石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 長浜市野田町 野田神社宝篋印塔(その2)

2009-06-29 22:05:57 | 宝篋印塔

滋賀県 長浜市野田町 野田神社宝篋印塔(その2)

(2007年5月13日記事の続きです。)

傍らに置かれている2枚の板石は、基礎下にあったと思われる切石の基壇と思われる。約77.5cm×約39cmと約78cm×約38cm、厚さはいずれも約16.5cm程の長方形の板石2枚を並べるとほぼ正方形となる。08石の表面に方形の黒ずみがあり、基礎を載せていた痕跡と推定される(写真右上参照)。石材の質感、風化の程度、2枚の切石を並べて基壇とする例が近辺の宝篋印塔に多いことなども勘案すれば、当初から一具のものとみてよいと思われる。05接合面中央が「へ」の字状に抉ってあり、2枚をあわせた状態では中央に長径約25cm短径約10cm弱の細長い菱形に近い穴ができる。これを奉籠孔とみなすか、運搬の労を少しでも軽減するため重量を減ずる工夫とみるのか、その辺りは不詳とするしかない。この板石は、元のように基礎下に戻すか、少なくとも散逸することのないよう傍らに置いておかれることを願ってやまない。塔本体は基礎の下端が埋まり確認しずらいが、基礎の幅約58cm、高さ約35.5cm、側面高約29cm。各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配する。格狭間内は素面。輪郭束部は幅約9.5cm、葛石部は厚さ約5.5cm、地覆部は埋まって不詳だが約5cmと思われる。格狭間は横幅約34cm、高さは不詳。上部花頭部分の内側の茨間の幅約20㎝、外側で幅約26cm。基礎上の段形は2段で、下段の下端幅49.5cm、上端幅約47.5cm、上段の下端幅約40cm、上端幅約37cm。高さは下段約3.5cm、上段約2.5cm。07塔身は幅、高さとも約29cm。各側面には径約26cmの月輪を陰刻し、月輪内に金剛界四仏の種子を浅く薬研彫している。字体は伸び伸びとした刷書風で、総じて宝篋印塔や層塔の塔身梵字が貧弱な近江にあってはどちらかというと雄渾な部類に入ると言ってよいだろう(写真右下参照)。月輪に伴う蓮華座は見られない。06_2キメの粗い花崗岩製で、残存総高約132cm。当初は180cm程度あったと思われ6尺塔であろう。笠は上6段、下2段。軒幅約54cm、高さ約40.5cm、笠下の段形は、下段の下端幅約35cm、上端幅約36cm、高さ約2cm、上段の下端幅約43.5cm、上端幅約44.5cm、高さ約2.5cm。笠下の段形が薄いことがわかる。軒の厚さは約8.5cmあって比較的厚い。隅飾は軒と区別し、直線的に外傾して立ち上がる三弧輪郭式で、輪郭内は素面。基底部幅約18cm、高さ約20.5cmと長大な部類に入る。軒からの入りは2~3mmとわずかで、外傾の度合いは弱く、左右の隅飾先端の幅は55.5cmで軒幅との差は約1.5cmに過ぎない。笠上は下から3段目までは隅飾に癒着し、4段目途中から隅飾から分かれ立ち上がる。09 4段目上端幅約32cm、5段目下端幅約28cm、上端幅約26cm、6段目下端幅約21.5cm、上端幅約19cm。相輪は九輪5輪目以上を亡失し、残存高約35.5cm。伏鉢高さ約11cm、径約19cm、伏鉢と下請花とのくびれ部幅約14cm、下請花は高さ約10cm、径約18.5cm、九輪基部の径約15.5cm。伏鉢の側面はやや直線的で、下請花は風化が進み確認しづらいが複弁八葉のようである。先に紹介した賢明院塔、素盞鳴神社塔とは笠上が段形と反花の相違があるが、そのほかの外形的特長は似かよっている。また、本塔と同じく観応年間に足利尊氏が奉納したと伝える黒部町の大己貴神社塔とはサイズ的にも瓜二つである。ただし、造立時期は観応年間よりもう少し古く鎌倉末期頃と考えられる。

 

つい最近再訪し、改めて観察、コンベクス略側もおこなったので、その結果をご報告します。なお、先の紹介記事では目測5尺ないし5尺半と書きましたが、ひとまわり大きいものでした。また、塔身の種子、字体はそれほど強くないとしました。お詫びの上、上記のとおり訂正します。写真右上:前回来訪時の基壇の様子、方形の黒ずみ、基礎が置かれていた痕跡と思われます。写真左中:今回来訪時の基壇の様子、少し動かされていますがご健在でした。写真左下:前回はなかったハンドメイドな案内看板が設置されていました。


滋賀県 長浜市小野寺町 賢明院宝篋印塔

2009-06-23 22:24:39 | 宝篋印塔

滋賀県 長浜市小野寺町 賢明院宝篋印塔

旧浅井町小野寺の集落の東端、山寄りの最も高い場所にある神明神社の南に隣接するのが真言宗豊山派賢明院である。01小堂があるだけの小寺院で、無住のようだが、境内はよく手入れされており、特に前庭はなかなか趣のある造作を示し、神明神社の杉の大木を背景にしてひきしまった佇まいを示す。西方遥かに琵琶湖を望むロケーションもまた素晴らしい。この小さな本堂の北西側、庭の片隅に1.7m四方高さ60cm程の小さな自然石積みの方形壇があり、その上に宝篋印塔が立っている。高さ約187cm、キメの粗い花崗岩製。基礎下には幅約81.5cm、高さ約16cmの二石からなる切石基壇を備えている。02この切石の基壇が当初から一具のものか否かは不明だが、石の質感や風化の程度から違和感はない。基礎幅約61cm、高さ約41.5cm。側面高は約30.5cmで、各側面とも束部の幅約10cm、地覆厚さ約5cm、葛石厚さ約5.5cmと束部の幅がかなり広い輪郭を巻き、幅約40.5cm、高さ約20cmの輪郭内には格狭間を配する。輪郭内は、彫り沈めは2cm弱と深め。格狭間内は素面で幅約36cm、脚間は約12cm。高さは約18cm、近江式装飾文様は見られない。東側側面の向かって右側の束部に刻銘があって、佐野知三郎氏は「元亨二(1322年)壬戌□」と判読されている。かなり読みにくいが肉眼でも何とか元亨の文字は確認できる。基礎上面は複弁反花式で、左右隅弁は小花にならず、主弁が2枚で隙間に小花を挟んだ勾配の緩いものである。主弁はこれだけの規模ならば普通3枚から4枚で、1枚の場合でも幅広の小花を間に挟む。2枚というのはあまり例がない。勾配は緩く花弁のむくりは目立たない。塔身受座は幅約36cm、高さは1.5cmとかなり扁平。塔身は幅約30.5cm、高さ約30cm。月輪は入れず、種子を薬研彫する。種子は北面「バイ」(薬師)、西面「バク」(釈迦)、南面「キリーク」(阿弥陀)で、東面は通常であれば「ユ」(弥勒)となるところを代わりに「バン」とした変則的な顕教四仏となる珍しいパターンである。本来の方角から90度ずれている。「バン」は一般的には金剛界大日如来で、他に法界虚空蔵菩薩、孔雀明王などが考えられるが、この場合何を意味するのか儀軌的なことは詳しくない。笠は上6段、下2段で、軒幅約55.5cm、高さ約42cm。軒は厚みが約9cmあって厚く、笠下の段形が笠上に比べ低い。03隅飾は軒と区別し直線的に若干外傾する三弧輪郭式で、基底部幅約18cm、高さは約22cmと、どちらかというと長大な部類に入る。隅飾の輪郭内は素面。笠頂部の幅は約20cm。相輪は一見完存しているように見えるが上請花の上下で折損したものを接いでいる。先端宝珠はやや小さく別物の疑いがある。伏鉢は側線がかなり直線的で、下請花は径約19cmで複弁八葉、上請花が径約16cmで素単弁の八葉。九輪はやや逓減が目立つが凹凸はしっかり刻んでいる。相輪高約73.5cm。粗いざらついた石材の性質にもよるだろうが全体に風化が進み、格狭間、種子、反花や請花の花弁、刻銘など細部の観察が困難になりつつある。しかし、各部概ね揃い総じて遺存状態は良好といえる。以前にも書いたが、①キメの粗い花崗岩製、②基礎は輪郭格狭間式で彫りが深い、③塔身上下の段形ないし反花が低い(薄い)、④笠の軒が厚い、⑤長大な三弧輪郭付の隅飾、⑥格狭間内は素面で近江式装飾文様がない、⑦隅飾内も素面で装飾的なレリーフがないといった特長を有するスタイルの宝篋印塔が長浜市や米原市などにしばしば見られる。徳源院の京極家石塔群の秀麗ないわゆる関西形式の典型とされるものは別格として、こうしたややローカルな作風の江北型ともいうべき宝篋印塔には紀年銘があるものがなく、メルクマルとなる鎌倉末期、元亨2年(1322年)の紀年銘を有する点で本塔の存在は貴重である。

参考:佐野知三郎 「近江の二、三の石塔」『史迹と美術』407号

佐野氏の報文では元明院となっていますが、賢明院でも元明院でも読み方はいずれも“げんみょういん“のようです。近くの素盞鳴神社宝篋印塔(2007年5月8日記事参照)に意匠、サイズともによく似ています。このほかにも、境内には室町時代と思われる小石仏、石塔残欠がいくつか集積されています。


京都府 京都市左京区大原戸寺町 江文神社御旅所阿弥陀石仏

2009-06-18 23:16:29 | 京都府

京都府 京都市左京区大原戸寺町 江文神社御旅所阿弥陀石仏

大原の最南端、東西に山がせまる狭隘部、南に向かって流れる高野川が東に蛇行する場所に架かる花尻橋はちょうど八瀬との境にあたる。01花尻橋の北東側に江文神社御旅所がある。その敷地の北端に小さい祠がある。西側はすぐ国道367号に接する。この祠内には数基の石仏が集積されているが、一際目を引くのは中央にある石仏である。03表面を平らに整形した二重円光背を負う丸彫りに近い定印の阿弥陀如来の坐像で、洗練された精緻な出来映えは木彫像を思わせる。自然石の広い面を彫り沈めて像容を形成しつつ全体を調整する作り方は京都付近に類例が多い。石材は白っぽい褐色で、表面に苔類も見られず風化摩滅も少ない。緻密な質感はちょっと見たところ砂岩製に思えるが、よく見ると"す"が入っている。川勝博士は花崗岩とするが、安山岩か一種の溶結凝灰岩の類かもしれない。この種の石材がこの辺りで産出するのかどうかは詳しくないが、あまり見かけない質感の石材である。風化の少なさは長く堂内か覆屋の下にあったか地中に埋もれていた可能性を示している。高さ約105cmとあまり大きくはない。下端はやや不整形で正面から側面にかけて大きめの素弁の蓮華座を刻みだしている。蓮華座部分が若干小さめなので、何となく窮屈そうにも見える。背面は中央に稜状の高まりを残し、外縁にいくにしたがって厚みを減じていくように調整し、しかも表面を叩いて仕上げているようである。円光背は周縁に一定の厚みをもたせて切り落とし、円板状につくっている。02像容は、体躯のバランスに破綻なく、ふくよかなあごの線、両肩から胸にかけての肉取り、波打つ衣文のリアルな凹凸など、どれをとってもまさに木彫風で、石造品としては稀に見る表現である。額の白毫部分は丸い穴となっているが、ここには玉石が嵌め込まれていたと推定される。素面の二重円光背、定印を結び結跏趺坐する阿弥陀如来の衲衣の着こなし方、端正な面相など、デザイン的には三千院の売炭翁石仏と共通するが、螺髪をひと粒づつ刻みだす手法を採用しないなど相違点もある。さらに売炭翁石仏に比べ彫りが深く、頭部は耳の後までしっかり彫り込まれ、定印を結ぶ手先の表現もいきとどいており、一層丁寧な出来映えを示している。銘は認められず、造立時期については謎とするしかないが、叡山系石仏に属するものと考えられており、精緻な表現は鎌倉時代中期を降るものとは思えない。ややこじんまりとまとまり過ぎている感もあるが、非常に丁寧な作りと石材の質感や色調が、見る者に清楚な印象、涼しげな印象を与える傑作である。

参考:川勝政太郎 「京都の石造美術」

   中淳志 「写真紀行 日本の石仏200選」

写真右上:彫りの深さに注意してください。耳の後ろから後頭部の途中まで彫りだしています。たいていの石仏は耳までです。文中法量値は「京都の石造美術」に拠ります。神々しいお姿にコンベクス略側はご遠慮しました。豪快さや力強さはないけれど、清楚という言葉がぴったりです。美しい石仏というのはまさにこのような石仏をいうんですね。いつまでも見とれる小生でした。合掌。ちなみに人の顔を認識する機能がある小形デジカメで撮影しましたが、カメラはお顔をしっかり認識してました。


奈良県 奈良市西新屋町 元興寺小塔院宝篋印塔

2009-06-08 23:31:00 | 奈良県

奈良県 奈良市西新屋町 元興寺小塔院宝篋印塔

興福寺の南に広がるなら町は、大半が奈良時代の元興寺の広大な旧境内にあって、古い町家が建て込む中に元興寺(元興寺極楽坊、極楽院)、元興寺(東塔跡、観音堂)、小塔院跡といったかつての元興寺の子院の後裔が分散しながら辛うじて残っている。01このうち一番西に位置する小塔院は、町家に囲まれた一画にある小さいな虚空蔵堂がわずかに法灯の名残をとどめているに過ぎない。虚空蔵堂の西側は一段低く、境は崖状になっている。堂の裏手、法面の際に宝篋印塔が立っている。白っぽい緻密で良質な花崗岩製。基礎下にある幅約96.5cm、高さ約20cmの大きい複弁反花座は、一辺当たりの弁数5弁とする。また、隅弁を小花にする手法は大和に普遍的に見られるもの。03この反花座の上に、現存塔高約179cmの宝篋印塔が載っている。反花座はサイズ、石材の質感、反花の丁寧な仕上がりをみても塔本体とよくマッチしており、当初から一具のものと考えて特段支障はないだろう。基礎は幅約62.5cm、高さ約48cm、側面高約37.5cmで各側面とも素面。基礎上は2段とする。塔身は幅、高さとも約35cm、幅約4cm前後の枠取りで輪郭を設ける。輪郭内にはいっぱいに径約26cmの月輪を陰刻し、内に雄渾なタッチの金剛界四仏の種子を大きく薬研彫している。東側正面に「ウーン」、南側に「タラーク」、西側に「キリーク」、北側は「アク」で本来のあるべき四仏の方角を向いている。笠は上6段、下2段の通有のもので、軒幅約60.5cm、高さ約44cm。軒の厚さは約6.5cmとやや薄く、各段形は直角に近く折り目正しくきっちり仕上げられている。軒と区別して若干外傾する隅飾は二弧輪郭式で、概ね欠損なく、基底部幅約14.5cm、高さは約16.5cmと比較的小さい。輪郭内は素面。相輪は九輪8輪目までが残り、先端は欠損している。残存高約51.5cm。九輪の凹凸は浅いがしっかり刻んでいる。伏鉢の径約17.5cm、下請花は摩滅が進みハッキリしないが、覆輪付の単弁のようである。全体として風化が少なく、遺存状態良好で、細部のシャープで丁寧な作りから非常に端正な印象を与える。出来映えの優れた大和系宝篋印塔の一典型である。その意味からも相輪先端の欠損が惜しまれる。無銘であるが、造立時期は鎌倉時代後期、概ね14世紀初め頃として大過ないものと考えられる。

参考:清水俊明 「奈良県史」第7巻 石造美術

文中法量値は例によってコンベクスによる実地略測のため多少の誤差はご容赦ください。なら町側の目立たない小さい門は、ややもすれば見落としてしまいそうです。風化の少ない白い石材の硬そうな質感とエッジのきいた彫りの確かさがうまくマッチして、端正で清浄感のあるとても美しい宝篋印塔です。石造マニアならずとも一見の価値があります。少々荒れ気味の境内ですが、緑の多い落ち着いた佇まいはとても静かでしばし街中の喧騒を忘れさせるに足るものがあります。このほかにもなら町には見るべき石造美術が散在しており、隠れた見所のひとつです、ハイ。


デザインを変更してみました

2009-06-03 21:31:01 | お知らせ

気分をかえて、デザインを変えてみました。ちょっと暗い感じですが、どうでしょうかね。

月がいい感じでしょ。しっとりとした夜風が感じられ、涼しげで気に入ってます。これから蒸し暑く、時に太陽が眩し過ぎる季節が到来しますが、当サイトをご覧になる皆様には、清々しく、しっとりと落ち着いたご気分で過ごしていただきますよう願っております。願主六郎敬白


京都府 京都市左京区大原来迎院町 大原阿弥陀石仏

2009-06-02 00:05:23 | 京都府

京都府 京都市左京区大原来迎院町 大原阿弥陀石仏

大原三千院境内の東側の奥まった場所にある金色不動堂と観音堂の間を北に抜け、律川の渓流にかかる橋を渡るとすぐ正面の吹き放した覆屋の中に、見上げるばかりの大きい石仏がある。01緻密な花崗岩製で総高225cm、像高は約170cmとされる。川勝政太郎博士は、大きさと美しさの点で京都で一番の石仏とされている。別名、売炭翁の石仏とも称されている。02下端に半円形の大きい素弁の蓮弁を一列に並べた蓮華座を刻みだし、平らに整形した二重円光面に結跏趺坐する定印の阿弥陀如来を厚肉彫りする。光背面は、向かって右の頭光が少し欠けたようになっている。これは後から欠損したというより、元の石材の形による制限によるもののように見える。また、右膝の後方では元の石材部分が少し余って身光部分が背後から浮き彫りしたようになっている。背後はかなりの厚みを残してほぼ自然面のままとしている。背面中央に横向きの長方形に彫り沈めを設けている点は注目すべきである。目測値でおおよそ幅40cm前後×高さ25cm前後、深さは5cm程ある。従前この彫り沈めに言及した記述は管見に及んでいないので詳しいことはわからない。この部分に刻銘があっても不思議ではないと思ったのだが、肉眼による観察では特に銘文らしいものは確認できない。あるいは願文や経典を納め蓋石を嵌め込んでいた可能性もある。像容は体躯のバランスが良く、ことに首から両肩、肘にかけての曲線、衣文の流れるような波状の凹凸は木彫風で花崗岩製の石仏としては極めて秀逸な表現である。また、03螺髪を一つ一つ彫り出している点も手が込んでいる。面相は眉目秀麗。やや面長気味の丸顔で、お顔の中心より目鼻がやや下側にあり、やさしげな厚めのまぶた、涼しげな切れ長の大きい半眼から受けるお顔全体の印象は女性的でもある。白毫の突起も表現され、両頬からあごの先端にかけての凹凸も的確。鼻梁は高く、唇は少し厚ぼったい。光線の加減でよく見えない場合もあるが、花崗岩の石仏としては出色の面相表現である。04あえて難をいうならば、体躯に比べて定印を結んだ手先が小さ過ぎ、指先の表現に少し硬い感じがある。覆屋のおかげもあって表面の風化も少なく保存状態良好。京都では釘抜き地蔵・石像寺の阿弥陀三尊石仏に代表されるように、流麗な衣文表現、二重光背に刻んだ小月輪内の種子が像容を囲むように並べる手法を採用する石仏がしばしばみられる。これらは鎌倉初期とされる比叡山香炉岡弥勒石仏に端を発する意匠表現とされ、近江も含め比叡山の影響が強い地域に分布することから、川勝博士はこれらを共通する系統の石仏としてとらえられた。そしてこれらは叡山系石仏と呼ばれている。この大原阿弥陀石仏では光背は素面で、月輪種子を並べる手法は採用していないが、土地柄も考慮して叡山系石仏に数えられている。叡山系石仏の形態的な考察は、今後もっと詳しく進められる必要があると思われるが、いずれにせよこの大原阿弥陀石仏は天台系の浄土信仰に基づき造立されたものと考えてよい。造立時期については不詳とするしかないが、優れた意匠表現をみれば、やはり従前から考えられているように鎌倉時代中期を降るものとは思えない。花崗岩製ながら優れた面相、螺髪をひとつひとつ刻み、流れるような木彫風の衣文処理の手法が共通する元仁2年(1225年)銘の石像寺阿弥陀三尊石仏が参考になるだろう。石像寺石仏の精緻な表現に比べると若干粗いところがみられ、やや時期が降る13世紀中葉頃のものと考えたいところである。

参考:川勝政太郎「京都の石造美術」

     〃   新装版「日本石造美術辞典」

   片岡長治「京都の石仏」『日本の石仏』4近畿編

   中淳志 「写真紀行 日本の石仏200選」

   竹村俊則・加登藤信「京の石造美術めぐり」

とにかくでんと構えた大きい石仏で、存在感があり石造美術にあまり関心を持たないと思われる観光客も立ち止まります。大きさもあっておおづくりな第一印象ですが、お顔をよくみると実にハンサムな仏様です。写真右下:お顔のアップ。眉目秀麗です。(写真がヘタクソなのでそのあたりをうまくお伝えできないので残念です。)写真左下:背面にある長方形の怪しいくぼみ。いかにも銘文がありそうなんですけど…。なお、おそれおおくてコンベクス計測はできませんでしたので悪しからず。