石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 綴喜郡宇治田原町禅定寺 禅定寺五輪塔

2008-10-28 00:40:03 | 五輪塔

京都府 綴喜郡宇治田原町禅定寺 禅定寺五輪塔

宇治田原町が誇る数々の文化財を有する古刹、禅定寺の山門をくぐるとすぐ石段の左上に立派な五輪塔が立っている。03花崗岩製で高さ約192cm。基礎下に反花座を備え、その下には切石の基壇を設けている。反花座は一側面あたり024葉の複弁を主弁とし、それぞれの間に小花(間弁)を挟み、隅が小花になる大和に多くみられるタイプである。先に紹介した岩山の真言院塔では隅が小花とならない。さらに反花蓮弁の彫りは真言院のものに比べると心もち平板な印象でやや抑揚感に欠ける。真言院塔の反花座と比べると側面幅に対する受座の幅が大きく、幅に対して背が高い台座となっていることがわかる。以下真言院塔と比較しながら各部の特長を述べていくと、地輪の幅:高さ比は禅定寺塔の方がやや背が高い。禅定寺塔は水輪の最大径が下にあることから、天地がひっくり返っている可能性がある。したが01って、禅定寺塔の方が若干ながら水輪の裾すぼまり感が強いといえるかもしれない。火輪軒反の力強さは禅定寺塔が勝っているように見える。これは軒下の反りが真言院塔に比べるとはっきりしていることによる視覚効果と思われる。軒先中央の直線部分が広く隅近くで急激に反転する反りの調子には硬さが現れている。空風輪は大きめでその造形は優れているが、禅定寺塔の空風輪には少し直線的なところが出てきている。禅定寺塔では空輪の最大径の位置をやや04 低くくしており、風輪との間のくびれの深さが逆に脆弱な印象を与える結果になっているように思える。空輪先端の突起は禅定寺塔の方がやや大きい。真言院塔との相違点を列記しながら禅定寺塔を紹介したが、これらはいずれもわずかな違いであり、総じて述べれば両者はサイズも意匠表現も非常に似かよった五輪塔といえ、造立年代には大差がないものと考えられる。禅定寺塔の価値を一層高めているのは、地輪南側面の中央に「康永壬午十二月四日」の刻銘がある点である。康永の文字は肉眼でもはっきり確認できる。康永は北朝年号で壬午は元年(1342年)にあたる。川勝博士が指摘されるように、南山城に多く分布する大和系の反花座を持つ五輪塔にあって在銘の稀有な事例であり、南山城の五輪塔を考えていくメルクマルとして極めて貴重である。町指定文化財。

参考:川勝政太郎 「京都の石造美術」 149~150ページ

    〃 「禅定寺五輪塔」『史迹と美術』113号

川勝博士が最初に報告された昭和15年の『史迹と美術』113号の報文では康永元年とされていますが、昭和47年の「京都の石造美術」で康永2年となっている点は謎です。壬午と読むと元年、癸未と読むと2年になります。南朝年号では興国3年ないし4年ということになります。小生の拙い表面観察では極めて心許ないわけですが、癸未よりも壬午の方がよいように見えます。なお、当日は実地採寸できませんでした。したがって縷々述べた記述は、肉眼での大雑把な観察による主観的な印象を多々交えており、勘違いがあるかもしれませんがご諒承賜りたい。他日各部の寸法を確かめる機会を期したいと思っています、ハイ。


京都府 綴喜郡宇治田原町岩山字中出 真言院五輪塔

2008-10-25 11:28:26 | 五輪塔

京都府 綴喜郡宇治田原町岩山字中出 真言院五輪塔

宇治田原町の総合文化センターや町立図書館、住民体育館等の公共施設が集まっているところから北東、直線距離にして約500m程の小高い山腹、南側からは尾根に遮られあまり目立たない場所に亀井山真言院がある。03西側すぐのところには宇治田原随一の古社として知られる雙栗神社がある。詳しいことは調べていないが別当寺だったのかもしれない。木々に囲まれた境内は静寂そのもので、南面する本堂の西側、鎮守社のある尾根の斜面に優れた反花座を備えた立派な五輪塔が立っている。00反花座は幅約93cm、高さ約25cm、受け座の幅約63cm、南北方向に直線的な割れめがあり、台座は元々1/3と2/3に2分割されるものであった可能性がある。蓮弁は抑揚感のある複弁式で側面一辺あたり主弁3葉、小花(間弁)4葉、隅が小花にならないタイプである。これは大和で多く見る隅が小花になるタイプの反花座と異なる。蓮弁の彫りに際立ったシャープさは感じられないものの整美な反花といえる。側面幅に比して受け座の幅が小さく、どちらかというと全体に低平でどっしりした台座である。五輪塔は塔高約163cm、地輪幅約58cm、高さ約40cmと高すぎず低すぎず、水輪の球形はよく整い、直線的な硬さや裾がすぼまった感じは受けない。幅約55cm、高さ約43cm。火輪は軒幅約54cm、高さ約35cm。軒口は中央で厚さ約11cm、隅で約14cm。隅にいくに従い厚みを増しながら反転する軒反りはスムーズで、下端より上端の反りが目立つ。01_2空風輪は大きめで、台座も含めた五輪塔全体のバランスを絶妙に引き締める視覚的効果をあげている。風輪幅約32cm、高さ約16cm、空輪は幅、高さとも約28cm。空輪と風輪の間のくびれは深いが脆弱な感じはない。風輪の鉢形の曲面のアウトラインに直線的なところがなくスムーズな曲線を描く一方で上端はきっちりまっすぐに仕上げている。空輪の最大径はやや上方にあるが宝珠形は完好な曲線を描き、直線的な硬さはまったく感じさせない。空輪頂部には小さい突起がよく残っている。花崗岩製で、各部とも素面で梵字などはみられない。表面的な観察からは刻銘は確認できない。総じて細かいところまで手抜きのない堅実な出来映を示し、全体のバランス感覚にも優れているが逆にまとまりすぎてこれといった特長がないといえるかもしれない。造立年代について、川勝博士は鎌倉末期と推定されている。硬さはないが豪健さはややなりを潜め、温和な調子がにじみ出ているようにも見える。こうした全体の印象に加え、火輪の軒反の様子などから川勝博士の推定のとおり、鎌倉後期でもおそらく末期に近い頃、概ね14世紀前半頃の造立と推定できる。町指定文化財。

参考:川勝政太郎 「京都の石造美術」 150ページ

静かで緑豊かな木陰、苔むした地面に立つ五輪塔は落ち着いた佇まいを見せ、訪れる我々に、何というか安心感のような感覚を与えてくれます。境内にはこのほかに戦国期頃のものと思われる小形の宝篋印塔や舟形背光五輪塔などの石造物が散在しています。

なお、近くの禅定寺にある五輪塔はやや時代の降る康永2年(1343年)(康永元年説も…)銘があり、こちらは台座は隅が小花になる大和系のものです。同じ地域の近い年代の五輪塔に異なるタイプの反花座が採用されています。反花座を考えていく上で実に興味深いものです。そういえば近くの大宮神社にある宝篋印塔は格狭間内に三茎蓮を持つ近江系のデザインを採用しており、近江、大和、京都の石造文化の交わりを考えていくうえで宇治田原町は実におもしろい場所です、ハイ。


京都府 綴喜郡宇治田原町南字中畑 田原南宝篋印塔(わらじの神様)

2008-10-23 22:55:20 | 京都府

京都府 綴喜郡宇治田原町南字中畑 田原南宝篋印塔(わらじの神様)

宇治田原町役場の南方約1km、南区の小字中畑、旧切林村の公民館北の三叉路を東に入02った目立たない場所にある。北に延びる尾根の東斜面に位置する。地元では「わらじの神様」と呼ばれており、和束町方面へ抜ける古い街道の脇、ちょうど坂道にさしかかる手前の右手にある。昔、街道を往く人がここでわらじの紐を締め直したともいわれているとのこと。また、足の怪我や病気を治す霊験があるとされ、お参りする人が多いようで、西側にコンクリートの階段と簡単な拝屋が設けられ、香華が絶えない様子である。03元位置を保っているか否かはわからないが、現状では基壇や台座は見られず、直接基礎を地面に据えている。花崗岩製。相輪先端の宝珠を亡失し上の請花までの高さ約162cm、元は6尺塔であろうか。宝珠を欠く以外各部揃った立派な宝篋印塔である。現在は宝珠の代わりに小さい五輪塔の空風輪が載せてある。基礎は幅約55cm、側面高約28cmと低く安定感がある。上2段式で側面各面とも輪郭を設けて内に格狭間を配する。格狭間内は素面。格狭間は肩があまり下がらず側線のカーブはスムーズで概ね整った形状を示す。塔身は幅約27cm、高さ約28cm、金剛界四仏の種子を月輪内に薬研彫する。種子のタッチは端整ながら雄渾というほどではない。笠は上6段下2段で軒幅約50cm、高さ約38cm。軒口は薄めで、どちらかというと大ぶりな隅飾は軒から少し入って立ち上がり、少し外傾する二弧素面で、輪郭は見られない。相輪は現存高約56cm、伏鉢がやや小さく、下の請花の蓮弁は今ひとつはっきりしないが単弁のように見える。九輪の逓減は目立たず、各輪は太くはっきりしているが彫りの深さはそれほどでもない。上請花は単弁。先端の宝珠が惜しくも欠損している。際立った特徴はないもののよくまとまった出来映えを示し、各部の意匠や彫成も抜かりなくいきとどいているが、全体的にやや力強さに欠け温雅な印象を受ける。種子に少し弱さが出ていることなどから、14世紀前半頃、概ね鎌倉時代末期頃の造立とみて大過ないものと思われる。やや表面の風化があるが各部ほぼ揃って遺存状態概ね良好。町指定文化財の看板が傍らに立っている。

参考:川勝政太郎 「京都の石造美術」 129ページ

川勝博士の「京都の石造美術」に、鎌倉時代の宝篋印塔として、「田原南塔、俗称「わらじの神様」」とだけ出ています。他に詳しく紹介された記事等を知らず、南は広い大字なので数年来探しあぐね、ずっと気になる存在でした。車の通れる道路から徒歩で小道を少し進んだ尾根裾のほの暗い山陰の竹薮にありました。道で会った通りがかりの地元のおばあさんに思い切って尋ねたところ、道路からは判りにくいかもしれないから道案内をしてあげようと、わざわざ同道してもらって教えていただきました。とぼとぼと乳母車(高齢者向けのカートとでもいうのでしょうか、詳しくないのでとりあえずこの表現にしておきます)を引いて農作業のお帰りだったのでしょうか、かなりのご高齢で、乳母車を道路に停めてからは、杖がないと足元がおぼつかないとのことなので、手を引かせてもらいいっしょに小道を歩きながら、塔が少し傾いているのをまっすぐに直すと障りがあるといわれていることや、地元での信仰が厚いことなどのお話をうかがいました。このようにしてようやく巡り逢えた「わらじの神様」、感激は一入、かのおばあさんのご親切に感謝したいと思います。法量値は例によってコンベクスによる現地略測値ですので多少の誤差はご容赦ください、ハイ。


各部の名称などについて(その3)

2008-10-20 23:16:39 | うんちく・小ネタ

各部の名称などについて(その3)

次に石造宝塔です。宝塔(ほうとう)という言葉自体は塔婆(とうば)類全般を指す美称として用いられることもありますが、ここでいう宝塔というのは単層の多宝塔(たほうとう)のことです。10_2下から基礎、塔身(とうしん)、笠(かさ)、相輪(そうりん)で構成され、五輪塔に比べるとやや複雑に見えますが空風輪の代わりに相輪になっているだけでその基本構成は同様です。稀に相輪ではなく請花(うけばな)と宝珠(ほうじゅ)を載せていることもあるようです。08基礎は四角く、上面は平らで、側面には輪郭や格狭間などで装飾されることがあります。上面に塔身受を設ける例がありますが数は少ないようです。基礎の下には基壇や台座を設ける場合もあります。塔身は平面円形の円筒形や宝瓶形で、基本的に首部(しゅぶ)と軸部(じくぶ)からなり、首部の下に匂欄(こうらん)部を設けたり、軸部の上に縁板(えんいた)(框座(かまちざ))を設けることもあります。軸部には法華経の見宝塔品(けんほうとうぼん)にある多宝如来と釈迦如来の二仏並座像を表現する場合のほかに、種子を薬研彫したり単独の如来坐像を刻むことがあります。また、扉型(とびらがた)や鳥居型(とりいがた)を突帯で表現する例も少なくありません。円筒形の軸部の上端が曲面になっている場合は饅頭型(まんじゅうがた)ないし亀腹(きふく)を表現したものと考えてよいと思われます。屋根にあたる笠は普通、平面四角形で、底面にあたる笠裏に垂木型(たるきがた)や斗拱型(ときょうがた)を表現する段形を設ける例が多くみられます。垂木型と斗拱型の違いは厚みと位置で判断します。軒口に近い位置に薄く段形がある場合は垂木型、首部に近い位置に厚めに表現される場合は斗拱型となります。両方を組み合わせる場合もあればどちらなのか判断できない場合もあります。また、斗拱型は別石で表現される場合がありますが、垂木型は別石にすることはほとんどありません。笠の四注(しちゅう)には3筋の突帯で隅降棟(すみくだりむね)を刻みだし、その先に鬼板(おにいた)や稚児棟(ちごむね)まで表現する場合があります。Photo残欠になっている場合、層塔の最上層の笠とは四注の隅降棟の突帯表現の有無で見分けることができます。また、ごく稀に瓦棒(かわらぼう)や垂木(たるき)を一本一本表現した例があります。笠頂部には露盤(ろばん)を表現した方形段を設けている場合が多いようで、これは層塔の最上層の笠と共通しています。笠上には層塔や宝篋印塔と同じように相輪を載せています。相輪は下から伏鉢(ふくばち)、請花(下)、九輪(くりん)、請花(上)、宝珠の各部位で構成され、ほとんどの場合は一石で彫成された細長い棒状になっていて、下端に枘(ほぞ)があって笠頂部の露盤に穿たれた枘穴(ほぞあな)に挿し込むようになっています。相輪の本格的なものは九輪の上に水煙(すいえん)を設け、上の請花の代わりに竜車(りゅうしゃ)を配しますが、層塔の相輪に多く宝塔や宝篋印塔では非常に稀です。相輪は細く長いため、どうしても途中で折れて先端が亡失することが多いようです。垂木、匂欄、露盤などというのは、建築用語から来ています。石造宝塔の直接の祖形が木造建築等にあるのかどうかはわかりませんが、石造に取り入れられた意匠表現には、木造建築物や工芸品類を手本にしているか、少なくとも意識はしていると考えられる部分が多く見られます。09中世前期に遡るような古い木造建築の宝塔で、石造宝塔と同じ形をした単層のものは残念ながら1基も現存していませんが古い絵図や記録を見る限り確かに存在したようです。雨を基礎に近い部分に受けやすく、腐食が進みやすい構造上の欠陥が原因ともいわれていますが、残っていない本当の理由はよくわかっていません。裳腰(もこし)付きの宝塔である多宝塔(たほうとう)の木造建築はたくさんありますし密教系の仏壇には組物などの複雑な建築構造を表した金属製などの工芸品としての宝塔が多く見られることからも、木造建築や工芸品の意匠表現を石造に導入したと類推をすることは可能です。もっとも石で木造建築の複雑な構造を詳細に表現することには限界があるので、直線的にデフォルメされ、単なる段形や框座になっています。少なくとも逆に石造宝塔をモデルにして後から木造の宝塔や金属工芸の宝塔が創作されたとは考えにくいと思います。そういえば工芸品は除くと、五輪塔や宝篋印塔の木造建築という例はないようです。一方で裳腰付きの宝塔である多宝塔と層塔は、木造建築の方が本格的で、石塔はどちらかというと代替的な感じがします。逆に石造が本格である五輪塔・宝篋印塔とはこの点で一線を画すると考えることが可能です。そして石造の層塔や宝塔は五輪塔や宝篋印塔よりも成立が遡るという点も甚だ興味深いものがあります。脱線しましたが、石造宝塔を考える場合は、五輪塔や宝篋印塔に比べると古建築に関する情報を押さえておくべき度合いが高いということを申し上げておきたかったわけです。なお、宝塔の教義的な裏づけは法華経の見宝塔品にあることが定説化しており、法華経を重んじる天台系の所産と考えられています。比叡山のお膝元である滋賀や京都に石造宝塔が多いこともその証左になっています。しかし見宝塔品には多宝如来のいる宝塔の塔形についての具体的な言及はされていないようです。また、真言宗でも瑜枷塔(ゆがとう)をはじめ同様の塔形を見ることができます。有名な奈良長谷寺の銅版法華説相図(奈良時代前期)に描かれた多宝・釈迦二仏が並座する塔は平面四角の三層構造で、ここでいう宝塔の形状とは似ても似つかないものです。宝塔の塔形が固まってくるのは平安時代の初めに密教が唐から導入されて以降とされており、石造・木造に限らずですが宝塔の形状のルーツについてはまだまだ謎が多いとするしかないようです。(続く)

写真左上:守山市懸所宝塔(14世紀初め頃、近江でも指折りの巨塔で最も手の込んだ意匠表現を見ることができます)写真右:相輪(これは宝篋印塔ものですが宝塔でも同じです)


各部の名称などについて(その2)

2008-10-16 01:22:07 | うんちく・小ネタ

各部の名称などについて(その2)

次に格狭間(こうざま)について、石造物に限らず、木造の建造物や金属工芸品、特に仏堂などの須弥壇などによく見られます。11_2川勝博士によると「曲線の集合より成る装飾彫刻で、原則として物の台座に付けられる」とされ、起源についての確実な説はないようですが「台座の束の両側に付けられた持送りの上部が伸びて連絡し、二つの持送りによって包まれた形が格狭間を生み出したと考えるのが自然」とされています。古くは法隆寺の玉虫の厨子や正倉院の器物などの下端に見られるようなものが祖形だと考えられています。石造物というよりは工芸品類の台脚の補強材ようなものが発展した意匠と小生も理解しています。ちなみに奈良国立博物館の正倉院展目録の用語解説では「机の脚部や器物の床脚等では、しばしば脚を固定するための持送りという材がつけられるが、この持送りには牙状の突起が刳られることが多い。この突起付きの持ち送りが作る間を格狭間と12_2称する。」とあります。石造ではありませんが有名な中尊寺金色堂の内陣須弥壇の側面を見ると、壇上積み基壇と同じ形になって、羽目には豪壮な格狭間があって、格狭間の内側には孔雀のレリーフがあしらわれています。格狭間に囲まれた部分は本来は空洞であるべきですが、羽目板によって塞がれ、すでに台の脚とその補強材という意味合いは失われ、一種の装飾になっています。石造美術にみる格狭間も同様に、側面の装飾としての意匠と考えることができると思われます。恐らく木造建造物や工芸品の装飾からヒントを得て石造物にも導入された意匠表現ではないかと思います。基礎側面だけに限らず、台座の側面や露盤の13側面などさまざまな場所に大小にかかわらずしばしば見られます。格狭間の形状を見ると、上部は花頭曲線と呼ぶ曲線(=弧)と「牙状の突起」つまり茨(=カプス)と呼ばれるとんがった部分が組み合わさり左右の側線がカーブしながら脚部につながっています。古い格狭間は、曲線にたわんだようなところがなく、茨のとんがりがあまり顕著でないものが多く、側線がスムーズで角14張ったりふくらみ過ぎるところがなく上部の花頭曲線の中央が広くまっすぐ水平に伸びて肩が下がらないものが古く、新しくなるにつれてこうした部分がくずれていく傾向があります。(あくまで傾向で絶対ではありません。)戦国時代頃には子どもが描いたチューリップのような「模様」になってしまいます。さらに、格狭間の内側は彫り沈め、しかも微妙に膨らみをもたせ丁寧に仕上げるものが本格的で、次第に彫りが平板になっていき最後は線刻になってしまいます。大雑把にいうと脚と持ち送りという祖形に近いものが古く、それをきちんと踏まえた装飾であったものが次第に元の意味が忘れられ、単なる模様になっていくと考えると理解しやすいかもしれません。(続く)

写真左上:14世紀後半の例、写真右上:滋賀県蒲生郡日野町比都佐神社宝篋印塔に見られる14世紀初頭の美しい格狭間。さすがに中尊寺金色堂の優美な孔雀には比ぶべくもありませんがここにも格狭間内に孔雀のレリーフがあります。三茎蓮花や開敷蓮花に代表される近江式装飾文様にあって、まさに真打といったところでしょうか。いいです、ハイ。ちなみに比都佐神社に近い伝蒲生貞秀塔の基礎下に組み込まれてしまった宝塔と思しき基礎の孔雀文はさらに一層の優れモノです、ハイ。一方くずれてきた格狭間、写真左下:15世紀後半、写真右下:15世紀中頃、ブロッコリーみたいな変な「模様」になって元の意味がわかってないんじゃないですかといいたくなります。子どもが釘か何かででカリカリ削って落書きしたチューリップじゃないの!といいたくなるようなもっとひどいのもあります。


各部の名称などについて

2008-10-14 00:47:35 | うんちく・小ネタ

各部の名称などについて

五輪塔を例に説明します。五輪塔本体は上から空輪(くうりん)・風輪(ふうりん)・火輪(かりん)・水輪(すいりん)・地輪(ちりん)の各部から構成されています。五輪塔の場合は基づくところの五大思想から通常このように呼ぶ場合が多いですが、塔としてこれを見る場合、地輪は基礎、水輪が塔身、火輪は笠、風輪は請花、空輪は宝珠に相当するわけです。01_4また、五輪塔では、ほとんどの場合、空輪と風輪が一石彫成されているのであわせて空風輪(くうふうりん)と呼んだりします。石燈籠などでもそうですが、請花と宝珠が重なって上に載る場合、たいてい一石彫成されています。この五輪塔では本体以外に台座と基壇を備えています。しかも基壇の地下には埋納施設があります。台座や基壇は必須のものではなく、基壇まで備え付けているはむしろ稀です。この種の手の込んだ基壇は壇上積み基壇とか壇上積式の基壇と呼ばれます。上部を葛(かずら)、下端を地覆(ちふく)、地覆の上で葛を縦方向に支えるのが束(つか)、葛と地覆、束石に囲まれた面を羽目(はめ)といい、木造建築にも多く石造りの基壇が見られますが、石で出来ているので、いちおうそれぞれ葛石(かずらいし)、地覆石(ちふくいし)、束石(つかいし)、羽目石(はめいし)といいます。この例では見られませんが、羽目石には格狭間が入れられていることもあります。このほかに単に延石を井桁に組んだものや切石を方形に組んだものは特定の呼称はないようで、単に切石積みの基壇とか延石を組んだ基壇などと呼びます。台座は塔本体の基礎を受けるものです。特に奈良県とその周辺では多く見られるものです。側面と受座と傾斜面の3部構成でたいていは複弁の反花(かえりばな)で傾斜面を飾っています。この場合は反花座(かえりばなざ)というようです。反花は主弁と間弁(小花)からなり、4隅の弁(隅弁)が主弁になるものと間弁(小花)になるものがあります。奈良県では隅弁が間弁(小花)になるものがほとんどで、京都や滋賀県では隅弁が主弁になる場合が多く見られます。このほか、傾斜面に蓮弁を刻まず、素面のものが稀にあり、これは繰形座(くりがたざ)といいます。02関東では台座の側面を区画して格狭間を入れたりして塔本体との一体感がより強いものになる場合が多いようです。03こうした概念や呼称は基本的に建築史学から来ています。石造美術の泰斗である川勝政太郎博士が師事されたのが古建築史の権威、京都帝大教授の天沼俊一工学博士(1876~1947)だったこともあるようです。天沼博士は明治の終りから大正時代に奈良県技師として古建築を広く調査されましたが、石造物の重要性についてもいち早く着目され、九州の国東半島付近に分布する独特の形式をもった宝塔を国東塔と名付けられたのも天沼博士でした。また特に石燈籠について、初めて学問的な体系づけを試みられました。八戸成蟲樓(「はちのへせいちゅうろう」ではなく「やっといまごろう」と読むようです)というおもしろいペンネームを使われることもありました。0406 石造物が建造物として扱われることが多いのも、こうした戦前の建築史からのアプローチが今でも生きているからといえます。重要なことは、石造美術、特に石塔の場合、塔本体はいうまでもなく台座や基壇にしてもそうですが、構造的に不可分な付帯物や地下の埋納構造なども含め一体的に捉えなければならないという点、さらに塔本体の形のおもしろさや美しさだけではなく、さまざまな情報を提供してくれる資料としての役割や信仰の対象であることを忘れず、なるべく総合的に扱うことだと思います。(続く)

写真上、中右:山添村大西極楽寺五輪塔、写真中左:天理市長岳寺五智墓五輪塔、写真下左:奈良市西大寺奥の院五輪塔、写真下右:桜井市粟殿墓地五輪塔(いずれも奈良県)

石造物が建造物として扱われることから生じる不都合を耳にすることがあります。特に石塔の場合、構造的に不可分なものも含め一体的に捉えなければならないものです。モノ的な扱いをすればそうした一体構造から本体だけを切り離して扱えるわけですが、それを許せば、高値で取引され、売り飛ばされて古美術収集家の庭に並べられるようなことを是認することにつながります。しかし、そうしたことが断じて許されないのは古建築だって同じです。極端な例かもしれませんが、法隆寺の五重塔は、塔本体の重要性だけでなく、それが現に法隆寺に建っているからこそ、その価値が高いのではないでしょうか。対象を理解し分析検討し情報発信していく上で大切なこと、そして保護保存を考えていく上で大切なことが何かを踏み外さないということが重要で、物を言わない石造美術は扱う側の心得次第でどのようにもなってしまう。その意味からは制度の問題というよりも運用の問題のような気がしています。門外者が軽率のそしりを免れないかもしれませんが、そういう気がします。

はじめてから記事がまもなく150に達するわけですが、基本的な用語など、一般にはわかりにくいこともあると思われます。いまさらながらですが、念のためご説明しておこうと決めました。その道のエキスパートな諸兄には一笑に付されると思いますが、お許しください。参考図書は後でまとめて記載します。また、錯誤や勘違い等があればご叱正をお願いする次第です、ハイ。(写真中の文字が少し小さいですが、画像をクリックすると少し大きく表示されます。)


滋賀県 甲賀市水口町岩坂 最勝寺宝塔

2008-10-09 00:22:26 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 甲賀市水口町岩坂 最勝寺宝塔

最勝寺は岩坂集落の西方山中にある。現在無住だが地元で手厚く管理されているようで、閑静な境内はよく手入れされている。苔の緑が美しい本堂正面の空間に石造宝塔が立っている。07大吉寺跡の宝塔から建長三年銘が発見されるまでは近江在銘最古の石造宝塔として早くから知られた存在で、近江でも屈指の古い在銘遺品である。14相輪の大半を亡失して現高約192cm。元は9尺塔と考えられる。総花崗岩製。基礎は直接地面に据えられているようだが下部の1/3ほどが埋まって下端が確認できない。基礎は大きい亀裂が縦方向に入り都合3つに割れている。側面は四面とも幅の広い輪郭を巻いて格狭間を入れる。左右の束が特に幅広になっている。格狭間内は素面で平らに彫成されており、近江式装飾文様は認められない。格狭間に特長があって、輪郭内の面積に比べて全体に小さく、上部の花頭曲線が水平方向にまっすぐになって肩が下がっていない。花頭中央の幅は狭く、側線はどちらかというとふくよかさに欠け、特に在銘面の向かって左側の側線などはむしろやや角張っているようにさえ見える。格狭間の形状はお世辞にも整美とはいえず古拙というべきであろう。こうした基礎の特長からは、東近江市柏木正寿寺の宝篋印塔など、だいたい13世紀末頃以前、近江でも古手の部類に入るとされる石塔類の基礎に通有する意匠表現を見出しえる。06基礎の下端は地中にあって確認できないが、高さに対して幅が広く、低く安定感のあるものであることは疑いない。田岡香逸氏と池内順一郎氏で報告の計測値に若干の差異があるが、概ね幅約93cm、高さ約49cm。西側の向かって右の束に「大勧進僧…(以下判読不能)」左に「弘安八年(1285年)十月十三日乙酉造立之」と陰刻する。乙酉は十月のやや上の左右に配置している。大勧進、弘安八年は肉眼でも十分確認できる。塔身は円筒形の軸部、匂欄部と思しき段形を持つ首部を一石で彫成している。軸部は四方に大きめの扉型を薄肉彫りする。扉型は長押が一重で鳥居状にならない単純な構造。左右の方立と長押ともに幅広で、扉型に囲まれた長方形の区画内に舟形背光を彫り沈め、蓮華座に座す四方仏を半肉彫りしている。面相、印相ともに風化の進行でハッキリしないが、田岡香逸氏によれば西側から釈迦、北側阿弥陀、東側弥勒、南側薬師の顕教四仏とのことで、各尊の方位は違っている。わずかな痕跡から可憐な面相がうかがえる。また通常の蓮華座と異なり下半に矩形座を設けているとのことであるが下半身を大きめに造作したようにも見え、その辺りは肉眼では確認できない。背光は像容に比べやや小さめである。左右の扉型方立の外側には開いた扉を表現した台形があり、隣り合って連結して見えるため上に下向きの矢印、下に三角形の彫りくぼめがあるようにも見える。11亀腹部の曲面は狭く、匂欄部を表したと思われる太く高い段形最下部、さらに中段、上段と徐々に高さと太さを減じる3段の段形からなる首部に続いていく。塔身高さ約66.5cm。笠は全体に低く、笠裏には薄い3段の段形の斗拱型を刻みだす。笠高さ約48cm、軒幅約75cm。軒口は非常に分厚く、隅に向かって全体に緩く反転する軒反には力がこもっている。隅増しは顕著ではない。軒の厚みがある分屋根の勾配は緩く、四注の屋だるみも軒反にあわせて絶妙な曲線を描く。隅降棟は、通例の断面凸状とせず、断面半円形の突帯とし、露盤下で左右が連結している。頂部には露盤を比較的高めに削りだしている。相輪は伏鉢、下請花、九輪の最下輪を残し九輪2輪以上を欠損している。伏鉢並びに下請花の曲面はスムーズで、くびれ部にも硬さや弱さは感じられない。下請花は単弁。わずかに残る九輪は凹凸をハッキリ刻み込むタイプであることがわかる。全体に剛健な印象で、細部の意匠には古拙さがある。以上まとめとして特長を改めて列記すると、①低く安定感のある基礎、②幅広い輪郭、③輪郭の左右の束が広い、④輪郭内の広さに比して小さめの格狭間、⑤格狭間内に近江式装飾文がない、⑥格狭間花頭曲線中央の幅が広くない、⑦シンプルな扉型と左右に開く扉の表現、⑧円盤状の縁板(框座)を持たない塔身、⑨ほとんど下すぼまり感のない円筒形の塔身軸部、⑩分厚い笠の軒口、⑪薄めの段形による斗拱型、⑫緩いが真反りに近い力のこもった軒反、⑬緩い屋根の勾配、⑭断面凸状の三筋にならず、かまぼこ状の突帯による隅降棟、⑮単弁の相輪下請花、⑯凹凸をハッキリさせた九輪といったところだろうか。13世紀後半の紀年銘とあわせてこうした特長をとらえていくことが肝要ではないかと考える。また、こうした特長が複合的に見る者の視覚に作用し、塔全体として醸し出される雰囲気を構成しているのである。基礎の輪郭・格狭間、塔身の扉型、笠の隅降棟など典型的な石造宝塔としてのマストアイテム的な特長のいくつかは備えつつも、先に紹介した竜王町島八幡神社宝塔(2008年7月15日記事参照)などに見る14世紀初め以降の「定型化」したともいえる石造宝塔とは明らかに違う雰囲気を感じる。細部の特長やそれぞれの特長の違いを詳しく見ていくことに加え、こうした全体の雰囲気をつかみとることも石造美術を理解していくうえで欠かせないのではないかと思う。いずれにせよ最勝寺塔は近江の石造宝塔を考えていくうえで貴重なメルクマルである。なお、境内周辺にはこのほかにもいくつか中世の石造物の残欠が見られる。

参考:田岡香逸 「近江甲賀郡の石造美術」(3)―最勝寺・飯道神社― 『民俗文化』66号

   池内順一郎 「近江の石造遺品」(下) 217~218ページ

   川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」 101ページ

池内順一郎氏いわく、「宝塔が最勝寺塔であれば、多宝塔は廃少菩提寺塔、宝篋印塔は比都佐塔となるであろう。この最勝寺塔を見ないものは、石造遺品を語る資格がないといっても過言ではない。」とのこと。是非はともかく、ここまで言われてはご紹介しないわけにはいかないですね。ただ、お寺には地元自治会長に断りをいってから立ち入る必要があるようで探訪される場合はご注意ください。流石の市指定文化財。相輪の欠損が惜しまれますが、静寂な山寺の苔むした地面に立つ堂々たる佇まいに惹かれ、立ち去り難い気分にさせてくれる素晴らしい宝塔です。やはり小生も近江で最高の石造宝塔のひとつだと考えます、ハイ。


奈良県 御所市冨田 天満宮前五輪塔

2008-10-05 11:40:37 | 五輪塔

奈良県 御所市冨田 天満宮前五輪塔

室大墓と呼ばれる著名な巨大前方後円墳、宮山古墳の北側を通り東西に走る国道309号線が冨田集落の南西で大きく南に折れ、大口峠に向かう曲がり角の南東、直線距離にして約200mのところに天満宮社がある。北東約300mには三白鳥陵のひとつ日本武尊陵がある。現在の国道の東側に平行する旧道を少し南に進むと三叉路になったところ、道と倉庫に挟まれた狭い一画に立派な五輪塔が立っている。東面する天満宮の参道南側にあたる。元は南の大口峠にあり、峠道開鑿の際にこの地に移建されたという。01 そうだとすれば、こうした石塔が交通の要衝などに建てられた一種のモニュメントという側面を持つという説を補完する事例になるのかもしれない。

五輪塔は直接地面に置かれているように見えるが、板石を敷いた基壇が地輪下に埋まっているらしい。12基壇と地輪の間に反花座は見られない。元々なかったのか移建時など後に失われたのか今となっては確かめようがない。塔高約251cmと大きい。緻密で良質の花崗岩製。表面の風化摩滅も少なく火輪の軒の一部を少し欠損するだけで概ね遺存状態は良好。梵字は見られず、地輪北側に大きめの文字で「大念仏衆/奉造立之/正和四年(1315年)乙卯/十一月日敬白」の4行の刻銘がある。光線の加減もあり肉眼では判読しづらいが、刻銘があるのはハッキリ確認できる。念仏を起縁とする結衆による造立であることが知られる。清水俊明氏によると、南の山向う、高野山口の紀ノ川沿いに「大念仏」の刻銘を有する五輪塔や板碑が分布してるとされ、非常に興味深い。地輪は幅80.5cm、高さ約58cmと高すぎず低すぎず、水輪は径84cmと比較的大きく、重心つまり最大径をやや上に置くが曲線が割合ふくよかなので裾がすぼまっていく感じは強くない。08火輪は軒幅76.5cm、軒口がぶ厚く、軒反も力強く整っている。四注の屋だるみはどちらかというと、まっすぐで軒反に13あわせて隅近くで少し外反する。空風輪はやや大きめで、風輪の側線はやや直線的で上端面は少し外側に傾斜している。空輪は特に大きく、先端には突起が見られる。側線にやや直線的な硬さが出ているが重心が低いため、くびれ部に脆弱な感じは受けない。火輪や空風輪に硬い感じが出ているが、全体として鎌倉時代後期の石造五輪塔の典型的な特長を備えている。反花座を持たないことや、地輪と火輪に比べ水輪と空輪が相対的に大きいせいか規模の割に大きさを感じさせないフォルムであることによるものか、律宗系の五輪塔の厳しさすら感じる趣きとは少し違った印象を受ける。周囲ののどかな環境や倉庫の脇というシチュエーションも加わってか逆に親しみやすさを感じる。全体の風化が少なく彫成のシャープさと苔や地衣類のほとんどない石材の白さが特に印象深い。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 468ページ

   (財)元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』平成四年度調査概要報告

   (文中法量は同報告による。)

   平凡社 『奈良県の地名』日本歴史地名体系30 211~212ページ

移建されたとの話ですが遺存状態良好で各部揃い、鎌倉在銘の奈良県内でも指折りの巨塔、マニアの間で知られる存在を越えて、もっともっとその価値を世に喧伝されて然るべき優品です。写真でもわかると思いますが、ちょっとどうなのというロケーションにあって冷や飯を食っている観のある気の毒な五輪塔ですが香華が手向けられ地元では大切にされているようです。


滋賀県 高島市今津町酒波 酒波寺五輪塔・宝塔

2008-10-03 00:01:25 | 五輪塔

滋賀県 高島市今津町酒波 酒波寺五輪塔・宝塔

青蓮山酒波寺(真言宗智山派)は酒波集落の北方の山腹にある。旧天台宗で、高島七ヶ寺のひとつに数えられる古刹。「興福寺官務牒疏」には僧坊56宇を数えたと伝える。かつての広い寺地を描いた古絵図も残るが元亀年間、織田信澄に焼かれるなどして退転、江戸時代に再興された。本堂に向かう石段に向かってまっすぐ伸びる参道の西側、道路に近い境内の入口近くに近世の常夜灯と並んで立派な五輪塔がある。15自然石の石積みを長方形に並べて囲い込んだ低い土壇を設え常夜灯と五輪塔が並んでいる。この土壇は一部コンクリートで固めてあるので古いものではない。佐野知三郎氏の報文によると、以前は小川を挟んだ対岸にある日置神社側にあり、地元で「大腹(だいばら)さん」と呼ばれているという。14台座や基壇は見らず直接地面に地輪を据えている。高さ約190cm、白っぽい花崗岩製で表面の風化はやや進行しているが概ね保存状態は良好。地輪は低く安定感がある。水輪は左右の横張りが小さくほぼ球形に近いが上下のカット面があまり広くないせいもあってか背が高く感じる。最大径がやや低い位置にあるようにも見えるので天地が逆になっている可能性もある。火輪は軒幅に比して高さがあり底面に比べ頂面は小さい。四注は適度な屋だるみをみせ、軒口は厚く隅に向かって力強く反転する。空風輪は大きめで、特に風輪が高く大きい。空輪と風輪の間のくびれが少なく、風輪の上端は水平にせず外側に傾斜している。空輪も高さがあって宝珠形というより球形に近いが最大径は低い位置にある。先端には小さいが突起がある。梵字や刻銘は確認できない。各部のバランスがいまひとつで整美なプロポーションとはいえず地輪を除くと全体に背が高い印象でどこか垢抜けない。造立時期の推定は難しいが、規模が大きく、軒反の力強さや低い地輪、くびれの少ない大きい空風輪、横張りの少ない球形に近い水輪など各部の特長を、概ね古調を示していると評価し、鎌倉時代後期、13世紀末から14世紀初め頃のものと推定しておきたい。03参道を進み長い石段を登り山門をくぐると正面に本堂がある。本堂右手に庫裏があり、庫裏の東側にある庭池のほとりに石造宝塔が立っている。花崗岩製で現存高約155cm、基礎幅約53cm、笠の軒幅約51cm。基礎下には自然石を並べて敷いてあるがこれは当初からのものとは思えない。側面は3面輪郭をとって格狭間を配し、正面西側のみ格狭間内に開敷蓮花のレリーフがある。02 輪郭、格狭間ともに彫りは浅く、各格狭間内は平らに仕上げている。正面の開敷蓮花のレリーフは非常に薄く彫られ風化も手伝って肉眼では確認しづらい程である。一方東側は素面のままとしている。輪郭の幅は狭く、上下の地覆、葛部分より左右の束の幅が若干ながら広い。格狭間は概ね整った形状を示すが、側線の膨らみと花頭外側の弧が下がり気味になっている点はやや新しい特長といえる。塔身は軸部、縁板(框座)、匂欄部、首部から構成されている。軸部は下すぼまりで重心が高く、塔身全体が宝瓶形を呈する。扉型などは見られず素面。縁板は薄く、軸部の最大径がある肩付近に比べるとその径が小さいので控えめな感じを受ける。縁板上端面からは匂欄部、首部と径を減じていく段形になっている。また、笠裏は2段に斗拱型を刻みだしている。軒口は比較的薄く隅近くで反転する軒反に力強さは感じられない。屋根の勾配は比較的急で四注の照りむくりが目立つ。断面凸形の隅降棟は露盤下で消失し左右が連結していないように見える。露盤は比較的高くしっかり刻みだしてある。相輪は九輪の9輪目以上を亡失している。伏鉢が円筒状に近く、下請花とのくびれが小さい。下請花は風化ではっきりしないが複弁と思われる。また、九輪の凹凸は小さい。以上総じて温和で丁寧な作風だが、豪放感や力強さは感じられず、こじんまりとまとまった印象を受ける。石材の感じや作風は先に紹介した今津町日置前の正覚寺塔(2008年5月12日記事参照)、西浅井町下塩津神社塔(2008年8月19日記事参照)に似ており、基礎の格狭間、笠の特長、塔身の形状などから造立年代は南北朝時代、14世紀中葉から後半頃のものと推定したい。この庭には他に室町時代のものと思われる小形の層塔の笠や五輪塔の残欠、小形の宝篋印塔の笠を積み上げた寄せ集め塔が2基ある。

参考:佐野知三郎 「近江の二、三の石塔」 『史迹と美術』407号

    〃 「近江石塔の新史料」(三) 『史迹と美術』421号

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』190~191ページ

   平凡社 『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25 1080ページ

酒波("さなみ"と読みます)を訪ねた時は蕎麦の花が一面に咲いていて感心しました。また、酒波寺は紹介しました石造美術もさることながら、ヒガンザクラの名所で、琵琶湖の眺望も素晴らしく静かで非常に雰囲気のある佇まいのお寺です。お薦めです、ハイ。