石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その1)

2009-08-29 23:34:19 | 滋賀県

滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その1)

竜王町の北端を東西に通る国道8号線が、中世の東山道、近世の中山道にあたるとされている。鏡は街道沿いの宿場町として古くから栄えた場所である。国道沿いの鏡神社には南北朝頃の社殿や石燈籠が残り、付近には源義経の元服の場所と伝えられている場所がある。01南方には歌枕としても有名な鏡山(標高384.8m)があり、山麓一体に古代の窯跡群が分布することでも知られる。鏡山から北に派生する尾根の先端にあるピークは「星ヶ峰」と呼ばれ、佐々木源氏の一族とされる鏡氏の城跡と伝えられる遺構が残る。01_2この星ヶ峰の東麓、ちょうど最近できた道の駅付近から山腹にかけての西側一体は星宿山西光寺という寺院の跡とされている。西光寺について正確なことはわかっていないが、平安時代の創建の天台寺院で、往時は300坊を数える程の寺勢を誇り、幾度かの焼亡と再興を繰り返した後、元亀年間の兵火によって廃滅したと伝えられている。さて、道の駅西側の小道を登っていくと小堂があり、ここに石造金剛力士像が1体祀られている。西光寺の遺物と考えられている。本来仁王さまは一対のものだがもう1体は行方不明。土砂崩れによって山麓の池に梵鐘とともに沈んでしまったとの伝承があるらしい。閉ざされた戸の格子から覗いた石造仁王像は、花崗岩製と思われ、概ね等身大の厚肉彫で金剛杵を持つ右手を高く掲げた阿形。02_2目鼻の大きいなかなか力のこもった表情で、恐らく室町時代は降らないものと思われる。能勢丑三氏によれば、この仁王像は元は少し南に離れた場所にあったらしく、そこが山門の跡地である可能性を指摘されている。また、吽形のものと思しき枘のある台座もあったとのこと。06さらに小道を上っていくと突き当たりに吹きさらしの覆屋で保護された変形石燈籠が立っている。西光寺の鎮守社とされる八王子神社(赤宮、八柱神社、若宮王子神社とも…)にあったものを保存修理のため平成13年にこの場所に移建された由である。現地は確認していないが八王子神社の社殿は大正末頃に倒壊し廃されたらしく、今は行方不明となった棟札に、天文11年(1542年)と寛永2年(1625年)の再建修理の記録が記されていたという。石燈籠は高さ282.4cm。花崗岩製で基礎から笠まで平面八角。一見すると重制の石幢に見える。03_2真新しい基壇は修理に際して設置されたものと思われる。基礎は各側面輪郭を区画して内を浅く彫り沈めているが羽目部分は素面で格狭間や近江式文様は確認できない。側面上は低い一段を経て上端を複弁反花としその上に八角形の竿受座を設けている。反花は膨らみを持たせた細長く傾斜の緩いもので、各辺の中央に主弁、各コーナーに主弁と遜色ない大きさの間弁をそれぞれ1枚づつ配している。竿は異常に細高く、素面の八角柱状で通常石燈籠にみられるはずの節がない。西側の一面に大きめの字で「応永廿八(1421年)辛丑八月八日願主敬白」と刻んだ銘が確認できる。中台は下端に低い竿受を刻みだし、側面を持たない蓮台式。05丸みをもたせた大ぶりの単弁請花を大きく表現し、花弁の先端近くに山形の線刻を施して弁間には小花を配している。上端は八角形の低い火袋受を中央に置き、その周囲は請花の弁先の形のままにギザギザの凹凸をつけている点は面白い意匠である。火袋は縦3区に区画し、大きい中央区に火口を設けた面と、縦長の長方形に浅く彫り沈めた区画内に蓮華座に立つ半肉彫の立像を配置し、上に火口面と通有の小区画を設けた面を交互に配している。04 火口面の上小区画は縦連子、下小区画内には格狭間を入れている。また、像容面の上の小区画には東側のみ散蓮、残りを花菱文のレリーフで飾っている。像容は頭が大きく稚拙な表現で風化も手伝って尊名の特定は難しい。地蔵菩薩という説もあるが如来像にも見える。この点は後考を俟ちたい。笠は蕨手がなく、全体にあまり背が高くない。軒の軽い反りと突帯のない隅棟部分や素面の笠裏があいまって非常にすっきりとした印象を与える。笠頂部には低い円形の受座を刻みだし別石の請花付宝珠を受けている。請花付宝珠は平面円形である。請花は覆輪付の単弁で小花を挟み上端を弁先にあわせたギザギザの凹凸にしているのは中台と共通する意匠である。請花と宝珠の間には下拡がりの首部を設けている。宝珠は重心が低く整った曲線を描いてスムーズに先端の尖りにつながる。特長をおさらいしておくと、①平面が八角形である点、②竿が異様に高い点、③竿に節がない点、④笠に蕨手がない点などで、特に③、④は石燈籠というよりも重制石幢に多い手法で、石幢の手法を取り入れたあまり例のない特殊な石燈籠といえる。重要文化財指定。(続く)

参考図書は後編にまとめて記載します。写真右上:仁王様です。石造の仁王様は大分県に多いようですが、このあたりでは珍しいものです。というか、この石幢風石燈籠も、後述する「鳥影」宝篋印塔も珍しさでは引けをとりませんね。写真上から2番目:基礎の様子、写真左中:中台と火袋部、写真上から3番目:中台の上端、ギザギザが面白い、写真左下:笠上方の様子、写真右下:請花と宝珠、川勝博士も指摘されるように室町時代にしては出色の出来でここもギザギザになってます。それにしても近江というところは山岳寺院というか山手にある中世の寺院跡とされる場所がたくさんあって、そこには関連しそうな石造物が豊富にある。しかも城跡などがセットになっていて何とも興味の尽きない土地柄です。それらにまつわる史料や伝承が混在して残っている。伝承の類はたいてい後世の怪しい付会が多いんですが、(西光寺にしても最澄創建で嵯峨天皇勅願、往時は300坊云々などははなはだ怪しい…)近江では何というか、まんざらでもないところが多い。そしてそれらの実態が今日でもあまり解き明かされていないわけで、底知れない潜在性に鑑み将来が楽しみであると同時に現時点においては保存保護に一層の配慮が必要だと痛感します、ハイ。


滋賀県 守山市中町 田中大日堂層塔

2009-08-10 22:20:13 | 層塔

滋賀県 守山市中町 田中大日堂層塔

川田町田中の集落の西側にある大日池は近江妙蓮と呼ばれるハスの珍種が咲くことで知られる。近江妙蓮は花托が無く、千枚単位の花弁を持つ驚くべき多弁のハスであり、一茎多頭の花をつける極めて珍しいもの。01藤原鎌足の長男の定恵、あるいは慈覚大師円仁が中国から請来したとの伝承がある。また、近江守護の六角氏から足利将軍家に献上されたとも伝えられ、ご先祖がその六角氏から命じられ代々妙蓮を保護してきた地元の田中家で中世以来守り継がれてきたという。しかし明治期にとうとう咲かなくなり、ハス研究の大家として有名な大賀一郎博士の尽力もあって、江戸時代にここから株分けされた加賀妙蓮を再移植して昭和38年に復活したという。05その後、天然記念物に指定され、資料館が建てられるなど池の周囲は近江妙蓮公園として整備されている。現在田中の集落は川田町にあるが道路を町境にして大日池は隣町の中町に属している。この大日池のほとりに大日堂があり、境内の小さい墓地にいくつかの石造物が見られる。その中で特に目を引くのは石造層塔である。花崗岩製でかなり風化が進んだ印象を受ける。現在の地表面からの高さは約245cm。基礎下端が埋まり、上層部分を失い現在相輪の残欠が載せてある。基礎は4石からなり、田の字状に四分割した構造となっている。基礎の幅は約82.5cm、下端が埋もれ確認できないが現高約17cm。田岡香逸氏の報文によれば下端は不整形でその高さは27.7cmというから現状で10cm程度埋まっていることになる。02側面は各々輪郭を巻いて格狭間を入れているので二区輪郭の外見を呈する。格狭間内は素面。輪郭は束部分のそれぞれ外側が幅3.5cm。内側、つまり接合面側では1.5cmと狭くしている。この束部分の幅の違いは、左右ふたつが重なる内側の束部分の幅と外側束部分の幅がだいたい釣り合うようにした意匠表現と考えられ、4つの基礎石材が寄せ集めではなく当初からのものと判断できる材料になる。基礎を田の字に四分割する構造は珍しいものだが、市内金ヶ森の懸所宝塔や愛荘町金剛輪寺宝塔など大形の石造宝塔に例がある。塔身は幅約42.5cm、高さ約51.5cmとかなり背が高い。各側面は、高さ約38cm下端幅約28.5cmの舟形背光形に彫り沈め、線刻の蓮華座上に坐す四仏の像容を厚肉彫りしている。03像高は約33cm、像容は風化が進み顕教四仏なのか金剛界四仏なのか不詳だが定印の阿弥陀が北面しているのがわかる。笠は軸笠同石式とする通有のもので、現在6層目までが残る。恐らく当初は7重ないし9重であったと推定される。笠の軒幅は初層で約61cm、6層目で約45.5cm。各層とも軒の厚みの隅増しはそれほど顕著ではなく、軒口中央の水平部分が狭く隅に向かう反転部分を広めにして重厚な軒反を示している。笠裏には垂木型は見られない。相輪は残高約25cm、九輪部分上半5輪分と上請花を残すに過ぎない。サイズや風化の程度、石材の質感など違和感は感じられないが、当初からのものか否かは不詳。特異な構造の低い基礎、背の高い大きい塔身、垂木型のない笠などの特長は鎌倉時代中期に遡り得る古様を示す一方、格狭間や塔身像容の蓮弁の形状など細部にはやや時期が降る要素がみられることから、鎌倉時代中期でも末頃、概ね13世紀後半頃の造立と考えたい。このほか、墓地には宝篋印塔の笠、キリークを刻んだ板碑、変形石鳥居とも考えられる謎の石門(仮称)、箱仏、一石五輪塔などが見られる。

参考:田岡香逸「近江守山市と中主町の石造美術-守山市田中と中主町吉川・六条・五条-」『民俗文化』98号

写真上左:層塔の隣に"石門"(仮称)が見えます。これはいったい何でしょうか?パッと見ではけっこう古そうです。写真下左:基礎の田の字構造がわかりますでしょうか?写真下右:キリーク板碑です。室町時代中頃のものと田岡氏は推定されています。なお、田岡報文当時は空風火輪を一石彫成した五輪塔の上半が層塔の頂に載せてあったようですが、今は、かの五輪塔は層塔の傍らに置かれていました。それから近江妙蓮は一見の価値があります。花弁が千枚の単位、四桁ですよ、すごい!普通は二桁です。資料館の解説などを見ましたが、いくらなんでも定恵や円仁というのは怪しい感じですが、室町以降の伝承はそこそこ信憑性があるように思われます。それと古代ハスで有名な流石の大賀博士でした。妙蓮に限らずハスは早朝に咲き昼頃には閉じてしまいます。ぜひ午前中に見に行ってください。午後からノコノコやってきた小生が見たものは閉じたハスか散りかけのハスばかりでお見せできるような写真は撮れませんでした。


滋賀県 野洲市北桜 多聞寺宝篋印塔

2009-08-04 00:58:21 | 宝篋印塔

滋賀県 野洲市北桜 多聞寺宝篋印塔

多聞寺門前に西面する小堂がある。堂内に宝篋印塔が安置されている。基礎から相輪まで揃っており、屋内にあることも手伝ってか比較的風化が少なく保存状態は良好である。01基礎下には板石が敷かれ基壇風になっているが、石材の質感が異なり一具のものではないように思われる。宝篋印塔は白っぽいキメの粗い花崗岩製で、高さ約152cm、基礎幅約上部で49cm、04下部で47.7cm、高さ約36.2cm、側面高約27.6cm。塔身は幅24.3cm、高さ約25.4cm。笠は軒幅約40.8cm、高さ約29.6cm。相輪高さ約60cmとされる。基礎上は複弁反花で、左右隅弁の間に主弁が1枚、主弁の両脇に細長い間弁を挟む。隅弁の弁先には返しがみられ、意匠的にはむくりのあるタイプの反花を志向していると思われる。しかし、全体に彫成が平板で抑揚感に欠け、それだけ退化していると考えられる。基礎側面は各面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配している。格狭間内は素面で、輪郭、格狭間ともに彫りは浅く、格狭間の形状もかなり崩れている。03_2反花上の塔身受座は低く平らなものである。正面右側の束に「大永二年(1522年)□□…(十一月日?)」の刻銘があるとされるが肉眼では確認できない。塔身各面とも阿弥陀如来と思われる種子「キリーク」を浅く陰刻しているがタッチは弱く文字も小さい。正面のみに種子を囲む月輪が見られ、月輪のある面を正面として意識したものと解されている。笠は上6段下2段で、軒が目立って薄い。隅飾は二弧輪郭式で軒と区別して直線的に外傾する。04_3隅飾輪郭は薄く、内側は素面。段形や隅飾の彫りにシャープさを欠く。相輪は伏鉢が円筒形に近く、下請花は複弁八葉で膨らみに欠け、側線が直線的で太い九輪下端との区別にメリハリがない。九輪の彫りは浅く、逓減が強い。所謂「番傘」スタイルに近づいている。上請花は単弁で宝珠はやや大きく、側線が直線的で硬い表現になっており先端の尖りが目立つ。このように各部に退化表現や硬直化が看取され、室町時代後半の典型的なスタイルを示している。05 塔身の種子を本来の顕教ないし密教四仏とせず4面とも浄土信仰を示すキリークとなっている点は珍しく、栗東市出庭従縁寺永正2年銘宝篋印塔(未見)や甲賀市水口町九品寺宝篋印塔、東近江市下羽田光明寺宝篋印塔(2007年2月28日記事参照)など野洲川流域から東近江にかけていくつかの事例が知られ、室町時代中期以降に多く見られる手法のようである。一般的に量産と小型化が進むこの時期にあって、5尺塔とそこそこの規模を有する点、また、基礎から相輪まで揃い、紀年銘を有する点でメルクマルとなる貴重な存在である。市指定文化財。このほか多聞寺境内には鎌倉末期頃の花崗岩製中型宝篋印塔の笠2点、層塔の笠、五輪塔の部材からなる寄せ集め塔が何点か見られほか、門前小堂内の宝篋印塔と同様の白いキメの粗い花崗岩製の一石五輪塔が多数見られる。

参考:田岡香逸「近江野洲町の石造美術(後)―北桜・南桜・竹生―」『民俗文化』103号

文中法量値は田岡氏に拠ります。先の記事では田岡氏に批判的なことを書きましたが、近江の石造美術に関して昭和40年代に精力的に調査され、詳細な報文を多数残された業績は30年以上経てなおその輝きを失っていません。近江の石造美術に関しては、今日でも田岡氏のこの業績を抜きに語れないでしょう。なお、田岡氏の報文にある宝篋印塔残欠の四方仏像容塔身と相輪はその後当該寄せ集め塔から分離されたようで別の所に移されていました。(写真をよく見ていただくと小さく写っています。)ただ短時間の訪問でしたので、よく捜す時間がなく、上反花式の宝篋印塔の基礎は見つけられませんでした。そのうち改めて訪れてもっとじっくり観察したいと思っています。


滋賀県 野洲市北桜 多聞寺宝塔

2009-08-03 01:27:09 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 野洲市北桜 多聞寺宝塔

近江富士、三上山の南東麓、山裾に抱かれるようにして北桜の集落がある。集落のほぼ中央に位置するのが浄土宗不老山多聞寺である。01境内東側、本堂向かって右手の墓地北端、ブロック塀に囲まれた一画に小柄な石造宝塔が立っている。延石を並べて周囲より一段高く区画し、その中に平面方形の低い一石からなる切石の台石基壇を設けているが、この基壇は当初からのものか否かはわからない。02さらに背後に平らな自然石を屏風状に立てかけている。塔本体は基礎から相輪まで揃っており、花崗岩製、高さ約125cm。基礎は幅約38cm、高さ24.5cm。側面は紙面とも薄めの輪郭を巻き内に格狭間を配している。西側正面のみ格狭間内に三茎蓮のレリーフが見られる。中央の茎部分が不自然に膨らみ下端には逆台形がある。はっきりしないがこれは宝瓶を表現したものと思われる。この外の3面は格狭間内素面である。塔身は高さ約34cm、軸部、縁板(框座)部、匂欄部、首部を一石で彫成する。軸部は最大径が高い位置にあり、肩の張った下すぼまりの形状を呈し、正面だけに鳥居型を薄く陽刻している。縁板(框座)部は比較的厚く、匂欄部、首部と径を減じていく。笠は軒幅約36.5cm、高さ約25cm。笠裏に2段の斗拱型を刻み出している。軒口は薄く隅近くで厚みを増しながら反転する。四柱の隅棟は断面凸状の突帯があり露盤下で左右が連結する。笠頂部には幅約14cm、高さ約3.5cmの方形の露盤を設けている。相輪は高さ約40.5cm。伏鉢が円筒状に近く、下請花は複弁八葉で九輪下端との径の差が少なくメリハリがない。九輪の彫りは浅く凹凸がハッキリしない。上請花は風化が進み花弁が明確でないが単弁のように見える。上請花、先端宝珠は全体に平らな形状で側面に直線的な硬さがある。紀年銘などは見られないが田岡香逸氏は肩張の塔身や相輪の硬い感じなどから1335年頃のものと推定されている。全体の規模の小ささ、肩が下がりぎみの格狭間の形状、縁板から首部にかけてのやや野暮ったい感じなども考慮すると、田岡氏の推定よりもなお時期が下る可能性もある。概ね14世紀中葉頃から後半にかけてと考えて大過ないだろう。細部の表現に退化傾向が認められるものの、全体としては各部の均衡のとれた手堅い手馴れた感じの作風で、何より基礎から相輪まで揃っている点は貴重である。

参考:田岡香逸「近江野洲町の石造美術(後)―北桜・南桜・竹生―」『民俗文化』103号

このほか、境内には多数の一石五輪塔に交じって14世紀代の宝篋印塔の笠、五輪塔や層塔の残欠が見られます。また門前の小堂内には大永2年銘の完存する宝篋印塔があります。これらはまた別の機会にご紹介します。

どうでもいいことなんですが、参考にした『民俗文化』103号の田岡氏の報文に「定形式が進んだものとはいえ、なお、よく整備形式を留めているこの塔の構造形式を室町中期も終りに近い大永2年に比定しているのは、言語道断というべきである。」として卯田明氏を批判というより非難されていますが、いくらなんでも「言語道断」というのは言い過ぎだと思います。文章を読んだ人の心象が悪くなって田岡氏が損をするだけではありません。こんなことを言われたら地道に取り組む地域の研究者がやる気をなくして筆を折ってしまいますよ。板碑の権威、服部清道氏も若い頃はそうだったらしいですが、それで板碑の研究がしばらく停滞しまったそうです。むろん井の中の蛙でもダメですが、逆に一将成って万骨枯るようなことでは、いつまでたっても裾野は広がらないと思います、言い方ひとつのことなんですが、ま、余談でした。