット検索でヒットした記事によると、どうやら鍵本文右衛門は、赤穂浪士で有名なあの播州浅野家から、元禄年間に伏見稲荷の近くに移住し商売で成功した人物らしく、巣箱状に加工した瓢箪をたくさん吊るしてスズメを賞翫したということで、昔はかなり有名な風流人だったようです。ただ、代々の名乗りのようなので、石灯籠を再興したのが何時なのかは後考を俟つほかないようです。また、砂子川某というこのあたりで有名な侠客がいたそうですが、彼が活躍したのは明治時代も後半以降で、明治の初めの神仏分離・廃仏棄釈の頃とは時代が合わず関係なさそうです。


京都府 木津川市木津大谷 木津東山墓地の石造物

2011-12-30 11:44:53 | 京都府

京都府 木津川市木津大谷 木津東山墓地の石造物

JR木津駅の南東約600m、木津の町を見下ろす小高い丘陵上に東山墓地がある。08_2

坪井良平氏の研究で名高い木津惣墓は、移転して現在この場所にある。旧地にあった石造物の多くもここに移され保存されている。旧惣墓の西端付近にあって明治初期の洪水に流され廃滅したという長福寺が移転地であるこの場所に復興されている。今回はここに残された石造物の一部を紹介したい。01

まず、寛永十年(1633年)銘の水船。元々は五輪塔の北側、道を隔てたすぐ近くに「楊谷地蔵」と呼ばれた地蔵石仏があり、02_2その傍らにあったとのこと。現在は東山墓地の西端近くの軍人墓地の入口に置いてある手水鉢がそれである。側面に「山城國相楽郡/木津庄/惣墓五輪…/三界万霊…/无両縁…/為□菩…/施主…/寛永十年…」なる刻銘があるそうだが、この日は光線の加減もあって肉眼判読は困難であった。03割合大きい文字で彫ってあり、「木津」とか「惣墓」などところどころ拾い読みができる。花崗岩製。坪井氏が指摘されるように、江戸初期には既に木津惣墓と呼ばれ、そこにかの大五輪塔があったことを示すものとして注目される。04_3 05_4

ちなみに現在「楊谷地蔵」は、軍人墓地の南側の一画、地蔵石仏や棺台などが集められている場所にある。向かって左端にあるのがそうで、舟形光背頭上に阿弥陀如来の種子「キリーク」を刻み、向かって右下に永正14年(1517年)の紀年銘がある。錫杖に石突が表現されているのが面白い。その北隣にあるのは墓地の葬堂の本尊であった地蔵石仏で、お鼻が少し欠損しているが、風化が少なく、風雨に曝されない屋内に長く安置されていたと考えられている。舟形光背面の頭上、頭部の左右にそれぞれ二つづつ「イー」、「カ」等の六地蔵の種子を刻み、明応3年(1494年)の刻銘が鮮やかに残っている。06法華講衆の造立。その隣にあるのも天文14年(1545年)の銘があり、舟形光背面頭上に「シリー」の梵字を刻む。「シリー」は仏眼仏母、最勝仏頂尊、吉祥天等の種子であるが、ここでは07何を意味するのか不詳。地蔵講衆による造立。これらの地蔵石仏はいずれも花崗岩製である。手前の棺台と供台にはそれぞれ宝永、享保の銘があり坪井氏の論考に図が載っている。それから墓地の入口にある六地蔵も注目すべきもので、六体そろって錫杖を持たない矢田型で、舟形背光面に願主銘があるが紀年銘はない。中央の一際大きい等身大の地蔵石仏は、優美なプロポーションと大きい頭円光背が特長。背面の衣文も表現された丸彫りで、面相もなかなか優れる。頭光背面は円光というより先端が尖った宝珠形で、広めにとった正面の平坦面に刻銘があり、文明6年(1474年)の紀年銘があるらしいが風化摩滅が進んでほとんど確認できない。元は大五輪塔と葬堂の中間付近の北寄りにあったようで、この近くには墓鳥居もあったらしい。また、西端の地蔵石仏は六地蔵よりずっと大きく、紀年銘はないがやはり室町時代のもので舟形光背面の刻銘から地蔵講衆による造立と知られる。このほか背光の五輪塔や宝塔、箱仏、板碑等にも見るべきものが多く、近年、長福寺御住職と石造美術研究家の篠原良吉氏のご尽力によって駐車場南側に見やすく集められ、見学の便宜が図られているのは何とも喜ばしい。こうしたご配慮、ご尽力を知るにつけ、我々見学者はただただ感謝の思いを禁じえない。これら背光五輪塔や板碑類の詳細については篠原氏による考察があるのでぜひ参照されたい。

 

参考:坪井良平 「山城木津惣墓墓標の研究」『歴史考古学の研究』(再録)

   川勝政太郎・佐々木利三 『京都古銘聚記』

   篠原良吉 「京都府相楽郡木津町東山墓地長福寺の石塔について」

        『史迹と美術』第759号

 

最近東山墓地の付近は大規模な開発で山が切り開かれ様子が変わってきています。こうして往昔以来の景観が失われゆくのはちょっと寂しい気もしますね。なお、時間の都合で計測できなかったのでまたそのうち訪ねた際に計ってきます。

今年はこれでおしまい、今年もご愛顧ありがとうございました。皆様どうかよいお年をお迎えください。


京都府 相楽郡和束町撰原 撰原峠地蔵石仏

2011-11-10 00:58:18 | 京都府

京都府 相楽郡和束町撰原 撰原峠地蔵石仏

和束川沿いの府道木津信楽線から東の山手の道に入り峠を越えた集落の中を西に折れ、茶畑横の山道を北西に150mほど登っていくと左手の林の中に平坦地があり、多数の箱仏などが並ぶ。01奥の斜面に板状の自然石を上下左右に組んで石室状にした龕部が設けられ、内に地蔵石仏が祀られている。04香華が絶えない様子で、地元の篤い信仰がうかがえる。石室は現状高約2.1m、屋根石幅約1.7mで、後世に組まれたものとも言われるが不詳。石仏本体は、高さ約169cm、下方幅約91cm、上方幅約85cmの上部を丸く整形した縦長の板状の花崗岩の石材の正面に、像高約126.5cmの地蔵菩薩立像を厚肉彫りしている。下方は緩い弧状に厚みを残して石材の幅いっぱいに蓮華座を整形し、表面に線刻で中央1葉、左右各4葉づつの大ぶりの整った蓮弁を刻む。下端は台石上にモルタルで固定されており明らかでない。頭部の周りには径約56cmの頭光円を線刻する。像容は彫成に優れ、やや首が短く撫肩だが体躯には幅と厚みがあって堂々としている。02とりわけ鎬立った深い衣文の襞の曲線が幾重にも重なる表現は出色である。目鼻が大きくおおらかな面相の彫りも確かで、細部のどれを見ても鎌倉期の石仏の一典型を示す傑作と言えるだろう。左手は胸元に差し上げ宝珠を乗せ、右手は錫杖を持たず下に垂れて掌を見せる与願印とする。05これは奈良市十輪院の本尊地蔵石仏などと同じで古式の印相とされる。足元近く左右の平坦面に各2行、計4行の陰刻銘がある。向かって右側に「釈迦如来滅/後二千余歳」、左側に「文永二二年/丁卯僧実慶」とあるのが肉眼でも何とか確認できる。文字は大きめで伸び伸びとした筆致は古調を示す。二を2つ並べるのは四。鎌倉中期、文永4年(1267年)の造立と知られる。釈迦如来滅後二千余歳というのは、釈迦の教えが忘れられ失われる末法の世に入ったことを示す。同様のフレーズは当来導師(=弥勒)という言い方とワンセットになることが多いので、やはり本例も弥勒信仰を示すものと考えられている。兜卒天にあって菩薩行を終えた弥勒が56億7千万年後に如来となって下生し多くの衆生を導く龍華三会までの間、末法無仏の世界の衆生を救う役割を担うのが地蔵菩薩とされる。この石仏も弥勒と結びついた地蔵信仰の表れと考えられる。むろん作風優秀、しかも鎌倉中期の在銘の基準資料として貴重な石仏である。和束町には仏滅二千年云々の銘を持つ鎌倉中期から後期の石造物が3つあって注目される。残る2つは北方直線距離にして約400mの和束川沿いにある白栖弥勒磨崖仏と鷲峰山頂の金胎寺宝篋印塔(ともに正安2年(1300年)銘)である。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   太田古朴 「文永四年撰原峠地蔵石龕仏」 『石仏』創刊号

 

彫成が全体にいきいきとして闊達な感じに溢れ、曲面の彫成にも抜かりがありません。大ぶりで整った蓮弁、バランスよくどっしりとした体躯、お顔も目鼻が大きくおおらかでしかも整っいて実に好感が持てます。これほどの地蔵石仏にはめったにお目にかかれません。自然豊かで静かな環境とあいまってお薦めです。それにしてもちょっと写真はまずいですね…うまく伝わりますかね…どうもすいませんです。

「そうらくぐんわづかちょう」、「えりはら」と読みます。ちょっと読みにくい地名かもしれませんね。


京都府 相楽郡和束町湯船 湯船熊野神社跡宝篋印塔

2011-05-26 17:46:49 | 京都府

京都府 相楽郡和束町湯船 湯船熊野神社跡宝篋印塔

和束町の東に位置する湯船は和束川沿いの山深い場所である。信楽方向に抜ける道路を進み湯船の五ノ瀬地区にさしかかると北側の山手に樹齢数百年はあろう杉と銀杏の巨木が並んで聳えているのが目に入る。07_5その巨木を目途に道路から少し北に歩いていくと広場があり中央に不動明王を祀る小堂が建っている。ここは熊野神社の故地で、広場の東寄りに石積みの区画と神社跡を示す石碑が残る。01_2広場の東端、巨木の根元近くに立派な宝篋印塔が建っているのがすぐにわかる。早くから知られた著名な宝篋印塔で諸書に紹介されている。石積み基壇の上にあるがこれは新しくしつらえたもので、塔の基礎は基壇上端にコンクリートで固着されている。台座や古い元々の基壇らしきものは見当たらない。当初の相輪を失って後補のものが載せてある。04笠上までの現存塔高は約139cm、元は七尺塔であろう。花崗岩製。基礎は上二段で各側面とも素面、幅約65cm、高さ約45.5cm、側面高は約36cm、段形上端の幅は約42cmである。基礎西側の側面に陰刻銘があり、「弘安十年(1287年)/丁亥八月/二日願主/佐伯包光」と四行にわたり刻まれているのが肉眼でも何とか確認できる。銘の彫りは浅いが文字は大ぶりで筆致も力強い。このように銘の文字を割合大きく刻むのは鎌倉中期に遡るような事例にまま見られる古い手法とされる。03塔身は幅約37cm、高さ約38.5cm、わずかに高さが勝る。各側面には径約31cmの月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫りする。種子は力強いタッチで雄渾に表現される。四仏の現状方位は正しく、西側キリーク面は他の面に比べるとやや摩滅が激しい。笠は上六段、下二段の通有のもので、軒幅約63.5cm、高さ約52cm、軒の厚みは約7.5cm、軒と区別して少し内に入ってから立ち上がる隅飾は二弧輪郭式で基底部幅約15cm、高さ約19cmである。02_3素面の輪郭内は平板にせず中央に少しふくらみを持たせている。側面素面で段形式の基礎、雄渾な塔身の種子、内側が素面の二弧輪郭の隅飾といった特長は大和系の宝篋印塔に多くみられ、南山城にあって峠のすぐ向こうは近江信楽であるこの地の石造物に大和の影響が及んでいたことを示す事例と考えられている。二弧輪郭の隅飾を持つ在銘の宝篋印塔では最も古い例で、隅飾の二弧輪郭が少なくとも13世紀後半に遡ることを示している。

側に近接してもう1基、ほぼ同規模の宝篋印塔がある。基礎と笠だけの残欠で笠の隅飾は全て欠損している。表面の劣化も激しいので火中した可能性もある。花崗岩製で基礎は上二段、幅約65cm、高さ約50cm、側面高は約38cm、各側面とも素面。笠は特に破損が激しく、段形上部は原型をとどめないが、元は上六段、下二段であったと思われる。06_3軒幅約63cm、現状高約44cm、軒の厚さ約7.5cmである。笠の上には五輪塔の部材が重ねて載せられている。わずかに残る西南側隅飾突起の基底部から、本来は軒から少し内に入ってから立ち上がり、輪郭を巻いていたことが推定される。基礎の二面には陰刻銘があるらしく一面は「正応四□/五月十日/願主□□/山村氏女/大工行長」、もう一面は「□□阿□/□□□□/東塔一□/西塔一□」とのことである。風化摩滅が進み、現在はかすかに文字の痕跡らしいものが認められる程度である。05正応4年は1291年。「大工行長」とあるのは、長野県飯田市、文永寺にある五輪塔を覆う石室(弘安六年(1283年)銘)に名を刻む「南都大工菅原行長」と同一人物と推定されており非常に興味深い。また、「行」は伊派石工名によく用いられる文字であり、伊派の通字とも考えられることから菅原行長と伊派石工との関連も考慮すべきかもしれない。ただし、吉野鳳閣寺宝塔などの作者として知られる名工「伊行長」の活躍時期は14世紀中葉から後半頃で、その間約百年弱の隔たりがあり別人である。生駒付近の石造物に名を残す13世紀末~14世紀初頃に活躍した「伊行氏」と永享二年(1430年)銘の奈良市霊巌院の弥陀三尊石仏龕にある「大工行氏」も別人であり、2代目、3代目のような名乗りがあったのか、伊派の始祖である伊行末にちなんでか単に「行」が石工名によく用いられる文字だったのか、そのあたりの真相はわからない。

二基の宝篋印塔に加え、周囲には火輪や水輪を礎石や手水鉢に加工した中型の五輪塔の残欠があり、山深いこの場所にかなり有力な寺院があってこうした石塔が林立していたであろうことは想像に難くない。その背景にはこの地が近江と南山城、大和を結ぶ交通路であったことも考慮しておかなければならないだろう。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   川勝政太郎・佐々木利三 『京都古銘聚記』

   川勝政太郎 新版『石造美術』

   田岡香逸 「近江石造美術の源流―南山城和束町と加茂町の石造美術―」『民俗文化』147号

 

文中法量値は例によりコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。

それにしても格狭間や蓮弁などの装飾は見られず、質実剛健というか、実にシンプルな意匠の塔ですが各段形の彫成は鋭く精緻で造形に力がこもっているように感じられます。こうした印象は拓本や実測図ではなかなか伝わりにくいものですが、現地で実物を間近に見れば容易に体感できると思います。後補の新しい相輪はちょっとへんてこでいけません。それと新しい基壇ごと巨木の根に押されて少し傾いてきているのが気になります。

初めてこの宝篋印塔を見たのはもう5年以上前になりますが、残雪の残る寒い冬の日で、五ノ瀬という以外に詳しい場所がわからず、あてずっぽうに霜柱を踏みながらうろうろと歩いて、巨木の下で静かに建っている姿を見付けた時の印象は忘れえないものがあります。

ここ和束町は南山城でも山深い僻遠の感のある別天地ですが、この湯船塔の他にも、金胎寺宝篋印塔、撰原峠地蔵石仏、白栖磨崖仏など釈迦入滅2千何年というような銘のある鎌倉時代の石造があって注目すべきところです。そういえば、正元元年銘の生駒市輿山往生院の宝篋印塔もそうでしたよね、これらの石造の謎を紐解くきっかけが見え隠れする気がします…。


京都府 相楽郡笠置町笠置 笠置寺の石造美術(その3)

2011-03-08 21:03:41 | 京都府

京都府 相楽郡笠置町笠置 笠置寺の石造美術(その3)

笠置寺から谷を隔てた尾根に墓地があり、その一番奥まったところに位置する貞慶上人の廟とされる場所にある五輪塔については既に紹介した(2009年12月29日記事参照)が、今回はその五輪塔のある一画に通じる入口に建っている大型の笠箱仏(石仏龕)に注目したい。02_2ほんの数年前までは無残な倒壊状態にあったのを記憶しているが、最近立て直され再び旧状に復されたようで喜ばしい。総花崗岩製。現状地上総高は約185cm。四面切り離しの台石は幅約83cm、奥行き約57cm、下端は埋まって確認できないが現状高約23cm。この台石が本来のものかどうかは定かではないが、大きさの均衡はだいたいとれているように思う。軸部は縦長の箱型で、高さ約135cm、幅は下端近くで約64cm、上端付近で約60cm、奥行きは下端付近で約37cm、上部で約35cmと安定を図るためかやや下方を大きく作ってある。04背面と側面も概ね平らで直線的に彫成されているが、細かく叩いた正面に比べると側面はノミ痕が残り、背面はさらに仕上げが粗いように見える。向かって右側の背面の隅の上部は大きく欠損している。正面は周縁部を枠取りして長方形に彫り沈め、内に蓮華座に立つ地蔵菩薩を厚肉彫りしている。古式の箱仏に多いとされる枠取り四隅の隅切は認められない。枠取りの幅は上部で約11.5cm、下方で約9cm、左右の幅約8.5cmの上方に比べて下端付近では約1㎝程広い。彫り沈めの深さは約13cmあり、像容の厚みは面部で約11.5cmある。蓮華座は幅約38cm、高さ約8cm。03蓮弁は正面一葉の左右に三葉づつ七葉のやや縦長の素面の単弁で、弁の立ち上がりは外反せずにほぼ垂直になる。地蔵菩薩は像高約96cm、均整のとれたプロポーションで、持物は、右手に錫杖、左掌に如意宝珠を載せる通有のもの。面相部も保存がよく、やや面長で頬から顎、三道にかけてはふくよかな曲面を示し、少し厚ぼったい瞼と切れ長の眼が印象的な眉目秀麗なお顔立ちである。体躯の肉取りや衲衣の襞などには写実性が感じられ図案化したようなところは認められない。むろん素材の特性から木彫には比ぶべくもないが、まずまずの出来映えといえよう。袖裾は脛の辺りでとどまり、下端は蓮華座まで達しない。裳裾からのぞく足先は前を向いている。02_3撫肩で少し両肘の張った外側線の感じは、大和の東山内に散在する鎌倉中期の地蔵石仏に相通ずるものがあるように思う。また、笠石が残っている点は貴重で、幅約99.5cm、奥行き約79cmの平面長方形で、高さは約23cm、全体に低平で軒の出が大きい。07屋根は四注に稜を設けた宝形造を呈し、頂部には幅、奥行きとも15.5cm、高さ約5cmの露盤を作り出し、露盤上面には径約10cm、深さ約6cmの丸い枘穴がある。ここに別石の請花宝珠があったものと思われるが現在は亡失している。(倒壊前の古い写真には宝珠を欠いた請花らしいものが写っているが現在は見当たらない。)軒口はほぼ垂直に切って中央、隅とも厚さ約6cmとどちらかというと薄い。隅に偏った軒反は緩く温和で、力強さはあまり感じられない。笠裏は素面で垂木型は認められない。軸部と笠石の接合面のわずかな隙間を覗いて観察すると、軸部上端面に枘があって笠裏中央の枘穴にはめ込んでいるようである。(以前、倒壊状態であった時に観察できたはずであるが失念、撮影した写真データも紛れてしまってすぐには出てこないのは遺憾。)

刻銘は認められないが、造立時期は鎌倉時代末頃と考えられている。あるいはもう少し降る可能性があるかもしれないが、概ね14世紀中葉頃と考えて大過はないだろう。この種の箱仏(石仏龕)としては作風表現が傑出した大型の優品で、保存状態も良好。箱仏を考えるうえで一見の価値があるといえよう。なお、この石仏の背後にも保存状態の良い室町時代の阿弥陀立像の箱仏2体と地蔵と阿弥陀の双体仏(双仏石)1体がある。

こうした箱仏は大和に多く、奈良との地理的な近さと交通経路、あるいは笠置寺と東大寺や興福寺との密接な関係などを考慮に入れれば、かつて川勝政太郎博士が唱えられたごとく、少なくとも石造物を見る限りにおいて、当尾などと同様、現在は京都府にあるこの地が大和の文化圏に属していたと考えることができよう。

 

写真左下:笠石頂部の露盤と枘穴、右下:左側の大きいのが本題の地蔵石仏龕の後姿で、その背後に三体の箱仏がある。中央の箱仏は寄棟の笠石が残る阿弥陀像で高さ約96㎝。このほかにも墓地には中世に遡る多数の石造物が残る。

 

参考:山本寛二郎 『南山城の石仏』上

   望月友善編 『日本の石仏』4近畿扁

 

文中法量値はコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。「笠置寺の石造美術」と題するこのシリーズも一昨年末以来、長らくの放置状態で、久しぶりの(その3)になります。これは全く小生の怠慢によるものであります。引き続きこのシリーズは続けていくつもりでおりますが、完結のめどは立ってません。次回(その4)の紹介記事UPも、もうしばらくかかりそうですのでどうか御寛恕願わしゅう。今回は参考図書を記載させていただきました。


京都府 京都市伏見区醍醐醍醐山 醍醐寺の町石

2010-07-06 00:44:05 | 京都府

京都府 京都市伏見区醍醐醍醐山 醍醐寺の町石

醍醐寺は世界文化遺産、真言宗醍醐派の総本山。貞観16年(874年)理源大師聖宝開基の東密中心寺院の一つである。01役行者以来の修験の大立物である聖宝を開基に仰ぐ醍醐寺は、古来真言系修験の一大中心で中世には賢俊、満済、義演などの政治的影響力のある高僧を輩出している。江戸時代には中心子院である三宝院の門跡が修験道当山派の総元締として天台系の本山派聖護院門跡と並んで全国の修験道系寺院を統括していた。広大な境内は醍醐山の山頂付近にある上醍醐と西側山麓に広がる下醍醐に大別される。最近落雷で焼失した上醍醐の准胝堂は西国三十三箇所観音霊場第十一番札所としても著名。下醍醐から上醍醐へは登口に当たる成身院(女人堂)で入山料を納め、山道を1時間ほど歩かなければならない。03道はよく整備されているものの、四百メートル近い高低差を衝いて登る道程は流石に息が切れる。この登山道に沿って古い町石が立てられている。04第一町石は亡失しており、女人堂のすぐ奥にある第二町石から開山堂前の第三十七石まで36基が知られる。これら町石は近世地誌類にも現れるようだが、戦前の斎藤忠博士の論考によりその実態がほぼ明らかにされている。それによれば一部後補のものを除いて鎌倉時代中期の終わり頃、13世紀後半文永年間頃の造立と推定されている。概ね同型同大の花崗岩製で方柱状の塔身に請花宝珠のある笠石を載せた笠塔婆の形態をとる。笠石を残しているものは少なくほとんどは方柱状の塔身だけが残っているが塔身の上端面中央には枘やその痕跡が認められ笠石を載せていたことは明らかである。05残りのよい第三十一町石の略測値は、現地表高約167cm、塔身正面幅約31cm、奥行き約23.5cm。笠石は高さ約38cm、正面軒幅約48.5cm、奥行き43cmである。平らに整形した正面上方に大きく梵字を薬研彫し、その下に尊名と町位数を陰刻する。左右側面に願主名ないし紀年銘を刻み背面は素面のままとする。これらは種子と尊名を伴うことから大日如来以下の金剛界曼荼羅三十七尊と考えられる。すなわち大日(37)阿閦(36)宝生(35)阿弥陀(=無量寿)(34)不空成就(33)の五仏、金剛(32)宝(32)法(31)羯磨(29)の四波羅密菩薩、金剛薩埵(5)金剛王(6)金剛愛(7)金剛喜(8)金剛宝(9)金剛光(10)金剛幢(11)金剛咲(12)金剛法(13)金剛利(14)金剛因(15)金剛語(16)金剛業(17)金剛護(18)金剛牙(19)金剛拳(20)の十六大菩薩、金剛嬉(25)金剛髣(26)金剛歌(27)金剛舞(28)金剛香(21)金剛華(22)金剛燈(23)金剛塗(24)の八供養菩薩、金剛鉤(1)金剛索(2)金剛鏁(3)金剛鈴(4)の四摂菩薩である(カッコ内は町位数)。このうち右側面に寛永18年(1641年)10月の同じ年月を刻んだものが半数近くある。02これらはいずれも後補で、江戸時代でも初期ということもあるのだろうか、梵字の出来は上々で既存の古い手本に忠実に作ろうとした意図が見て取れるよくできたレプリカである。紀年銘のあるものは全て寛永銘で後補である。塔身下端はどれも土に埋まっており確認できないが、第五町石など下方の一部が露呈するものを見る限り下方は粗く成形したままとしていることから、元々基礎を伴わず直接埋め込み式にしていたと考えられる。06さらに紀年銘のあるものとないものをよく観察すると、寛永銘の枘は低く小さいが無紀年銘のものの枘は太く大きいことがわかる。また、笠が残るものでは、寛永銘のものの笠石の屋根の降棟に緩い照りむくりがあって笠裏が平らであるのに対し無紀年銘の笠石にはむくりは認められず伸びやかな軒反を見せる。さらに無紀年銘の笠石は請花宝珠を一石彫成とするが寛永銘の請花宝珠は別石としている。種子も無紀年銘のものの方がやや大きく、筆致や彫りに勢いがあるように思う。寺蔵の「上醍醐西坂表町石之次第」という記録(寛永期の町石も記録され江戸時代以降のものらしい)には亡失した第一町石が記され「文永九年(1272年)三月日勧進僧入信座主権僧正」の銘があったと伝える。斉藤博士は無紀年銘のものに残る「親快」「俊誉」「行誉」等の願主名やそれに伴う僧綱名から彼らが13世紀後半頃の活躍が古文書で確認できる醍醐寺の僧であること、さらには第二十二町石に残る願主「権少僧都覚済」が文永7年銘の和歌山県高野山の第十九町石に残る「権少僧都覚済」と同一人物とみられることから「上醍醐西坂表町石之次第」記事の信憑性が高いことを実証されている。この記録を信じるならばこの町石が勧進の手法により造立されていることがわかる。また、勧進に加わった願主に金堂衆、心経会衆、准胝堂衆といった寺院内のグループが名を連ねていることも興味深い。ともあれ醍醐寺町石は鎌倉中期に遡る古い町石であり、笠塔婆のあり方を考えるうえからも貴重な存在である。さらに高野山の町石と醍醐寺をつなぐ物証となる刻銘を有する点でも注目すべき町石といえる。

参考:川勝政太郎 『京都の石造美術』1972年

      斎藤 忠 「醍醐寺の町石」『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告書第18冊』1938年

写真上左の2枚:川勝博士の『京都の石造美術』に写真が載っている第三十一町石、法波羅密菩薩です。奥に見えるのが上醍醐の寺務所の門です。それと笠の様子。上右:第三十二町石金剛波羅密菩薩、左中:第三十三町不空成就如来、以上は無紀年銘で文永頃と推定されるものです。下左:第三町石、金剛鏁菩薩。下右:第三十七町石大日如来。これらは寛永18年のものです。どうです、違いがおわかりいただけるでしょうか…。

上記にはいくつか例外や解き明かされていない謎があります。大日如来の第三十七町石(寛永銘)だけは基礎を有しています。第三十町石が見当たらず本来30番目にくるはずの法波羅密菩薩は何故か第三十一町石となり、31番目にくるはずの宝波羅密菩薩が第三十二町石となっており、本来32番目の金剛波羅密菩薩とともに三十二町の町位を持つものが二基あります。また、金剛塗菩薩の第二十三町石(無紀年銘)だけは上端面が枘(凸)でなく枘穴(凹)になっています。それから金剛牙菩薩の第一九町石は新旧二基あり、現地には後補が立ちますが寛永18年ではなく同11年銘となっています。もう一つの無紀年銘の古いものは下端を失って清瀧宮入口付近に移されています。さらに薬師堂前には町位銘のない薬師如来の種子と尊名を刻んだ寛永18年銘の同様の笠塔婆があります。こうした例外や謎についてそのいきさつをあれこれ考えるだけでも興味は尽きません。斎藤博士の論考は戦前のもので、若干当時と現地の状況が変わっているものもあります。しかし詳細に調査され慎重に考察された論考は今読んでも新鮮で今日も全く通用する内容です。文体を除くと古さを感じませんね。論考にいわく「遠い古より幾多の人々は清浄の心を抱いてこの道を登り、そして道の辺に整然と立つ町石に暫しの礼拝を捧げ、かつ町位を知って疲れた身体を励ました…」とのこと。斎藤博士のこの言葉はまさに町石のありようを端的に示しています。息を切らせて山道を登り傍らの町石を見る時、この言葉の意味をまさに体感できると思います。かの重源や叡尊も若い頃修業したという醍醐寺にはこのほかにも清瀧宮の石燈籠、三宝院墓地の宝篋印塔といった注目すべき石造美術がありますが、これらのご紹介はまた別の機会に。


京都府 木津川市加茂町森 森八幡宮石碑

2010-04-01 22:43:08 | 京都府

京都府 木津川市加茂町森 森八幡宮石碑

 

森八幡宮は、鎌倉末期、正中三年(1326年)銘の不動明王と毘沙門天王の素晴らしい磨崖仏で著名。八幡神の摂社神の本地である旨が銘にあり、勇壮な毘沙門天と重厚な不動の姿を片麻岩の壁面に線刻で描いてある。毘沙門天の風にたなびく天衣、不動の火炎光背の複雑な曲線など、その表現は絵画的で下絵をもとに刻んだものと推定される。01片麻岩という表面が薄く剥離しやすい石材のため、風化が進み、毘沙門天の胸部付近が損なわれているのは遺憾であるが、現在は覆屋で保存が図られている。02この磨崖仏は古くから諸書に紹介されているのでここではこのくらいにして、境内の一角にある石碑を紹介したい。元は参道石段下の渓流にかかる石橋の傍らにあった可能性があり、現在は社殿近くに移されている。下端はコンクリートで固められ埋まっているが、現高約87cm、幅は広いところで約28cm、奥行き約22cm。棒状に粗く整形した花崗岩の正面を平らに彫成し、三行(左右割付の干支などの一部を除く)の造立銘が陰刻されている。太田古朴氏は右から「以平邦成次刀弥之功建畢/當八幡宮御寶前之石橋/寛元三年乙巳三月日/橋大工/紀富久」と判読された。向かって右側の以平邦成云々の行は文意がやや通りにくい点があり、03難読文字が交じるので太田氏の判読には疑義がなくもないが、當八幡宮云々の中央の行と紀年銘の部分は肉眼でも確認できる。橋大工云々の部分も読めそうで読めない難字で、ここもやや疑問が残る。いずれにせよ架橋の記念碑であろうことはまず疑いない。寛元三年(1245年)銘は当尾地域では最古の石造銘で注目される。一般的に中世に遡る石橋の古いものは残っていないとされるが、この銘文によりその存在が確認される。しかしながら現在参道手前の小川に架かる長さ3mばかりの延石を3本並べた石橋が銘にいう石橋であるかどうかは不詳。伝承では天平期に勧請され9世紀半ばにもその祭祀が拡充されたとされる森八幡宮が、少なくとも13世紀中葉にはこの場所で現在と同じように近在の崇敬を集めていたことを示している。

参考:川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」東京堂出版

   太田古朴 「大和の石仏鑑賞」綜芸舎

   山本寛二郎 「南山城の石仏」(上)綜芸舎

   中 淳志 「当尾の石仏めぐり」東方出版

 

当尾屈指の石仏として有名なのであえて紹介しませんが、ここの毘沙門天はかっこいいです。小生お気に入りの石仏のひとつです。この橋碑の方はちょっと地味な存在で案外忘れられている気がしますのでご紹介したいと思った次第です。写真左:小生の下手な写真では銘はちょっと判りにくいですね。刻銘の彫りは割合深くしっかりしています。むろん風化摩滅もありますが、むしろ読めそうで読めない難字でしょうね。写真右:側面から背面は特に手を加えられた様子はありません。写真下:参道下の現在の石橋。この石橋が銘にあるものなのでしょうか、わかりません。長い年月の間に大雨等で流失してしまった可能性も少なくないのではとも思われますが、どうなんでしょうかね?

 

 

追伸:上記記事をUPした後から、昭和36年12月発行の『史迹と美術』320号に、「森八幡宮石橋に関する新資料」と題して片岡長治氏がこの石碑を報告されていたことが判明しました。それによれば、コンクリートで固められた下端は約20cm埋まっており、高さは106cmあるらしいこと、当時75歳の古老が子どもの頃から現在の場所にあったらしいこと、「御寶前」という表現について、鎌倉時代の金石文の実例を示されたうえで平安時代から既に使われていること、参道石段下の向かって右側に江戸時代末期の弘化4年銘の石橋の供養碑(写真左下:向かって右手の石灯籠と階段の間に小さく見えるのがそれ)があることなどが記されています。やはり参道下の延石の石橋についての結論は控えておられますが、古い石橋を考えるうえで示唆に富む内容を簡潔に述べておられます。なお、『史迹と美術』の同号には太田古朴氏による森八幡宮蔵の神像に関する報文もありたいへん参考になります。


京都府 木津川市加茂町岩船 岩船墓地六地蔵石仏龕

2010-03-23 01:00:23 | 京都府

京都府 木津川市加茂町岩船 岩船墓地六地蔵石仏龕

岩船寺門前の北、約250m、府道から東に小道を折れ、岩船地区の共同墓地への坂道を登っていくと坂道の左手に笠石を載せた長方形の龕部に六地蔵を刻んだ石仏龕がある。02花崗岩製。箱仏、笠仏のバリエーションのひとつであり、一石六地蔵と呼んでもいいかもしれない。基礎部分には平らな石材がのぞくが、地面に埋まって判然としない。04この基礎部分を除く現高約110cm、寄棟造の笠石は高さ約34cm、間口の軒幅約150.5cm、妻部分の軒幅約71cm。大棟部分は幅約50cm、奥行き約12cm、高さ約5.5cmのかまぼこ状を呈する。軒口は垂直に切り落とし隅に向かって徐々に厚みを増しながら隅近くで緩く反転する。笠裏の垂木型はない。軒厚は中央付近で約8.5cm、隅で約12.5cm。四注並びに屋だるみの曲線はスムーズで、軽快かつ伸びやかで硬い感じは受けない。龕部は幅約130cm、高さ約77cmの横長の長方形で、側面の平らな部分の奥行きは約26.5cm、正面と両側面は平らに彫成しているが、背面は粗叩きのままとし、平らでなく中央付近で厚みが大きくなるので奥行きは最大約30cmほどになる。01正面に幅約114cm、高さ約59cm、四隅を幅約11cmに隅切をした長方形に深く彫り沈め、蓮華座上に立つ地蔵菩薩6体を厚肉彫する。各尊とも蓮華座を合わせた高さ約43.5cm、像高は約38cmである。光背は見受けられない。03面相や衣文は風化・摩滅によりハッキリしない。印相・持物も判然としないが、向かって左から錫杖、宝珠、合掌までは視認できる。右側の三体は柄香炉、宝幢などと思われるが摩滅して確認できない。六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)輪廻の衆生を救済する六地蔵の各尊名、印相、持物は出典により異なり一様でない。体躯のバランスがよく、袖先の衣裾をあまり長くしていないなど像容は古風を伝えており、笠石の軒の様子なども勘案し、南北朝時代頃、概ね14世紀中葉の造立と推定されている。作風優秀で、墓地に置かれる六地蔵としては最古の部類に属する。規模も大きく、一具の笠石も伴っており、笠石付石仏龕(=箱仏、笠仏)のあり方を考えるうえからも注目すべき石仏である。

山本寛二郎 「南山城の石仏」(上)綜芸舎 1986年

中 淳志 「当尾の石仏めぐり」東方出版 2000年

写真右上:六体のお地蔵さま、今も香華が絶えない地元の厚い信仰がうかがえます。長い間撫でられたりしてきたんでしょうか、面相は摩滅しています。向かって左端のお地蔵さまは残念ながら顔面が剥落しています。写真左下:背面の様子、写真右下:寄棟の笠石を上から見たところです。造立時期について、あるいはもう少し降るかもしれませんが、それでも14世紀後半でしょう。例により法量値はコンベクスによる略測なので多少の誤差はご諒承ください。


京都府 木津川市加茂町西小 浄瑠璃寺道町石笠塔婆と「ツジンドの焼け仏」弥陀三尊石仏

2010-03-22 11:46:34 | 京都府

京都府 木津川市加茂町西小 浄瑠璃寺道町石笠塔婆と「ツジンドの焼け仏」弥陀三尊石仏

西小集落の北端、尾根の先端付近の旧道脇の法面のような草地にぽつんと一基の石柱が立っている。01基底部はコンクリートに埋め込まれているが、花崗岩製で現状高約135cm。西側が正面で、幅約26cm、奥行き約21.5cm。上端面は平坦で中心部に径約9cm、高さ約2cmの枘があるので、笠石を載せていたことはまず間違いない。02平らに整形した正面は上方に高さ約13cm、厚さ約1.5cmの薄い額部を作り、すぐ下に五点具足の胎蔵界大日如来の種子「アーンク」を薬研彫し、広く取った中央部分には何も刻まず、下方に「,佛」と陰刻する。この「,」が何を意味するのかは見当がつかない。また、下端にも額部に対応する同様の突出面を作っている。左右側面は平坦に整形しているが素面で刻銘等は何も確認できない。背面は粗叩きのままとする。05なお、ここからほんの10mばかり坂を南に上ったところにある通称「ツジンドの焼け仏」の傍らには箱仏や五輪塔の部材と思しき残欠が数点集積されており、その中に、この笠塔婆の笠石と思しきものが置かれている。平面長方形で約38cm×約34cm、高さ約18cm、軒は垂直に切って穏やかな軒反を示す。屋根は四注を設けた宝形造だが、頂部に露盤はなく、丸く整形する点は珍しい。底面中央に径約9.5cm深さ約2.5cmの枘穴がある。サイズといい枘穴といい、至近距離にある「アーンク」の笠塔婆の笠石としてちょうどいいように思われる。浄瑠璃寺に至る道路沿いにこれとよく似た笠塔婆が2基がある。どれも上端面に枘を有し、笠石を失っている。01_2それぞれ「ウーン」=降三世明王?、「バン」=金剛界大日如来の種子がある。「ウーン」の笠塔婆にだけ月輪がある。03_2金胎両大日と不動明王や金剛薩埵券などの脇侍をあわせ元々は6基があったものが、3基が残ったとされ、従来町石と考えられている。ただ、具体的に何丁と書かれているわけではなく、詳しいことはわからない。なお、500mほど府道を浄瑠璃寺方向に進むと東側に立っている「ウーン」の笠塔婆には、倒木に隠されて現状では下半が確認できないが「応安6年(1373年)癸丑五月十五日…」の銘があるというから、一連の笠塔婆はこの頃に造立されたと考えて大過ないだろう。一方「ツジンドの焼け仏」は、集落入口の旧道の交差点の南西側、元は小堂内にあったものが、80年余り前の昭和2年9月に覆堂が火災に遭い、中に祀られていたこの石仏も焼損したと伝えられる。02_3「ツジンド」というのは「辻堂」の訛変と思われる。現高約2mほどの花崗岩の自然石の平らな面を正面とし、挙身光背を平らに彫り沈めた中に半肉彫の立像を刻み出したものと推定できる。熱による損傷が著しく、表面がボロボロに剥離し、頭部を中心に放射状に数条の大きな亀裂が入り、亀裂は石材背面にまで及んでいる。おぼろげな像容が視認できる程度になってしまっているが足先が残ることから立像であったことは確認できる。03_3像高約165cm、頭光円の径約58cm。特に上半身の破損が激しく、両耳が何とか確認できる外は面相は確認できない。肩の線も定かでない上半身に比べ、下半身はいくぶん残存状況がましで、腰のあたりの衣文や左手の印相が確認できる。左手は掌を正面に向けて親指と人指し指で輪をつくる来迎印で、これによって尊格は阿弥陀如来と推定できる。よく眺めれば肩の辺りに差し上げた右手の痕跡らしき部分も何となく見えてくる。また、左右の足元には小さい脇侍の痕跡が見てとれる。04中尊の挙身光背に包まれる形で、両方ともに蓮華座と錫杖の先端付近が残っており立像と思われる。山本寛二郎氏は左脇侍(向かって右)は持物の蓮華が、右脇侍(向かって左)には僧形の頭部と宝珠の痕跡があるとされ、左脇侍を長谷寺型の観音菩薩、右脇侍を地蔵菩薩と推定されている。観音と地蔵を従えた変則的な組み合わせの弥陀三尊であるが、来世の救済を意図する浄土系信仰の産物と思われ、浄瑠璃寺に近い藪中三尊磨崖仏でもこの組み合わせが見られる。(ただし藪中の場合は中尊が地蔵菩薩となる。)向かって左下の脇侍は痕跡がはっきり残っており、像高は約48cmである。錫杖以外の持物は肉眼では確認できない。下端は埋まって確認しずらいが大きい単弁の蓮華座が挙身光背の下にあるように見える。このように立派な古い石仏が焼損したのは惜しみても余りあることだが、幸い背光面向かって右に「願主 賢範」、向かって左に「元亨三年(1323年)癸亥六月八日造立之」の刻銘が焼け残り造立時期を知ることができる。

参考:中淳志 「当尾の石仏めぐり」東方出版 2000年

   山本寛二郎「南山城の石仏」(上)綜芸舎 1986年

写真右最上:五点具足の胎蔵大日「アーンク」です。写真右上から2番目:この"チョボ"「佛」っていったい何なのでしょうか?謎です。写真右上から3番目:この笠石は笠塔婆のものと思われます。写真左最下:「バン」の笠塔婆。西小墓地の近くの府道脇にあります。今は別物の五輪塔火輪が載せてあります。写真右最下:「ウーン」の笠塔婆、これだけはなぜか種子に月輪があり、応安銘があるそうです。ツジンドの焼け仏は昭和初期の火災以降に「焼け仏」称され始めたのか、それ以前から「焼け仏」とだったのかは定かではないので、少し手遅れの感がありますが、古老から詳しく聞き取りをしておく必要があったかもしれませんね。旧加茂町の南方の山手にある当尾(「とうの」と読む)地域は、中世を通じて南都興福寺の勢力下にあり、浄土信仰の別天地だった考えられている場所です。墓地や寺院ないし寺院跡と伝えられる場所には必ずといっていいほど古い石造物があり、石造美術の宝庫として著名です。目を見張るような立派な五輪塔や古い在銘の石仏などが次から次に現われ、全く時が経つのを忘れます。無数の箱仏や名号碑など細かく見ていくとキリがないほどです。まぁ主要な石造物だけでも1日で見て回るのはまず不可能でしょう、ハイ。西小というのは浄瑠璃寺のお膝元、地名は本来「西小田原」で、今では略されています。興福寺の別所が置かれた由緒ある地名です。


京都府 相楽郡笠置町笠置 笠置寺の石造美術(その1)

2009-12-21 22:25:39 | 京都府

京都府 相楽郡笠置町笠置 笠置寺の石造美術(その1)

笠置山は木津川の南岸、南山城でも少し東に奥まった所で、奈良との県境はすぐ南側、目と鼻の先の距離にある。01_2標高300mに満たないさして高くはない山だが、木津川に接する北側斜面は急峻で西側は木津川の支流が流れ、東に深い谷が入り込んだ天然の要害の様相を呈し、山腹から山頂にかけて花崗岩の巨岩がいたるところに露呈している。山頂付近に位置するのが鹿鷺山笠置寺で、古来弥勒信仰の霊場として著名な古刹である。創建の時期は奈良時代に遡るといわれている。12世紀前半頃まとめられたとされる「東大寺要録」に南都東大寺の末寺として登場し、天智天皇一三年に大海皇子(一説に大友皇子)が創建したと記されているという。南都東大寺との縁が深く、寺伝には弘法大師が虚空蔵求聞持法を修したなどの伝承もある。02平安後期になって弥勒信仰のブームが起こると藤原道長など貴紳の参詣が相次いだことが記録に残っているようで、枕草子や今昔物語などにも登場する。鎌倉時代に入ると興福寺の解脱房貞慶上人が山中に般若台という子院を開き、寺観の整備が進んだとされる。その後、元弘元年の兵乱により笠置寺は全山焼失、以降は衰微の途をたどり、近年になってようやく今日見る寺観が整備された。03この笠置寺を中心とする笠置山には注目すべき石造美術が多く残されている。さて、境内を奥に進むと、左手の少し高い場所に大師堂がある。その前にある吹き放ちの小宇は手洗場で、天明5年(1785年)銘のある基礎石の上に載せられている手水鉢は古い宝篋印塔の基礎を逆さまにし、水を溜めるために底面を大きく彫りくぼめてつくった転用品である。キメの細かい花崗岩製で、基礎幅約54cm弱、高さ約38.5cm、側面高さ約28.5cmを測る。特記すべきは、基礎上の段形が3段になっている点である。例がないわけではないが、比較的珍しいものである。段形の幅は下段約45cm、中段約38cm、上段で約31cm。側面のうち二面に刻銘があり、一面はほとんど判読不能ながら4字5行、別の一面には「永仁三年(1295年)乙未/三月廿五日/□法界衆生/□□□□□/願主□□□」の銘があるという。風化摩滅が進み、文字の存在は肉眼でも確認できるが判読は容易でない。紀年銘のある側面には手水鉢に転用された際に加工されたのであろう内側に貫通する水抜き穴が穿たれている。04刻銘の状態や風化の様子から、あるいは意図的に文字の判読ができないように叩き潰されている可能性もある。そもそも宝篋印塔の形状的な特長を最も端的に示す点は、笠の隅飾と基礎や笠の段形にあるといってよい。そして基礎上については2段の段形とするのがもっとも一般的である。基礎上を反花式とする場合がしばしばあり、時には笠下を反花というか請花というか、段形にせずに蓮弁にする例や笠上を四注状にするようなことも稀にある。しかし、これらはあくまで本格式ではなく、むしろ傍流であり、また特殊なケースと考えるべきである。一方、基礎上を段形とする場合でも、普通は2段であり、3段とするのは、例がないわけではないがレアなケースだろう。どちらかといえば古いもの、大きいものに比較的多いように思う。本塔のように中型の範疇に含まれるサイズで3段というのは多くない。残欠に過ぎないものだが、13世紀末、永仁3年銘は京都の在銘宝篋印塔では屈指の古さである。今では水も枯れ、手水鉢としての機能も失われ省みる人も少ないが、石造美術を考えていくうえでは注目すべき遺品といえる。(続く)

写真左上:元は手洗い用の小さい覆屋ですが、皮肉なことに今では保存保護の上で役に立っています。写真右上:刻銘があるのはわかりますが、判読はほとんど不可能です。写真右下:他の面にも同様に刻銘の痕跡が見られます。風化摩滅のせいだと思いますが、何か意図的に読めなくしているようにも見えます。写真左下:基礎上の3段がおわかりいただけるでしょうか。もっとも天地が逆の状態なので現状では基礎下になるんでしょうかね。逆さまに眺めていると首が痛くなります、ハイ。笠置の石造物は素晴らしく、かつ重要なものが多いので、断続的になるかもしれませんが、しばらく紹介を続けたいと思います。

なお、参考図書類は別途まとめて掲載します。