石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 相楽郡笠置町笠置 笠置寺の石造美術(その2)

2009-12-29 11:35:48 | 五輪塔

京都府 相楽郡笠置町笠置 笠置寺の石造美術(その2)

信西入道の孫にあたる解脱房貞慶上人(1155年~1213年)は興福寺の学僧として期待を集めながら、理想とかけ離れた南都仏教界の現実を嫌って、弥勒信仰の聖地であり、東大寺の良弁や実忠ゆかりの地であるこの地に隠遁した。04時に建久4年(1193年)のこととされる。貞慶上人の止住以来、12世紀末から13世紀初頭にかけて般若台と称される六角堂や本尊である弥勒大磨崖仏の脇に木造の十三重塔が建てられるなど寺観は整備が進んだとされている。01_2その頃の様子は、大和文華館蔵の笠置曼荼羅図からうかがうことができる。貞慶上人は鎌倉期における笠置寺中興の祖といえるだろう。その後の元弘の乱で上人が心血を注いだ当時の伽藍が灰燼に帰したことは惜しみても余りあることである。遁世後も興福寺との関わりが途切れることはなく、勧進の手法を用いて興福寺をはじめとする関係寺院の復興などに力を注いだことが知られ、興福寺の雅縁僧正、東大寺の重源上人などとの交流や後鳥羽院や九条家などとの接点もあったらしい。今も寺の鐘楼に残る梵鐘には、建久6年、南無阿弥陀仏“大和尚こと俊乗坊重源上人から般若台に寄進された旨が刻まれている。梵鐘は駒の爪と呼ばれる口縁部分に切れ込みを設け、下端を六葉に見立てた一風変わった意匠が特長で、重源上人お得意の中国風を取り入れたものと解されている。梵鐘を見上げれば底面に刻まれたこの貴重な刻銘を間近で見ることができる。さて、笠置寺の東側、谷を隔てた尾根上に墓地がある。02その一画に残る立派な五輪塔の立つ場所は、貞慶上人の廟所と伝えられている。板状ないし平らな面を上向きになるようにした石材を径およそ4.5mほどに半円形に敷き詰め、その中央に板状の石を立て並べた対辺径約2.9m、現高約45cmの平面八角形の基壇を設けている。基壇の上端面にも同様に板状の自然石を敷き詰め、基壇中央に台座を設けず地輪を据えている。03この基壇下の敷石や基壇が当初からのものか否かは不詳であるが、そうだとすれば面白い構造である。また、数本の円柱が基壇を取り囲むように敷石の中に立っているがこれらは後補であろう。五輪塔本体は、地輪の下端が少し埋まって確認できないが、現高約165cm、地輪現高約36cm、幅は約63.5~65cm、水輪幅約60cm、高さ約47.5cm、火輪軒幅約64cm、高さ約36.5cm、軒厚は中央で約11.5cm、隅で約13cm、火輪の上端幅約27.5cm。一石作りの空風輪は高さ約44cm、風輪幅約35.5cm、空輪幅約31.5cmである。良質の花崗岩製で、各輪四方に雄渾なタッチで上から、キャ・カ・ラ・バ・アの五輪の梵字を大きく薬研彫している。地輪は低く、水輪は球形に近く、上下のカット面を広めにとって横張りが目立たない。火輪は比較的背が低く、軒口は厚めで中央の水平部分が狭く真反ではないがそれに近い緩い軒反の印象で、軒の厚みの隅増は顕著でない。四柱の照りや屋だるみも緩く感じられる。また、空風輪のくびれは少なく、風輪がやや大きい。空輪の宝珠形は最大径が下寄にあって重心が低く、整った形状で直線的な硬さは微塵も感じさせない。こうした外形的な特長は、いずれも古い五輪塔に見られる様相を示し、すくなくとも鎌倉中期を降るものでないことは確かであろう。この五輪塔を伝承どおり貞慶上人の墓と直ちに断定することは控えなければならないが、上人の示寂は建暦3年(=建保元年、1213年)であるから、没後間もなく建てられたものと仮定すれば鎌倉前期、13世紀前半の造立となる。全体に表面の風化が進んでいるが、大きな欠損は見られず、遺存状態は良好で、古い形態の五輪塔を考えていくうえで貴重な存在である。(続く)

 

木漏れ日の中に静かに佇む五輪塔、雄渾な梵字、清楚で安定感のある姿には、特に印象深いものがあります。戒律を重んじた上人の法灯・遺風はやがて西大寺叡尊や唐招提寺覚盛らに受け継がれ南都仏教復興の礎となっていくということを考える時、立ち去り難い思いに駆られます。隠遁後も活発に活躍された貞慶上人に対して、面会に笠置を訪れた南都系仏教界の一方のエースと目された明恵房高弁上人は笠置寺の盛況を見て、隠遁っていうけどそんなでもないんじゃないの、といささか皮肉めいたことを言って会わずに帰ったそうで、ショックを受けた貞慶上人は笠置を去り、海住山寺に再隠遁されたそうです。また、法然上人の専修念仏を厳しく非難された貞慶上人ですが、法然上人と良好な関係だったと思われている重源上人とは仲が良かったみたいで、なんとも複雑な人間関係ですね。笠置寺からは、舎利殿脇の小道に沿って一度谷に下りてから尾根を登る片道約800mの場所にあります。山道を進むと突然墓地が現れびっくりします。現地は現在も一般の方が使われている墓地の一画です。貞慶塔のコピー五輪塔があります。ごく新しいものですがよく出来ているので間違わないようにしてくださいね。この墓地には他にも注目すべき石造美術がありますので、追ってご紹介いたします。なお、山道沿いには子院跡と思しき平場がいつくかみられ、道脇の岩壁面には地蔵の厚肉彫立像があります。さらに石塔の残欠や箱仏がかなり散見されます。これら山道沿いにみられる石造物はいずれも室町時代以降のものと思われますが、中世墓の存在を予感させます。落ち葉の下に56億7千万年後に弥勒への結縁を願った先祖達が眠っているのかもしれませんね。それから例により文中法量値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご諒承ください。


京都府 相楽郡笠置町笠置 笠置寺の石造美術(その1)

2009-12-21 22:25:39 | 京都府

京都府 相楽郡笠置町笠置 笠置寺の石造美術(その1)

笠置山は木津川の南岸、南山城でも少し東に奥まった所で、奈良との県境はすぐ南側、目と鼻の先の距離にある。01_2標高300mに満たないさして高くはない山だが、木津川に接する北側斜面は急峻で西側は木津川の支流が流れ、東に深い谷が入り込んだ天然の要害の様相を呈し、山腹から山頂にかけて花崗岩の巨岩がいたるところに露呈している。山頂付近に位置するのが鹿鷺山笠置寺で、古来弥勒信仰の霊場として著名な古刹である。創建の時期は奈良時代に遡るといわれている。12世紀前半頃まとめられたとされる「東大寺要録」に南都東大寺の末寺として登場し、天智天皇一三年に大海皇子(一説に大友皇子)が創建したと記されているという。南都東大寺との縁が深く、寺伝には弘法大師が虚空蔵求聞持法を修したなどの伝承もある。02平安後期になって弥勒信仰のブームが起こると藤原道長など貴紳の参詣が相次いだことが記録に残っているようで、枕草子や今昔物語などにも登場する。鎌倉時代に入ると興福寺の解脱房貞慶上人が山中に般若台という子院を開き、寺観の整備が進んだとされる。その後、元弘元年の兵乱により笠置寺は全山焼失、以降は衰微の途をたどり、近年になってようやく今日見る寺観が整備された。03この笠置寺を中心とする笠置山には注目すべき石造美術が多く残されている。さて、境内を奥に進むと、左手の少し高い場所に大師堂がある。その前にある吹き放ちの小宇は手洗場で、天明5年(1785年)銘のある基礎石の上に載せられている手水鉢は古い宝篋印塔の基礎を逆さまにし、水を溜めるために底面を大きく彫りくぼめてつくった転用品である。キメの細かい花崗岩製で、基礎幅約54cm弱、高さ約38.5cm、側面高さ約28.5cmを測る。特記すべきは、基礎上の段形が3段になっている点である。例がないわけではないが、比較的珍しいものである。段形の幅は下段約45cm、中段約38cm、上段で約31cm。側面のうち二面に刻銘があり、一面はほとんど判読不能ながら4字5行、別の一面には「永仁三年(1295年)乙未/三月廿五日/□法界衆生/□□□□□/願主□□□」の銘があるという。風化摩滅が進み、文字の存在は肉眼でも確認できるが判読は容易でない。紀年銘のある側面には手水鉢に転用された際に加工されたのであろう内側に貫通する水抜き穴が穿たれている。04刻銘の状態や風化の様子から、あるいは意図的に文字の判読ができないように叩き潰されている可能性もある。そもそも宝篋印塔の形状的な特長を最も端的に示す点は、笠の隅飾と基礎や笠の段形にあるといってよい。そして基礎上については2段の段形とするのがもっとも一般的である。基礎上を反花式とする場合がしばしばあり、時には笠下を反花というか請花というか、段形にせずに蓮弁にする例や笠上を四注状にするようなことも稀にある。しかし、これらはあくまで本格式ではなく、むしろ傍流であり、また特殊なケースと考えるべきである。一方、基礎上を段形とする場合でも、普通は2段であり、3段とするのは、例がないわけではないがレアなケースだろう。どちらかといえば古いもの、大きいものに比較的多いように思う。本塔のように中型の範疇に含まれるサイズで3段というのは多くない。残欠に過ぎないものだが、13世紀末、永仁3年銘は京都の在銘宝篋印塔では屈指の古さである。今では水も枯れ、手水鉢としての機能も失われ省みる人も少ないが、石造美術を考えていくうえでは注目すべき遺品といえる。(続く)

写真左上:元は手洗い用の小さい覆屋ですが、皮肉なことに今では保存保護の上で役に立っています。写真右上:刻銘があるのはわかりますが、判読はほとんど不可能です。写真右下:他の面にも同様に刻銘の痕跡が見られます。風化摩滅のせいだと思いますが、何か意図的に読めなくしているようにも見えます。写真左下:基礎上の3段がおわかりいただけるでしょうか。もっとも天地が逆の状態なので現状では基礎下になるんでしょうかね。逆さまに眺めていると首が痛くなります、ハイ。笠置の石造物は素晴らしく、かつ重要なものが多いので、断続的になるかもしれませんが、しばらく紹介を続けたいと思います。

なお、参考図書類は別途まとめて掲載します。