石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その3)

2010-11-16 00:10:03 | その他の石造美術

滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その3)

周辺にはいくつか石造物があるので少し紹介しておきたい。阿弥陀如来正面の小祠前に寄集め塔がある。最下にある基礎は宝塔か五輪塔のものだろう。18幅約69.5cm、高さ約38.5cmで下端は不整形。側面は四面とも素面。その上にあるのは宝篋印塔の基礎で幅約45cm、高さ約33.5cm。上2段、各側面は輪郭を巻いて内に格狭間を入れる。15_2南北朝頃のものか。その上は宝塔の笠石か五輪塔の火輪で最下の基礎と一具のものだろう。軒幅約65cm、高さ約39cm。全体に低平で軒の隅増しが少ない形状は古調を示し鎌倉中期に遡る可能性もある。五輪塔の火輪にしては低平に過ぎるが垂木型や降棟、露盤など宝塔の笠に特長的な表現はみられない。頂部の枘穴は径約12cm、深さ約6cm。笠上には小さい五輪塔の水輪が載せてある。また、相輪の残欠(九輪部)が傍らに置いてある。この相輪が寄集め塔のいずれかとセットになるものか否かは不明。

磨崖仏が刻まれた大岩壁の西、20mばかり離れた場所には、長方形板状石材の中央に舟形背光を彫り沈め、右手を胸元に左手を膝上にする印相の尊格不詳の石仏が二基ある。拙い像容表現から室町末~江戸初期頃のものかと思われるが、何故このような長方形の石材に刻まれているのかはよくわからない。13また、その上方の斜面に露出した岩塊壁面には地輪の細高い五輪塔が線刻されている。14高さは約130cm、幅約25cmほど。空輪と風輪の境界に段差があり、風輪以下はある程度フラットになるよう壁面を整形しているかもしれない。陰刻銘があるようだが風化摩滅で肉眼では判読不能。上方は「キャ・カ・ラ・バ・ア」と思われ、下端は二行で日付だろうか「五」「七」などが拾い読みできる。さらにここから数m東側の岩塊壁面にも薄肉彫の五輪塔が刻まれている。これは川勝報文にあるものと思われ、下端が不明瞭ながら高さは約90cm程、幅約19cm。全体は地輪以下の長い形状だが、地輪の下端は沈線で区切り、この地輪下端線から空輪頂部までは約45cmである。各輪には「キャ・カ・ラ・バ・ア」の梵字を陰刻する。地輪の下には不動明王の種子「カーン」が刻まれる。17さらにその下にも陰刻銘が認められるが風化摩滅により不詳。川勝博士は銘文の最後の方に「…廿七日」と読めるとされており、この部分は肉眼でも何とか確認できる。鎌倉末期頃のものと推定されているがもう少し新しいかもしれない。線刻と薄肉彫の違いはあるがいずれも磨崖五輪塔婆とでもいうべきもので、先の大乗妙典の壁面碑によく似た性質のものであろうか。その東方は磨崖仏のある大岸壁の西端にあたり、巨岩が重なり合って洞窟状になり入口に不動明王の石仏が立っている。花崗岩製。11高さ約67cm、幅約38cmの縦長の自然石に像高は約48cmの立像を厚肉彫する。右手に宝剣、左手に羂索を執る。表現的には稚拙で不動明王本来の威圧感はなく愛嬌のある表情が印象に残る。室町時代末頃のものであろう。

さらに、参道途中にごく新しい地蔵菩薩と並んで阿弥陀如来の石仏が祀られている。高さ約80cm、下端の幅約40cmで上方を丸く整形した縦長の花崗岩の正面に単弁蓮華座に座す像高約50cmの定印を結ぶ阿弥陀如来を厚肉彫したもので、線刻二重円光背が認められる。19向かって左側の光背外縁部が少し欠損し面相はほとんど摩滅しているが衣文表現や胸元の肉取りなど、小品ながらなかなか凝っている。注目すべきは背面に五輪塔のレリーフがある点で、二面石仏というべき非常に珍しいものである。背面は石積みとの隙間が狭く見づらいが、五輪塔の形状はそれほど古いものではないようで、室町時代前半頃のものだろうか。これも川勝報文にある。麓の川沿いにある漁協の建物の裏にも石造物が集積されている。中央の名号碑は弥陀三尊の種子を上部に、六字名号すなわち「南無阿弥陀仏」を中央に刻む。江戸時代後期の享和2年銘。そのほか室町時代の小型石仏に交じり南北朝頃の宝篋印塔の基礎と塔身が目を引く。なお、川勝博士の報文には信楽川沿いに高さ4尺の完全な五輪塔があったとの記述があるが現在は見当たらない。磨崖仏以外にもこれだけの石造物が見られることから、この場所が中世から近世にかけてかなりの寺勢のある寺院の跡であることはやはり疑いないだろう。

 

参考:川勝政太郎 「近江富川磨崖仏小考」『史迹と美術』第147号

   清水俊明 『近江の石仏』

   『新 大津市史』別巻

 

写真左上:中尊前の寄集め塔。笠と基礎は一具と思われます。何となくですが宝塔のような気がします。写真左上:長方形板石に刻まれた尊格不詳の座像。2つありました。写真左上から2番目:線刻の磨崖五輪、写真右中:川勝博士も触れておられる陽刻の磨崖五輪がこちら、どちらもちょっと写真ではわかりづらいですね…。写真左上から3番目:西側洞窟の入口にある可愛い不動明王。写真右下:超レアな阿弥陀・五輪塔二面石仏がこちら。石仏と宝塔を表裏に刻んだものが京都の清涼寺や大徳寺にありますが五輪塔というのはちょっと見ませんね。浄土教と密教のハイブリット状態を体現されておられます。写真左下:麓の広場脇にある石造物たち。中央の名号碑は江戸後期のものですが石工名らしい刻銘もあります。

 

お参りをされていた方にお聞きしたところでは、不動さん(中尊)の耳から滲み出る水は渇いている時とよく出ている時があるらしく、出ている時にその水を体の悪いところにつけると効験があるんだそうです。また、中尊前の寄集め塔の笠石の枘穴に溜まる水にも同様に霊験があるそうです。大岩壁の東側も巨岩が重なりあって下が洞窟状になっています。内部は六~八畳敷くらいの広さがあり、石造物は見当たりませんでしたが護摩を焚いたような痕跡が残っていました。洞窟の下方には斜面を平坦に整地した堂舎の址と思しきテラス面があり、涌水があって水神を祭る小祠があります。手を合わせて磨崖仏を一心に拝まれるお姿に接し感心するとともに恐縮した次第です。今も厚い信仰の対象なんですね。ちなみに中尊は不動さんじゃなくて阿弥陀さんで不動さんは脇におられますよとも申し上げましたがあまりまともに取り合ってもらえませんでした…。信仰心の前にはそんなことは余計なことだったかもしれませんね、失礼しました。


滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その2)

2010-11-13 23:10:27 | その他の石造美術

滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その2)

観音像の向かって右手前に張り出した岩の斜めになった西側壁面に、上端を山形にした縦長方形の浅い彫り沈めがある。長さは目測2mくらいある。24区画の内には刻銘があるのがわかるが肉眼での判読は難しい。川勝博士は「…大乗妙典二聖二天十羅刹女先達…上人…二己酉十月日」と判読され、古くは「応安」の年号もあったとされている。21応安二年は1369年である。それではこれが阿弥陀三尊磨崖仏の造立年かといえばどうもそうではないようで、川勝博士によれば、銘文からこれは大乗妙典、つまり法華経信仰に基づくモニュメント的なものであり、浄土信仰との関連性が希薄であることから、阿弥陀三尊との直接の関係はないだろうとのことである。山形にした上端の形状からすると板碑を模して壁面に刻んだ納経碑的なものかもしれない。阿弥陀三尊の造立年代は、雄偉で巧みな像容表現、蓮華座蓮弁や格狭間の形状など14世紀後半に降るとは認めにくく、鎌倉時代中期を降るものではないと考えられている。小生も同感である。現地の案内看板には応安頃の造立と受けとめられるような表現があるので注意を要する。このように石造物には紀年銘がそのまま造立年代に直結しない場合がある。後刻や偽刻が端的なケースで、たいていは時代相応の形や表現に照らして考えれば明白にそれとわかるが、本例のように複雑な背景を考えなければならない場合もある。在銘の石造物を検討する場合、紀年銘だけを検出してよしとするだけでなく、銘文の内容にも踏み込んで考察するとともに、字体や書き方、全体の構造形式や意匠表現なども含めて総合的に検討する必要がある。そうすることで単に造立年代を知るだけでなく、石造物の造立の背後にある5W1Hにも迫ることができるからである。

それから、勢至菩薩の西側の少し低い位置にある不動明王像を忘れるわけにはいかない。23刻まれる壁面は阿弥陀三尊の刻まれる壁面より深くなって、あたかも別に区画したかのようになっている。総高は2mばかり、顔と体を阿弥陀三尊の方に向け岩座に立つほぼ等身大の線刻の立像である。右肘をくの字に曲げて腰の辺りで手の甲を正面に向けて三鈷柄の宝剣を構え、左手は下にしてやはり手の甲を見せて羂索を掴む腕には力がこもっている。22_2背光の火焔、裳裾や左手の羂索が吹く風になびいている様子がリアルである。体躯のバランスも見事で衣文にも破綻はない。特に面相が優れ、惜しくも口まわりが剥落しているが、大きく見開いた眼の丸い瞳が慧々として威圧感がある。胸元の瓔珞や手足の環釧など細部も表現されている。全体に迫力があり流麗な筆致は絵画的である。線刻の不動明王磨崖仏としては出色の出来映えで川勝博士、清水俊明氏とも絶賛されている。作風は阿弥陀三尊とやや異なるようだが造立時期はあまり隔たりのない鎌倉時代中期のものと考えられている。ここから東方約4kmにある太神山の山頂にある不動寺は智証大師円珍開基の伝承のある天台修験の聖地であり太神山周辺で不動明王信仰が盛んであったらしいことから、造立の背景には円珍系の天台密教との関連が指摘されている。古い不動明王の立像は有名な園城寺黄不動に代表されるように天台円珍系に多い図像であるらしい。この辺りは瀬田川を遡れば琵琶湖、下れば宇治方面に通じ、信楽川を遡れば信楽に達する。大石から南に向かえば宇治田原や和束を経て笠置方面につながる交通の要衝であり、近江、山城、大和の文化が交錯したであろうことは想像に難くない。静かな山間に作風優れた巨大な磨崖仏が残っている背景には、やはりこうした土地柄があることを考えなければならないだろう。(つづく)

 

写真左上、右上:ともに大乗妙典の壁面碑、小生の下手な写真ではどこにあるのかちょっとわかりにくいですね。本文にも書きましたが法華経の納経記念碑を板碑風に壁面に彫りつけたものと思われます。川勝博士によると、二聖は釈迦、多宝の二仏、二天は梵天と帝釈天、十羅刹女は法華経を護持する鬼女だそうです(二聖は薬王、勇施の二菩薩、二天は多聞天、持国天との説もあるようです)。写真左下:不動明王の全景、写真が下手ですが左手の肘から拳にかけて非常に力がこもってる感じが伝わりますでしょうか、カーソルを写真に合わせてクリックされると少し大きく表示されます。写真右下:お顔のアップ、どうですか、この恐ろしげな憤怒の表情、それとこのように倶利伽羅剣の身幅が狭く切先で広がらず平行なのは古い不動明王像に多いらしいです。

巨大で独創的な弥陀三尊の圧倒的な存在感の前に不動明王は脇役に徹しておられますが絵画的で格調高い流麗な表現という点ではこちらが数段上です。かっこいいお不動様です。そもそも「耳垂れ不動」、「岩屋山明王寺跡」という呼称からはこちらが主人公であるべきなんですがね…。


滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その1)

2010-11-07 01:47:33 | 滋賀県

滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その1)

琵琶湖唯一のアウトレットである瀬田川が南下し大石で西向きに流れを変える。その手前に架かる鹿跳橋を渡り国道422号を信楽川に沿って遡ること3km余り、標高432.9mの笹間ヶ岳の南約1km、大石富川町の西端で渓流が大きく北向きに流れを変える所、案内看板に従って川側に下り、すぐに架かっている岩屋不動橋を北岸に渡る。03_2漁協の建物のある広場を経て山道を10分ほど登っていくと高さ25mはあろうかと思われる花崗岩の巨岩が露呈する場所に着く。01巨岩は南面して垂直に切り立った壁面となり、総高6.3m余の阿弥陀如来坐像を中心に観音、勢至両菩薩の立像、西側に少し離れて不動明王の立像が刻まれている。この磨崖仏は古く戦前に佐々木利三氏や川勝政太郎博士が紹介され広く知られるようになったものである。ここに岩屋山明王寺という寺院があったと伝えられている。詳細は不明だが現地には不自然なテラス面がところどころにあって寺院跡というのも首肯できる。02中央の阿弥陀如来像の像高は目測でおよそ4m、頭光円を浅く彫り沈め、さらに仏身のアウトラインを約15~20cmの幅で外から内に向かうに従って深くなるように彫り沈めて像を浮き立たせ、像容本体が平板陽刻の板彫風にする特異な手法をとっている。像の向かって右側壁面は像容面より少し高くなって段差があり、段差面にも鑿痕が認められることから、像容面が平らになるよう下処理されていると考えられる。06平板ながら折り重なる衣文の襞が下向きに急角度に鎬立てるように段を設けているので影が下側にでき見上げる者にとって視認しやすく配慮されているようである。螺髪は表現されず、側頭部が張って肉髻が大きい。髪際線が真っすぐでなく中央を低くした曲線を描くのは宋風の影響を受けた鎌倉時代以降の特長とされる。眉間の穴は白毫であるいは玉石が嵌め込まれいたかもしれない。つりあがった切れ長の両眼とあぐらをかいた大きい鼻も平板陽刻で、下唇が薄く、窄ませているかのようにも見える口は小さい。04よく見ると口元と顎には髭がある。お世辞にも眉目秀麗とは言い難い面貌であるが、その表情に独特の厳しさを漂わせている。左眼(向かって右側の眼)中央には瞳状のくぼみがあるが右眼(向かって左側)には同様のものは確認できないのでウインクをしているようかのようである。05しかしよく見ると右眼にも下瞼に接して瞳のような浅い彫り沈めらしいものがある。恐らく左眼の瞳と見えるのは自然にできた欠けであって本来の形をよく残しているのは右眼と考えるべきかもしれない。首はやや細く三道が鮮やかで、撫肩だが肘が張って身幅は広い。定印を結ぶ手先も巧みに表現され、結跏趺坐する体躯は全体に破綻なくよくまとまっている。像下には線刻と平板な薄肉彫りを組み合わせ雄大な単弁蓮華座を描く。各蓮弁の曲線は柔らかくふくよかで写実性を兼ね備え優れた表現といえる。さらに蓮華座の下には、幅約135cm、高さ約39cmの横長な長方形の彫り沈めを2つ並べ、それぞれ内に格狭間を配してあたかも二区輪郭の須弥壇側面のようにしている。07長方形区画は外側にだけ幅10cm弱の一段を設けている。横長の長方形区画に制約されるために格狭間は自ずと低平にせざるを得ないが花頭中央をあまり広くとらず外側の弧をやや大きくしている。肩は下がらず側線にも概ね硬さはないが下半が若干たわんだようになり、脚間は広くとっている。向かって左の頭上から肩口を通り膝下中央に向かって大きいクラックがあり右耳付近からは水が滲み出て石肌が変色している。このためか俗に「耳垂れ不動」とか「耳不動」などと呼ばれ、耳の病に効験があるとされる。09この磨崖仏の前の錐を持ち帰り自分の耳を突くまねをすると効験があるといわれている。そしてお礼参りの際に新しい錐を納めるのだそうである。中尊の前には小祠があり香華が絶えない様子で周囲も掃き清められている。ただ、この小祠は最近新調設置されたようで、それに隠れて中尊の蓮華座以下を正面から見ることができなくなったのは残念である。もっとも中尊は阿弥陀如来で不動明王ではない。両脇侍は通常の薄肉彫りで蓮華座と頭光は線刻である。また、像容面を平らにする下地処理は基本的に行なわず、壁面の凹凸にはおかまいなしに彫り込んでいる点は中尊と異なる。いずれも踏み割りの蓮華座に立ち、顔と体を少し中尊の方に向け、外側の手を胸の辺りに差し上げて蓮華を執り、内側の手は下に垂らして掌を見せている。大きさや手足の位置、持物印相などほとんど左右対称に作られ配されているが、向かって右の観音菩薩は宝冠上に化仏、左の勢至菩薩は水瓶を飾っている。観音菩薩が蓮台を捧げ、勢至菩薩は合掌する形が多い阿弥陀三尊であるが、ここの脇侍はそれと異なる。ただ、こうした形も古い事例に見受けられるとのことである。像高は中尊とほぼ同じくらいなので4m近くあると思われる。宝冠、瓔珞などの細部に抜かりはなく足指の爪まできちんと表現されている。また、衣文にも形式化したようなところは見受けられない。体躯は雄偉でバランスもよく、むしろ小さい頭に比して下半身がやや大きいように感じられる。特に観音菩薩の表情には見るべきものがある。(つづく)

 

 

写真右上から2番目:中尊の蓮華座と格狭間です、格狭間ははっきり言っていまひとつかなぁ…逆に蓮華座は抜群です、写真右上から3番目:踏み割り蓮華座に立つ観音菩薩、写真左上から3番目:観音菩薩のお顔がいいです、写真左一番下:勢至菩薩はちょっと表情が硬い。写真右一番下:口元と顎に注目、S字状に薄い帯状のものがあります。西陽の斜光線で判明、おひげがあったんですね。どことなくお顔に宋風の趣きがあるように感じます。

 

 これもいまさら小生がとやかくいうようなものではない著名な石造美術ですが、前に磨崖仏の話が出たついでにご登場いただくことにしました。笠置寺や大野寺のように流麗典雅なものではありませんが、ゴツゴツした岩肌によくマッチする磨崖仏ならではの味わいがあります。静かな山間にある割りに車なら交通の便がよくお薦めできる一級ポイントです。続編にも請うご期待。参考図書類は続編でまとめて掲載します。なお、法量について一説に中尊1丈2尺(約3.6m)、両脇侍1丈3尺(約3.9m)とあるそうです。もっと大きく見えますが…ともかく像自体が高い位置にあるのでコンベクスで測るのは到底ムリです。梯子が要りますね。