石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 高島市安曇川町常盤木 三重生神社宝塔

2008-08-25 01:16:48 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市安曇川町常盤木 三重生神社宝塔

常盤木三重生神社社殿背後の玉垣に沿いに立派な石造宝塔がある。土手状にわずかに高くなった場所に直接地面に立つ。白っぽい花崗岩製。表面のざらついた感じは風化によるものだが、湖西から湖北に割合多くみられるきめの粗いこの石材の特徴である。30相輪の上半を欠損し現高約215cm、基礎は西側から南側にかけては1/3程埋まっているが幅約83~85cm、下端がやや不整形で高さは約39~43cmと非常に低く安定感がある。側面は四面とも輪郭を巻き、整った格狭間が輪郭内に大きく配される。27輪郭は束部の幅約10cm、葛部の幅約6cm、地福部の幅は下端が不整形なためはっきりしない。輪郭、格狭間ともに彫りはあまり深くない。格狭間内は平坦に仕上げ装飾文様は見られない。塔身は高さ約69cmで首部と軸部からなる。軸部はやや下がすぼまった円筒形で、正面に幅約3cmの平らな突帯により高さ約46cm、上端幅約37cmの鳥居型を大きく表している。鳥居型といっても上部は鳥居型だが下部に敷居部があり、中央には召し合わせの線があって扉型との折衷意匠である。首部は高さ約16cm、基底部径約38.5cm、上端径約36cmで風化が激しいが素面ではなく匂欄の表現と24思しき凹凸が見られる。笠と塔身首部の間には斗拱部を別石で挟みこんでいる。幅約51cm、高さ約13.5cmで繰形座を天地逆にしたような形状だが下端に高さ約1.5cmの首部受座を円形に削りだしている。笠は軒幅約76~78cm、軒口の厚さ中央で約9cm、隅で約12cm余とあまり厚みを感じさせないが隅近くで力強く反る。四注には隅降棟が見られるが断面の形状は風化で判然としない。適度な屋だるみが軒先に伸びやかさを与えている。 隅降棟の突帯は笠頂部で連結しているが、笠の頂部には露盤は見られず、相輪の最下部に露盤を設けている。例がないわけではないが珍しいつくりである。露盤の幅約25cm、その上に伏鉢と下請花と続き九輪の5輪目までが残る。21_2 請花は風化が激しく単弁・複弁の判別ができない。露盤を含む相輪の残存高は約51cm。なお、すぐ東側に相輪の先端と思しきものが残っている。6輪目以上で、サイズ、石材の質感とも合致している。相輪の先端と見てまず間違いない。高さ約39cm、上請花と宝珠が一体化して見えるが、これは元々くびれが少なく宝珠の重心が低いものであったものが風化のせいでこうなったのであろう。28これをあわせると総高は250cmを超える。細かい相違点はあるが低い基礎、縁板の框座を持たない塔身、高い首部、伸びやかな笠の軒先、全体のフォルムの印象、きめの粗い白い花崗岩を使っている点は三尾里の満願寺跡鶴塚塔や近くのコウセイ寺跡塔に共通する作風で、守山市木浜町福林寺の双塔にも通じる構造形式と意匠と思う。造立時期について、佐野知三郎氏は「鎌倉時代も盛期を過ぎたおだやかな姿で、末期の造立であろう」とされている。小生としては、共通する作風を感じている満願寺跡塔が鎌倉中期、福林寺塔は鎌倉中期末から後期初頭に位置づけられていることから、やはり三重生神社塔も従来言われてきたよりもやや古いものと考えたい。鎌倉中期終わりないし後期でも中期に近い時期、概ね13世紀後半頃の造立と推定するがいかがであろうか。

なお、北に数メートル離れて塔身と相輪を失った宝篋印塔の残欠が残っている。基礎幅約68cm、笠軒幅約64cmで、基礎は輪郭を巻いて格狭間を配し、折損しているが大きい隅飾とかなり分厚い軒、笠上各段の低い特徴的な形状で、鎌倉後期でも古い頃ものと思われ、規模もけっして小さくない。

写真右上:別石の斗拱部、写真左下:傍らにある相輪の先端部、写真右下:宝篋印塔の残欠

参考:佐野知三郎「近江石塔の新資料」(五)『史迹と美術』425号

例によって法量値はコンベクスによる実地略測値ですので、多少の誤差はお許しください。湖西は宝塔の宝庫ですが、よく見ていくとフォルムやデザイン、石材などにさまざまな個性があり、似ているもの似ていないものいろいろあって見飽きません。この三重生神社の宝塔も実にスッキリして美しく、特にお気に入りのひとつです。ちなみに市指定文化財です、ハイ。それにしても、湖西では神社の本殿背後に宝塔があるパターンが多い気がします。


滋賀県 伊香郡西浅井町集福寺 下塩津神社宝塔

2008-08-19 14:11:08 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 伊香郡西浅井町集福寺 下塩津神社宝塔

JR北陸本線近江塩津駅の北方約1km余、鉄道と平行して走る国道8号線を北上し右に折れて高架をくぐる。細長く続く集福寺の集落の一番奥まったところに下塩津神社が鎮座する。31このあたりまで来ると近江でももう北端に近く、すぐ山向うは越前である。鹽土老命と伊邪那岐命・伊邪那美命を祀るこの神社境内西南、社務所裏の山裾に石造宝塔がある。切石を組み合わせた基壇を3段にしつらえた上に基礎を据えている。基壇は当初からのものかどうかは不明。15総花崗岩製で塔高約220cm弱、7尺塔と思われる。基礎幅約66cm、高さ約40cm、基礎側面は3面に輪郭を巻き格狭間を入れ、格狭間内には正面に花瓶の口縁付近から伸びる三茎蓮花、左右に開敷蓮花のレリーフを配している。背面は切り離しの素面のままとしている。輪郭の幅が狭く彫りは比較的深い。格狭間は輪郭内に大きく表現され概ね整った形状を呈するが肩が下がり気味である。塔身は、素面で肩がやや張り下すぼまり気味の円筒形をした軸部、さらに軸部上端の亀腹部にあたる曲面を経て、円盤状に周回する縁板(框座)に続く。首部は2段にして匂欄部と正味の首部に分けている。笠は軒幅約66cm、笠裏に3段を設けており、30上段は軒先に沿って反りを見せることから垂木型を、また中段下段は斗拱部を表現するものであろう。軒口の厚みは顕著でなく、隅に向かって軽快な反りを見せる。笠頂部には高めの露盤をほぼ垂直に削り出し、笠全体に背が高めで屋根の勾配はかなり急で四注の照りむくりが目立つ。四注の隅降棟は断面凸状の突帯とするが、露盤下で連結していない。また、山側背面は隅降棟の突帯の肩の段が見られない。つまり正面観、側面観のみ隅降棟は断面凸状ながら背面観は単なる突帯とし、いわば手を抜いた意匠表現となっている。相輪も完存し、大きい伏鉢に下請花は複弁、九輪を挟み上請花は単弁。九輪は凹凸を丁寧に刻むが逓減が目立つ。宝珠は概ね完好な曲線を描くが欠損している先端の尖りがやや大きい。請花、伏鉢の曲線にはやや硬さが出ている。各部均衡よく、手堅く丁寧なつくりを示す一方で基礎、笠ともに背面は当初から見られる前提で彫成されていない点、照りむくりの目立つ四注と軒口の軽快な感じ、逓減の目立つ九輪、肩の下がった格狭間など細部の特長は、意匠的に退化傾向を示す。無銘ながら恐らく14世紀でも後半にさしかかろうかという頃の造立ではないかと思われる。表面の風化も少なく基礎から相輪まで完存し、湖北でもとりわけ遺存状態良好な石造宝塔の例として貴重な存在といえる。

なお、この宝塔は、この地で最期を遂げたという新田義貞の臣、河野通治らの供養塔との伝承があるようです。(通治は金ヶ崎戦死説や生き延びた説もあるようですが…)現地案内看板によると何故か五輪塔と称されているようですが石造宝塔で五輪塔ではありませんね。探訪時はあいにくの雨、光量不足のもっさりした写真ですいません。右上は基礎正面の三茎蓮花です。法量値はコンベクスの実地略測ですので多少の誤差はご容赦を、ハイ。

参考:滋賀県立長浜文化芸術会館編『湖北地方の石造美術』

   平凡社『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25


滋賀県 米原市池下 三島神社宝塔

2008-08-04 23:43:16 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 米原市池下 三島神社宝塔

旧坂田郡山東町、三島池は四季折々に装いを変える霊峰伊吹の山容を水面に映す景勝の地で水鳥の飛来地としても知られる。02別名比夜叉池。池の西岸の小高い場所に三島神社があり、神社の南側、岸沿いの道路に面して小祀がある。木立の中の斜面に玉垣に囲まれた石造宝塔が祀られている。この宝塔にはひとつの伝説がある。昔、溜まらない池の水を甦らせるために、時の領主佐々木秀義の乳母だった比夜叉御前と呼ばれる女性が自ら進んで人柱となり池の底に生き埋めになったため、以来池の水が枯れることがないといわれている。深夜になると今でも御前といっしょに埋められた機織の音が池の底から聞こえてくるという。宝塔はこの比夜叉御前の供養塔とされている。この付近でよく見かけるキメが荒く表面がざらついた感じの花崗岩製で現高約100cm余。傍らには五輪塔の火輪が置いてある。基礎は幅約35cm、高さ約23cm。01側面四面とも輪郭を巻いて格狭間を配する。格狭間内は素面のようである。塔身は首部と軸部を一石で彫成し、軸部は重心を上に置く肩が張り裾がすぼまった棗形に近い円筒形で、扉型などは見られず、首部とともに素面。笠は幅約34cm、笠裏には一重の斗拱型の段形を有し、軒口は厚く隅に向かって厚みを増しながら力強く反転する。下端に比べ上端の反りが顕著である。四注の隅降棟は表現されておらず、頂部には露盤を削りだしている。相輪は九輪部中ほどまでが残るが請花の弁はハッキリしない。元は4尺塔と思われる。全体に表面の風化が進んでいるがシンプルですっきりした印象を与える。規模が小さく、意匠的には退化と考えられる向きもあるが、格狭間の形状、塔身や笠の軒のフォルムは概ね鎌倉調をとどめている。造立年代については、いまひとつ決め手に欠け、何ともいえないが、あえてというと鎌倉末期頃と考えたいがいかがであろうか。なお、佐野知三郎氏は鎌倉後期の造立と推定されている。

参考:佐野知三郎「近江石塔の新史料」(1) 『史迹と美術』412号

ちなみに、佐々木秀義は、保元・平治の乱頃から鎌倉幕府草創期にかけての頃の人で、宇治川先陣争いで有名な佐々木四郎高綱の父にあたる人物。宝塔の年代をそこまでもっていくのはちょっと無理ですので比夜叉御前の供養塔とするのはやはり伝説の域をでません。しかし、仮に三島池の歴史が中世以前に遡り、宝塔が遠くから移築されたものでないという前提で考えれば、土木工事や農耕に欠かせない水を供給する灌漑用の「池」とぜんぜん無関係とも思えない、何らかの供養行為の所産であった可能性のある石造宝塔が、造立のいきさつが忘れ去られた後世になって佐々木秀義などと付会されて形成された民間伝承なのかな程度に留意しておいてもいいんじゃないかと思います。また、単なる伝説であったとしても、ただそれだけで片付けてしまわないで、領民のために乳母を人柱にせざるをえなかった秀義の苦悩、進んで秀義のために人柱になった御前の心根はいかばかりか…などと思いをはせることができるような心の余裕をもって苔むした石造物と接することできれば、川勝博士のいわれる「奥行きのある石造美術の鑑賞態度」につながるのかなと思います、ハイ。まして夜な夜な池の底から悲運の比夜叉御前が機を織る音がしてくるなんて蒸し暑い真夏の夜にぴったりの話だと思いませんか。カタンコトンカタンコトン…