石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 大津市真野4丁目 神田神社宝塔

2008-11-21 00:12:34 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市真野4丁目 神田神社宝塔

琵琶湖大橋の北西約1.km、真野小学校の南に神田神社がある。社殿の南西側、社殿背後の石垣に近接して石造宝塔がある。自然石を組んで方形壇をしつらえた上に、板状の切石を前後2枚並べた基壇を置き、その上に基礎を据えている。自然石の方形壇は新しいもので上端がモルタルで塗り固められている。02約72cm×約71cm、高さ約21cmの切石基壇は当初からのものである可能性もある。塔高約157cm。元は5尺塔と思われる。キメの粗い花崗岩製で、全体に風化が進み表面の荒れが目立つがこれは石材のせいかもしれない。基礎は幅約48cm、高さ約24cmと低く安定感がある。側面は四面とも何の装飾もない素面。刻銘も確認できない。塔身は高さ約43cm、框座や匂欄の段形は見られず首部と軸部を一石彫成する。軸部の径約36cm、やや下がすぼまった円筒状で首部は径約30cm、高さ約7.5cmと太く高さがある。塔身にも何ら装飾はなく全くの素面である。笠は軒幅約45cmに対する高さ約27cmと全体的に低い印象で、笠裏には厚さ約1cmの一段の垂木型がある。垂直に切った軒口は隅に向かって厚みを増しながら反転し、軒反は下端に比べ上端が顕著である。01 屋根の四注は屋だるみを持たせ軒先に向かう反りに軽快感がある。四注の隅降棟の突帯表現は見られない。笠頂部には露盤を刻みだしているが風化によって角がとれ判りにくくなっている。相輪は高さ約62cm。九輪中央で折れたのを接いでいる。伏鉢と上請花は比較的背が高く側辺の直線が目立つが下請花と宝珠はそれ程でもない。宝珠は低い団形に近い形状を示す。風化により請花は上下とも蓮弁がほとんど摩滅している。九輪の凹凸はクッキリしないが線刻式のものではなく逓減はそれほど目立たない。各部揃っている点は貴重で、基礎の輪郭や格狭間、軸部の扉型などの装飾を排した全面素面の簡素でシンプルな意匠表現が笠の軽快な軒反とあいまって非常にスッキリした印象を与える。基礎の低さ、匂欄や框座を設けない円筒形の軸部と太く高い首部からなる塔身、隅降棟突帯のない低い笠、相輪の逓減が目立たない点はいずれも古い要素である。一方、下端より上端が顕著な笠の軒反り、伏鉢などに直線的でやや硬い感じがある点、5尺塔とやや規模が小さい点などは新しい要素といえる。田岡香逸氏は素面の意匠表現を簡略化とみなし1390年頃の造立と推定されている。『滋賀県石造建造物調査報告書』では理由が明らかにされていないが室町時代中期としている。比較検討できる装飾表現がみられない分、造立時期については判断が難しく慎重さが必要と考える。あえて踏み込んだ意見を述べると、シンプルさを単純に簡略化とみなす根拠はやや弱いような気がする。また、笠の軽快な印象はたしかに新しい要素であるが、それだけで基礎の低さや塔身の形状、低い笠と突帯表現のない四注などの古い要素を打ち消してしまうだけの確度がある要素になりうるのか、慎重に検討しないといけないと思う。逆に古い要素をもっと積極的に評価するならば鎌倉時代後期でも早い時期、13世紀末~14世紀初頭頃にもっていくことも可能ではないかと考える。案外古いものかもしれないというのが小生の感想であるがいかがであろうか。博学諸雅のご批正を請いたい。

参考:田岡香逸 「大津市北部の石造美術―下坂本から真野へ―」『民俗文化』124号

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 108ページ

例によって法量値はコンベクスによる実地計測によりますので、若干の誤差はご容赦ください。こういうシンプルなものはヒントが少ないので年代推定が難しいです。わかんない分さまざまな見方ができるわけです。真実はひとつなんでしょうが、あまり独善的にならず、懐を深くしていろんな可能性をなるべく排除しないであれこれ考えていくのが楽しいですよね。まだまだ近江宝塔シリーズも続きます。いつからシリーズになったの!?


各部の名称などについて(その5)

2008-11-16 23:26:23 | うんちく・小ネタ

各部の名称などについて(その5)

時代区分について、石造美術関連で真正面から取り上げられたのは田岡香逸氏です。その著書「石造美術概説」や「近江の石造美術6」等において、石造美術を扱う場合に特に重要な中世、つまり鎌倉時代から室町時代の区分について、概ね次のような私案を示しておられます。

鎌倉時代前期前半:1185年(文治元年)~1209年(承元3年)

鎌倉時代前期後半:1210年(承元4年)~1234年(文暦元年)

鎌倉時代中期前半:1235年(文暦2年/嘉禎元年)~1259年(正元元年)

鎌倉時代中期後半:1260年(正元2年/文応元年)~1284年(弘安7年)

鎌倉時代後期前半:1285年(弘安8年)~1309年(延慶2年)

鎌倉時代後期後半:1310年(延慶3年)~1333年(元弘3年/正慶2年)

南北朝時代前期前半:1334年(元弘4年/建武元年)~1344年(興国5年(康永3年))

南北朝時代前期後半:1345年(興国6年(康永4年/貞和元年))~1354年(正平9年(文和3年))

南北朝時代中期前半:1355年(正平10年(文和4年))~1364年(正平19年(貞治3年))

南北朝時代中期後半:1365年(正平20年(貞治4年))~1374年(文中3年(応安7年))

南北朝時代後期前半:1375年(文中4年/天授元年(応安8年/永和元年))~1384年(弘和4年/元中元年(永徳4年/至徳元年))

南北朝時代後期後半:1385年(元中2年(至徳2年))~1393年(明徳4年)

室町時代前期前半:1394年(明徳5年/応永元年)~1430年(永享2年)

室町時代前期後半:1431年(永享3年)~1467年(文正2年/応仁元年)

室町時代中期前半:1468年(応仁2年)~1504年(文亀4年/永正元年)

室町時代中期後半:1505年(永正2年)~1541年(天文10年)

室町時代後期前半:1542年(天文11年)~1578年(天正6年)

室町時代後期後半:1579年(天正7年)~1615年(慶長20年/元和元年)

安土桃山時代は室町時代に含めてしまい、各時代を単純に三等分し客観性を担保するというのが田岡氏の趣旨です。(さすがの田岡氏も境目の年は両方にとれるように記載されていますので、どちらでもいいのですが、境目の1年が両方に属するのはおかしいので、「時代」区分は境目の年を新しい時代に入れ、「三期」区分では古い方に入れています。)政治に関係の薄い文化を考える場合、文化史的な観点は重要ですが、特定の形式や様式なりが息長く続いたり、逆にすぐに収束し淘汰されてしまうのに応じて各時代の時系列が伸びたり縮んだりするのは変です。その意味で田岡氏の主張には一定の説得力があります。小生は基本的に便宜上、田岡香逸氏の時代区分に沿って理解しています。(とはいえ短い南北朝の三期区分をさらに前後に分けるのはいかがなものかと思いますが…)一方、川勝政太郎博士は鎌倉時代について「私の前・中・後期の分け方は、鎌倉時代148年間の中ほど嘉禎ごろから正応末年ごろまでを中期とする。58年も幅があるが、必要に応じて中期はじめ、後半、末などと称する。」(「近江宝篋印塔補遺」『史迹と美術』380号)と書かれています。いずれにせよだいたい嘉禎年間から弘安年間が鎌倉時代中期として考えていいわけです。5年や10年程度の違いに拘泥する意味は感じません。また、だいたい室町時代後半を戦国時代ということもありますし、安土桃山時代を使う場合もあります。もう一度言いますが、これらはわかりやすくするための便宜上の目安、方便と考えることが大切です。「西暦○×年○月×日の午前0時00分をもって○×時代中期が終わるのだから11時59分に作られた作品と0時01分に作られた作品には明確に時代の違いというものを認識すべきだ」などという話がナンセンスであることは、どなたにもわかってもらえると思います。要はあまり細かい点に拘泥せず大まかに捉えるべきだと小生は考えるわけです。もうひとつ、時代区分を冠した様式の表現があります。鎌倉後期様式の五輪塔というような場合です。一定の時期に構造形式や意匠表現が定型化し普及した特定の様式をいうわけですが、これは便宜上様式に冠しただけで、必ずその時期の造立であるわけではありません。鎌倉後期様式の五輪塔は絶対に鎌倉後期の造立でなければならないことはなく、南北朝時代の造立になることもありえるので注意を要します。(続く)


各部の名称などについて(その4)

2008-11-16 23:11:46 | うんちく・小ネタ

各部の名称などについて(その4)

石造物に関係する文章や書物を読むと、よく出てくる造立年代にかかる表記、つまり「鎌倉時代前期」とか「室町時代後期」などいう時代区分の表現について述べさせていただきます。

例えばある石造物に元徳2年の造立紀年銘があるとします。造立年代について記述される場合、次のような表現になるでしょう。①西暦の1330年、②文字どおり元徳2年、③鎌倉時代末(または末期ないし終り)、④鎌倉時代後期(ないし後期末)。いったいどの表現が最も適切なのでしょうか、どれも正しく、偽りではありません。時と場合に応じて適宜使い分ければいいわけです。①は一番スッキリしていますが、③や④と組み合わせるといっそうわかりやすいですよね。②だけでは一般にほとんど理解してもらえないでしょう。③や④単独でも何か物足りない感じがします。初めは小生もどうということもなく過ごしてきましたが、色々な本などを読むうちにだんだん疑問が生じてきました。室町時代初め頃と南北朝時代の終り頃って同じじゃないの?同じ対象を人によって鎌倉中期終りとしたり鎌倉後期初めとしたりしているが、鎌倉中期の終り頃って何年頃なんだろう?という具合に「もやもや感」がありました。

そもそもこうした○○時代という区分はたいてい政治史の上の呼び方で、しかも始め・終わりを何年にするのかについては諸説ある場合が多く、いっそう話しをややこしくしています。しかし、一方でこうした時代呼称は広く用いられているので一般にわかりやすいという利点があります。この「わかりやすい」ということは、専門的になればなるほど微細な事柄の正確さを追求するのみに偏重し、時としてひとりよがりなものとなりがちな弊害を考えるとたいへん重要なことです。とりわけ石造物という地味で身近なものの価値を顕彰していこうとする場合、「わかりやすい」ということは特に大切と考えます。

政治権力の担い手が変わろうと、その瞬間から定規で測ったようにピシッと文化芸術面でも著しく様相が変わってしまうということはまずありえません。石造美術のように文化史的な事柄を考える場合、わかりやすく理解を進めるための目安程度に理解しておくべきものと考えています。また、こうした各時代を前・中・後の三期に分けて考えることがあります。しかし、これまたそれぞれ何年から何年までなのかについて明確に規定したものがありません。やはりこうした区分も元々便宜上の目安、わかりやすくするための方便のようなものなので明確に規定することにさして意義を感じません。時代区分に基づく表記に加え、西暦を用いて、○○世紀の中葉とか第○四半期とか初頭とか末頃などの表現を交えて説明しておけば事足りると小生などは考えるわけです。しかし、こういった時代区分の呼称が持つ曖昧さを許せない性分の人もいらっしゃいます。「もやもや感」を解消したい場合はすっきりしますし、それが実際上役に立つのであればいっこう構いません。ところが、これも諸説あって何ともいえないのが現実のようです。このあたりはいったいどうなっているのでしょうか…。(続く)


京都府 綴喜郡宇治田原町奥山田字岳谷 遍照院無縫塔(その2)

2008-11-13 21:29:48 | 京都府

京都府 綴喜郡宇治田原町奥山田字岳谷 遍照院無縫塔(その2)

先に紹介した同塔について、『石造美術』12号に田岡香逸氏の詳細な報文と拓本が掲載されていたことに後から気付いたので、拙い小生の紹介記事を補足させていただきます。(ただし、法量値はコンベクスによる実地計測によるため、あえて田岡氏の報告値にあわせて改めません。少々の誤差はやむをえないものとご了解いただきたい。)

材質について、田岡香逸氏は花崗岩製とされている。竿のレリーフについては、西側と南側を除き開敷蓮花と書いたが、正面すなわち北東側のみは開敷蓮花上に円相の平板陽刻がある。円相内に梵字などはない。また、西側と南側は蛇行して立ち上がる2ないし3本の茎部を伴う開敷蓮華ないし蕾の蓮華文レリーフと見られる旨を記したが、これは南側が二茎蓮華、西側が一茎蓮華で、ともに水平方向に波状に蛇行する突帯(水面を表現したと思われる)からS字状に蛇行しながら立ち上がる茎の表現がおもしろく、先端に一茎蓮華は開花蓮、二茎蓮華は開花蓮と蕾を配している。また、中台側面は二区に枠取りし、西側のみ格狭間を入れ、残りの面は格狭間を入れず、西側から右回りに斜十字文、各輪郭内に2片づつの散蓮華、開敷蓮華、2片散蓮華、外側に向けて上がる七条の斜線、四菱文、開敷蓮華の順に配されている。変化に富む凝った文様であるが、その配置に規則性がない点は注意すべきである。田岡氏は造立年代について、一、二茎蓮華の蛇行する茎、散蓮華の構図などを退化形式とされ、摂津小童寺(未見・詳細不明)無縫塔との類似性を指摘され、室町時代初め、1415年頃のものと推定されている。ただし、小童寺塔について川勝博士は南北朝時代と推定されているようで、見解が分かれるようである。

参考:田岡香逸「南山城の石造美術5―綴喜郡宇治田原町―」『石造美術』12号

いつもながら詳細にわたる田岡氏の調査報文のクオリティの高さには感心します。28年を経た今日もいささかも衰えることがありません。まさに金石のごとき「金字塔」です。欲をいうときりがありませんが実測図があればほとんど完璧です。改めて田岡氏の学恩に感謝するとともに、またしても自らの情報不足と不勉強に閉口し嘆息する小生であります、ハイ。ウーン近々再訪しないといけないですね。田岡氏は15世紀初めに下ると考えられていますが、小生はやはり14世紀後半頃とみています。


京都府 綴喜郡宇治田原町荒木字天皇 大宮神社宝篋印塔

2008-11-13 00:47:02 | 京都府

京都府 綴喜郡宇治田原町荒木字天皇 大宮神社宝篋印塔ほか

宇治田原町の役場がある荒木の集落を見下ろす山腹に鎮座する大宮神社の境内、本殿向かって左手、石柵で囲まれた宝篋印塔が立っている。01切石を組み合わせた基壇上に載せてあるが、恐らくこの基壇は後補と思われる。原位置を保っているか否かは不詳だが、南西にやや下がった場所にある中央公民館付近は「山瀧寺」という寺院跡で創建は白鳳時代に遡り古代から中世を通じて栄えたらしく、近世に入って次第に寺勢を失っていったようで、関連する「大御堂」という大規模な建築物が昭和初期まで建っていた。この寺院との関連も考えられる。02_2花崗岩製で塔高約170cm、基礎は幅約52.5cm、側面高約28cmと高さに比して幅が大きく安定した形状を示す。側面は四面とも輪郭を巻き内に格狭間を入れ、その中を三茎蓮華のレリーフで飾っている。輪郭の彫りは極めて浅く、ほとんど線刻に近い。輪郭の幅は左右の束が約8~8.5cmに対し上下は約4cmと左右が広く上下に狭い。格狭間は全体にやや小さく、脚部が比較的高くほぼ垂直に立ち上がるが形状的には概ね整っている。格狭間内の三茎蓮華は各側面とも格狭間内いっぱいに大きく表され、宝瓶はなく直接脚部の間から立ち上げる茎部は太くしっかりしたもので左右の葉部が若干内向き加減でほぼシンメトリな図案である。基礎上は2段式で側面からの入りが深い。塔身は幅約24cm、高さ約25cm。金剛界四仏の種子を蓮華座上の月輪内に薬研彫している。概ね端正な書体であるが雄渾なタッチという程ではない。笠は軒幅約50cm、上7段、下2段で下2段が少し薄い。軒は厚さ約7cmとやや厚めである。隅飾は軒から垂直に立ち上がり軒との区別は見られない。基底部の幅約14cm、軒上端からの高さは約21cmあって背面は4段目までと癒着して5段目とほぼ同じ高さに合わせている。04全体に縦長の隅飾で側面は薄い輪郭を巻く二弧式。各側面とも輪郭内には蓮華座上の円相を平板に陽刻し、円相内に「アク」種子を陰刻しているというが肉眼でははっきり確認できない。輪郭はこの円相を囲むように枠取りされて上の弧が高くカプスの位置が非常に低い。相輪は高さ約61cm、伏鉢、上下の請花、宝珠の各部ともが低く、九輪の各輪は幅広で凹部の彫りは深い。光線の具合もあり判りにくいが請花は上下とも覆輪付の単弁のように見える。また、相輪は若干色調や質感が異なるようにも見える。昭和47年の川勝博士の「京都の石造美術」に、この相輪は近年発見されたとあるので、そのせいかもしれない。さて、本塔で特筆すべきは基礎の三茎蓮華文である。これはいわゆる近江式装飾文様とされるもので、滋賀県内に普遍的に見られる石造物の意匠表現である。西日本を中心に全国に広くその例が分布するが、数量的には近江03が他を圧倒している。現在のところその在銘最古の遺品は寛元4年(1246年)銘の近江八幡市安養寺層塔であり、川勝政太郎博士や田岡香逸氏らの研究によりその発祥もまた近江に求められることが定説となっている。南山城にあって大津や信楽方面、あるいは大和にも通じる交通の要衝である宇治田原にこの近江式装飾文様を見ることに意義があり、石造物の文化圏やその交わりを考える上で欠かすことのできない事例として早く川勝博士が注目された宝篋印塔である。川勝博士、田岡氏ともに高島市安曇川の田中神社の永仁2年(1294年)銘の宝篋印塔との類似性を指摘されている。確かに両者がよく似ているように思われる。低く安定感があって側面からの奥行きのある基礎、軒から直接立ち上がる縦長の隅飾など総じて古調を示し、鎌倉時代後期初め、13世紀末から14世紀初頭頃の造立として大過ないものと思われる。各部揃っている点も貴重。町指定文化財。なお、境内東側に文殊曼荼羅の石碑と称するものがある。蓮華座上の月輪内を大きく陰刻し中央に同じ大きさの「マン」(文殊?)、左に「サ」(聖観音?)、右に「キリーク」(阿弥陀or千手観音?)を並べて薬研彫りした自然石碑で、何となくたどたどしい彫りの線や表面の風化があまり進んでいない点が少し気になるものの、蓮華座の形状は古調を示すことから中世に遡る可能性がある。このような種子の組み合わせが何を意味するのかよくわからないが、あるいは神社の本地仏を表したものではないだろうか。後考を俟つものである。

参考:川勝政太郎 「京都の石造美術」105~107ページ

   田岡香逸 「南山城の石造美術3―金胎寺・大宮神社・深広寺―」『石造美術』10号

社殿前東側の大きい御手洗石は山瀧寺の塔の心礎と伝えられているようです。真偽は不明ですが肯ける大きさと形状を示すものです。ただし背面にある大同2年…の刻銘は書体から後刻と判断されます、ハイ。


京都府 綴喜郡宇治田原町奥山田字岳谷 遍照院無縫塔

2008-11-10 01:00:41 | 京都府

京都府 綴喜郡宇治田原町奥山田字岳谷 遍照院無縫塔

旧茶屋村地区は宇治田原町でも奥まった所で、信楽方面に通じる谷あいの山村である。岳谷の集落の南、集落を見下ろす小高い山腹に真言宗遍照院がある。天正10年6月、本能寺の変の報を受けた徳川家康が堺から本国三河へ急いで引き返す途中ここで休息したと伝えられる。お寺の背後の尾根上に墓地があり、墓地の入口近くに立派な重制の無縫塔が立っている。15高さ約90cm弱、石材は表面的な観察では特定しかねる。花崗岩かもしれないがきめの細かい砂岩ないし安山岩の可能性もある。この点は要確認、後考を俟ちたい。平らな切石の基壇を2重に備えているが、一番下にある前後2枚からなる基壇は、手前に供花用と思しき穴が左右にあって、恐らく近世の後補と思われる。その上の平らな方形の切石は幅・奥行とも約42cm、高さ約11cmの一枚石で、幅が基礎とそろえてあることから、当初からの基壇ではないかと考えられる。どちらの基壇も装飾は何ら施されていない。重制無縫塔というのは、基壇、基礎、竿、中台、請花をしつらえて卵形の塔身を載せる手の込んだ無縫塔で、遍照院塔もこの構造形式を備えており、基礎、竿、中台、請花、塔身が各別石となる。基礎は平面八角形で幅約41cm、高さ約20cm。各側面を枠取して内部に格狭間を入れ、上面には小花付複弁反花を配して上端に高さ約1.5cmの低い竿受座を刻んでいる。反花は各辺中央に主弁が、各コーナーに小花がくるようになっており、構造上小花は裾が開く大振りなものとなっている。主弁は覆輪部分を幅広にとって、弁央部分の立ち上がりを比較的急に仕上げて抑揚感がある。また、基礎下端は平坦で持ち送りの脚部は見られない。各側面は幅約17cm、高さ約12.5cmで割合高さがある。24 竿は高さ約23cmの八角柱で、西側と南側を除く各面中央やや下寄りに開敷蓮華のレリーフがある。西側と南側だけは光線の加減もあり、採拓もしていないのではっきり確認できないが、恐らく蛇行して立ち上がる2ないし3本の茎部を伴う開敷蓮花ないし蕾の蓮華文と思われるレリーフになっている。中台も平面八角形で、幅約37cm、高さ約13cm。下端に高さ約1cmの受座を設けて竿を受け、そこから単弁の請花で側面につなげており、各辺中央と左右のコーナーに主弁を配し、間に小花を置く。側面は各面とも二区に枠取し、輪郭内に格狭間、斜連子、斜十字、花菱文をそれぞれ1面ずつ、散蓮華、開敷蓮花を各2面ずつ飾っているというが、肉眼では全てを確認することができない。中台上面は中央の円形の低い受座を囲むように複弁反花を丸く平らに彫り出している。さらにこの受座の上に平面円形の鉢状の請花を載せている。請花は径約30.5cm、高さ約10.5cm。沈線で輪郭を縁取った覆輪付の大振りな単弁で、主弁の間には小花を添えている。請花上端には低い受座を設け塔身を置く。塔身は径約27cm、高さ約15cmで下端を水平にカットした卵型で裾のすぼまり感も適度で全体に直線的なところのない整った曲線を描く。無銘。もっともこの種の古い重制無縫塔に紀年銘があることはむしろ稀である。造立時期については、整った塔身の形状は古調を示すものの、基礎側面の高さ、中台側面に見られる斜十字文などの直線を用いた文様意匠、反花や請花の意匠表現などを考慮すると、概ね14世紀後半頃の造立と推定される。古い重制の無縫塔は石燈籠などと並び最も手の込んだ細かい意匠と構造を持つ石造物で、近世以降に増加する単制の無縫塔のようにポピュラーなものではなく、禅宗系の高僧の墓塔として採用されるものである。総じて丁寧な彫成と凝った細部を持つ本塔の出来映えを考えれば、さぞかし名のある開山クラスの高僧の墓塔であったことは想像に難くない。ただし遍照院は元亀年間の創建とされることから、その前身寺院の遺物か近隣の古い寺院からの搬入品と思われる。町指定文化財。

参考:嘉津山清「無縫塔-中世石塔の一形式-」『日本の石仏』NO.83

この種の無縫塔としては一般的なサイズですが、1m足らず小さい石塔ながら、細かいところまで凝った意匠表現は流石です。それにしても塔身を受ける請花の覆輪沈線は弁形の側線から弁先の尖りに向かう曲線のふくよかさを打ち消して、何というか、粗野で剣呑な印象を与え、本来あるべき塔全体の温雅さを損なっているように感じられます。いかがでしょうか?