石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 与謝郡与謝野町岩屋 雲巖寺宝篋印塔

2015-06-15 00:53:10 | 宝篋印塔

京都府 与謝郡与謝野町岩屋 雲巖寺宝篋印塔
 雲巖寺は鎌倉時代頃から戦国時代頃に隆盛を誇った中世寺院で、戦国時代の兵火で退転したとされる。
 その後、江戸時代に雲岩庵として再興されたが、現在はほとんど廃寺状態で、公園として歩道や四阿が整備され、若干の小堂や丘陵上にいくつか平坦になった地形を残すのみである。石塔の残欠や磨崖仏など往時の繁栄を偲ぶわずかなよすがが草木に埋もれている。巨岩がそそり立つ尾根のピーク近くにある見晴らしの良い平坦地に金堂跡と伝えられる礎石が並んだ低い方形壇状の地形があり、その傍らに大きい宝篋印塔が残されている。塔高約330cm。11尺塔で稀に見る巨塔である。総花崗岩製。周縁を自然石で囲んだ径2m余、高さ40cm程の基壇状の高まりがあって、その上に隅を主弁にする複弁反花座を据える。反花座は幅約144cm、高さ約26cm。反花座が見られるのは前面のみで、左右側や後側は欠落し、残欠が傍らに残されている。この反花座は一枚板の石材ではなく、複数の石材を組み合わせ、上端の受座の内側に枠を設けて基礎を取り囲むように受ける複雑な作りになっている。おそらく基礎下は何らかの埋納空間を設けるような構造になっているものと思われる。
 基礎は二石を組み合わせた上に別石の段形を載せる。幅約96.5cm、側面高約47.5cm、四面とも輪郭を巻き、束部の幅約11cm、上下は幅約7cm。輪郭内に幅約65cmの格狭間を配する。別石の基礎上段形は2段、別石段形の下端幅は約77.5cm、上端幅約60.5cmで高さ約18cm。
 塔身は幅約50.5cm、高さ約52cmでやや高さが勝る。塔身側面は四面とも径約38.5cmの月輪とその下方の蓮華座を線刻し、月輪内に金剛界四仏の種子を雄渾に薬研彫りする。

 笠は上6段、下2段。軒と下の段形は同石だが、上6段と四隅の隅飾を別石にする。隅飾は2つだけが残され、軒上にあるのは1つだけで、もう1つは落下して傍らに置いてある。基底部幅約26.5cm、高さ約34.5cm。三弧輪郭付でやや外傾する。輪郭内には径約13.5cmの平板陽刻の円相月輪を置く。基底面には軒上にある枘穴に対応する八の字型の枘がある。珍しい枘の形である。ほかの軒の隅は折損して隅飾りも失われている。笠の軒幅約89.5cm、下段形下端の幅約60.5cm、軒口の厚さ約11.5cm。軒と下段形を合わせた笠石下半部の高さは約32cm。笠石上半部の下端幅は約79cm、上端幅35cm、高さは約48cm。
 相輪は幸い完存し、高さ約130cm。下請花は複弁、上請花は単弁。伏鉢側線にやや直線的なところがあるが、先端宝珠は完好な曲線を示し、九輪の刻み出しも丁重である。
 規模の大きさ、雄偉な塔姿と力強く隙のないシャープな彫整、三弧輪郭付の大きい隅飾、格狭間や反花座や相輪の形状など、鎌倉時代後期の特長を遺憾なく示す。すぐ近くにかつて存在した石灯籠(大正年間には現地にあったというが、その後流出し個人蔵になって現在は京都国立博物館寄託。永仁2年(1294年)の在銘。一部残欠が別に保管されている。)と同時期に作られたとする説もあるが、宝篋印塔は13世紀末よりはやや降る14世紀初め頃の造立と思われる。
 なお、隅飾などの部材を別石とする手法は、誠心院塔や清涼寺塔、二尊院塔や小町寺塔など京都の大型宝篋印塔にしばしば見られることから、京都方面からの影響を指摘する説もある。確かに首肯できる考えである。
 

参考:永濱宇平「丹後岩屋雲巌寺」『史迹と美術』第29号
      川勝政太郎『京都の石造美術』
      日本石造物辞典編集員会編『日本石造物辞典』吉川弘文館
 
川勝博士の『京都の石造美術』を読んで以来、前から来たかった雲巌寺を最近ようやく訪ねました。文中法量値はコンべクスによる現地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。高さ336㎝とする文献が多いようですが、塔高なのか反花座を合わせた総高なのかよくわかりません。すぐ背後に雑木が繁っているので、写真はどうしてもこのアングルになってしまい、他のアングルではいい写真が撮れません。山道を登ってどこだどこだと歩き回っているうちに雑木の陰からヌッと登場。まさに見る者を圧倒する存在感!でっかい宝篋印塔です。町指定文化財とのことですが、造形的にも卓越した優品で、もっともっと価値を喧伝されてもいい立派な宝篋印塔です、ハイ。