石造美術紀行

石造美術の探訪記

岐阜県 養老郡養老町三神町 多岐神社如法経石

2010-02-28 15:22:18 | その他の石造美術

岐阜県 養老郡養老町三神町 多岐神社如法経石

多岐神社社殿の背後に径約10m弱、高さ約1m程の不整形な塚状の高まりがある。その上に祀られた小祠の中に経塚の標識と考えられる自然石塔婆がある。材質ははっきりしないが硬砂岩と思われ、01高さ約60cm、幅約23cm、奥行き28cmの全体に角の取れた丸い縦長の自然石を特に整形することなくそのまま利用している。上部が山形にみえる比較的平坦な面を正面として造立銘を陰刻している。中央上方に「如法経」と大きく刻み、「□□土佐権守紀明棟/女施主藤原氏/文治五秊(1189年)己酉/八月廿八日乙卯/勧進僧能仁」の造立銘がある。土佐の前にも文字の痕跡が認められるが、石材が欠損しており確認できない。02_2「願主」だろうか?。全体に文字の彫りは浅いが、風化摩滅が少なく残りはよい。また、彫り方が少しぎこちないようにみえる点がかえって古拙な雰囲気を醸し出している。新しいものではないと考えてよさそうである。「如法経」の書体は独特で、年の干支に加え、月日の干支まで記している点は注意したい。西美濃地域では、大垣市を中心に、同じ文治5年銘のよく似た如法経石がこれを含め3点、平安末期の久安4年(1148年)銘のもの1点が知られており、「如法経」の書体、造立銘の書き方などがどれも概ね共通している。如法経とは、定められたやり方(作法、儀礼、つまりマニュアル)に則って造営された経塚に供養された主に法華経をいう。その風習は、平安時代後期、末法思想の浸透に伴って広まった一種の仏教的作善行為とされ、中世を通じて近世まで続いている。この塚状の地形が古墳であるのか経塚であるのか、そしてこの如法経石が当初からの原位置を保っているのか、そのあたりの正確なところはわからない。ただ、延喜式に載る多岐神社は、大塚大社とも称され、中世を通じて地域の信仰を集め、幾多の興廃を経ているものの場所は変わっていないとされている。

参考:川勝政太郎 新版「石造美術」194ページ

      田岡香逸 「近江蔵王の石造文化圏2-濃尾の石造美術-」『民俗文化』205号

     「岐阜県の地名」平凡社日本歴史地名体系21

文治5年の8月といえば、頼朝の奥州攻めが行なわれていた時分にあたります。鎌倉時代の初頭ですね、残された石文銘としては、かなり古い部類ですね。それから旧暦の8月28日は、今の10月9日にあたるようです。なお、同じ文治5年銘で上石津にあったものは、昭和53年頃、指定文化財になって新聞報道されたとたんに盗難にあって行方不明との由です。嘆かわしくもあり憤りを禁じえません。こうした石造物は、身近にあって親しく祖先の信仰や思いを伝えてくれるかけがえのない地域の宝物です。同じものはひとつとしてないのです。資料的な価値ももちろんですが、いつまでもその場所、その地域で大切にしていくことが今に生きる我々が祖先と子孫に対して負う義務だと信じています。好事家の所有欲を満たし、売買して財貨を得るような対象であってはならない。今からでも遅くはありません。隠匿している人は所有権一切を放棄して速やかに現地に返却すべきです。それにしても、こうした盗人、ブローカー、好事家には、必ずや重い仏罰が下るよう願うばかりです、ハイ。


京都府 京都市右京区梅ヶ畑高雄町 神護寺文覚上人廟所の石造美術

2010-02-20 00:58:49 | 五輪塔

京都府 京都市右京区梅ヶ畑高雄町 神護寺文覚上人廟所の石造美術

神護寺多宝塔の裏手の山道を600m程爪先上がりに登っていくと見晴らしの良い尾根の先端部分に神護寺の中興の祖とされる文覚上人(1139~1203年)の廟所がある。01玉垣の中に壇上積の立派な基壇をしつらえ、その中央に五輪塔がある。02高さは120cm弱の四尺塔である。花崗岩製で表面の風化は進んだ印象。地輪、水輪、火輪、空風輪の4石からなる。各輪とも素面で梵字はみられない。地輪の背は低く安定感があり、水輪は地輪や火輪に比べてやや小さい印象を受ける。横張りが少なく上下のカット面はやや広めにとっているようだが、最大径が下方にあって下ぶくれになっている。あるいは天地を逆に積まれているのかもしれない。05火輪は全体に扁平で屋だるみは緩く伸びやかで四注の照りが顕著でない。軒口はそれ程厚くなく、軒反は全体に緩く反って真反に近い。火輪頂部は狭く、風輪は高さがある深鉢風で空輪との境目はあまりくびれない。空輪はやや球形に近い宝珠形で風輪に比べ小さい。曲線部分に直線的な硬さは感じられない。特に空風輪や火輪の形状は古風で鎌倉時代中期を降らないものと考えられている。04ただ、五輪塔としては決して大きいものではなく、各部のバランスやデザインの完成度という点でいまひとつの感は禁じえない。これを未成熟とみるか退化とみるかで造立年代の評価が分かれるだろう。03_3そういう意味で、なお造立年代の推定には慎重さが求められるように思う。ただし、各地でたくさん見られる同じような大きさの室町時代の五輪塔とは明らかに異なる風格があることだけは確かである。基壇上端面は砂利が敷かれ、四隅近くに4個の礎石が残っている。礎盤風の円形の繰形を設け、直角方向に各2ヶ所、地貫を差し入れたと思われる溝を彫っている。これらの礎石は宝形造の木造建築の四柱を支えたものと考えられ、基壇上に建つ廟堂があったものと推定される。周辺に瓦の破片などは見当たらないので、恐らく桧皮葺のごく小規模な五輪塔の覆堂であったと思われる。この廟堂の屋根に載せられていたと思われる石造露盤が基壇の向かって右側に置いてある。花崗岩製。総高約95cm、05_2露盤本体部分と宝珠部分の2石からなる。幅約77.5cm、側面高約21.5cmの露盤本体は、側面を二区に枠取りした内にそれぞれ格狭間を配し、上端面中央に径約69cm、高さ約13.5cmの平らなドーム状の伏鉢を配し、その上に複弁八葉の反花の宝珠受座を刻み出している。03_2受座中央に径約11cmの枘穴を穿ち、宝珠部分下端の枘を差し込む。宝珠は径約33.5cm、完好な曲線を描くが最大径が下寄りにあって重心が低い。宝珠下方に細い首部を設け、小花付単弁の請花で下端を飾っている。宝珠と首部をあわせた高さは約49cm。小さいお堂には不釣合いなほど立派な石造露盤である。宝珠や伏鉢の描く曲線、受座の複弁反花、側面の格狭間など鎌倉後期の石塔などと共通する意匠様式を示す。02_2露盤は宝形造の建築の屋根の頂部に配され、瓦製や金属製のものがほとんどで石造のものは珍しい。石造の露盤は鎌倉時代を中心にいくつか事例がある04_2が、この石造露盤は遺存状態も良好で意匠・彫技とも優れた白眉といえる。文覚上人の没年は13世紀初頭であるが、五輪塔、石造露盤の造立年代はそこまで遡らせて考えることは難しい。基壇やそこに残された礎石も含め廟堂が建てられた経緯や詳細は謎であるが、廟所は上人没後しばらくたってから、何度かの段階を踏んで整備されたものと考えることができるだろう。なお、文覚上人廟所の東側に隣接して後深草天皇皇子、性仁法親王(1267~1304年)の墓所がある。玉垣内に同様の壇上積基壇と五輪塔がある。五輪塔は文覚塔とほぼ同規模でよく似た印象の花崗岩製のものであるが、火輪の形状などから時代はやや降るものと考えられている。

参考:川勝政太郎新装版「日本石造美術辞典」

      〃    「京都の石造美術」

   服部勝吉・藤原義一「日本石造遺宝」上

   藤沢一夫「石造露盤」-古建築関係資料(1)-『史迹と美術』186号

廟所の玉垣内には立ち入れません。神護寺の復興を直訴して後白河院の逆鱗に触れ、流された伊豆で知り合った頼朝に平家打倒の挙兵を促したとされる胆力と行動力の人、文覚上人が眠る廟所は京を見下ろす日当たりの良い静かなロケーションにありました。明恵上人の師匠のそのまた師匠に当たり、若い頃の明恵上人に特に目をかけていたと伝えられます。露盤の法量値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。


京都府 京都市右京区梅ヶ畑高雄町 神護寺下乗石

2010-02-18 20:00:10 | 下乗石

京都府 京都市右京区梅ヶ畑高雄町 神護寺下乗石

紅葉の名所として知られる京都の高雄、神護寺に向かう道すがら、清滝川にかかる朱塗りの橋を渡ったところから石段が続いている。この石段下の右手に石の方柱が立っている。これは下乗石で、参詣する者はここで輿や馬などの乗り物から降りるべきことを明らかにすると同時に、ここからが寺の境内、あるいは特別な聖域であることを示している。花崗岩製。平らな上端面の中央に浅い枘穴が認められることから、元は笠石が載る笠塔婆であったと推定されている。幅、奥行きとも約61cm、高さ約30cmの基礎台石の上に立つ塔身は01、幅約31cm、奥行き約24.5cmのやや扁平な方柱状で高さは約03195cm。正面と側面は平らに整形し、背面は粗叩きのままとする。各側面素面の基礎台石は後補の疑いがあるが、この点は後考を俟ちたい。正面には、上部に金剛界大日如来の種子「バン」を薬研彫し、その下、02中央付近に「下乗」の2文字を大書陰刻する。下方に2行にわたり「正安元年(1296年)十月日造立之/権大僧都乗瑜敬白」と刻む。在銘最古の下乗石とされる。「下乗」の独特の書体は、各地に残る下乗石の多くに通有のもので、その中でも最古の紀年銘を有するこの下乗石の持つ意味について考えておかなければならない。

参考:川勝政太郎・佐々木利三「京都古銘聚記」

   川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」

     〃  「京都の石造美術」

写真中:上端の枘穴、ちょと分り難いですね。写真をクリックしてもらうと少し大きく表示されます。中央に浅い穴があいています。写真右:背面の様子。文中法量値は実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。紅葉のシーズン、また若葉の頃も美しい高雄山ですが、厳冬の時期は観光客もまばらでじっくりこういうものを観察するにはちょうどいいと思います。もっとも冬の京都はかなり寒いですが。


和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆(続き)付:京都市 右京区梅ヶ畑栂尾町 高山寺石水

2010-02-14 14:22:18 | ひとりごと

和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆(続き)付:京都市 右京区梅ヶ畑栂尾町 高山寺石水院笠塔婆

笠塔婆について、文字どおりに解釈すれば、蓋屋となる笠石を備えた塔婆類は全て笠塔婆である。宝塔や層塔はもとより五輪塔や宝篋印塔などの石塔類の大部分は広義の笠塔婆であり、蓋屋付石仏龕である笠仏や箱仏もその範疇に入る。02_3こうして考えると、その概念を厳密に定義付けることはなかなか困難である。このため、広義の蓋屋付の石造塔婆から他に分類立てができるものを排除していき、残った分類しづらいものを笠塔婆として理解する程度に考えておいてもいいのかもしれない。ただ、「塔婆」は本尊ないし本尊に相当する真言や題目などを中心部分に配する点で単なる「碑」と異なる。京都栂尾の高山寺の境内にも旧蹟に建てられた木製のモニュメントが朽損したため、石造で再建した例がある。こちらも有田郡のものと同様にその旨が笠塔婆に刻まれ、現に残っている。03_4石水院門前に立つものは花崗岩製で、後補の可能性がある基礎と合わせた現高約170cm。塔身上方に小さく「バク」、その左右に「タラーク」、「ウーン」の三尊種子を配し、中央に大きく「石水院」、その下に「建保五秊丁巳/以後数箇秊/住此處後山/号楞伽山」、向かって右側面に「天福元秊癸巳十月三日造立之」、背面に「天福秊中所造立板卒都婆朽損/元亨二年壬戌十二月一日以石造替供/於梵漢之字者任古畢願主比丘尼明」の刻銘があるとされる。注目したいのは、モニュメントとして最初に採用されたものが木製であったという点、そしてその耐久年数、それからより耐久性の高い石造で作り直している点である。高山寺の場合、天福元年(1233年)に建てた木製のものを元亨2年(1322年)に再興している。その間89年、有田郡の場合は嘉禎2年(1236年)と康永3年(1344年)で108年である。この実例を踏まえれば、木製の場合、ある程度大切にされたとしても、だいたい百年くらいが耐久限度のようである。木製品はそのまま朽ち果ててしまうと残らない。ここで述べたのは石造で再建された明恵上人関連のモニュメントに関しての事例であるが、石を使ってこうしたものがたくさん作られるのは、全国に残る石造物の紀年銘に鑑み、やはり従前からいわれてきたように鎌倉時代の後半以降と考えるのが妥当であり、それ以前の鎌倉時代前半以前に石造のものはあったにせよ、仏教信仰に関連したこうしたモニュメント、経塚の標識や、墓標などには木製品がかなり採用されていたと類推することが可能ではないだろうか。平安末期と推定される餓鬼紙子に描かれた昔の墓地にも木製と思われる塔婆が描かれているのが見られることなどもその証左である。01_5そして、その内には明恵上人旧蹟のモニュメントの実例のように、木製から石造に作り直され置き換えられたこともいくらかはあったと思う。仮にそうだとすると無銘の石塔の造立推定年代が蔵骨器などの年代と合わない場合、器の伝世ということも考慮されるべきであるが、木製品の朽損による再建ということも可能性としてありうるということになる。古い時代には、造立対象物のあり方に即して、造立主(施主)の嗜好性と耐久性や経済性などが勘案されて木製、石造が併用されていたのであろう。それがやがて人間が生きた記憶や記録を後世に伝えたいという思いや考え方に基づいて作られる場合に、そこに永遠性を付加したくなるのは当然であるから耐久性ということが重視され始める。そして、中世から近世初期にかけて造塔思想そのものの普及とともに次第にそういう考え方も平行して、あるいは相互に助長し庶民層にまで拡大し、その最たるものである墓標や墓塔として、石造品の量的な需要をますます高める一つの要因になったとは考えられないだろうか。その結果、供給サイドが量的な需要に応えていくために、個々の作品のクオリティに費やすエネルギーを量産の方向に向けざるをえなくなっていき美術的な観点からは「退化」と称されるような特性となって表面化してくるのである。つまり「作品」は「製品」になり、量産化によって品質がどんどん低下し「廉価品」へと変化していくのであろう。一方、木製品は今日でも見られるように盆や年忌などのたびに立てる卒塔婆のように簡便性や経済性という属性が一層クローズアップされた用途に特化され、結局、石造、木製ともにそれぞれの特性に応じてその用途が細分化していくと考えるのである。

写真:高山寺石水院門前の笠塔婆。こちらは花崗岩製で、少し笠が小さい感じです。同様のものがいくつか境内の山中深く残っている由です。写真左下:明治時代に現在の場所に移築された石水院が元あったとされる場所。現在は何もない平坦地になって石段だけが残っています。なお、付近には同じような子院跡と思われる平坦地がたくさん残っています。樹下で座禅を組む有名な明恵上人の姿を描いた絵の舞台がまさにこの山中だったことを考えると感慨深いものがあります。明恵上人は夢記を残され心理学の方面でも有名な方です。そのストイックな信仰の姿勢はもとよりですが、反面何というかちょっとシニカルなところがあって非常に人間的な魅力に溢れる人物です。貞慶上人と並ぶ南都系仏教界のエースで東大寺華厳宗の学頭。密教に加え、禅と戒律にも造詣深く、光明真言の土砂加持を研究されたりしています。また、専修念仏を痛烈に批判されたことでも知られています。一方歌心豊かで短歌も多く残された容姿端麗な方だったらしいです。小生などは「あかあかやあかあか・・・月」の歌が気に入っています。かの時代にこんな歌を作られる感性に驚きを禁じえません。それから高山寺といえば有名な「高山寺式」宝篋印塔を忘れるわけにはいきませんが、上人廟所の一画にあり、残念ながら立入が制限されて至近距離までは近づけません。


和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆

2010-02-14 13:28:21 | 和歌山県

和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆

有田郡は明恵房高弁上人の郷里である。洛西栂尾の地を下賜され高山寺を中興する前、20代の頃郷里に戻り、人里離れた山中に草庵を結んでひたすら修業に励まれた時期があり、その旧蹟8ヶ所に弟子が建てたモニュメントのうちいくつかが残っている。01_4そのうちのひとつ、白上峰の遺跡について紹介したい。湯浅町栖原の海辺に近い山腹に施無畏寺がある。上人の母方の実家に当たる在地の有力武士であった湯浅氏が建てたとされるのもので、落慶法要には明恵上人も駆けつけたという。この寺の背後に続く山塊の頂上付近が白上峰とされる。東西2ヶ所に分かれる白上峰の旧蹟のうち海寄りにあるのが西白上で、湯浅湾を一望に見下ろす景勝の地にある。山頂付近は潅木の中に見上げるような巨岩が露呈する。建久6年(1195年)、最初に上人がここに草庵を結んだとされる。岩山の一角に笠塔婆が立っている。笠塔婆というのは、塔身の上に笠石を載せた簡単な構造の塔婆で、塔身には普通、方柱状ないし板状の縦長の石材を用い、笠は寄棟ないし宝形造で頂部に請花・宝珠を配するもの。02構造・形式が簡易であり、刻銘可能なスペースを広くとることができ、供養塔や町石などいろいろな用途に使われる。露呈する岩盤上の狭い平坦部に、径2m程の範囲にごつごつした自然石を不整形に敷き並べ、その中央に笠塔婆の基部を埋け込んである。03周囲には鉄製の保護柵が方形に回らされている。表面茶褐色の硬質砂岩製とみられ、宝珠から塔身まで全て一石彫成。現状での全高約156cm、塔身部は高さ約129cm、幅約26cm、奥行き約17.5cmのやや扁平な方柱状で、北側正面上方に「マン」の種子を平底彫で大きく配し、その下の中央付近に「文殊師利菩薩」、さらにその下に「建久之比遁本/山高尾来草/庵之處」、「十一月十九日造立之/嘉禎二年丙申/比丘喜海謹記」と3行(割付た干支の行数を加えれば5行)2段に陰刻している。04さらに背面には「嘉禎年中所立木卒都婆朽損之間今勧進一族以石造依之此結縁各預上人之引導可令成就二世願望者也、康永三年(1344年)甲申九月十九日勧進比丘弁迂」の造立・紀年銘、向かって左の側面に「願主沙弥安部六氏女」、向かって右側面にも「沙弥□□」の刻銘があるという。背面と側面の刻銘は光線の加減で肉眼でははっきり確認できなかった。埋け込まれた基部は平らに整形された塔身部分より若干太くなっており、敷き並べた石材の間にしっかりとくい込んで倒れるのを防いでいる。笠部分は軒の幅約32.5cm、軒の奥行き約24.5cm。軒の厚さは中央で約5.8cm、隅で約6.5cm。頂部は13cm×11cm。下部に高さ3cm、径約12cmの首部を設けた宝珠は高さ約11cm、径は約17cmである。宝珠の先端の小さい突起は少し欠損している。種子を平底彫とする点、一石彫成とする点が特徴である。ここから東に約400mの尾根のピーク付近にも同様の笠塔婆がある。01_3こちらは東白上の旧蹟とされる。はじめ西白上に草庵を構えたが、波の音や漁師の声が修業の妨げになることから東に奥まったこの場所に移ったという。こちらも巨大な岩盤が露呈し、東側に連なる山並みを一望にできる勝地である。西白上と同様に岩盤上に自然石を敷き並べ笠塔婆を立てている。やはり一石彫成で石材や大きさ、形状は西白上とほとんど同じ。塔身正面には「ウーン」、以下「金剛蔵菩薩」「建久之比蟄居修練之間文殊浮空中現形之處」とあり、嘉禎二年云々と背面の再建銘は西白上と同じ、側面には「願主藤原宗貞」とある。願主は藤原を本姓とし、「宗」を名に付することから湯浅氏と考えられている。02_2世俗の栄達から決別するため、仏眼仏母像の前で自分の片耳を切った明恵上人が文殊菩薩の顕現を見たのがこの場所だとされている。時に建久7年(1196年)上人24歳の時のことという。このほか有田川流域に残る明恵上人の旧蹟をしのんで建てられた笠塔婆は、おそらく京都栂尾高山寺の上人旧蹟でも木製のものを石造に再建したのに倣ったのであろう。高山寺、有田郡とも一連の明恵上人旧蹟のモニュメントである笠塔婆が、一様に一石彫成である点は注目される。通常、笠塔婆は塔身、笠、宝珠と3石に分けることが多く、笠石以上が落下亡失して上端に枘のある柱状の塔身だけが残っているのをよく見かけるが、一石彫成というのは珍しい。単なる簡略化とは別に、朽損した初代の木製のものを石造に切り替え再建していることを勘案すると、上人の旧蹟をなるべく永久に後世に伝えたいという造立主の思いに基づき、部材がばらばらにならないよう、あえて一石彫成の手法を採用した可能性も考えられる。

 

参考:巽三郎・愛甲昇寛「紀伊國金石文集成」

   川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」

     〃   「石造美術の旅」

     〃   「京都の石造美術」

   川勝政太郎・佐々木利三「京都古銘聚記」

施無畏寺の境内と裏山の墓地には観応、永徳の在銘宝篋印塔が残っていますがこれらは別途紹介したいと思います。写真左上:西白上峰の笠塔婆のロケーション。こうして海を見下ろし雨の日も風の日も幾百年立っているんですね。写真左上から2番目:笠と宝珠の様子、写真左上から3番目:嘉禎年間の木造当初の碑文部分、写真右下:東白上峰、写真左下:東白上峰の平底彫のウーン種子です。なお、木造のモニュメントを造立した喜海さんは明恵上人の高弟です。