石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県生駒市高山町 本願寺墓地熊野三山板碑

2016-08-02 23:05:47 | 板碑

奈良県生駒市高山町 本願寺墓地熊野三山板碑
 生駒市の北端近く、高山城跡のある丘陵の南端、本願寺というお寺が尾根上にある。本堂裏の墓地にこの珍しい板碑がひっそりと立っている。表面の風化がやや進んでいるが、碑面に陰刻された文字は肉眼でも判読できる。
先端を山形に整形し、二段の切込を入れて額部を設け、約2
.cm下げて碑面を平坦に整形する。側面も正面と同様に整形されているが背面の整形は粗く、断面はやや平らなかまぼこ状になる。下端は埋まって確認できない。花崗岩製。現状地上高約104cm、額部の幅約38cm、碑面上端の幅は額部より左右約0.cm狭くしている。地表付近の幅約39cm。厚さは額部付近、地表付近ともに約14cm。上方に向かって右から「キリーク」、「バイ」、「サ」の種子、その下に「本宮」、「新宮」、「那智」の文字がある。種子は熊野三山の本地仏、熊野本宮大社=阿弥陀、熊野速玉大社(新宮)=薬師、熊野那智大社=観音を示す。その下に右から「永正元甲子/願人宗本/五月吉日」と3行の文字ある。(『奈良県史』では「宗水」「正月」
とする)永正元年は1504年。甲子革命により文亀4年2月30日に永正に改元されている。
熊野三山を本尊とする板碑は非常に珍しく、16世紀初頭における熊野信仰の広がりを示すものとして注目される。師檀関係にあった先達(御師)あたりを介して勧請した熊野権現のご神体的な扱いを受けていたのかもしれない。また、興福寺衆徒であった鷹山氏が依った高山城と同じ丘陵にあることから、願人(願主)の「宗本(宗水?)」なる人物も鷹山氏と何らかの関係があった人物と思われるが不詳とするしかない。
ちなみに、近くの寺跡に残された鷹山氏代々の墓塔とされる五輪塔の銘を没年とすれば、この板碑が造立された頃の当主は永正12年に亡くなった「頼宗」と考えられる。
このほか寺の境内付近には立派な十三仏(弘治3年銘)や背光五輪塔など中世に遡る石造物が残されている。

LEDライトで照らすと刻銘が鮮やかに


自然光ではこんな感じ…


頭部の様子


背面の様子

参考:清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術
      土井実『奈良県史』第16巻金石文(上)
      奥村隆彦「民間信仰の石仏」『日本の石仏』4近畿編

文中法量値はコンべクスによる略測値ですので、多少の誤差はお許しください。生駒市は石造の宝庫、ベットタウンとして開発が進んでますが、このあたりはなお長閑な里山の原風景が色濃く残っています。きけば茶筅の産地とのこと。竹林も多いわけです(竹藪は蚊も多い…)。
ちょっとさぼってると勝手に広告が表示されるのでUPしました。以前から気になっていましたが、先日ご案内いただく機会を得ました。やっぱり教えてもらわないとなかなかたどりつけない場所でした。感謝です。


滋賀県 蒲生郡日野町村井 杜家墓所三尊板碑

2013-06-23 11:00:27 | 板碑

滋賀県 蒲生郡日野町村井 杜家墓所三尊板碑
馬見岡綿向神社の北東方約400m程のところにある地域の共同墓地の一画に、代々綿向神社の宮司を務めた社(やしろ)家の墓所といわれている埋墓(所謂さんまい)があり、01その奥まった場所、丘陵尾根の麓に立派な板碑がひっそりと立っている。02花崗岩製、米石と呼ばれる地元産のキメの細かい良質の花崗岩とのことである。正面を西に向け、現状地上高約220cm、現状基底部の幅は約40cm、奥行きは約38cmを測る。額部の幅は約30.5cmと下端付近に比べ上端近くをかなり細く薄くしているので、直立安定性を得るとともに実際以上に背を高く見せる効果がある。先端を山形に整形し、二段切り込みは深くしてその下の額部は薄い。平滑に仕上げた碑面の上端近く、中央に三尊の種子を薬研彫りしている。中央は阿弥陀如来の種子「キリーク」、その下方、向かって左に配された梵字は「ボロン」。これは一字金輪仏頂尊の種子であろうか。向かって右下の「カ」は地蔵菩薩の種子と考えられる。さらに三尊種子の下には5行の陰刻銘がある。彫りが浅く文字の線も細いが、光線の加減で何とか肉眼でも確認できる。中央に「右率都婆志者為」、向かって右端に「二親幽霊並法界」、中央右に「衆生成佛得道也」、中央左に「延慶三年十月十六日」、左端に「願主内記重吉」とある。03左右どちらかの端の行から読むのではなく、中央⇒右端⇒右中⇒左中⇒左端の順に読んで文意が通る07。つまり「右率都婆志者為、二親幽霊並法界衆生成佛得道也、延慶三年(1310年)十月十六日、願主内記重吉」となる。社氏の先祖の一人と思われる内記重吉という人物が、造塔供養の功徳により亡くなった両親の霊魂並びに法界の衆生が輪廻を脱し解脱の境地を開く、あるいは極楽往生を遂げることを祈念したものであることが知られる。平滑に仕上げられた正面に比して、背面の彫成は粗く、側面から正面にいくにしたがって彫成はより丁寧になる。正面も本尊種子部分から刻銘部分は特に丁寧に細かく叩いて仕上げてあるように見える。花崗岩という石材の性質上、節理の関係で板状に整形しやすい緑泥片岩のように扁平に作ることができないため、ある程度の厚みを持たさざるをえないわけだが、本例は正面観をいかにも板状に見せることに成功していると言ってよい。こうした意匠表現、技術は見事というほかない。保存状態は極めて良好で、地衣類の付着もほとんどなく良質の石材とあいまって正面観は非常にシャープで美しい。貴重な造立紀年銘と合わせ近江では傑出した板碑として早くから世に知られた優品である。石造美術の宝庫である近江では、宝篋印塔や宝塔に比べると板碑は必ずしもメジャーな存在ではないが、この板碑は近畿地方でも屈指の板碑として数えられよう。
 
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
   日野町史編纂室編『近江日野の歴史』第5巻 文化財編
   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』
 
夕暮れ時に一人で訪ねるにはちょっと薄気味悪い場所にありますが、立ち去り難い気分にさせてくれる素晴らしい板碑です。いつまでもこの場所にあって泉下の代々社家の人々と我々法界の衆生の後生安穏を見守っていてほしいと思います。なお、最近吉川弘文館から出版された『日本石造物辞典』からは漏れています。何故だ!?


滋賀県 近江八幡市長光寺町 岩倉墓地三界万霊板碑

2010-07-30 00:36:27 | 板碑

滋賀県 近江八幡市長光寺町 岩倉墓地三界万霊板碑

瓶割山は近江八幡市の南部から東近江市西部にまたがる標高234mの独立山塊で別名を長光寺山ともいう。01山頂付近には中世城郭があり、柴田勝家の勇壮なエピソードで知られる。05またこの山は花崗岩の産地で、戦国期に活躍が知られる馬淵の石工の活動拠点もこの付近にあったと考えられている。その瓶割山の西麓、長光寺町と長福寺町の境付近、山麓の小高い場所に共同墓地があり、墓地の西寄りに立派な板碑が立っている。隣接する吹きさらしの覆屋内には石の棺台と供物台があり、この板碑に相対する位置にあることから、墓地における埋葬儀礼の礼拝・供養の対象として迎え地蔵、受け取り地蔵のような役割を果たしているように見える。花崗岩製で石材の性質上かなりの厚みがあり、かまぼこ状に整形した背面から両側面にかけては粗だたきのままとする。頂部は山形に整形し、その下の切込みは1段で額部に続く。身部は左右を幅3.5cm~4cm程の束で区切り、碑面の最上部、額部ぎりぎりの位置に陰刻月輪を配し、内に梵字を浅く薬研彫している。光線の加減もあってか読めそうで読めない。02採拓すればはっきりするかもしれないが仰月点と鶯点があるのがわかる。「アン」ではないかと思われる。胎蔵界四仏の無量寿仏(=阿弥陀如来)と推測しておく。その下に「三界万霊十方至聖各々霊位」と大刻し、その下方向かって右側に「永正十年(1513年)」左側に「二月十五日」と紀年銘を刻む。04碑面は平らでなく低いかまぼこ状に中央が少し高くなっている。下方は一段高くして蓮華座を浮き彫りしている。蓮弁がS字状にデフォルメされその形状はかなり図案化している。法量は地表高約228cmとかなり大きく、幅は下方蓮華座付近で約36cm、下端近くで約52cm、額部付近で約32cm。厚みは下端近くで約48cm、額部付近で約30cmを測る。三界万霊塔としては近江最古に属する16世紀初めの紀年銘が貴重。また、近江では他の石塔に比べあまり多くない板碑を考えていくうえでも注目すべき存在といってよい。

参考:瀬川欣一『近江 石の文化財』

三界万霊とは欲界、色界、無色界あるいは現在、過去、未来の生きとし生けるもの全てといった意味で、十方至聖と慣用的にワンセットになることがあるようです。三界の万霊に香華や水や供物を捧げることで死者と自らの功徳につなげるという一種の作善行為ですね。三界万霊塔は墓地の無縁塚などによく見られ、「塔」を「等」と表記することも多いです。たいていは近世以降のもので、中世に遡るものは稀なようです。この永正十年銘の三界万霊塔はかなり古い部類に入るんじゃないかと思われます。蓮弁の形状はこの時期らしくかなり崩れた感じですが、それでも浮き彫りにしているのは手が込んでいます。近江式装飾文様の流れを汲むものと考えていいのではないでしょうかね。


滋賀県 甲賀市土山町瀬ノ音(蒲生郡日野町鎌掛) 笹子峠種子板碑

2009-07-07 00:41:58 | 板碑

滋賀県 甲賀市土山町瀬ノ音(蒲生郡日野町鎌掛) 笹子峠種子板碑

日野町と旧土山町方面をつなぐ笹子峠の古道、かつての御代参街道も今は行きかう人の途絶えた山道となり、峠の名の由来を推して知ることができるように付近一帯は熊笹に覆われた山林で、まったくひと気のない山深い場所である。01峠を土山側に少し下ると路傍には江戸時代の地蔵石仏があり、緩斜面を平坦に整地した茶屋か何かの跡と思しき場所もある。こうしたかつての街道を偲ぶよすがは笹に埋まって残っている。峠のピークから尾根筋を東に20mばかり登ると、木立の中に忽然とこの種子碑が現れる。古来、郡分石と伝えられてきたもので、峠のある尾根筋が蒲生郡と甲賀郡の境なのであろう。したがって所在地は行政界付近にあって、日野町なのか旧土山町に属するのかよくわからない。最近出版された「近江日野の歴史」では甲賀市としているのでいちおうこれに従うが、そもそも郡分石、つまり牓示石的な意味合いがあるか否かについては不詳とするしかない。02周囲の地面には約15cm角、長さ1m余の延石を方形に組んで区画しているが、これは新しいものである。種子板碑本体は花崗岩製のやや扁平な角柱状で、下にいくほど若干厚みと幅を増す。下端が埋まっており現高約185cmある。田岡香逸氏によると総高は204cmあるというから、20cmばかり下方が埋まっている。平らに整形した正面は北を向いている。正面幅は約33㎝内外、奥行き約26cm程度。先端は幅約22cm、奥行き約19cm、上端は台形にし、額部には張り出しは見られず3段の段形状の条線を刻んだすぐ下に不動明王の種子「カーンマン」を薬研彫している。03_3種子はやや崩れた感じでタッチはあまり強くない。種子のすぐ下の細長い平面左右に2行の長文の刻銘がある。ただし、下端近くでは中央に紀年銘を入れているので3行となる。田岡氏は次のように判読されている。「凡奉尋山伏之□□□如来之教勅三界縁□之主□怨祭□□□也/明応九年(1500年)庚申十一月十三日与□/然則役行者旧例於□□出門□□止其煩可令勘過也仍執達如件」。田岡氏は、完読できないのは遺憾としながら、拾い読みした文字から文意を察するとの前提で、山伏が関所を自由に往来できる旨の執達状の文章を刻んだものではないかと推定されている。むろん風化や欠損もあるが、田岡氏が不明とした文字で肉眼で刻みはよく見える文字も少なくない。04どうやら文字自体が難解なようである。田岡氏の遺志を継ぎ、改めて判読が試みられることに期待したい。さて、日野町の山手には蔵王や熊野の地名が残り、東方の綿向山は修験の山であったと伝えられている。鎌掛(カイガケ)という字名も、山伏が法螺貝を宿の柱に掛け並べたことが由来とする説もある。種子碑の銘文は、この地に残るこうした修験道系の伝承が少なくとも15世紀頃まで遡る可能性があることを示している点で貴重である。さらに注目すべきは、蔵王地内、惜しくも近年ダムに水没した場所に「かったい谷」と称する石切場があったとされることで、地内の寂照寺に残る古式の宝篋印塔の存在や、金峯神社境内付近には未成品と思しき石造物も残ることなどから、蔵王は近江における石造文化の中心地のひとつと目されている。日野町に多数残る中世の石造物、そして伝承などの断片的な事象から山伏、修験道、熊野信仰、勧進、石工、石造物など、連想される興味深い事柄を裏付け、それらを結びつける役割を秘めた物証として、この種子碑の持つ資料的重要性については、田岡氏をはじめ多くの研究者の指摘するところであり、今更いうまでもない。

参考:田岡香逸「近江の石造美術」3

   瀬川欣一「近江 石の文化財」

   日野町史編纂室編「近江 日野の歴史」第5巻文化財編

ひと気のない山林に、明応の昔からずっと黙して佇む種子板碑、板碑の形としては、どちらかというとへんてこな部類に入りますが、忘れ去られた歴史や中世を生きた祖先達の思いを伝える貴重この上ないタイムカプセルです。ちなみに、ここを初めて訪れた時、野生の鹿に遭遇しました。笹をガサガサッと音を立てて鹿は走り去りました。奈良公園はともかく、獣害がとりざたされる最近では珍しくないのかもしれませんが、それ程にひと気のない山深い場所にひっそりと立っています。いつまでもこのままで残したい石造物です、ハイ。写真右上:上部の様子と「カーンマン」です。写真左下:中央右側に「山伏」の文字が見えます。写真右下:背面はこんな感じです。元々は郡分石というよりも、山伏の通行権をうたったモニュメントとして郡境に立てられ、いつしか本来の意味が忘れられ、境だからそこに立てたものが、立っているからそこが境だというふうに意義が逆転したんではないでしょうか。