石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 京都市左京区大原勝林院町 勝林院北墓地宝篋印塔

2009-05-31 00:46:59 | 京都府

京都府 京都市左京区大原勝林院町 勝林院北墓地宝篋印塔

勝林院本堂西側を通って境内を北に抜け、林の中の道をしばらく行くと共同墓地に突き当たる。01墓地に至る途中の林の中には段々状になった平坦面が見られる。これらの平坦面は、あるいは大原寺関連の子院の跡地なのかもしれない。墓地は東から西に向かって下がる傾斜面を利用しており、入口には多数の一石五輪塔や小形の石仏が集積されている。その一画に、苔むして一際古色蒼然とした宝篋印塔が立っている。花崗岩製で基礎から相輪まで揃っているが全体に表面の風化が進んでいる印象を受ける。台座や基壇は見あたらず、基礎は直接地面に置かれているようである。基礎は一石五輪塔や小形の石仏などに取り囲まれるように接しており、隙間には土砂が詰まっている。特に北から東にかけての基礎側面は埋まってよく見えない。塔の高さは約205cm、基礎幅約61cm、高さ約40.5cm、側面高約31cmと背が低く安定感がある。基礎上は2段式。各側面とも輪郭を巻き、内側に格狭間を配する。輪郭の幅は束部分で約6㎝、地覆部分で約5cm、葛部分で約5.5cmと比較的狭い。格狭間の形状は概ね整ったものだが、両肩が下がり、左右輪郭束部分との隙間を広めにとっている。02そのせいか格狭間はやや横方向への広がりに欠ける。格狭間内は素面で、西側側面の輪郭と格狭間の隙間から格狭間内にかけて「念仏諸衆、為往生極楽、正和二年(1313年)、十一月日」の銘が5行にわたり刻まれているというが肉眼ではほとんど判読できない。基礎上段の幅は約41cm、その上の塔身は幅約32cm、高さ約31.5cm。側面には蓮華座のある月輪内に端正な刷毛書で胎蔵界四仏の種子を薬研彫りしている。月輪の径は約18.5cmと側面の面積に比してやや控えめな大きさで、内部に刻まれた種子も小さい。下方に蓮華座がある関係だろうか、種子は塔身側面の上方に偏って配されている。笠は上6段下2段。軒幅約60.5cm、高さ約44.5cm。軒と区別してわずかに外傾しながら立ち上がる隅飾は、基底部幅約18.5cm、高さ約20.5cmと大きめで、二弧輪郭付で輪郭内は素面とする。相輪は高さ約88cmと笠以下に比較してやや高い印象を受ける。九輪の逓減は少なく、各輪の刻みだしはハッキリしている。下請花は複弁、上請花は単弁。先端宝珠と上請花はやや縦長に見える。九輪の8輪目で折れたものを接いである。昭和53年時点の川勝政太郎博士の記述では、相輪先端部分は亡失しているとあるので、04その後に発見され接合されたものだろう。正和2年は、直線距離にして約200m余り南にある勝林院境内の宝篋印塔に先立つことわずか3年である。勝林院境内塔の規模の大きさ、別石作りの独創的で複雑な構造、派手な三弧隅飾や基礎上の反花の装飾表現に比べると、オーソドクスな構造形式を踏襲しており、作風にもずいぶん違いがあるように思われる。一方で、金剛界に比べて事例の少ない胎蔵界の四仏を塔身に採用している点、また、その四仏の種子が小さい点は共通する。距離的にも時期的にも非常に近い両塔のあり方には注意しておく必要があるだろう。銘文から念仏信仰の集団、恐らく念仏講などの結衆の合力、つまり共同出資により造立されたことが知られる。豪華な境内塔に比べれば少し見劣りするのはやむをえないが、この北墓地塔も高さ2mを越え、決して小さいものではない。惣供養塔として古い墓地の成立と同じ頃に造られたと考えてよいだろう。なお、墓地の北西隅近くにも、小形の宝篋印塔がある。一風変わった基礎上反花式で側面は輪郭内に格狭間を配している。塔身は別物で、隅飾や格狭間の形状から室町時代でも後半に降るかと思われる。格狭間内にかなりデフォルメされているが近江式装飾文様である開敷蓮花のレリーフをみることができる点は注目しておきたい。

参考:川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」

     〃  「京都の石造美術」

スペシャル・デラックスバージョンの勝林院境内塔に比べると何かこう普通な感じですが、落ち着いた雰囲気にはこの塔ならではの味わいがあります。輪郭を伴わず直接基礎側面に格狭間を入れる珍しい手法の大長瀬塔(2007年7月12日記事参照)といい、大原の宝篋印塔たちは個性的でバリエーションに富んでいます。写真下:墓地北西隅の宝篋印塔です。判りにくいですが基礎に開花蓮のレリーフがあります。別物らしい塔身がアンバランスなのに加え細部の退化が目立ち意匠的には一層見劣りがします。相輪先端は欠損しています。それから、墓地の南西隅には室町時代の珍しい小形の石鳥居があります。(2008年2月6日記事参照)


京都府 京都市左京区大原勝林院町 勝林院宝篋印塔

2009-05-28 00:46:53 | 京都府

京都府 京都市左京区大原勝林院町 勝林院宝篋印塔

三千院門前を北に進み、律川を渡ると正面に見えるのが勝林院の本堂である。来迎院と並ぶ天台声明の聖地である勝林院は、文治2年、法然上人が並み居る諸宗の学僧を論破したとされる「大原問答」の舞台としても著名である。01本堂向かって右手、境内東側の小高い場所に観音堂と鎮守社の小さい祠があり、その奥に大きい宝篋印塔が見える。緻密で良質な花崗岩製。02二重の切石基壇の上に立ち、高さは246cmに及ぶという。(大きすぎてコンベクスでの高さ計測は不能です)背が低く幅の広い基礎は、幅約98cm、大小2石で構成され、大きい方は幅約56cmと小さい方は約42cmである。各側面とも素面。側面高は約35.5cm。基礎上には別石の反花を置く。別石の反花と合わせた基礎全体の高さは約60cm。別石反花は幅約79cm、高さ約24.5cm、反花上端の塔身受座の幅は約55cm。反花は抑揚感のある左右隅弁と側面中央に主弁1枚、隅弁と中央主弁それぞれの中間に小花を配している。基礎の東側面に3行の刻銘がある。いわく「正和五秊(1316年)丙辰/五月日造立之/金剛仏子仙承」とのこと。肉眼でも紀年銘は何とか確認できる。面白いのは基礎を構成する大小2石の切り合いである。両石の接合部は北側面はまっすぐ縦に一直線であるが、南側面ではクランク状になっている。また、どちらの面も東側の小さい方の石の下端接合部側が斜めに角が落とされている。外からは見えない大小の部材の接合面が単純な平面でなく、複雑な構造になっていることが推定できる。何のためにこのような構造になっているのかは不明だが、少なくともクランク状にすることで構造的にずれにくくなることは容易に思いつく。下端の角を落とした三角形の穴も意図的なものなのだろうか。03_2少し想像を逞しくすれば、基礎の内部か切石基壇の下に何らか奉籠構造が隠されている可能性も指摘できる。塔身は少し大きめで高さ約47.5cm、幅約49.5cm。側面中央に径約28cmと控えめの月輪を陰刻しその中に胎蔵界四仏の種子を薬研彫している。書体は端正ながら側面の面積に比して文字は小さい。東方・宝幢如来「ア」は北面、南方・開敷華王如来「アー」が東面、西方・無量寿如来「アン」は南面、北方・天鼓雷音如来「アク」が西面にあり、本来の方角からは90度ずれている。04_2月輪には蓮華座は伴わない。笠は上6段、下2段。軒幅約90.5cm。軒と軒下の段形2段を一石でつくり、それそれ別石の隅飾を四隅に置く。珍しいのは別石笠上の手法で、笠上段形の一段目の半ばまでは軒と同石とし、一段目の上半以上を別石としている。各部別石とする大形の宝篋印塔は京都に比較的多く、笠上段形を別石とする例も見受けられるが、たいていは段と段の間で石が分かれる。このように段の途中で石が分かれるものは管見の及ぶ限り外に例をみない。各段形の彫りは的確かつシャープで、笠下の段形が笠上に比べるとやや大きい。直線的に外傾する隅飾は三弧輪郭式で、基底部幅約26cm、05高さ約39.5cmと長大な部類に入り、左右の隅飾先端間の幅は約95㎝ある。隅飾輪郭の幅は約3cm。輪郭内は素面である。笠全体の高さは約50cm、軒の厚みは約12cm。相輪も完存し九輪の8輪目で折れたのをうまく接いでいる。伏鉢の側線はやや直線的、下請花は複弁、上請花は小花付単弁。伏鉢と下請花、下請花と宝珠の各接合部はややくびれが目立つ。宝珠の曲線は円滑である。安定感のある低い基礎と大きめの塔身、全体の規模の大きさからくる雄大な印象に加え、適度に外傾する三弧輪郭式の大きい隅飾には開放感がある。さらに基礎上の優雅な反花が華を添え、まさに意匠的には最盛期の宝篋印塔と言える。京都でも屈指の名塔に数えられ重要文化財指定。宝篋印塔の基礎上に見るこの種のむくりが目立つ抑揚のある反花としては、正和2年(1313年)銘の誠心院宝篋印塔やこの塔などが最も古い在銘品になる。基礎上反花としては弘長3年(1263年)銘の奈良県上小島観音院塔や13世紀末頃と考えられている生駒市円福寺南塔が古いが、単弁でむくりは目立たない。この種のむくり形の複弁反花が宝篋印塔の基礎上に採用され始めるのは14世紀初め頃の京都が最初ではないかと思うがいかがであろうか。

参考:川勝政太郎「京都の石造美術」

    〃  新装版「日本石造美術辞典」

例により文中全高以外の法量値はコンベクスによる略側値ですので多少の誤差はご容赦ください。写真左中:基礎のクランク状になった接合線と下端の角を落とした三角形の穴がわかりますでしょうか。写真右下:笠の特殊な別石構造にご注目ください。写真左下:相輪の請花の彫りも的確でシャープです。特に上請花の花弁先端中央に設けた稜が何とも美しいです。とにかく見飽きない素晴らしい出来映え、これまた最高です最高。また、「京都の石造美術」にある川勝博士が初めてこの塔を見つけた時のエピソードは誠心院塔との因縁も絡めて面白いお話です。こういうことがあるとますます没頭していくものです。当時の若い川勝博士の気持ちの高ぶりが行間に窺え共感できる気がします。なお、隣接する小さい観音堂の石積壇の西側左右一番上にある四角い石材は、よくみると梵字が刻んであり、中型の五輪塔の地輪を転用していることがわかります。

余談ですが「ろれつが回らない」という言葉の「ろれつ」というのは、この天台声明の聖地魚山大原寺(来迎院や勝林院は大原寺の主要子院)の南北を流れる呂川と律川の「呂律」から来ているんだそうです。声明というのは読経や念仏に音階をつけて声に出す修業のようなものらしいです。だからうまく声に出してしゃべれないことをこう言うんだそうです。佳境に入ってきた大原シリーズはまだまだ続きます。


京都府 京都市左京区大原来迎院町 大原念仏寺五輪塔

2009-05-27 00:18:13 | 五輪塔

京都府 京都市左京区大原来迎院町 大原念仏寺五輪塔

来迎院町の集会所の建物の南側、植え込みの隙間のような狭い場所に立派な五輪塔が立っている。01呂川にかかる橋と三千院に向かう石段のある辻から南に50mもない観光客の人通り多い場所にある。すぐ南にある天台宗大原念仏寺に属しているようだが、現状では集会所の敷地の一画にしか見えない。03来迎院区五輪塔と呼ばれることもありその辺りの事情は判然としない。五輪塔は一見すると各部全て揃っているように見えるが、よく見ると地輪から火輪まで同じ書体の比較的大ぶりな梵字を力強く薬研彫しているのに対し、空風輪の梵字は小さく彫りもごく浅いもので書体、彫り、文字の大きさともに全く異なる。しかも火輪以下は大日如来法身真言(ア・バン・ラン・カン・ケン)と推定されるア・バン・ランを下から上に配しているが、空風輪のは通常の五輪塔四門のキャ・カ・ラ・バ・アのキャ・カのようである。なお、梵字は東面にだけ刻まれている。さらに空風輪は側面のアウトラインが直線的で空輪の重心が高く、空風輪のくびれも華奢で、重厚で安定感のある火輪以下の形状とは釣り合わず、同一のものとは考え難い。こうしたことから元の空風輪は亡失し、現状の空風輪は適当な別物をあつらえた後補と判断できるのである。後補の空風輪を含めた現高約150cm、やや風化が進んでいるが緻密で良質な花崗岩製である。地輪は幅約62cm、現高約30cmだが下端が少し埋まっており、本来はもう少し高くなる。02それでも幅が高さのほぼ倍あって背の低い安定感のあるものであることがわかる。水輪は径約56cm、高さ約45cm、球形に近く、側面の描く曲線は豊かで直線的なところはなく、裾のすぼまりもごくわずかである。火輪の軒幅約52cm、高さは約35cmで火輪の幅が水輪径よりわずかに狭い。軒口は分厚く、軒反自体はそれほど顕著ではないが、軒中央の水平部分が狭く軒全体に重々しく反る感じで、隅に向かって厚みを増す隅増しも目立たない。四柱の屋だるみは全体に緩く湾曲し、火輪全体の背はあまり高くない。地輪の南側、道路側から見て左側面に9行の刻銘があるのが肉眼でも確認できる。肉眼での判読は難しいが「弘安九(1286年)年六丙戌/廿七日/同村合力…/□□乃/法界衆生平/利益造立畢…/塔婆等…/□□…」とあるらしい。弘安九年の紀年銘は、京都の在銘五輪塔では屈指の古いものである。分厚い軒口や全体の雰囲気には、いわゆる整備形式と呼ばれる鎌倉後期様式の五輪塔のスタイルに通じるものがあるが、基礎の低さ、水輪の曲線、火輪の軒反などに古い特徴を色濃く残している。

 

参考:川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」

   川勝政太郎 佐々木利三「京都古銘聚記」

写真右下:刻銘のある地輪南側面です。写真をクリックしてみてください。少し大きく表示されます。それから、いつものように法量値はコンベクスによる略側値ですので、若干の誤差はお許しください。かなり観光客の人通りの多い場所にありますが、行きかう人は誰も省みません。皆さんコンベクスを当てる小生を横目に通り過ぎていきます。これもマイナー路線のつらいところでしょうか…。かなりすごいモノなんですけどねぇ。さて、このように一見すると揃っているかに見える石塔でも、この五輪塔の空風輪のように後補であると看破される場合がしばしばあります。(この場合、小生が看破したわけではなく先人の記述を現地で確認したに過ぎませんが…)もちろん怪しいものでもなかなか断定できない場合もたくさんあります。後補や寄せ集めの判断には慎重さが必要でしょうが、かといってはじめから何でもかんでも後補や寄せ集めを疑ってかかると、各部が当初から一具であることの実証が全ての前提になってしまい議論がぜんぜん前に進みませんよね。この辺りはとても難しい部分だと思います。やはりそれなりに予備知識を深め、奥行きのある鑑賞態度で詳しく観察することが大切だと知らされます。またしても川勝博士の受け売りでした、ハイ。


京都府 京都市左京区大原来迎院町 来迎院五輪塔

2009-05-26 00:04:55 | 五輪塔

京都府 京都市左京区大原来迎院町 来迎院五輪塔

融通念仏宗の開祖である聖応大師良忍上人(1073年?~1132年)は、慈覚大師円仁が伝えた天台声明を中興大成した人物。01この良忍上人が止住した来迎院は、三千院の南を流れる呂川と呼ばれる谷川筋を東に遡った場所に位置する。三千院を挟んで北西にある勝林院等とともに魚山大原寺の中枢として天台声明の根本道場であった。03天文年間の再建と伝えられる本堂の東側、一段高い場所に鎮守社の小祠がある。その南に隣接して自然石を組んだ2.8m四方、高さ0.5~1mほどの方形の壇があり、中央に立派な五輪塔がある。台座等はみられず直接地面に据えられている。詳しいことはわからないがこの方形壇は廟屋の跡、ないし経塚かもしれない。五輪塔は緻密な花崗岩製で、表面の風化も比較的少なく保存状態は良好。各部欠損なく揃い、高さ約172cmある。表面には梵字や刻銘は認められない。地輪の幅は約68cm、同高さ約41.5cm。水輪径約54cm、同高さ約49.5cm。火輪の軒幅約67cm、高さ約41cm。空風輪の高さ約40cm、風輪径約35cm、空輪径約30cmを測る。一見して火輪の軒が薄いことがわかる。軒厚は中央で約7.5cm、隅で約8cmで軒厚の隅増もほとんどない。軒口は全体に緩く反り、いわゆる真反りに近い。四注も全体に緩い屋だるみを持たせている。火輪全体の高さはそこそこあり、屋根の傾斜はかなり急で火輪頂部は幅約23cmとやや狭い。これには軒を薄くしていることも関係していると思われる。地輪は高過ぎず低からずといったところ。水輪は球形に近く、裾がすぼまったようなところはないものの、逆に左右の張り出しがやや弱く火輪と地輪の幅に比してちょっと小さい感じを受ける。しかし、02石の質感や風化の程度、接合部分などを観察する限り別物とは思えない。風輪は、やや大きく裾がすぼまった感じで上端の傾斜をきつめにとっており、空輪は全体に低く最大径が低い位置にあり全体に押しつぶしたような蕾形を呈する。あまり類例をみない火輪の軒反り、水輪や空風輪の形状は、西大寺奥の院の叡尊塔を典型とする鎌倉後期スタイルの五輪塔とは明らかに一線を画している。こうした来迎院塔の外形的な特長は、鎌倉後期スタイルの五輪塔よりも先行するものと考えられる。ここから程近い来迎院町の会所脇にある大原念仏寺五輪塔は、空風輪が後補の別物であるが、概ね鎌倉後期スタイルに近い形状を呈し、弘安9年(1286年)銘を地輪に刻んでいる。少なくとも13世紀後半には鎌倉後期スタイルに通じる五輪塔が導入されていたものと考えられ、来迎院五輪塔の造立時期は、これよりは古いとみてよいのではないだろうか。風化の少なさや地輪や火輪の背の高さが少し気になるが、火輪の薄い真反りに近い軒反、空風輪の形状を積極的に評価すれば鎌倉中期でも前期に近い時期、13世紀前半代にもっていけるかもしれない。いずれにせよ古風な形状をとどめ、独特の雰囲気を持った注目すべき五輪塔といえる。

参考:川勝政太郎「京都の石造美術」

例により文中法量値はコンベクスによる略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。写真左中:この空風輪の形状をご覧ください。

大原、特に三千院を訪れる観光客は多いですが、大原が注目すべき石造美術がたくさんある所だということはあまり知られていないようです。ほとんどの人が気付かない大原の石造美術の中でも、マイナーな部類に入る?この五輪塔ですが、石造マニアにとっては見落とせないものだと思います。それから石造ではありませんが、金石文関係で梵鐘にも注目してくださいね。なお、鎮守社の傍らに石仏を集めた吹きさらしの小屋があり、中央の非常に彫りの深い地蔵菩薩立像(写真下左)は、市原の小町寺裏の墓地でもよく似た作風のものを見た記憶があります。京都では地蔵石仏は決して多くはありませんが、なかなか出来映えが良く、ひょっとすると14世紀代に遡る可能性があります。また、一番左端の小形の不動明王(写真下右)も中世のものかもしれません。本堂向かって右手を北に行くと谷川を隔てた奥まった場所に良忍上人の廟所があり、軸笠別石で古い形態の石造三重塔が立っています。京都の古い層塔を考えるうえでは欠くことができないものです。この層塔は比較的著名なものです。2008年2月6日の勝林院北墓地の石鳥居以来、久しぶりの大原シリーズ第3段ですが、さらに紹介していきますので請うご期待。01_201_4


京都府 木津川市加茂町大野 西明寺笠塔婆

2009-05-18 21:52:26 | 五輪塔

京都府 木津川市加茂町大野 西明寺笠塔婆

JR加茂駅の西約1km、標高203mの大野山を頂く山塊の東、南北に細長く連なる大野の集落の中央付近、街道西側の一段高い山裾に位置する真言宗西明寺。江戸時代の洪水で平地から現在地に移転したと伝えられる。01本堂の北側、向かって右手の目立たない狭い場所に東面して立派な笠塔婆がある。花崗岩製で、現高約185cm。上端を平らにした自然石の基礎は半は埋まっているため下端は明らかでないが、見えている基礎の幅約135cm。その上に平らな石を縦に据えて塔身とし、平らな笠石を載せている。塔身の幅は下部で約91cm、上部で約95cm、高さは約148cm。笠の軒幅約100cm、笠の奥行き約70cmを測る。塔身は正面を平らに彫成して左右側線は直線に整え、上端隅は丸めている。背面は粗整形のままである。笠の正面と側面は垂直に切り落として軒を作り、隅棟風に稜を設けて左右の軒隅に厚みを持たせて軒反をつくっている。03笠裏は平らにしているが背面及び上面は適当に打ち欠いたままの粗整形である。こうした整形手法は、正面観を優先し、背後や真横から見られることを初めから意識していなかったことを示している。塔身正面は、上端近く中央を高さ約31cm、幅約20cm程の舟形に彫りくぼめ、蓮華座に座す像高約22cmの如来像を半肉彫りしている。面相は風化でよく確認できないが頭頂部に肉髻があることがわかる。右手は肩付近に掲げた施無畏印と思われ、左手は膝上にあり、薬壺を持っていることから薬師如来と考えられる。この寺の本尊が平安後期、永承2年(1047年)銘の薬師如来坐像であることと関係しているものと考えられている。正面の平坦面に占める薬師坐像の面積割合はごく小さく、大部分は刻銘にあてている。像容向かって右の「西明寺/八講田」に始まり「田中垣内、一段皮田、塚本一町、納目二段、蓮塚二段、上野田一段」などの田段を4列にわたり列記している。さらに塔身の側面には、向かって右に「永仁三秊(1295年)卯月十二日」左に「大工橘友安」と刻まれている。西明寺の八講(法華八講を指すものか否か不詳。修法ないし法会に伴う祭典?)のための料田を記載したもので、これだけでも面白い資料であるが、加えて紀年銘と石工名があることで一層その資料的価値を高めている。大工としてその名を刻む橘友安という人物は、ここから南方2Kmばかりのところにある高田、高田寺境内に残る五輪塔残欠(地輪)に同じ永仁3年(1295年)銘と田畑寄進の願文をその名とともに刻んでいる。Photo橘姓の石工は、同じ加茂町、石仏の宝庫として名高い当尾、浄瑠璃寺に程近い東小の通称「藪の地蔵」と呼ばれる弘長2年(1262年)銘の磨崖仏にある橘安縄を初現とし、数名が知られており、伊派、大蔵派のように石工の系列であったとみられている。13世紀末頃に活躍した友安は安縄の次代に相当すると考えられ、奈良県大和郡山城の石垣に組み込まれた巨大な宝篋印塔の基礎などにもその名を刻し、三重県伊賀市の報恩寺の層塔基礎(残欠)には「大工南都友」とあることから、その活動の拠点が奈良にあったと考えられている。南山城が大和の強い影響下にあったことを考えあわせ非常に興味深い。なお、傍らにある五輪塔は、空風輪を失い、現状の火輪もやや小さいことから別物の疑いがあるものの、立派な大和系の反花座は一具のものと思われ、鎌倉末から南北朝前半頃のものと思われる。その東に隣接する層塔は笠6枚を残し上半を失っているが元は十三重と思われ、金剛界四仏を初重軸部に薬研彫し、各笠裏に薄く垂木型を刻む。やはり鎌倉時代末頃の造立とみて大過ないもので、ともに完全ではない点は惜しまれるが、見落とせないものである。

参考:川勝政太郎「新版日本石造美術辞典」

   川勝政太郎「橘派石大工とその作品」『史迹と美術』379号

同じ笠塔婆の範疇に含められるものですが、先の記事にある談山神社の摩尼輪塔とはずいぶん趣きの異なるものです。摩尼輪塔の精緻な出来映えに比べると、文字どおり荒削りなものです。造立の趣旨、意義がそもそも異なるのでその辺の違いが出来映えにも表れるしょうか。摩尼輪塔は参詣者を本院で出迎える晴れがましく威儀を正すべきもの、これはもっと立ち入った内容を刻んだどちらかというと内輪向けのもので造立の背景・性質が異なります。造形的にはそれぞれに持ち味があって、刻銘もさることながら見ごたえのある優品といえるのではないでしょうか。ともに笠塔婆の一般的な造形からは少しはみ出した感のある形状ですが、笠塔婆というのも単純な構造ながらなかなか面白い石造美術だと思ってます。例により文中法量値はコンベクスによる略測値ですので、多少の誤差はご容赦ください、ハイ。


奈良県 桜井市多武峰 談山神社摩尼輪塔

2009-05-10 23:31:41 | 奈良県

奈良県 桜井市多武峰 談山神社摩尼輪塔

大織冠藤原鎌足を祭る多武峰談山神社は明治の神仏分離までは妙楽寺と称した有力寺院であり、古来藤原氏を中心に幅広い層からの信仰を集める一方、平安時代に増賀上人が入山して以来、北嶺比叡山の影響下にあった関係からか南都興福寺との抗争を繰り返したことでも知られる。01して、しばしば武力衝突を引き起こし、何度も焼き討ちに遭っている。木造建築の十三重塔が残ることでも著名だが、境内と周辺には見るべき石造美術が多い。今回紹介するのは摩尼輪塔(妙覚究竟摩尼輪塔)と呼ばれる笠塔婆である。03東惣門から爪先上がりに旧参道の坂道を登っていくと参道と谷川の間の狭いスペースに一際目を引くこの塔が立つ。ここから西に100m足らずの河畔にある元徳3年(1321年)銘の石灯籠もそうだが、水害等で流出しないで幾百年の歳月を耐えてよく立っているものと感心する。良質の花崗岩製。不整形な大きい黒い斑紋が混ざる点は近くに立つ淡海公塔とされる十三重塔などと共通の地元産の石材であろう。一般に摩尼輪(まにりん)塔と呼ばれるが、石造美術としての分類には諸説ある。いちおう笠塔婆であるが、石幢のようでもある。石造塔婆の一種であることは間違いないが、機能としては町石の役目も持っていると考えられている。05すなわち「菩薩瓔珞本業経」(通称:「瓔珞経」)に説かれる信心から始まる全52の修業のステージのうち52番目、つまり至極の境地である「妙覚」(=正覚)位は全ての煩悩を滅し尽くした悟り境地、即ち仏の境地を示しており、究竟摩尼輪とはその直前の「等覚」位を示すものとされ、菩薩の境地である。02妙覚究竟摩尼輪とは要するに終極の修業ステージを意味し、山裾にある一の鳥居がある場所の初町石を修業の起点になぞらえ52番目の最後に当たるのがこの妙覚究竟摩尼輪塔であると考えられている。なお、傍らには江戸時代の町石がある。失われたものも少なくないようだが同様のものが点々と今も道路脇などに残っている。しかしながら、これら町石には鎌倉時代に遡るものはなく、多武峰の町石のあり方と摩尼輪塔との関係についてはなお一考を要するものと思われる。さて当の摩尼輪塔であるが、八角柱の塔身と笠からなり、現高3m余り。笠上に露盤部と宝珠を各々別石で載せている。八角柱の幅は下方で約76cm、上方で約68cm、正面北側上方に横径約76cm、縦径約78cm、厚さ約12cmの円板を同石でつくり付け中央に胎蔵界大日如来の種子「アーク」を面いっぱいに大きく雄渾なタッチで薬研彫している。06円板と書いたがよくみると上端を少し尖らせており円形に近い宝珠形というのが正しい。笠は間口、奥行きとも軒幅約118.5cmの平面方形の平らな宝形造で、垂直に切った軒口の厚みは中央で約11.5cm、隅で約13.5cmとさほど分厚いというほどではないが、隅に行くに従って徐々に反転の度合いを強める手法にはやはり鎌倉時代の特長が出ている。笠裏は軒から約4.5cm入って高さ約1cmの段、つまり垂木型を設けている。笠頂部は平らにして別石の露盤を載せる。04露盤を除く笠の高さはおおよそ35㎝程度である。露盤部は方形の台の上端に平らな伏鉢を削りだし、宝珠部を恐らく枘で差込式としていると思われる。宝珠部は短い首部と請花、宝珠からなり、形態的には石灯篭のものと通有する。請花は小花付素弁、宝珠は重心が低く小さく先端に尖りを持たせる。曲線はスムーズでかつ全体に安定感がある。露盤部の幅はおおよそ40cm程度、露盤と宝珠をあわせた高さはおおよそ45cm程度(※)。北側の石柱部平面に達筆な草書体で大書した「妙覚究竟摩尼輪」の文字を陰刻している。その下に乾元二年(1303年)癸卯/五月日立之を2行に刻するとされるが、現状では下方が埋まり妙覚究竟摩尼…までしか確認できない。下端は確認できないが、かなりの傾斜地にまっすぐ立っていることから相当深く埋け込まれているものと思われる。単純な構造ながら規模が大きく伸びやかな笠、薬研彫の種子に雄大な気宇を示し、宝珠のバランスも絶妙。紀年銘とあわせてまさに重要文化財にふさわしい優品である。

参考:川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」170ページ

     〃   新版「石造美術」187ページ

   清水俊明 「奈良県史」第7巻石造美術245~246ページ

※文中法量値はコンベクスによる略側ですので若干の誤差はご容赦ください。特に笠上には手が届きませんので「おおよそ○○㎝程度」とある数値は目測値ですのでご注意ください。

写真左中:妙覚究竟摩尼…の文字、達筆です。写真右中:露盤と宝珠が別石になっているのがわかると思います。写真下右:「アーク」です。雄渾なタッチの薬研彫刷毛書梵字はこうでなければと思います。美しいですね。それと種子のある円板状の部分は、一見円形に見えても上端をほんの少し尖らせ宝珠形というかアーモンド形というか、そういう形になっています。写真ではちょっと判りづらいですがよく見てくださいね。写真下左:種子のある円板と八角柱の接合部分の上の方です。切り合いはこういう具合になっています。単純な構造と書きましたが、こういう細かい部分は割と複雑というか念が入っています。それにしても素晴らしい出来映え、完璧です完璧。いつまでも立ち去り難い気分にさせてくれます、ハイ。


京都府 綴喜郡井手町井手 駒岩(左馬)

2009-05-06 01:20:40 | その他の石造美術

京都府 綴喜郡井手町井出 駒岩(左馬)

井手町をほぼ東西に流れる玉川沿いに上流に向かって進む国道321号線を行くと、山道にさしかかって間もなく道沿いに左馬ふれあい公園なる小公園がある。公園の奥、川沿いの谷間に高さ5mはあろうかという巨岩が現れる。もともとはもっと上にあったものが昭和28年の大雨と土砂による災害で流出転落したものという。02すぐ南の国道に上に岩が見えるが、そのあたりにあったものだろうか。この巨岩の南隅の一角のくぼみに小祠が見える。一見したところ本尊らしいものは見あたらないが、岩のくぼみの天井にあたる部分にある馬のレリーフを祭っているのである。01_2もともとこのような天地を逆にしていたわけではなく、垂直に近い壁面に彫られていたはずで、岩ごと転落して現在のような状態になったものを災害後、地元の努力により掘り出されたとのこと。これを左馬(ひだりうま)と称し、女性の芸事・習事の上達に利益があるとされ、江戸時代には既に信仰を集めていたという。後脚の脇に、平安時代後期、保延3年(1137年)の銘があったとの記録があるらしいが、風化摩滅したものか見あたらない。花崗岩の壁面を平らに整形した中に、頭を右に向けた馬の姿を半肉彫りにしたもので、前脚を蹴り上げ後脚を折りたたんだ一瞬を捉えており、躍動感のある逞しい駿馬が描写されている。首の付け根から胸の辺りにかけて斜めに何か彫ってあるように見えるが鞍などの馬具には見えない。頭の先から尾の先までの長さ約135cm、前脚から肩までの高さ約65cm。頭頂部から鼻先まで約32cmで、浮彫りの厚みは約2~4cm程度である。類例のないもので、保延3年銘というのも肯けなくはないが、花崗岩にこれだけ手の込んだレリーフを鮮やかに彫り込むには、かなりの技術の蓄積、手馴れた職人技がなければなしえないと考えるのが自然で、やはり石彫技術が飛躍的に向上したとされる鎌倉時代以降のものと考える説に説得力があると思うがいかがであろうか。何のために作られたのかについても正確なところはわかっていないようだが、神社などに神馬として馬を奉納したり、もしくは絵馬を奉納する風習の中に位置づけられるものではないだろうか。あるいは水を祭ることとの関わりも考えられる。

参考:清水俊明「関西石仏めぐり」

今回は紹介しませんでしたが、駒岩のすぐ下流には磨崖地蔵石仏が、西方すぐ近くの玉津岡神社と近接する地蔵禅院にはみごとな石造層塔の残欠があります。あわせてご覧になられることをお薦めします。さかさまになっているので観察はもとより写真を撮るにもままならないですが、災害で転落してよくぞ残ったものと感心するとともに、このような位置から掘り出された地元の方々の尽力に頭が下がる思いです、ハイ。例によって法量値はコンベクスによる実地略側値ですので多少の誤差はお許しください。


京都府 木津川市 山城町神童子 天神社十三重塔及び宝塔

2009-05-04 23:23:01 | 京都府

京都府 木津川市 山城町神童子 天神社十三重塔及び宝塔

旧相楽郡山城町神童子は旧山城町の東の山間にある。今は通る人も少ないが、東方の山道を越えていくと木津川沿いに抜ける桜峠があって、加茂から伊賀方面へと通じている。木津川沿いの交通路が開鑿される以前は古い幹線道だったと伝え、今では想像しにくいが往昔は交通の要衝として賑わった所であった。01峠近くには中世城郭が残り、こうした伝承を裏付けている。集落の中央にある神童寺は北吉野山と号し修験道との関わりを示す寺伝や仏像が残る。同寺には十三重石造層塔や宝篋印塔の残欠が見られるが、今回紹介する天神社は集落の東のはずれ、もっとも奥まった所にある。社殿は室町時代の木造建築として府の文化財指定を受けている。02境内北側、稲荷社の裏側に玉垣に囲まれ十三重石塔が立つ。高さ約4.15mで花崗岩製。基礎は幅約74cm、現高約40cm、各側面とも素面で、西面に「右志者/為父母先師/法界衆生/平等利益/造立□□/建治三丁丑(1277年)/十月三日」の7行の刻銘がある。風化摩滅が進行し判読はかなり厳しくなっている。建治三の文字は何とか肉眼でも読める。初層軸部は幅約40.5cm、高さ約38cm、四側面とも二重円光型に彫り沈め、坐像石仏を厚肉彫りしている。蓮華座は確認できない。西面は定印阿弥陀如来、東面は右手は肩の辺りに掲げた施無畏印で左手は膝上に乗せ宝珠を持つように見える。03したがって薬師如来と思われ、南面は右手を上げ左手を膝付近施に置く施無畏与願印の釈迦如来であろう。北面は通常の顕教四仏の弥勒如来に代えて、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ地蔵菩薩とする。例がない訳ではないが珍しいパターンで、地蔵信仰の流行を垣間見せる事例といえるかもしれない。また、鎌倉中期の古いものとしては初層軸部の背が低いのも特長。この低い初層軸部は、猪(伊)末行の作で弘安元年(1278年)銘の京田辺市草内の法泉寺十三重石塔初重軸部とも共通する。初層軸部と最上層笠を除く軸・笠一体彫成は通例の構造形式で、各層笠裏に一重の垂木型を薄く刻み出す。初層笠は軒幅約76cm、軒中央の軒口厚約11.5cm、隅で約12cm。軒口の厚みの隅増がほとんどない。01_2軒反自体にそれ程力強い感じは受けないが中央の水平部分を短めにして反りをやや長めに取るところはこの頃の調子をよく示している。9層目、10層目、11層目、最上層北東側の軒隅が大きく破損しているのは倒壊によるものと思われるが、相輪は奇跡的に完存している。下から伏鉢、請花、九輪、水煙、竜車、宝珠と全部残っている。請花は近づいて観察できないが複弁のように見える。各層逓減が美しく全体に洗練された印象で、基礎の紀年銘から石造層塔のメルクマルとなる貴重な存在。重要文化財指定。02_3なお、神童寺のものはこれよりやや垢抜けない感じで時期は若干降ると思われる。天神社には、このほかに社殿左手摂社の北側、山裾の斜面に瀟洒な石造宝塔があるのを忘れてはならない。花崗岩製で相輪を失うが笠上までの現高約92cm、基礎は幅約43cm、高さ約31cm。四側面に幅約5cmの輪郭を巻く。輪郭内は素面。塔身の高さ約33㎝、裾付近の径約34cm、肩部径約36cmと最大径が肩にあって裾がすぼまる壺型を呈する。首部と軸部の間に高さ約2cmの低い段を設け、首部は高さ約4cm、径は下方で約24cm、上端で約20cm。塔身は素面で扉型などの装飾はみられないが軸部に比較的大きい文字の刻銘が認められる。「京都古銘聚記」によれば「三十八所/如法経/□□此塔/礼拝供養/□知是□/□近菩提/□□□…/佛子□□」の8行、7行目が紀年銘らしいが判読できないとのことである。03_2むろん肉眼でも判読は厳しい。笠は軒幅約43cm、高さ約28cm。笠裏中央に円形の受座を設け首部を受けている。四隅に隅木を刻み、二重の垂木型を設けている。一本一本の垂木を連続する突帯でリアルに表現しようとしている点や垂木型の段に合わせて隅木にも傾斜を設けている点は手の込んだ手法である。リアルな垂木型を笠裏に刻む手法は、京都市内の古い凝灰岩製のものに若干類例がある。軒は真反に近く全体に反って、どちらかというと反り方がきついが、軒口の厚さが中央で約4cm、隅で約5cmと比較的薄いためか力強さというよりはむしろ軽快感がある。04隅降棟は屋根面と明瞭に区別される突帯ではなく、屋根面をややくぼませることで逆に稜を強調して表現している。これは石造層塔にもしばしば見られる手法である。笠頂部には幅約13cm、高さ約1.5cmの露盤を刻み出す。相輪は亡失、代わりに五輪塔の空風輪を置いている。笠頂部の枘穴は径約7cm、深さ約5.5cm。石造宝塔は南山城地域では珍しく、笠裏の表現など面白い手法とあわせ注目すべきものといえる。銘にあるとされる三十八所というのは三十八所権現のことであろうか。あるいは38ヶ所に如法経を供養して造塔が行なわれたのであろうか。集落入口の小丘陵にある墓地に腰折地蔵と称する地蔵石仏があり、周囲に箱仏や石塔の残欠が集積されている。その中に同じような手法の垂木型を持つよく似た大きさの石造宝塔の笠の残欠がある。01_4あるいは38ヶ所に作られた石造宝塔の内の1つだったのかもしれない。残欠ながら見逃せないものである。造立時期については比較できる類例をみないため推定することは難しい。かえすがえすも紀年銘の判読ができないことが惜しまれる。「京都古銘聚記」では鎌倉時代末頃のものとされている。笠の軒反の様子、手の込んだ笠裏の手法は古い要素といえるが、背の低いずんぐりとした壺型の塔身、基礎の背の高さなどは新しい要素であり、規模の小ささも考慮すれば、やはり鎌倉時代末を遡るとは思えない。難しいところだが南北朝時代、概ね14世紀中葉から後半頃のものとして後考を俟ちたい。

参考:川勝政太郎・佐々木利三「京都古銘聚記」

   川勝政太郎「新版日本石造美術辞典」

写真左2番目:錫杖を携える地蔵菩薩坐像。本来菩薩は如来と同列にならないはず、地蔵菩薩が重視されたことがわかります。それから低い初層軸部にも目をやっていただきたい。鎌倉中期頃であれば背が高いのが普通だと思うのですが…。写真下右:笠裏の垂木型や隅木にご注目。通常は単なる直線的な段形にデフォルメされることが多いのですがこれは違います。写真左一番下:真反りっぽいこの軒反がおわかりになるでしょうか。写真右一番下:神童子集落入口の墓地で見た石造宝塔の残欠笠。サイズ、笠裏の手法(この写真では笠裏は写っていません…)など天神社のものと共通し注目すべきものです、ハイ。