石造美術紀行

石造美術の探訪記

『石塔調べのコツとツボ』を購入しました。(お知らせ)

2017-01-17 21:15:58 | お知らせ

『石塔調べのコツとツボ』を購入しました。(お知らせ)
『図説 採る撮る測るの三種の実技/石塔調べのコツとツボ』藤澤典彦・狭川真一著、高志書院から出ました。藤澤・狭川コンビによる調査ハンドブックですので間違いがあろうはずがない、速攻でゲットです。
石仏調査のハンドブック、拓本のハンドブック、遺物や遺構の実測についてのハンドブックは、たぶんこれまでもあったと思いますが、丸々一冊石塔に特化した調査ハンドブックとしては唯一無二の存在ではないでしょうか。石塔を知るためというよりむしろ石塔を調査するためのハンドブックです。特に実測図の取り方が豊富な写真と作図途中のメモまで示し懇切丁寧に記載されている点はたいへんありがたいものです。写真における光線の当て方も詳述されていてたいへん参考になります。
こうした出版物が背中を押して石塔に興味を持つ人が増え、石塔の調査が各地で進むことに期待です。
前半は藤澤先生と狭川先生が対談形式で石塔を語っておられます。基本的に口語の関西弁のままのところもあり、関西弁のニュアンスが伝わらない人にはちょっとわかりにくいかもしれませんが、当代石塔研究の御大による流石の薀蓄を横で直接聞いているようで、その生々しい感覚には代え難いものがあり、標準語に変換しなくてよかったのではないかと思いました。とにかく是非おすすめしたい一冊です。
小生はシンポ会場で高志書院さんから手渡しで購入できたのも嬉しかったですが、amazonでも扱ってます。


京都府南丹市園部町若森庄気谷 普済寺宝篋印塔

2017-01-13 00:01:06 | 宝篋印塔

京都府南丹市園部町若森庄気谷  普済寺宝篋印塔(3基)
普済寺は平安時代に天台寺院として創設されたとも足利尊氏の妹の千草姫が夢想疎石を開山に招いて延文21357)年に創建された臨済寺院とも言われるが明らかではなく、戦国期には退転していたものの、江戸時代初めに領主の援助もあって再興され曹洞宗に改宗したとされる。今に残る禅宗様式の仏殿(重文)の建立が南北朝時代とされることを考えあわせると、臨済・延文2年説に説得力があるように思われるが、千草姫や夢想国師云々は残念ながら伝承の域を出ない。農芸高校に向かう道路で分断された北東側の谷筋に仏殿があるので間違えてしまうが、寺の正面は反対側の南側で、墓地のある旧道から山門をくぐるのが本来の参道と考えられる。「天下太平」「万民普済」の文字がある石柱の立つ参道の左右の石積の上と山門をくぐって左手すぐの天神社の北側に宝篋印塔がある。北側のものは、石積の上に建ち、基礎は上端をむくりのある複弁反花とし、各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を入れる。塔身は蓮座上の月輪を伴う金剛界四仏の種子で、種子は小さい。笠は上6段下2段、二弧輪郭付の隅飾には平板陽刻の円相を置く。円相内に梵字は確認できない。相輪は、上請花が覆輪付単弁、下請花は複弁。塔身がやや大きい印象。完存。計測しなかったが目測6尺塔。基礎側面の格狭間は形が整い輪郭内いっぱいに広がって古調を示す。基礎上端のむくり反花はメリハリが効いてよくシェイプアップされている。塔身の種子に力がなく、笠の段形の彫り込みがやや甘くシャープさが足りない印象。石材はキメの細かい花崗岩のように見えるがよくわからない。14世紀中葉から後半頃の造立と思われる(川勝博士『京都の石造美術』によれば塔高188cm、南北朝初期と推定されている)。
参道途中の2基は北側のものより一回り小さく目測5尺塔。どちらも笠が上6段下2段で二弧
輪郭の隅飾で、基礎はむくりのある複弁反花式、塔身は蓮座月輪の金剛界四仏。花崗岩製と思われる。東側のものは、切石基壇を備え、基礎側面の三面は輪郭格狭間。うち一面の格狭間内に開敷蓮華のレリーフらしいものが見られた。これを正面とすると背面は素面。相輪は九輪の4段目を残して折損し、先端は傍らに置かれている。西側のものは、本来一具のものか否か怪しいが、上端に扁平な複弁反花を三方に刻み出した一石作りの厚い基壇に載り、北西の隅飾が欠損する。基礎は四面とも輪郭格狭間。塔身は天地逆になっている。相輪は上請花の下で折損するが上手く継いである。どちらも無銘だが、小型で彫整もやや粗く、造立は14世紀末頃か15世紀前半頃まで降るかもしれない。
参考:川勝政太郎『京都の石造美術』


北側のもの。保存状態良好。塔身がやや大き過ぎるように見える。隅飾内の円相はずいぶん上の方にある。


基礎の格狭間はなかなかいい形。


東側のもの。基礎に開敷蓮華のレリーフと思しいものが見られた。西側のよりこっちの方がやや古いかもしれない。


西側のもの。隅飾の外傾が目立つ。塔身天地逆。台座というか基壇というか何これ?


これが重文の仏殿。禅宗様式の瀟洒な建築。花頭窓と優美な軒先が印象深い。改修工事で面目を一新し、創建当初の外観に戻ったといいます。


京都府南丹市船枝才ノ上 腕塚宝篋印塔

2017-01-06 12:16:38 | 宝篋印塔

京都府南丹市船枝才ノ上 腕塚宝篋印塔
船枝神社の鳥居と社務所の間、わずかなスペースに設けられた腕守社(かいなもりしゃ)と呼ばれる小祠の裏側、狭い場所に窮屈そうに大きな宝篋印塔が建っている。元は神社に隣接する小学校の場所にかつて存在した安城寺(別当寺か)の北西隅にあったものを明治の初めに移建したと伝える。安倍貞任の腕を埋めたとされる塚の石塔との伝承から腕塚(かいなづか)と呼ばれている。花崗岩製。基礎は直接地面に置かれ、塔高約265cm。略々9尺塔の大きさである。基礎は各面とも輪郭を巻いて格狭間を入れ、上端はむくりのある複弁反花。基礎高さ約55cm、側面高約41
cm、幅は約79cm。塔身は蓮座月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子の文字は大きくないが端整な刷毛書でタッチに勢いがある。塔身の高さ約43cm、幅約42cm。月輪径約34cm。笠は高さ約59cm、軒幅約75㎝、軒の厚さは約9cm、下端幅約50cm、上端幅約32cm。隅飾は三弧輪郭付で、軒から約1cm入って直線的に外傾する。隅飾は基底部幅約23cm、高さ約27.5cm。相輪高約105cm。太く立派な相輪で九輪の彫りは浅いが丁寧に凹凸を刻み分け、上請花が単弁、下請花は複弁。先端宝珠の曲線も良好だが、伏鉢の側線はやや直線的になっている。無銘だが、規模が大きく基礎から相輪まで完存し、目立った欠損もなく保存状態も良好。基礎上の蓮弁や外傾する笠の隅飾などの特長から南北朝時代の作とされる。塔姿全体に重厚感があり、笠の段形の整った彫整、勢いのある塔身の種子などに鎌倉時代後期の遺風を残す。概ね14世紀前半~中葉頃の造立として大過はないだろう。
参考:川勝政太郎『京都の石造美術』
       〃  『日本石造美術辞典』
   日本石造物辞典編集委員会編『日本石造物辞典』吉川弘文館

文中法量値はコンべクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。これは明白に花崗岩と認識できます。先に紹介しました旧日吉町四ツ谷のものもそうですが、基礎が側面輪郭格狭間で上端むくり反花式&隅飾が直線的に外傾する輪郭付&塔身蓮座月輪種子というある程度共通した意匠の宝篋印塔が南北朝時代以降そうとう分布しています。この手の宝篋印塔は、不思議なことに大和・近江にはほとんど見られず、一説に京都系とも称されるようですが、硬質砂岩や安山岩製の小型のものが多く花崗岩の立派なものはあまり多くありません。この手の宝篋印塔にしては珍しい花崗岩製で、気宇が大きい鎌倉の遺風を色濃く残す本塔のような例が、おそらくこの手の宝篋印塔が地域に導入された最初期のもので、端整な塔姿がかなりのインパクトを与えその後のお手本のような扱いを受けていたのではないでしょうか。


祠裏の狭い区画に竹垣に囲まれているのでいいアングルで写真が撮れない…


規模が大きく、丁重かつ端整な彫整…見事。


基礎上のむくり複弁反花。


三弧輪郭の隅飾と笠の段形。シャープな印象。


種子は大きくないが、端整な太目の刷毛書の書体で、薬研彫にもエッジがきいている。月輪下の蓮座は肉眼では確認しづらい。