石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市大野町 十輪寺三界万霊塔(種子三尊自然石塔婆)

2011-06-06 01:13:25 | その他の石造美術

奈良県 奈良市大野町 十輪寺三界万霊塔(種子三尊自然石塔婆)

田原地区は奈良市街の東方、春日山を越えたところにある高原の小盆地で、東山内の範疇に入る。01古い街道が交錯する交通の要衝で注目すべき石造物も多い。大野町の小高い丘の上にある真言宗十輪寺の境内周辺は地域の惣墓のようになっており箱仏や名号碑など室町時代の石造物が多数見られる。古くから田原地区の中心的寺院だったというのも肯ける。北側の参道の途中、本堂西側の石垣の石積み脇の植え込みの中に自然石塔婆がある。幅約120cm、高さ約70cm。上部が山形になった自然石で、平らな広い面を正面に見立ている。一見したところでは特段の造作や整形の跡は認められない。石材は花崗岩と思われる。中央上部に「キリーク」、向かって左に「バク」、右に「バイ」を薬研彫している。通常の阿弥陀三尊は「キリーク」(阿弥陀)、「サ」(観音)、「サク」(勢至)とするが「サ」、「サク」に代えて「バイ」、「バク」とするのは変則的である02「バイ」は薬師、「バク」は釈迦であろう。如来三尊の中で阿弥陀をより上位に配置するのは、やはり浄土信仰の表れとみてよいだろう。その下に「三界萬霊」と大きめに陰刻し、左下方に小さい文字で「応永二(1395年)乙亥年七月」と彫ってある。このほか「三界萬霊」の文字の左右に多数の結縁者法名が見られる。三界万霊とは欲界、色界、無色界(あるいは現在、過去、未来)の全ての生命というような意味で、それらを遍く回向する目的で造立された供養塔が三界万霊塔である。法界衆生、十界群霊、有縁無縁などとあるのも同じような意味で「塔」の文字を「等」と記することもある。墓地の入口や無縁塚の中央などに置かれることが多く、全国各地で普遍的に見られ、ほとんどは江戸時代以降のもの。中世に遡るものは稀で、奈良県内でも永正、天文などの16世紀代の例が若干知られる程度である。この十輪寺三界万霊塔に刻まれている14世紀末の紀年銘は、三界万霊塔としては最古の部類に入ると考えられる。在銘三界万霊塔としては群を抜いて古いことから後刻の疑いもあるが、文字や干支の彫り方など、特に不自然なところは感じられない。16世紀代のものの多くは名号板碑や石仏の形態を採用している点で違いがあり、種子を刻んだ自然石塔婆自体は古くからあることから、積極的に後刻と判断する材料はないと思う。

 

参考:土井実『奈良県史』第16巻 金石文(上)

 

上記参考にあげた『奈良県史』には、弥陀三尊の種子とありますが、「サ」は明らかに「バイ」です。また、当初小生も「サク」と見たのは「バク」ですね。そこで「サク」としたUP当初時の本文を訂正しました。…ちゃんと確認してから載せろよ…ていうか、近々早速に確認し直してきます、どうもすいません。

 

釈迦、薬師、阿弥陀という3人のポピュラーな顕教系の如来を並べるのはある意味贅沢な取り合わせです。その中で阿弥陀を上位に据えているのは、三界の衆生の極楽浄土への往生を願う信仰の表れなんでしょうね。


滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その3)

2010-11-16 00:10:03 | その他の石造美術

滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その3)

周辺にはいくつか石造物があるので少し紹介しておきたい。阿弥陀如来正面の小祠前に寄集め塔がある。最下にある基礎は宝塔か五輪塔のものだろう。18幅約69.5cm、高さ約38.5cmで下端は不整形。側面は四面とも素面。その上にあるのは宝篋印塔の基礎で幅約45cm、高さ約33.5cm。上2段、各側面は輪郭を巻いて内に格狭間を入れる。15_2南北朝頃のものか。その上は宝塔の笠石か五輪塔の火輪で最下の基礎と一具のものだろう。軒幅約65cm、高さ約39cm。全体に低平で軒の隅増しが少ない形状は古調を示し鎌倉中期に遡る可能性もある。五輪塔の火輪にしては低平に過ぎるが垂木型や降棟、露盤など宝塔の笠に特長的な表現はみられない。頂部の枘穴は径約12cm、深さ約6cm。笠上には小さい五輪塔の水輪が載せてある。また、相輪の残欠(九輪部)が傍らに置いてある。この相輪が寄集め塔のいずれかとセットになるものか否かは不明。

磨崖仏が刻まれた大岩壁の西、20mばかり離れた場所には、長方形板状石材の中央に舟形背光を彫り沈め、右手を胸元に左手を膝上にする印相の尊格不詳の石仏が二基ある。拙い像容表現から室町末~江戸初期頃のものかと思われるが、何故このような長方形の石材に刻まれているのかはよくわからない。13また、その上方の斜面に露出した岩塊壁面には地輪の細高い五輪塔が線刻されている。14高さは約130cm、幅約25cmほど。空輪と風輪の境界に段差があり、風輪以下はある程度フラットになるよう壁面を整形しているかもしれない。陰刻銘があるようだが風化摩滅で肉眼では判読不能。上方は「キャ・カ・ラ・バ・ア」と思われ、下端は二行で日付だろうか「五」「七」などが拾い読みできる。さらにここから数m東側の岩塊壁面にも薄肉彫の五輪塔が刻まれている。これは川勝報文にあるものと思われ、下端が不明瞭ながら高さは約90cm程、幅約19cm。全体は地輪以下の長い形状だが、地輪の下端は沈線で区切り、この地輪下端線から空輪頂部までは約45cmである。各輪には「キャ・カ・ラ・バ・ア」の梵字を陰刻する。地輪の下には不動明王の種子「カーン」が刻まれる。17さらにその下にも陰刻銘が認められるが風化摩滅により不詳。川勝博士は銘文の最後の方に「…廿七日」と読めるとされており、この部分は肉眼でも何とか確認できる。鎌倉末期頃のものと推定されているがもう少し新しいかもしれない。線刻と薄肉彫の違いはあるがいずれも磨崖五輪塔婆とでもいうべきもので、先の大乗妙典の壁面碑によく似た性質のものであろうか。その東方は磨崖仏のある大岸壁の西端にあたり、巨岩が重なり合って洞窟状になり入口に不動明王の石仏が立っている。花崗岩製。11高さ約67cm、幅約38cmの縦長の自然石に像高は約48cmの立像を厚肉彫する。右手に宝剣、左手に羂索を執る。表現的には稚拙で不動明王本来の威圧感はなく愛嬌のある表情が印象に残る。室町時代末頃のものであろう。

さらに、参道途中にごく新しい地蔵菩薩と並んで阿弥陀如来の石仏が祀られている。高さ約80cm、下端の幅約40cmで上方を丸く整形した縦長の花崗岩の正面に単弁蓮華座に座す像高約50cmの定印を結ぶ阿弥陀如来を厚肉彫したもので、線刻二重円光背が認められる。19向かって左側の光背外縁部が少し欠損し面相はほとんど摩滅しているが衣文表現や胸元の肉取りなど、小品ながらなかなか凝っている。注目すべきは背面に五輪塔のレリーフがある点で、二面石仏というべき非常に珍しいものである。背面は石積みとの隙間が狭く見づらいが、五輪塔の形状はそれほど古いものではないようで、室町時代前半頃のものだろうか。これも川勝報文にある。麓の川沿いにある漁協の建物の裏にも石造物が集積されている。中央の名号碑は弥陀三尊の種子を上部に、六字名号すなわち「南無阿弥陀仏」を中央に刻む。江戸時代後期の享和2年銘。そのほか室町時代の小型石仏に交じり南北朝頃の宝篋印塔の基礎と塔身が目を引く。なお、川勝博士の報文には信楽川沿いに高さ4尺の完全な五輪塔があったとの記述があるが現在は見当たらない。磨崖仏以外にもこれだけの石造物が見られることから、この場所が中世から近世にかけてかなりの寺勢のある寺院の跡であることはやはり疑いないだろう。

 

参考:川勝政太郎 「近江富川磨崖仏小考」『史迹と美術』第147号

   清水俊明 『近江の石仏』

   『新 大津市史』別巻

 

写真左上:中尊前の寄集め塔。笠と基礎は一具と思われます。何となくですが宝塔のような気がします。写真左上:長方形板石に刻まれた尊格不詳の座像。2つありました。写真左上から2番目:線刻の磨崖五輪、写真右中:川勝博士も触れておられる陽刻の磨崖五輪がこちら、どちらもちょっと写真ではわかりづらいですね…。写真左上から3番目:西側洞窟の入口にある可愛い不動明王。写真右下:超レアな阿弥陀・五輪塔二面石仏がこちら。石仏と宝塔を表裏に刻んだものが京都の清涼寺や大徳寺にありますが五輪塔というのはちょっと見ませんね。浄土教と密教のハイブリット状態を体現されておられます。写真左下:麓の広場脇にある石造物たち。中央の名号碑は江戸後期のものですが石工名らしい刻銘もあります。

 

お参りをされていた方にお聞きしたところでは、不動さん(中尊)の耳から滲み出る水は渇いている時とよく出ている時があるらしく、出ている時にその水を体の悪いところにつけると効験があるんだそうです。また、中尊前の寄集め塔の笠石の枘穴に溜まる水にも同様に霊験があるそうです。大岩壁の東側も巨岩が重なりあって下が洞窟状になっています。内部は六~八畳敷くらいの広さがあり、石造物は見当たりませんでしたが護摩を焚いたような痕跡が残っていました。洞窟の下方には斜面を平坦に整地した堂舎の址と思しきテラス面があり、涌水があって水神を祭る小祠があります。手を合わせて磨崖仏を一心に拝まれるお姿に接し感心するとともに恐縮した次第です。今も厚い信仰の対象なんですね。ちなみに中尊は不動さんじゃなくて阿弥陀さんで不動さんは脇におられますよとも申し上げましたがあまりまともに取り合ってもらえませんでした…。信仰心の前にはそんなことは余計なことだったかもしれませんね、失礼しました。


滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その2)

2010-11-13 23:10:27 | その他の石造美術

滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その2)

観音像の向かって右手前に張り出した岩の斜めになった西側壁面に、上端を山形にした縦長方形の浅い彫り沈めがある。長さは目測2mくらいある。24区画の内には刻銘があるのがわかるが肉眼での判読は難しい。川勝博士は「…大乗妙典二聖二天十羅刹女先達…上人…二己酉十月日」と判読され、古くは「応安」の年号もあったとされている。21応安二年は1369年である。それではこれが阿弥陀三尊磨崖仏の造立年かといえばどうもそうではないようで、川勝博士によれば、銘文からこれは大乗妙典、つまり法華経信仰に基づくモニュメント的なものであり、浄土信仰との関連性が希薄であることから、阿弥陀三尊との直接の関係はないだろうとのことである。山形にした上端の形状からすると板碑を模して壁面に刻んだ納経碑的なものかもしれない。阿弥陀三尊の造立年代は、雄偉で巧みな像容表現、蓮華座蓮弁や格狭間の形状など14世紀後半に降るとは認めにくく、鎌倉時代中期を降るものではないと考えられている。小生も同感である。現地の案内看板には応安頃の造立と受けとめられるような表現があるので注意を要する。このように石造物には紀年銘がそのまま造立年代に直結しない場合がある。後刻や偽刻が端的なケースで、たいていは時代相応の形や表現に照らして考えれば明白にそれとわかるが、本例のように複雑な背景を考えなければならない場合もある。在銘の石造物を検討する場合、紀年銘だけを検出してよしとするだけでなく、銘文の内容にも踏み込んで考察するとともに、字体や書き方、全体の構造形式や意匠表現なども含めて総合的に検討する必要がある。そうすることで単に造立年代を知るだけでなく、石造物の造立の背後にある5W1Hにも迫ることができるからである。

それから、勢至菩薩の西側の少し低い位置にある不動明王像を忘れるわけにはいかない。23刻まれる壁面は阿弥陀三尊の刻まれる壁面より深くなって、あたかも別に区画したかのようになっている。総高は2mばかり、顔と体を阿弥陀三尊の方に向け岩座に立つほぼ等身大の線刻の立像である。右肘をくの字に曲げて腰の辺りで手の甲を正面に向けて三鈷柄の宝剣を構え、左手は下にしてやはり手の甲を見せて羂索を掴む腕には力がこもっている。22_2背光の火焔、裳裾や左手の羂索が吹く風になびいている様子がリアルである。体躯のバランスも見事で衣文にも破綻はない。特に面相が優れ、惜しくも口まわりが剥落しているが、大きく見開いた眼の丸い瞳が慧々として威圧感がある。胸元の瓔珞や手足の環釧など細部も表現されている。全体に迫力があり流麗な筆致は絵画的である。線刻の不動明王磨崖仏としては出色の出来映えで川勝博士、清水俊明氏とも絶賛されている。作風は阿弥陀三尊とやや異なるようだが造立時期はあまり隔たりのない鎌倉時代中期のものと考えられている。ここから東方約4kmにある太神山の山頂にある不動寺は智証大師円珍開基の伝承のある天台修験の聖地であり太神山周辺で不動明王信仰が盛んであったらしいことから、造立の背景には円珍系の天台密教との関連が指摘されている。古い不動明王の立像は有名な園城寺黄不動に代表されるように天台円珍系に多い図像であるらしい。この辺りは瀬田川を遡れば琵琶湖、下れば宇治方面に通じ、信楽川を遡れば信楽に達する。大石から南に向かえば宇治田原や和束を経て笠置方面につながる交通の要衝であり、近江、山城、大和の文化が交錯したであろうことは想像に難くない。静かな山間に作風優れた巨大な磨崖仏が残っている背景には、やはりこうした土地柄があることを考えなければならないだろう。(つづく)

 

写真左上、右上:ともに大乗妙典の壁面碑、小生の下手な写真ではどこにあるのかちょっとわかりにくいですね。本文にも書きましたが法華経の納経記念碑を板碑風に壁面に彫りつけたものと思われます。川勝博士によると、二聖は釈迦、多宝の二仏、二天は梵天と帝釈天、十羅刹女は法華経を護持する鬼女だそうです(二聖は薬王、勇施の二菩薩、二天は多聞天、持国天との説もあるようです)。写真左下:不動明王の全景、写真が下手ですが左手の肘から拳にかけて非常に力がこもってる感じが伝わりますでしょうか、カーソルを写真に合わせてクリックされると少し大きく表示されます。写真右下:お顔のアップ、どうですか、この恐ろしげな憤怒の表情、それとこのように倶利伽羅剣の身幅が狭く切先で広がらず平行なのは古い不動明王像に多いらしいです。

巨大で独創的な弥陀三尊の圧倒的な存在感の前に不動明王は脇役に徹しておられますが絵画的で格調高い流麗な表現という点ではこちらが数段上です。かっこいいお不動様です。そもそも「耳垂れ不動」、「岩屋山明王寺跡」という呼称からはこちらが主人公であるべきなんですがね…。


岐阜県 養老郡養老町三神町 多岐神社如法経石

2010-02-28 15:22:18 | その他の石造美術

岐阜県 養老郡養老町三神町 多岐神社如法経石

多岐神社社殿の背後に径約10m弱、高さ約1m程の不整形な塚状の高まりがある。その上に祀られた小祠の中に経塚の標識と考えられる自然石塔婆がある。材質ははっきりしないが硬砂岩と思われ、01高さ約60cm、幅約23cm、奥行き28cmの全体に角の取れた丸い縦長の自然石を特に整形することなくそのまま利用している。上部が山形にみえる比較的平坦な面を正面として造立銘を陰刻している。中央上方に「如法経」と大きく刻み、「□□土佐権守紀明棟/女施主藤原氏/文治五秊(1189年)己酉/八月廿八日乙卯/勧進僧能仁」の造立銘がある。土佐の前にも文字の痕跡が認められるが、石材が欠損しており確認できない。02_2「願主」だろうか?。全体に文字の彫りは浅いが、風化摩滅が少なく残りはよい。また、彫り方が少しぎこちないようにみえる点がかえって古拙な雰囲気を醸し出している。新しいものではないと考えてよさそうである。「如法経」の書体は独特で、年の干支に加え、月日の干支まで記している点は注意したい。西美濃地域では、大垣市を中心に、同じ文治5年銘のよく似た如法経石がこれを含め3点、平安末期の久安4年(1148年)銘のもの1点が知られており、「如法経」の書体、造立銘の書き方などがどれも概ね共通している。如法経とは、定められたやり方(作法、儀礼、つまりマニュアル)に則って造営された経塚に供養された主に法華経をいう。その風習は、平安時代後期、末法思想の浸透に伴って広まった一種の仏教的作善行為とされ、中世を通じて近世まで続いている。この塚状の地形が古墳であるのか経塚であるのか、そしてこの如法経石が当初からの原位置を保っているのか、そのあたりの正確なところはわからない。ただ、延喜式に載る多岐神社は、大塚大社とも称され、中世を通じて地域の信仰を集め、幾多の興廃を経ているものの場所は変わっていないとされている。

参考:川勝政太郎 新版「石造美術」194ページ

      田岡香逸 「近江蔵王の石造文化圏2-濃尾の石造美術-」『民俗文化』205号

     「岐阜県の地名」平凡社日本歴史地名体系21

文治5年の8月といえば、頼朝の奥州攻めが行なわれていた時分にあたります。鎌倉時代の初頭ですね、残された石文銘としては、かなり古い部類ですね。それから旧暦の8月28日は、今の10月9日にあたるようです。なお、同じ文治5年銘で上石津にあったものは、昭和53年頃、指定文化財になって新聞報道されたとたんに盗難にあって行方不明との由です。嘆かわしくもあり憤りを禁じえません。こうした石造物は、身近にあって親しく祖先の信仰や思いを伝えてくれるかけがえのない地域の宝物です。同じものはひとつとしてないのです。資料的な価値ももちろんですが、いつまでもその場所、その地域で大切にしていくことが今に生きる我々が祖先と子孫に対して負う義務だと信じています。好事家の所有欲を満たし、売買して財貨を得るような対象であってはならない。今からでも遅くはありません。隠匿している人は所有権一切を放棄して速やかに現地に返却すべきです。それにしても、こうした盗人、ブローカー、好事家には、必ずや重い仏罰が下るよう願うばかりです、ハイ。


奈良県 山辺郡山添村的野 八幡神社基壇及び石灯籠

2009-07-21 23:11:12 | その他の石造美術

奈良県 山辺郡山添村的野 八幡神社基壇及び石灯籠

布目川沿いに細長い的野集落の南寄り、大きく蛇行する布目川に向かって西から東に細長く伸びる尾根の先端に八幡神社がある。01_2的野は、とり立てて特長のない静かな山間の村といった感じだが、古来、奈良と伊賀、そして都祁・室生方面と笠置方面を結ぶ交通の要衝であったらしく、古い石仏の集中する場所である。02_2県道月ヶ瀬針線の広い新道が尾根を断ち割って通じているが、狭い旧道は尾根裾に沿って大きく回りこんでいる。新道から旧道に入るとすぐに的野の会所がある。ここは光明山医王寺常照院といった寺院の跡で、薬師を本尊とし、隣接する八幡神社の別当寺だったとのこと。この常照院跡には建長5年銘の阿弥陀石仏をはじめ、南北朝頃とされる五輪塔など見るべき石造美術が多い。03これらはまた別の機会に紹介するとして、今回取り上げたいのは八幡神社の基壇である。背後と左側に山の斜面を背負った社殿は、朱の色も鮮やかな真新しいもので、ささやかな社殿には少々不釣合いなほど立派な壇上積の基壇がある。基壇は花崗岩の切石を組み合わせたもので、社殿正面から右手にかけて組まれている。間口約8m、奥行き約4m、現高約115cmを測る。地覆石から1mばかり距離をおいたところにも切石を並べており、ここからが基壇とみることもできる。01_3正面中央には幅約2m余の6段の石階段を設けており、葛石は厚さ約17.5cm、幅約23cm、長さ1m~1.5m程の石材からなり、羽目石はそれぞれ高さ約73cm、幅約90cm程度である。束石は幅約37cm前後であるが、階段左手の束石中央に小さく楷書風の達筆で「貞和五年(1349年)己丑六月日造立之/一結衆敬白」の文字が刻まれている。また、社殿の左右にある四角型石灯籠は笠の様子など明らかに江戸時代のものであるが、向かって右手の灯籠の竿に「暦応二二年(=四年:1340年) 大中臣國長の銘があり(ただし下の「二」の文字の位置がおかしいので暦応二年(1338年)かもしれない)、大中臣國長という人物が石灯籠を寄進したものと考えられる。02_3しかし、灯籠の様式は江戸初期頃と思われ、南北朝初期の紀年銘とは不一致である。清水俊明氏は灯籠を再建した際に、旧灯籠の刻銘を写し刻んだものと推定されている。03_3このような例は、都祁水分神社の永仁銘の江戸期石灯籠にも見られる(都祁水分神社の本物は半壊状態で大阪市内の旧家に死蔵されている由である)。一方、基壇束石の刻銘は、肉眼でも容易に判読できるほど風化摩滅が少ないことから、灯籠と同様に後刻の疑いも完全には払拭できない。ただ、干支を並置するなど、書き方に古い体裁をとっている点や、束石が広くどっしりとした構えに安定感がある点、さらに基壇全体に古色然とした一種の風格がある点などを評価し紀年銘どおり南北朝初め頃のものと考えておきたい。なお、階段の耳石にこうした造立銘を刻む例が、大和では大和郡山市矢田寺(金剛山寺)、桜井市談山神社などに見られるが、束石に刻んだ例はあまり聞かないので珍しいものである。

参考:清水俊明「奈良県史」第7巻石造美術

  平凡社 「奈良県の地名」 日本歴史地名体系30

実は見落しましたが、社殿前の対象の位置にある左側の灯籠には江戸初期の寛永銘があるとのことです。こちらは逆に笠や反花の様式が新し過ぎて年代が一致しません。想像するに暦応の灯籠を寛永期に左右対にして再建し、新造の左側の方だけがその後何らかの原因で破損したため竿を除く主要部分を修補したと考えられないでしょうか。こうした謎をあれこれ考えるのも石造の面白さですね、ハイ。もっとも机上の空論ではしょうがないので、再訪してもっとしっかり観察したうえで、建長銘の石仏などとあわせて近々紹介記事をUPしたいと思います、請うご期待。

写真右上:灯籠の背後に見える束石に貞和の刻銘があります。あと、灯籠をご覧になっておわかりかと思いますが、寛永にしては基礎の反花や中台の様子が新しいように思います。写真右中:こちらが暦応銘ですが、基礎や中台、笠などはむしろ寛永です。写真左下:問題の暦応銘、下側の「二」の位置や大きさが変です。写真右下:大中臣國長なんて古風な名前、きっと寛永頃の名前じゃありませんよね。


京都府 綴喜郡井手町井手 駒岩(左馬)

2009-05-06 01:20:40 | その他の石造美術

京都府 綴喜郡井手町井出 駒岩(左馬)

井手町をほぼ東西に流れる玉川沿いに上流に向かって進む国道321号線を行くと、山道にさしかかって間もなく道沿いに左馬ふれあい公園なる小公園がある。公園の奥、川沿いの谷間に高さ5mはあろうかという巨岩が現れる。もともとはもっと上にあったものが昭和28年の大雨と土砂による災害で流出転落したものという。02すぐ南の国道に上に岩が見えるが、そのあたりにあったものだろうか。この巨岩の南隅の一角のくぼみに小祠が見える。一見したところ本尊らしいものは見あたらないが、岩のくぼみの天井にあたる部分にある馬のレリーフを祭っているのである。01_2もともとこのような天地を逆にしていたわけではなく、垂直に近い壁面に彫られていたはずで、岩ごと転落して現在のような状態になったものを災害後、地元の努力により掘り出されたとのこと。これを左馬(ひだりうま)と称し、女性の芸事・習事の上達に利益があるとされ、江戸時代には既に信仰を集めていたという。後脚の脇に、平安時代後期、保延3年(1137年)の銘があったとの記録があるらしいが、風化摩滅したものか見あたらない。花崗岩の壁面を平らに整形した中に、頭を右に向けた馬の姿を半肉彫りにしたもので、前脚を蹴り上げ後脚を折りたたんだ一瞬を捉えており、躍動感のある逞しい駿馬が描写されている。首の付け根から胸の辺りにかけて斜めに何か彫ってあるように見えるが鞍などの馬具には見えない。頭の先から尾の先までの長さ約135cm、前脚から肩までの高さ約65cm。頭頂部から鼻先まで約32cmで、浮彫りの厚みは約2~4cm程度である。類例のないもので、保延3年銘というのも肯けなくはないが、花崗岩にこれだけ手の込んだレリーフを鮮やかに彫り込むには、かなりの技術の蓄積、手馴れた職人技がなければなしえないと考えるのが自然で、やはり石彫技術が飛躍的に向上したとされる鎌倉時代以降のものと考える説に説得力があると思うがいかがであろうか。何のために作られたのかについても正確なところはわかっていないようだが、神社などに神馬として馬を奉納したり、もしくは絵馬を奉納する風習の中に位置づけられるものではないだろうか。あるいは水を祭ることとの関わりも考えられる。

参考:清水俊明「関西石仏めぐり」

今回は紹介しませんでしたが、駒岩のすぐ下流には磨崖地蔵石仏が、西方すぐ近くの玉津岡神社と近接する地蔵禅院にはみごとな石造層塔の残欠があります。あわせてご覧になられることをお薦めします。さかさまになっているので観察はもとより写真を撮るにもままならないですが、災害で転落してよくぞ残ったものと感心するとともに、このような位置から掘り出された地元の方々の尽力に頭が下がる思いです、ハイ。例によって法量値はコンベクスによる実地略側値ですので多少の誤差はお許しください。