石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市長谷町 塔の森層塔

2012-01-09 15:30:53 | 奈良県

奈良県 奈良市長谷町 塔の森層塔

南田原町から南下し白砂川を遡り、長谷町の南西、天理市山田町方面へ抜ける峠の道路から西に入って狭い坂道をしばらく進むとやがて日吉神社に至る。01_2神社脇の広場の山寄りにはいくつか石造物が並んでいる。02中央の石仏は近世以降のものだが、その台になっているのは立派な花崗岩製の宝篋印塔の基礎で、近くには釣り合うサイズの笠石が見られる。基礎上二段で側面は素面。四隅間弁の反花座を備えた大和系の宝篋印塔で、笠上は珍しく七段、笠下は地面に埋まって確認できない。隅飾突起は二弧輪郭式である。塔身と相輪は亡失するが元は六尺塔くらいの大きさがあったと思われる。清水俊明氏は南北朝後期頃のものとされているが、もう少し遡るかもしれない。03_2舟形背光五輪塔には天文二十年(1551年)、同二十一年(1552年)の紀年銘が見られる。また、地輪から水輪部にかけて舟形光背を彫り沈めて地蔵石仏を刻んだ立派な半裁五輪塔も目を引く。04また、居並ぶ石造物の中に現高約39cm、幅16cm角の花崗岩製の方柱がある。何らかの石造物の残欠で、上端に枘があって笠塔婆の塔身か四角型石灯籠の竿のように見えるが、元はどういうものだったのかよくわかっていない。「右為父母/貞和五乙丑」との刻銘があるとされ肉眼でも確認できる。貞和5年は南北朝時代前期の1349年。このほか近世の宝篋印塔等も見られる。こうした仏教関係の石造物の存在から、この広場にはかつて日吉神社の別当寺があったと考えて差し支えないだろう。広場脇の山道を10分程爪先上がりに登っていくとやがて石段が現れ、これを上りきると尾根のピークに達する。稲荷の小祠が祀られ、その奥に目指す層塔がある。周囲には金属製の保護柵が設けられている。場所としては天理市福住町との境に近い。01_5凝灰岩製。きわめて珍奇な層塔として古くから著名なもので、昭和29年には県史跡に指定されている。現状高約245cm。現在六層に積まれているが、02_2傍らに笠石やその残欠が少なくとも3枚分以上あって、元は十三重であったと推定されている。基礎は大小2つ上下二段だったと推定されている。小さい方の基礎、つまり上段の基礎は笠の残欠といっしょに傍らに置かれている。現状の基礎は即ち下段の基礎で、対向側面間の幅約102cm、高さ約28cm、各側面には輪郭を巻かずに直接幅の広い格狭間を入れる。03_4格狭間の形状は通常目にする石塔基礎などにあるものとは明らかに異なる。これは従前から言われているように、東大寺正倉院に残された奈良時代の器物の床脚等に見るような古い格狭間に通じる形状で、確かにそのように見える。上段基礎は破損が激しく、各側面には下段基礎と同様に輪郭を巻かず直接格狭間を配し、格狭間内には素単弁八葉の蓮華文のレリーフがある。いかんせん遺存状態が悪く、04_2蓮華文レリーフは確認できるが、格狭間の様子ははっきりしない。05_2上端には受座を刻出し、中央に方形の枘の痕跡が残っている。初層軸部は高さ約38.5cm、対向側面間の幅約52cm、側面には輪郭を巻き、輪郭内中央に径約13cm程の素単弁八葉の蓮華文のレリーフがある。輪郭に囲まれた羽目部分は長方形ではなく、下端が狭く、上に行くに従って幅が広くなる。上端が欠損するのか上部輪郭は確認できない。初層を除く軸部は笠石と一体型で、軒の張り出しは大きい。現状初層の笠石は対向する軒の幅約105cm、軒口は欠損が目立つがあまり厚みはなく緩い反りがあるようで、降棟を突帯状に刻み出す。06_2笠裏は水平にせず軒口から内側に抉りこんで軸受けと隅木を刻み出している。08_2 この笠裏の手法は、明日香稲淵の竜福寺層塔(天平勝宝三年(751年))にも見られる。傍らに置かれる笠石を見ると、軸部上端の受座中央に方形の枘があるのがわかる。特長をおさらいすると、1凝灰岩製、2平面が六角形、3低平な二重の基礎を備える、4笠軸部一体である、5軒の出が大きい、6笠裏が抉り込んでいる、7降棟を突帯で表現する、8隅木を突帯で表現する、9軸部の受座を刻出する、10初層軸部並びに上段基礎の側面を素単弁の蓮華文のレリーフで飾る、11初層軸部の側面は輪郭を巻くがそれは長方形ではない、12枘(方形)を有する…といったところだろうか。07鎌倉時代以降の一般的な近畿地方の石造層塔に比べるとそのデザインは独創的かつ特異なもので、笠裏の手法、格狭間の形状などから、奈良時代後期頃の造立とされている。古いのは間違いないだろうが、奈良時代にまで造立時期を繰り上げて考えてよいものか、正直いって少し躊躇を感じるが、竜福寺塔や正倉院に残されるような遺品の格狭間などしか比較検討できる類例もない以上、今のところ積極的にこれを否定することはできないだろう。少なくとも平安時代末期以前に遡るのは間違いないと思う。なぜこのような山深い場所に特異な古い層塔がぽつんと存在しているのか、謎である。東大寺の境内ないし勢力範囲の一端を示す牌示標識の役割があったとか、付近にかつて存在したらしい塔尾寺という山岳寺院関連の経塚の標識塔であるとかの説があるようだが、不詳とするほかない。全体に破損が激しいことが惜しまれるが、概ね主要部分は残っており、造立当初の装飾的かつ優美な姿を想像することも十分可能である。独創的な古い石造層塔として類例のない貴重な存在である。

 

 

写真最上段左右:一具のものと思われる宝篋印塔の基礎&反花座と笠石、上から2段目右:貞和5年銘の謎の石柱がこれ、上から2段目左:所謂半裁五輪塔、上から4段目右:層塔の笠裏の様子、上から5段目右:上段基礎がこれ、蓮華文レリーフが見えますでしょうか、上から4段目左:初層軸部の輪郭と蓮華文レリーフ、上から5段目左:傍らの笠石、六角形で降棟の突帯、受座や方形の枘が見てとれます、左最下段:基礎の格狭間です。たしかに正倉院チックなところがあります。

 

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術

      川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

     〃   新版『石造美術』

   太田古朴 『美の石仏』

 

笠石の残骸が折り重なって傍らに置かれています。周囲には埋もれた部材がまだ眠っていそうです。実に何というかエキセントリックな層塔で蓮華文がチャーミングです。蓮華文の蓮弁の割付が真っすぐにならずに少し斜めにズレているのを見ると、意外にテキトーというか、凝ったデザインなのに細部にこういうおおらかなところがあるのは確かに奈良時代風かもしれませんね。数年ぶりに訪ねましたが、曲がる道を間違えて集落奥の狭い狭いとんでもないところに入り込んでしまい立ち往生、バンパーをガリガリやってしまいました。ポイントポイントにはちゃんと案内看板がありますのでご安心を。雪が残っていて、いや寒かった。


あけましておめでとうございます。

2012-01-01 02:37:01 | お知らせ

あけましておめでとうございます。拙ブログサイトもおかげさまをもちまして早6年目に突入、日頃のご愛顧に改めて御礼申し上げます。

 さて、昨年UPできたのは結局32件、紹介記事としては28件にとどまりました。内訳は奈良が13件、滋賀が8件、京都が5件、三重2件、その他が4件でした。奈良が滋賀を抜いて初めてトップとなっています。過去にエントリ実績のあった和歌山、岐阜はゼロ、それと何とかしたいとずっと思っている大阪も結局ゼロでした。最近の傾向としては石仏の躍進が目立っています。石仏はひなびた味があって訪ねて楽しいものです。また、お顔があるせいか石塔に比べると親しみやすいものですが、一層ディープな世界、取り扱いは難しいですね。造形が複雑でより美術的な傾向が強く、それだけに時代色が出にくい事例が少なくないように思います。細部の表現にヒントが隠されていることもあるので注意深い観察が大切ですが、一方で全体のまとめ方、衣文や面相表現、醸し出される雰囲気など「作風」をつかみとることも忘れてはならない気がします。しかし何でこれが鎌倉でこっちが江戸やねん?というのがけっこうあって難しいです。

 それにしても石造物は依然として等閑視されています。小生の住む近くでも最近、大きい由緒ある墓地で無縁墓標の整理が行なわれ古い石造物がごっそり無くなってしまった例がありました。寂しい限りです。

 身近にあって次第に失われてゆく石造物ですが、そもそも「石」という素材が古人にチョイスされた理由の一つには、堅牢な材質がもたらす永遠性への期待感があったからに他ならないと思います。何かを長く後世に伝えようとしたわけで、そうした祖先の思いを汲み取ってあげるのは我々子孫の努めかもしれません。また、石造物の大部分は信仰対象であることから、単にモノとしてだけでなく内なる世界、ココロの世界をも垣間見る材料になりうるものです。忘れ去られた往昔の社会の様子や心の世界を紐解く貴重な資料になりうる潜在性を秘めたまま、次第に失われゆく石造物の価値はもっと顕彰されて然るべきではないかと思います。というわけで、余暇を利用してのマニアックな道楽は今年も続きます。まぁボチボチとやっていきますので、どうかよろしくお付き合いの程、お願いいたします。恐惶謹言

 

P.S.はなはだ心もとない内容ですので、勘違いや遺漏等のおそれこれなきにしもあらず、ご批正、ご意見、疑義、情報提供等の建設的なコメントをお待ちしております。(ただし内容に関係のないコメントはご遠慮ください。(2008年6月15日付お知らせ記事参照))