石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 山辺郡山添村的野 八幡神社基壇及び石灯籠

2009-07-21 23:11:12 | その他の石造美術

奈良県 山辺郡山添村的野 八幡神社基壇及び石灯籠

布目川沿いに細長い的野集落の南寄り、大きく蛇行する布目川に向かって西から東に細長く伸びる尾根の先端に八幡神社がある。01_2的野は、とり立てて特長のない静かな山間の村といった感じだが、古来、奈良と伊賀、そして都祁・室生方面と笠置方面を結ぶ交通の要衝であったらしく、古い石仏の集中する場所である。02_2県道月ヶ瀬針線の広い新道が尾根を断ち割って通じているが、狭い旧道は尾根裾に沿って大きく回りこんでいる。新道から旧道に入るとすぐに的野の会所がある。ここは光明山医王寺常照院といった寺院の跡で、薬師を本尊とし、隣接する八幡神社の別当寺だったとのこと。この常照院跡には建長5年銘の阿弥陀石仏をはじめ、南北朝頃とされる五輪塔など見るべき石造美術が多い。03これらはまた別の機会に紹介するとして、今回取り上げたいのは八幡神社の基壇である。背後と左側に山の斜面を背負った社殿は、朱の色も鮮やかな真新しいもので、ささやかな社殿には少々不釣合いなほど立派な壇上積の基壇がある。基壇は花崗岩の切石を組み合わせたもので、社殿正面から右手にかけて組まれている。間口約8m、奥行き約4m、現高約115cmを測る。地覆石から1mばかり距離をおいたところにも切石を並べており、ここからが基壇とみることもできる。01_3正面中央には幅約2m余の6段の石階段を設けており、葛石は厚さ約17.5cm、幅約23cm、長さ1m~1.5m程の石材からなり、羽目石はそれぞれ高さ約73cm、幅約90cm程度である。束石は幅約37cm前後であるが、階段左手の束石中央に小さく楷書風の達筆で「貞和五年(1349年)己丑六月日造立之/一結衆敬白」の文字が刻まれている。また、社殿の左右にある四角型石灯籠は笠の様子など明らかに江戸時代のものであるが、向かって右手の灯籠の竿に「暦応二二年(=四年:1340年) 大中臣國長の銘があり(ただし下の「二」の文字の位置がおかしいので暦応二年(1338年)かもしれない)、大中臣國長という人物が石灯籠を寄進したものと考えられる。02_3しかし、灯籠の様式は江戸初期頃と思われ、南北朝初期の紀年銘とは不一致である。清水俊明氏は灯籠を再建した際に、旧灯籠の刻銘を写し刻んだものと推定されている。03_3このような例は、都祁水分神社の永仁銘の江戸期石灯籠にも見られる(都祁水分神社の本物は半壊状態で大阪市内の旧家に死蔵されている由である)。一方、基壇束石の刻銘は、肉眼でも容易に判読できるほど風化摩滅が少ないことから、灯籠と同様に後刻の疑いも完全には払拭できない。ただ、干支を並置するなど、書き方に古い体裁をとっている点や、束石が広くどっしりとした構えに安定感がある点、さらに基壇全体に古色然とした一種の風格がある点などを評価し紀年銘どおり南北朝初め頃のものと考えておきたい。なお、階段の耳石にこうした造立銘を刻む例が、大和では大和郡山市矢田寺(金剛山寺)、桜井市談山神社などに見られるが、束石に刻んだ例はあまり聞かないので珍しいものである。

参考:清水俊明「奈良県史」第7巻石造美術

  平凡社 「奈良県の地名」 日本歴史地名体系30

実は見落しましたが、社殿前の対象の位置にある左側の灯籠には江戸初期の寛永銘があるとのことです。こちらは逆に笠や反花の様式が新し過ぎて年代が一致しません。想像するに暦応の灯籠を寛永期に左右対にして再建し、新造の左側の方だけがその後何らかの原因で破損したため竿を除く主要部分を修補したと考えられないでしょうか。こうした謎をあれこれ考えるのも石造の面白さですね、ハイ。もっとも机上の空論ではしょうがないので、再訪してもっとしっかり観察したうえで、建長銘の石仏などとあわせて近々紹介記事をUPしたいと思います、請うご期待。

写真右上:灯籠の背後に見える束石に貞和の刻銘があります。あと、灯籠をご覧になっておわかりかと思いますが、寛永にしては基礎の反花や中台の様子が新しいように思います。写真右中:こちらが暦応銘ですが、基礎や中台、笠などはむしろ寛永です。写真左下:問題の暦応銘、下側の「二」の位置や大きさが変です。写真右下:大中臣國長なんて古風な名前、きっと寛永頃の名前じゃありませんよね。


滋賀県 甲賀市土山町瀬ノ音(蒲生郡日野町鎌掛) 笹子峠種子板碑

2009-07-07 00:41:58 | 板碑

滋賀県 甲賀市土山町瀬ノ音(蒲生郡日野町鎌掛) 笹子峠種子板碑

日野町と旧土山町方面をつなぐ笹子峠の古道、かつての御代参街道も今は行きかう人の途絶えた山道となり、峠の名の由来を推して知ることができるように付近一帯は熊笹に覆われた山林で、まったくひと気のない山深い場所である。01峠を土山側に少し下ると路傍には江戸時代の地蔵石仏があり、緩斜面を平坦に整地した茶屋か何かの跡と思しき場所もある。こうしたかつての街道を偲ぶよすがは笹に埋まって残っている。峠のピークから尾根筋を東に20mばかり登ると、木立の中に忽然とこの種子碑が現れる。古来、郡分石と伝えられてきたもので、峠のある尾根筋が蒲生郡と甲賀郡の境なのであろう。したがって所在地は行政界付近にあって、日野町なのか旧土山町に属するのかよくわからない。最近出版された「近江日野の歴史」では甲賀市としているのでいちおうこれに従うが、そもそも郡分石、つまり牓示石的な意味合いがあるか否かについては不詳とするしかない。02周囲の地面には約15cm角、長さ1m余の延石を方形に組んで区画しているが、これは新しいものである。種子板碑本体は花崗岩製のやや扁平な角柱状で、下にいくほど若干厚みと幅を増す。下端が埋まっており現高約185cmある。田岡香逸氏によると総高は204cmあるというから、20cmばかり下方が埋まっている。平らに整形した正面は北を向いている。正面幅は約33㎝内外、奥行き約26cm程度。先端は幅約22cm、奥行き約19cm、上端は台形にし、額部には張り出しは見られず3段の段形状の条線を刻んだすぐ下に不動明王の種子「カーンマン」を薬研彫している。03_3種子はやや崩れた感じでタッチはあまり強くない。種子のすぐ下の細長い平面左右に2行の長文の刻銘がある。ただし、下端近くでは中央に紀年銘を入れているので3行となる。田岡氏は次のように判読されている。「凡奉尋山伏之□□□如来之教勅三界縁□之主□怨祭□□□也/明応九年(1500年)庚申十一月十三日与□/然則役行者旧例於□□出門□□止其煩可令勘過也仍執達如件」。田岡氏は、完読できないのは遺憾としながら、拾い読みした文字から文意を察するとの前提で、山伏が関所を自由に往来できる旨の執達状の文章を刻んだものではないかと推定されている。むろん風化や欠損もあるが、田岡氏が不明とした文字で肉眼で刻みはよく見える文字も少なくない。04どうやら文字自体が難解なようである。田岡氏の遺志を継ぎ、改めて判読が試みられることに期待したい。さて、日野町の山手には蔵王や熊野の地名が残り、東方の綿向山は修験の山であったと伝えられている。鎌掛(カイガケ)という字名も、山伏が法螺貝を宿の柱に掛け並べたことが由来とする説もある。種子碑の銘文は、この地に残るこうした修験道系の伝承が少なくとも15世紀頃まで遡る可能性があることを示している点で貴重である。さらに注目すべきは、蔵王地内、惜しくも近年ダムに水没した場所に「かったい谷」と称する石切場があったとされることで、地内の寂照寺に残る古式の宝篋印塔の存在や、金峯神社境内付近には未成品と思しき石造物も残ることなどから、蔵王は近江における石造文化の中心地のひとつと目されている。日野町に多数残る中世の石造物、そして伝承などの断片的な事象から山伏、修験道、熊野信仰、勧進、石工、石造物など、連想される興味深い事柄を裏付け、それらを結びつける役割を秘めた物証として、この種子碑の持つ資料的重要性については、田岡氏をはじめ多くの研究者の指摘するところであり、今更いうまでもない。

参考:田岡香逸「近江の石造美術」3

   瀬川欣一「近江 石の文化財」

   日野町史編纂室編「近江 日野の歴史」第5巻文化財編

ひと気のない山林に、明応の昔からずっと黙して佇む種子板碑、板碑の形としては、どちらかというとへんてこな部類に入りますが、忘れ去られた歴史や中世を生きた祖先達の思いを伝える貴重この上ないタイムカプセルです。ちなみに、ここを初めて訪れた時、野生の鹿に遭遇しました。笹をガサガサッと音を立てて鹿は走り去りました。奈良公園はともかく、獣害がとりざたされる最近では珍しくないのかもしれませんが、それ程にひと気のない山深い場所にひっそりと立っています。いつまでもこのままで残したい石造物です、ハイ。写真右上:上部の様子と「カーンマン」です。写真左下:中央右側に「山伏」の文字が見えます。写真右下:背面はこんな感じです。元々は郡分石というよりも、山伏の通行権をうたったモニュメントとして郡境に立てられ、いつしか本来の意味が忘れられ、境だからそこに立てたものが、立っているからそこが境だというふうに意義が逆転したんではないでしょうか。