石造美術紀行

石造美術の探訪記

刻銘判読と最新のツール(その2)(ひとりごと)

2016-01-20 21:18:43 | ひとりごと

刻銘判読と最新のツール(その2)(ひとりごと)
 それから拓本だけでなく、何とか石に刻まれた見づらい銘文を読めないかということでは、照明があります。もう何年も前になりますが、F澤先生がリモート式のストロボを斜めに当てて石塔の写真撮影されるお手伝いをさせていただく機会がありました。ストロボ持ちの照明さんといったところでしたが、カメラのモニターで確認する画像は陰影がハッキリ出て、刻銘が鮮明にわかりました。これには驚きました。リモート式のストロボフラッシュは石造物の鮮明な写真にはもってこいのツールです。先生いわく、自然光を生かした方向から光を当てるといいとのお話でした。もっともこれはカメラも含め高価な機材で小生にはすぐに手が出ない代物でした。
 それからしばらくして、これも偶々同行させていただいたS川さんが、明るいマグライトで薄暗い小祠の中の石仏を照らして衣文や刻銘を確認されているのを目にしました。光と影のコントラスによって肉眼では判読できないような刻銘や衣文の襞がほの暗い中に実に鮮やかに浮かび上がりました。
 そこで、ふと思いついたのはLEDライト。カメラとリモートフラッシュよりは安価です。LEDならではのムラのない均質な光、これが写真撮影に耐えるだけの高輝度であればコンパクトカメラでもいい写真が撮れるはず…。早速やってみるとなかなかうまくいきました。最近は使う人も増えましたが、小生なりにポイントをいくつか。狭いところでも使うのでなるべくコンパクトであること。あと、ランタイムも重要です。1~2時間で電池がなくなるようでは困ります。それからズーム機能(=フォーカスコントロール機能)があること。ワイドにしたときに月面のように均等に光が当たるものが向いています。いくら明るくても光が均質でないと写真にはいまいちかと思います。輝度は500ルーメン程度あれば十分と思いますが、輝度出力を調節できるものがよりいいです。コスパも重要な要件ですが、最近は数千ルーメンをうたいながら実際にははるかに及ばないような誇大ルーメン値で客を釣る「安かろう悪かろう」の粗悪品がネットでたくさん出回っているので注意が必要でしょう。
 さて、今年は暖冬と言われてもやはり厳冬期、各地で雪の便りが聞かれます。もう何年も前になりますが、雪の吹きすさぶ寒い日に石塔調査を敢行した時でした。横殴りの雪が花崗岩の石塔に当たって刻銘のくぼみに積って白く文字が浮かび上がって見えました。そこで凍える手で雪塊を石塔にこすりつけるとくぼみに雪が入って文字が白く浮かび上がります。読みにくい字が読めるではありませんか。これにはびっくりでした。雪なら解けてなくなるので石の表面保存上の影響も少なそうです。いや雪はけっこう使えました。しかしまぁ、そんな寒い日にあえて石造調査というのもいかがかとは思います…今ではいい思い出ですが寒かった…。
 それにヒントを得て白墨の粉やメリケン粉なども思いつきましたが、たぶんダメです。粒子が細か過ぎてこびりつくととれなくなるおそれがあり、保護保存の観点から適当でないことが予想できるので試してません(よい子はまねしないように)。土やおがくずでも試しましたが逆に粒子が粗くて細かい文字や浅い文字にはダメでした。非常に細かい発砲スチロール粒のような角のとれた軽い素材ならいいかもしれません。理想は、対象の石造物の表面になでつけると刻銘のくぼみに粒子が入り込んで文字が浮かび上がる、判読後はフーッと吹けば飛んでなくなって元通り。自然にも優しいそういう粒子状の素材があればいけると思います。
 いずれにせよ、読めそうで読めない刻銘の判読、石造調査の永遠の課題かもしれません。技術の発達によってもっといい道具や方法がこれからも考え出されることに期待です。

夕暮れ近い河内長野市河合寺東山墓地の十三重層塔初重軸部。LEDライトの光に浮かび上がるかっこいいウーンの種子。みんなでワイワイ楽しい見学でした。(感謝)


刻銘判読と最新のツール(その1)(ひとりごと)

2016-01-19 21:52:09 | ひとりごと

刻銘判読と最新のツール(その1)(ひとりごと)
 古い『史迹と美術』をパラパラと見ていると、昭和22年9月1日発行の183号に載せられた薮田嘉一郎氏(1905~1976)の「妙心寺鐘伝来考」が目にとまりました。冒頭に面白いエピソードが述べられていて思わずニヤリとさせられました。
 薮田氏が知り合いからの依頼で、妙心寺の梵鐘の拓本をとった時のこと、論攷が書かれた昭和22年当時から10年も前の真夏というから昭和12年頃のことと思われ、薮田氏32歳頃のことです。寺務所の許可を得て鐘楼に上り、さぁ採るぞとなって、当時はおそらく最新の拓本ツールだったと思われる某氏(大阪東京のS崎氏か?)監製のチューブ入練墨を用意された薮田氏は、気温が高かったことから内容物の噴出を予期され、念のため斜めに立てかけた古新聞に向けてそっとチューブキャップをひねった瞬間、ここからは原文を抜粋しますが、「シュッという怪音と共にどろどろの墨はロケットの噴射のように勢いよく噴出した。むしろ爆発したといった方がよい。…中略…噴出した墨は正面の新聞紙に衝突して、勢い余って、跳ねかえり、千万の細沫となって、私の全身に降り注いだ…」結果、白服白靴パナマ帽というスタイルの薮田氏は全身が無数の黒い斑点に覆われてしまった。上から下まで白っぽい服装に墨の黒はよく目立ったでしょう。そして思わず顔をなでると、のびのよい墨が掌に広がって…。むろんその手でなでた顔も真っ黒…。しばらく呆然とした後、気を取り直して手早く拓本を終えると、ほうほうの態で逃げ帰ったそうです。たいへんだったのはその帰途で、「人は怪しんでじろじろ眺めるし、穴あらば入りたい思いをした」そうです。そんな苦労を経てゲットした拓本は、依頼者と知り合いに配布し、結局、自分の分はどこかにしまい損ねて行方不明…というオチまでついた話でした。
 ちなみに妙心寺の梵鐘は国宝。「戊戌年四月十三日壬寅収粕屋評造舂米連廣国鋳鐘」の銘があり、戊戌年は文武天皇2年(698年)とされ、今の福岡県で鋳造されたことが知られる我が国在銘最古の梵鐘です。筑紫観世音寺の梵鐘の兄弟鐘で、「徒然草」第220段で兼好法師が「黄鐘調」(ラの音階だそうです)と称えた鐘の音はこの鐘だと言われています。古くから金石文関係の諸書に取り上げられて著名な梵鐘で、今では鐘楼から別室に移されて厳重に保管され、拓本はおろか触ることもままならないのは国宝としては当然で、現在では考えられないような戦前ならではのほのぼの感のあるエピソードです。
 薮田氏が白服白靴パナマ帽というそれなりの服装で臨まれていること、チューブ入りの練墨という最新のツ-ルを準備されている点に小生は注目しました。薮田氏のエピソードから80年近くが経った現在、拓本に重宝な最新のツールというとマイクロファイバー繊維のタオルがあります。洗車用などにDIYショップなどで安く手に入ります。コットンタオルより柔らかく拓本用紙にも優しく、コットンの5倍という吸水力が威力を発揮します。マイクロファイバータオルを押し付けるとあっという間に拓本用紙の水気がとれてタンポ作業に移る時間がかなり節約できます。それからスポンジ。戦前にはなかったであろうと思われ、今日では用途によってさまざまに異なる反発力や吸水性のものがいろいろ出ています。これで叩くと表面の凹凸に用紙が非常によくなじみます。(続く)


古典などに登場する石造(その3)

2016-01-05 00:21:39 | うんちく・小ネタ

古典などに登場する石造(その3)「石仏の妖けたる事」『平仮名本・因果物語』巻六の六

 今回は石仏がばけるというお話。だいたい次のような内容です。京都の中京区、坂本町の牢人が、雨の夜更けに横町の小門(挿絵によれば木戸のような所)を通ると門の鴨居に唐傘がくっついて離れない。引っ張っても動かないのを何とか引きはがして家に帰って見てみると、笠の先端部分が引きちぎられていた。「くやしい、化物に唐傘を取られたと笑われるのは恥ずかしい。もう一度戻ってみよう。」と大小を差して勇んで出かけた。傘が鴨居にくっついた横町の小門のところに来ると、何者ともわからない身の丈九尺(約270㎝)ほどの大入道が牢人の腕を捩じ上げて刀を奪うとかき消すように見えなくなった。刀を取られた牢人は力なく家に帰ったが、その後原因不明の病にかかって30日程寝込んでしまった。取られた大小の刀は翌朝、例の小門の近くの水筒桶の上に十字に重ねて置いてあったという。その後もたびたび付近で怪しいことが起きたという。何かの拍子に水筒桶の下に古い石仏を敷石にしてあるのが発見され、妖怪はこの石仏の仕業だったのかと掘り出して大炊の道場に持って行ったところ、その後は怪しいことは起きなくなったと嶋弥左衛門という人が語ったという。
 この話は高田衛編・校注『江戸怪談集』(下)にあり、高田氏の解説によれば、著者は不詳で、鈴木正三の門人といい、寛文年間以前の刊行とされる『片仮名本・因果物語』に新たに巻四以降の話が付加されたものらしい。師の鈴木正三が蒐集した怪談をまとめたものとされています。ともかく時代設定は江戸初期頃と考えていいと思われます。横町というのが何処かわかりませんが、坂本町も大炊の道場も今の中京区、御所御苑の南、竹屋町通の付近なので、そのあたりかそう遠くないところだろうと思います。
 肝心の石仏に関する記述がまるでないのですが、大きい水桶の敷石になるくらいだから、そこそこの大きさだったのではと思います。九尺ほどの大入道というのがそれを示唆しているように思います。
 京都では今も墓地に立派な古い石仏をちょくちょく見かけます。小さい箱仏のようなのも辻に祀られていたりします。このあたりは京でも御所に近い町中で、石仏があるのは少し不思議な気もしますが、交通の要衝に設けられる木戸のようなものだったとすれば横町の小門というのも謎を解くヒントかもしれません。大炊の道場というのも気になります。いずれにしても、何かいわくありそうな古い石仏が、江戸時代の始め頃には既に人々の記憶から忘れ去られ、水桶の敷石に転用されていたということに注意したいです。嶋弥左衛門も不詳。どうも大阪の陣でも活躍した武士らしい。鈴木正三(15791655)は江戸初期の禅僧。元は大阪の陣で活躍した三河武士で、旗本の立場を捨てて出家し、因果物語のような説話を活用するなどして衆生教化に努めた人物。嶋弥左衛門とは旧知の間柄だったという設定でしょうか。大炊の道場というのは聞名寺で、時宗の念仏道場として著名だったところ。江戸時代中頃の火災で移転し今は左京区東大路仁王門通上ルにあります。境内に千本の石像寺(釘抜き地蔵)のレプリカのような立派な「叡山系石仏」が残されています。鎌倉時代の作とされていますが、ま、まさかこれではないでしょうね…。
高田衛編・校注『江戸怪談集』(下)岩波文庫
川勝政太郎『京都の石造美術』


※聞名寺の石仏
二重円光背に小月輪種子を並べた手法が「叡山系」。面相は穏やかでややしもぶくれ気味。
石像寺の凛とした雰囲気がない。頭部、右手、両手先に補修痕があり、うまく継いでますが後補の可能性も否定しきれないようにも思われます…。
「はて、因果物語?大炊の道場はたしかに今はここじゃが、わしゃなんも知らんよ…」