石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 大津市葛川坊村町 地主神社宝塔

2008-12-10 00:37:40 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市葛川坊村町 地主神社宝塔

地主神社は天台修験の聖地葛川の信仰的な中心として知られる息障明王院の南に隣接し、明王院の鎮守として一体的に信仰を集める古社である。千日回峰行の始祖とされる相応和尚を葛川に導き、不動明王を感得せしめた土着の神である思古淵神を祀ったのが起源とされる。04社殿は三間社春日造、文亀2年(1502年)の棟札が残るという。幣殿とともに大きい蟇股がたくさんあって蟇股内や絵様肘木の凝った彫刻が美しい室町時代の優れた社殿建築である。目指す石造宝塔は参道石段を登って左手にある手水屋の横にある。柵などはなく、やや唐突な感じで立っている。高さ約194cm、元は7尺塔と推定される。花崗岩製。地面に5枚の切石を組んだ一重の基壇を設けている。基壇の下半は埋まって下端は確認できない。03基壇上に据えた基礎は幅約68cm、高さ約41cm、北側を除く3側面は輪郭で枠取りして格狭間を配する。北側は切り離しの素面で、田岡香逸氏の報文によれば6行の刻銘があるとされる。風化摩滅で辛うじて左端に「康永四乙酉(1345年)三月廿二日」の紀年が判読できるとあるが、現在は苔がこびり付き刻銘を肉眼で確認することはできない。この北側面の下端中央に約11cm×約14cmの方形の穴があり奉籠孔と見られる。手首から先が余裕で入る大きさの穴で、田岡香逸氏の報文によれば、銘文がこの穴で途中で途切れているらしく、これによりこの穴が後から穿たれたものと断定されているが、盗掘穴でなければこのような穴を後から穿つ理由について見当がつかない。あるいは、刻銘を刻んだはめ込み式の蓋があった可能性も否定できないと思われる。拓本などにより刻銘を詳しく検討すればはっきりするかもしれないが、後考を俟つほかない。側面輪郭の幅は狭く、彫りはやや深い。格狭間は輪郭内に大きく表現され、花頭中央がやや狭くなっているが側線から脚部に至る線はスムーズで概ね整った形状を示す。01格狭間内は微妙に盛り上がった素面で近江式装飾文様は見られない。塔身は軸部と縁板(框座)、匂欄、首部の四部構成で一石彫成。軸部には扉型などは確認できず素面と思われる。肩付近に最大径がある円筒形で、亀腹に相当する曲面部分を経て低い円盤状の縁板(框座)を廻らせ、2段にした首部に続く。0022段のうち下段は匂欄部を表現すると思われる。首部上段はやや細く笠裏の円穴にはめ込まれる。塔身は表面の荒れが目立ち風化が進んだ印象。笠は軒幅約65cm、笠裏に2段を削りだし斗拱部を表現する。軒中央の水平部が目立ち隅近くでわずかに厚みを増して反転する穏やかな軒反で、軒口あまり厚くない。軒先の一端が欠損している。欠損部断面を見ると新しそうだが、昭和52年8月に調査された田岡香逸氏の報文に添えられた写真でも既に欠損していることが確認される。四注には断面凸状の隅降棟の突帯が表現され屋だるみは比較的顕著である。笠全体に高さがない割に屋根の勾配がきつく見えるのは、笠頂部の面積が広いためであろう。笠頂部にあるべき露盤が見られないので笠全体にしまりないものとなっているが、笠頂部をよく見ると不自然な凸凹がみられ、何らかの理由で露盤部が破損したため、はつりとったものと推定される。相輪は伏鉢を亡失し、複弁の下請花から始まっている。九輪の凹凸はハッキリ刻まれるが逓減が目立つ。上請花は小花付単弁、高さが不足ぎみで幅が広く先端宝珠とのくびれが目立つ。宝珠は重心が高く側線に直線が目立って硬さが出ている。全体的に表面の風化が進み、細かい欠損もあるが主要部分がほぼ揃い、優れた造形を見せる。基礎の紀年銘も貴重で文化財指定あって然るべき優品である。

参考:川勝政太郎 「歴史と文化近江」 58~59ページ

   田岡香逸 「近江葛川の宝塔など(前)―付勝華寺の弘長二年石湯船補記―」『民俗文化』172号

写真下左:まずまずの格狭間、写真下右:北側面下端の穴。けっこうでかい穴ですがやっぱり奉籠孔に見えます…。ここに刻銘があるはずなんですがごらんのとおり苔が蔓延って確認不能です。この苔は根がしぶとくこびりつくタイプで風化摩滅を助長します。刻銘の行く末が心配されます。田岡氏の報文に載せられた拓本を見る限り完読は厳しいかもしれませんが紀年銘以外も何文字かは読めそうにも見えます。田岡氏の調査から30年が経過し、苔と霜による侵食・風化がさらに進んでいることも予想されます。これ以上風化が進行しないよう保存保護が図られるとともに、一刻も早く失われつつある刻銘の判読が試みられオーソライズ(記録保存)されるよう願うばかりです、ハイ。


滋賀県 大津市葛川町居町 観音寺宝篋印塔

2008-12-06 23:38:02 | 宝篋印塔

滋賀県 大津市葛川町居町 観音寺宝篋印塔

比良山系の西、花折断層によるⅤ字渓谷がほぼ南北にまっすぐ伸びる安曇川上流、山深い別天地、葛川は古く貞観元年(859年)に相応和尚が開いたと伝える天台の修験の聖地として今日までその名を知られる。その中心である息障明王院と地主神社のある葛川坊村町の北に位置するのが葛川町居町で、安曇川の西岸、集落の北に少しはずれて観音寺(旧天台宗、現在は曹洞宗)がある。02寛文2年(1662年)、地震による山腹の大崩落で、観音寺から北側にあったという元の町居集落は壊滅的な被害を受け、その犠牲者を弔うため延宝6年(1678年)に再興されたと伝えられる。傾斜のきついトタン葺きの屋根が雪深い気候を物語る本堂の南側に立派な宝篋印塔が立っている。基礎から相輪まで各部完存しており、塔高約197cmある。元は6尺半塔であろうか。自然石を適当に組み合わせて基礎の下に敷いているが、元々のものではなさそうである。花崗岩製で基礎は幅約62cm、上端より下端の幅が1cm程度広い。基礎高さ約44cm、側面高さ約32cmを計る。側面の幅に対する高さの比は小さく、安定感がある。南側を除く各側面とも輪郭で枠取されている。輪郭内は珍しく格狭間を作らず素面としている。南面は輪郭もない全くの素面。輪郭は、束の幅約8㎝、葛約5.5cm、地覆約4.5cm。輪郭内の彫りは比較的深く、羽目は平らに調整せず中央付近が少し膨らんでいる。基礎上は抑揚のある複弁反花式で、左右隅弁と中央の主弁の両側に大きめの間弁(小花)を配する。01塔身受座は幅約40cm、高さ約3cm。基礎北面束部右に「應仁二年□□」、左に「八月十五日」と陰刻されているのが肉眼でも確認できる。また、田岡香逸氏によると、羽目部分にも上下2段8行の15ないし16名分の法名があるとされる。さらに東西の側面にも同様に束と羽目にわたって刻銘があるとされるが肉眼ではほとんど確認できない。これらの法名はスポンサーとして結縁したメンバーと思われる。塔身は側面幅約33.5cm、高さ約34cm。蓮華座上に直径約28cmの月輪を陰刻し、中に金剛界四仏の種子を弱いタッチで薬研彫している。笠は上6段下2段の通例どおり、軒の幅約51.5cm、高さ約39.5cm。軒は厚さ約5.5cm、各段形の高さは4cm前後、頂部幅約23.5cmである。隅飾は軒と区別し、かなり外反しながら立ち上がる。基底幅約16.5cmに対し高さは約14cmで3段目とほぼ同じ高さ。どちらかというと低い部類に入る隅飾である。二弧輪郭付で輪郭内は素面で輪郭の幅が薄い。相輪は、高さ約79cm、基底部つまり伏鉢下端の径約21.5cm。九輪部の8輪目と9輪目の間で折れたのを接いでいる。03下請花は複弁、九輪は逓減が目立ち凹凸はほとんど線刻に近い。上請花はやや風化しているが単弁と思われる。宝珠は先端の突起が若干大きいが概ね破綻のない曲線を描いている。伏鉢、上下請花の曲線もほぼスムーズであまり硬さは現れていない。全体のバランス的には塔身が大きめで笠がやや小さいように見える。04しかし各部の接点となる受座などを見る限りうまくマッチしているので、各部とも当初から一具のものと判断できる。なお、境内には他に石塔や残欠など見当たらず、自然石の上に置かれた様子を見る限り、原位置を保っているようには見えないので、あまり遠くない場所から移築されたものと思われる。昭和41年の川勝政太郎博士の記述によれば、「近年寺の南方崖下から発掘したという」ものらしい。(近年というのは一説に昭和14年とされる。)寛文の災害で埋まってしまっていたのだろうか。一般的に小型化や意匠の退化傾向が顕著になるこの時期の宝篋印塔にしては規模が大きく、基礎の反花や相輪の作りは概ねしっかりとしていて丁寧な出来といえる。しかし、隅飾の形状には年代感がはっきり現れている。2m近い規模で各部揃い、しかも室町時代半ば、応仁2年(1468年)の紀年銘を有する点は貴重である。特に15世紀代で、その後半以前の紀年銘を持つ宝篋印塔は近畿地方では比較的事例が少ないことを合わせて考慮すれば、文化財指定があって然るべき優品である。

参考:川勝政太郎 「近江宝篋印塔の進展」(六)『史迹と美術』368号

   田岡香逸「近江葛川の石造美術」(前)―観音寺と明王院の宝篋印塔―『民俗文化』157号

   平凡社 「滋賀県の地名」日本歴史地名体系25 242~246ページ

法量値はコンベクスによる実地計測なので多少の誤差はご容赦ください。写真上:北東側からみる。手前の隅飾、斜めからみたこの感じ、これが室町時代の隅飾の特長です。写真中右:北西からみる。写真中左:基礎北面のアップ。束の紀年銘は肉眼でもなんとか判読できますが、羽目部分並びに東西面は厳しいです。下手くそ写真なのでわかりにくくてすいません。写真下:相輪の先端アップです。そんなに悪くないでしょ。

なお、葛川明王院には石造宝塔2基、宝篋印塔2基(内残欠1基は未見)、隣接する地主神社にも石造宝塔1基、いずれも鎌倉後期~室町初めにかけての在銘の石塔が集中しています。これらも追々紹介したいと思ってます。ただし明王院は現在堂宇修理中で見学できません、ハイ。基礎東西面の刻銘について、田岡香逸氏は、風化摩滅と調査時間の都合で検討しきれないので後考を俟つ旨記されていますが、その後どなたか判読を試みた方はみえるのでしょうか?文字どおりの管見に及ばぬだけならばよいのですが、藻菌類の侵食と霜や凍結、酸性雨などによる風化摩滅は徐々に進行しています。田岡氏の調査は昭和51年でしたが、30年以上を経た現在はさらに判読が困難になっているものと思われます。祖先の思いや事跡を伝えてくれる貴重な金石文も放置すると永遠に失われてしまいます。痕跡を留めている今の間に保存保護の措置をとるとともに、然るべき立場の方が判読を試み発表されるべきかと思いますが…。


滋賀県 近江八幡市池田本町 池福寺宝篋印塔

2008-12-03 01:03:39 | 宝篋印塔

滋賀県 近江八幡市池田本町 池福寺宝篋印塔

桐原小学校の西に境内を構える天台宗霊松山池福寺。山門をくぐると、手入れのいきとどいた緑豊かな境内、正面に見える二層屋根の本堂に向かう参道左手の生垣の途中に宝篋印塔がある。自然石を組んだ上にうまくバランスを考えてちょこんと載せてある感じだが、相輪先端を欠いて現高約156cmで元は6尺塔と推定される大きさである。01全体に荒叩きに仕上げ、表面の風化は進んでいる。基礎は上2段式、幅約60cm、高さ約47cm、側面高約39cm。基礎側面は南東側を除き輪郭を巻いて内に格狭間を配し、さらにその中に三茎蓮華のレリーフを刻みだしている。三茎蓮華は左右対称だが茎や葉が細く弱々しい感じ。宝瓶は表現されない。南東側のみ素面のままとしている。輪郭は左右束部分が葛部に比べるとやや広い。また、輪郭内の面積に比べ格狭間が相対的に小さく輪郭左右と格狭間の空間を広くとっている。輪郭の下端の地覆部分は彫りが明瞭でなく、基礎自体下端が不整形であることを考え合わせると田岡香逸氏の指摘のとおり、基礎下方を地中に埋める前提で省略されていた可能性が高い。基礎下端を埋める前提であったと仮定すれば、基礎の背の高さを考慮する場合に高さは少し割り引いて考える必要がある。格狭間の造形はお世辞にも整っているとはいえない。特に正面北東側面の格狭間は花頭部分のカプスが左右1個づつしかない。このように一見稚拙で小さめの格狭間には、湖南市岩坂の弘安8年(1285年)銘の最勝寺宝塔(2008年10月9日記事参照)や東近江市柏木町の正寿寺正応4年(1291年)銘宝篋印塔など古い紀年銘を持つ石塔基礎に類例があり、この点は注意しておかなければならない。さらに基礎のフォルムの特長として、基礎幅に対して段形が幅、高さともにかなり小さいことが上げられる。特に側面から初段までの幅が大きい。02 それだけ側面からの入りが大きいことを示す。基礎は素面の南東側が本来背面にくるべきで、現状で正面になっている北東側が左、現状の北西側が本来の正面と考えるべきであろう。塔身は幅、高さともに約26.5cm。表面の風化が目立ちハッキリ確認しづらいが南東側「ア」ないし「アー」、南西側「アン」、北西側「アク」の胎蔵界四仏と思われる種子を月輪を伴わず直接陰刻している。文字のタッチはあまり強くない。正面北東側のみは舟形背光型に彫りくぼめた中に如来坐像を半肉彫りしている。印相は定印と見られ阿弥陀と思われる。蓮華座は確認できない。笠は上6段下2段で軒幅約53cm、高さ約45cm。笠上に比べ笠下の段形がやや薄い。軒は厚さ約9cmと比較的厚く、一弧の隅飾は軒と区別しないでほぼ垂直に立ち上がる。隅飾には輪郭は見られず、各側面に月輪に囲まれた梵字「ア」を陰刻する。隅飾は笠上段形3段目とほぼ同じ高さでとりたてて高くはない。段形最上部6段目は南東側に少し欠損がある。相輪は九輪の6輪までを残しそれ以上は欠損している。伏鉢は異様に低く小さいので欠損部があるのかもしれない。少し動かして枘を見てみたところ枘と枘穴は合致しているのを確認したが、この点後考を俟つしかない。下請花は蓮弁が摩滅して複弁なの単弁なのか不詳。伏鉢とのくびれ部から側線にかけての曲線はスムーズで硬さはない。九輪部は凹凸がハッキリ刻まれ残存部を見る限り逓減はあまり感じられない。川勝政太郎博士は軒と区別せずほぼ垂直に立ち上がる一弧の隅飾、格狭間左右の広さ、荒叩きの作りなどの特長を総合して古式塔に通じるものとされ、永仁3年(1295年)銘の東近江市妙法寺薬師堂の宝篋印塔との近似性を指摘され、鎌倉中期末ごろの造立と推定されている。一方、田岡香逸氏は基礎の背の高さ、三茎蓮華の弱さ、隅飾の幅と高さの比や方形の塔身などから、「川勝博士が説かれたように、早期塔的な構造手法は全く認められない」として1320年ごろのものと推定されている。もとより銘は確認できず、先学の見解もこのように分かれるため小生のごとき若輩には何ともいえないところであるが、あえて述べさせてもらうと、報文にみる田岡香逸氏の観察の詳細さには敬服せざるをえない。そして、確かに各部の特長が必ずしも古式を示すものでなく、鎌倉中期(川勝博士は正応以前とされる)に遡る可能性があるという意味の「早期塔」を典型的に示すものではないという点において共感できる。しかし、古式な特長が全く認められないというのは少々乱暴に過ぎ、逆に鎌倉末期近い1320年ごろに持っていく根拠の方が弱いように思う。古くもっていく要素には弱いところがあるが、積極的に新しくする要素にも決定打に欠けるところがあるということだろう。そこで小生としては微妙なところではあるが古い要素をいちおう評価すべきと考える。川勝博士の記述は田岡氏が指摘するように十分ではないかもしれないが、結果として導き出された13世紀末ごろという年代に違和感は感じない。田岡氏の指摘どおり鎌倉中期にもっていくのは無理かと思うが、年代としては川勝説にほぼ近い、鎌倉後期初め、13世紀末から14世紀初頭頃といったところではないかと考えるがいかがであろうか。なお、境内にはこのほかにも層塔塔身や五輪塔残欠、箱仏などが見られる。

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔補遺 附装飾的系列補説」『史迹と美術』380号

   田岡香逸「近江蒲生郡の石造美術―竜王町・近江八幡市―」『民俗文化』109号