石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 京都市上京区 西舟橋町 地蔵祠五輪塔地輪

2013-03-03 23:25:06 | 五輪塔

京都府 京都市上京区 西舟橋町 地蔵祠五輪塔地輪
今出川通り堀川西入ル、今出川通りの北に面して地蔵堂がある。堂というよりは小さい祠と言う方が的確かもしれない。01外車のショールームの西隣のわずかなスペースに消え入りそうに祀られている。
この02小祠の基壇の石積みの中に五輪塔の地輪と思われる石塔の基礎が流用されている。花崗岩製で、層塔の基礎にしては小さ過ぎ、上端面に段形や反花がないので宝篋印塔ではない。宝塔は絶対数が少ないので可能性が低く、五輪塔の地輪とするのが妥当であろう。幅約48cm、高さ約29cm。五輪塔とすれば、元は四尺半から五尺塔程度の規模になろうか。上端面中央から北から西にかけては祠の下に隠れ、北と西の側面は基壇の中に埋め込まれている。上端面の南寄りから東寄りにかけてと、南と東の側面はほぼ全面が表面に現れているが、東側面は建物の壁がぎりぎりまで迫ってほとんど目視できない。03_2正面(南側)には左右に並んだ像容がある。いずれも舟形光背を彫り沈め、内に声聞形の坐像を半肉彫りしている。膝下には線刻の蓮華座がある。表面の風化摩滅が進行しているが、向かって右像(東側)は、合掌もしくは両手を胸前で宝珠か何かを捧げ持っているように見え、左像(西側)は、左手は胸前の掌上に宝珠、右手は施無畏印であろうか。05_2衣文は摩滅してほとんど確認できないが、左像の面相部は割合によく残り、目鼻立ちが整った穏やかな表情が見て取れる。現在東側面は建物の壁との狭い隙間からわずかに覗くことしかできないが、同じように舟形光背形の彫り沈め内に像容があることがわかる。川勝政太郎博士の『京都の石造美術』や『史迹と美術』第413号に佐野知三郎氏の報文に掲載された写真を見ると、肉髻のある如来坐像で、左像(南側)は定印の阿弥陀、右像(北側)は施無畏・与願印の釈迦である。04_2西側面もモルタルからわずかに同様の舟形光背形の彫り沈めの一部が窺える。元々この小祠は町の会所内に祀られていたものを昭和41年に現在地に移されたこと、他の側面にも同様の2体併座の像容があったという地元の人の話が佐野報文に記されている。4つの側面に2体づつ、計8体の像容があったことがわかる。各側面に2体の像容を刻んだ五輪塔地輪の事例があり(大徳寺三門の礎石に転用)、六地蔵と釈迦・阿弥陀二仏であったことから、本例も同様に釈迦・阿弥陀二仏プラス六地蔵と考えられている。佐野氏は像容の彫成や蓮弁の形状から鎌倉時代後期頃の造立と推定されている。
なお、五輪塔地輪のすぐ西側に接した祠下中央に、やや縦長の方形の石材正面に舟形光背形を彫り沈めて内に小さい阿弥陀坐像を刻出した石塔残欠が同じように組み込まれている。花崗岩製で表面の保存状態があまり良くないが、サイズから小型の宝篋印塔の塔身か笠塔婆の残片であろう。これも14世紀代のものである。
 
参考:佐野知三郎 「西陣舟橋の五輪塔地輪」『史迹と美術』第413号
   川勝政太郎 『京都の石造美術』
 
昭和46年春、偶然通りがかってバスの車窓から像容のある残欠に気付いた佐野氏が川勝博士を案内して実地調査され、報文を書かれたようです。当時の写真では、石積みとの間がモルタルで塗り固めてありますが、現在モルタルは無くなっており、その後何時の機会にか取り出されて調べられているかもしれません。
 
 この日は北野天満宮に梅見がてらにお参りした帰り(単なる観光…)、近くの回転寿司に食事に入りました。混んでいて順番待の時間がかなりあったので、時間潰しにぶらぶら今出川通りを歩いていて、ふと目をやった道路脇の小祠の石積みに像容のある石塔残欠が組み込まれてあることに気付き、立ち止まって少し観察しました。確か前にどこかで見たような気がするなぁと思いながら写真を撮っていて、そういえば『京都の石造美術』にこんな感じの写真が出ていたのを思い出し、帰宅して頁をひらくと、まさにそのものずばりでした。偶然の邂逅、不思議な縁のようなものを感じます。