石造美術紀行

石造美術の探訪記

灯台下暗し

2009-02-28 02:16:37 | ひとりごと

灯台下暗し(ひとりごとです)

日頃から有益な情報をもらったり助言をしてくれる知人と話していて、そうそう、そうだよねぇって話しが合って首肯することがありました。いろいろな地域の石造物を見て歩いているとだんだんと理解されてくることとして、石造物には地域地域の特色が割合強く出るんだなぁということ。確かにそうです。例えば種別。宝塔の割合が多い近江、阿弥陀の石仏が多い京都、五輪塔や層塔が多い大和などというように地域性が比較的ハッキリ出ます。それから使用されている石材。流紋岩や溶結凝灰岩が多い地域、花崗岩が多い地域、たいていは地元産の石材を使うことが多いのですが、搬入品と思しきものが混ざったりする地域もあります。さらに格狭間や蓮華座などといった細部の意匠表現にしても地域によって違いが出ます。もちろん例外もあれば、同じ地域内にも濃淡があったり、微妙に傾向が異なることもあります。同じ地域であっても、経年変化というか、傾向や嗜好が変化しながら石造物の属性となって重層的に重なり合うように、現にそこに表れている。一事が万事でこの地域はこうだと一概に言えないところが奥深いところであり、また面白いところでもあるわけです。それから、こうした地域の特性というものは、その地域ばかり見ていると気付きにくいということ。そこにいたらあたり前過ぎて気付かない、つまり灯台下暗しというやつです。なるほどそのとおりだと思います。さらにこれは、それぞれの地域に残された石造物の種別、意匠表現、構造形式、石材などの個々の属性だけのことにとどまらず、石造物の有る無しという最も根源的な部分も含めていえることだと思います。中世に遡るであろう石塔の残欠や箱仏が集落内の辻やお堂の脇などいたるところにゴロゴロしているような地域では、案外に省みられることがない。それがいかにすごいことなのか正しく理解されていないように思います。逆にそのような古い石造物が稀な地域では、例え一残欠であっても価値が認められているというようなこともあります。まずはこういうことに気付くことが第一歩だと思います。それからさらに進んで、石造物の地域性を理解していくうえで、フィールドとする地域だけでなく、いろんな地域を見ておく必要があると思います。少なくとも自分の守備範囲と考えるフィールドに隣接する地域はなるべく見ておくと何らかの気付きがあると思います。地域外に通じる街道に峠があれば、峠の一方だけでなく両側を見ておくときっと面白いと思います。それから、さまざまな種別の石造物を作るのはどれも石工だということを考えるとき、石造物の種別にかかわらず、そこにある通有の特性というものを理解することが大切だというような趣旨のことを川勝政太郎博士は説かれています。だから、あまり扱う石造物の種別を限定し過ぎない幅広い視野を持つことが大事だと思います。これからも、こうしたことに気をつけて虚心坦懐に、時に渇いたクールな眼で、時に祖先の心に思いを致す余裕のある視点で石造物を見つめ直していければと改めて感じた次第です。

どうも最近ひとりごとが多いですね。すいませんです、ハイ。


京都府 京都市北区 紫野十二坊町 上品蓮台寺五輪塔

2009-02-18 11:47:34 | 五輪塔

京都府 京都市北区 紫野十二坊町 上品蓮台寺五輪塔

千本通りに面した通称十二坊、真言宗智山派上品蓮台寺。境内の北端に近い場所、子院のひとつ真言院の北側の墓地中央に玉垣に囲まれた立派な五輪塔がある。03_2緻密な良質の花崗岩製で塔高約220余cm、地輪の幅は約80余cmに達する。05二重の切石基壇は当初からのものかどうかわからない。反花座はない。地輪の側面高は約55cmと低すぎず高すぎずといったところ。水輪は整った曲線を示し、その最大径は若干上にあってやや裾すぼまり気味であるが申し分ない。火輪は軒口厚く、隅にいくに従って厚みを増しながら力強く反転する。火輪の屋根の勾配は比較的急で、四注の屋だるみは軒反にあわせて下方で反り上がる感じである。01_2火輪頂部の幅はやや広い。大きめの空風輪はどっしりとして全体のフォルムを引き締めている。鉢形の風輪と空輪先端の尖りまでよく残る完好な宝珠形の空輪の描く曲線はスムーズで硬直化したようなところは微塵も感じさせない。空風輪のくびれも適度で少しも脆弱なところはない。梵字や刻銘はみられず全くの素面である。非のうちどころのない典型的な鎌倉後期スタイルの大形五輪塔で、13世紀終りから14世紀初頭頃の造立とみてまず間違いないだろう。保存状態良好で風化が少ない点も好感が持てる。エッジのきいたシャープな仕上がり、均整のとれた隙のない佇まいは、律宗系の五輪塔によくみられるスタイルである。06間違いなく京都でも最も美しい五輪塔のひとつに数えられよう。千本通りから船岡山にかけては古来葬送の地であったとされており、今日も寺院や墓地が多く見られる。ここの墓地も広大で、いたるところに中世に遡る石仏や小さい五輪塔などが見られる。墓地の一角に無縁の石仏などが集積されており、その質と量には目を見張るものがある。ほとんどが阿弥陀如来で、大半は室町時代以降のものと思われる小さいものだが、ちらほらと混じるやや大きめの石仏の中には、彫りが深く体躯のバランスもよいものが少なくなく、これらは鎌倉時代に遡る可能性を秘めている。川勝博士がおっしゃられたように、京都は阿弥陀の石仏が相対的に多い土地柄であるということが実感される。

参考:元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』平成6年度調査概要報告 51ページ

      川勝政太郎 『京都の石造美術』

 なお、後から知ったのですが、同寺には平安時代藤原期の仏師として名高いかの「定朝」の墓があるとのこと。初めからわかってればねぇ…またしても不勉強が露呈しました、トホホ…。近くの釘抜き地蔵石像寺の見事な石仏は見てきましたが(別途紹介します)、千本閻魔堂引接寺の至徳銘の変わった層塔は解体修理中で見れなかったので、あわせて改めて見学の機会を持ちたいと思います、ハイ。


滋賀県 湖南市針 飯道神社宝篋印塔

2009-02-18 01:23:11 | 宝篋印塔

滋賀県 湖南市針 飯道神社宝篋印塔

JR草津線甲西駅の南約500m、家棟川の西の高台に飯道神社がある。元はもっと北側の野洲川に近い平地に鎮座していたようで、現在の湖南市役所東庁舎(旧甲西町役場)付近にあったらしい。明治の初め頃、家棟川の改修にともない現在の場所に移転したと伝えられる。03社殿向かって右手(北東側)に宝篋印塔がある。基壇や台座は見られず、直接地面に置かれている。01昭和50年の池内順一郎氏の報文によれば、この石塔は水害後に出現し地元の人により現在の場所に据えられたとのことである。ただしそれがいつのことでどこから出たのかなど不詳であるらしい。あるいは神社とともに旧社地付近から移された可能性もある。残念ながら塔身を欠くがそれ以外の基礎、笠、相輪が残っている。基礎下端が若干埋まり、塔身を欠いて現高約220cmと大きい。元は9尺塔であろう。基礎は幅約80cm、下端が埋まっているが高さ56cm以上、側面高は42cm以上ある。笠は軒幅約76.5cm、高さ約57cm。相輪の高さは約107cmある。花崗岩製で風化により全体に表面の荒れが目立つが亡失の塔身を除けば大きい欠損もなく概ね良好な遺存状態である。基礎は上2段、各側面とも壇上積式で、羽目には整った大振りな格狭間を入れている。格狭間の彫りは割合深く、内面中央をやや膨らませている。南側正面のみ格狭間内に開敷蓮花のレリーフを配している。西側面右左の束にそれぞれ「嘉元二二/十一月日」、北側側面には「願主孝子/奉造立之」の刻銘があるとされる。すなわち嘉元4年(1306年)の造立であることが知られる。04嘉元4年は翌12月の14日に徳治元年に改元されている。北面の文字は確認しづらいが、西面右束部の嘉元の文字は肉眼でも判読できる。孝子とは親の供養をする場合の子どもの一人称表現でいわば定例句である。笠は上6段下2段で、隅飾は軒と区別して若干外傾ぎみに立ち上がる、比較的背が高く大ぶりの3弧輪郭式。輪郭の幅は狭く、各面とも輪郭内に蓮華座上の月輪を線刻で表し、月輪内には梵字を陰刻する。梵字は肉眼による観察では光線の加減もあってハッキリしないが、いずれも金剛界大日如来の種子バンとみられる。相輪は大きく立派なもので、伏鉢が笠上最上段から少しはみ出し、やや石の色調、質感が笠以下と異なることから別物の可能性を完全には払拭しきれないが、一具のものとしてもそれほど不自然さは感じない。02_2伏鉢、上下請花、先端宝珠の曲線はスムーズで直線的なところは見受けられない。九輪の逓減が少ないのは古様を示す。風化の進行で蓮弁が摩滅して非常に確認しづらいが下請花は複弁、上請花は単弁のように見える。かえすがえすも塔身の亡失が惜しまれるが、基礎段形上端、笠裏下端の幅がそれぞれ約52cmであることから、亡失の塔身幅は概ね46cm前後と推定される。内部に種子入りの蓮華座月輪を配した三弧輪郭付隅飾や壇上積式を採用した基礎の豪奢な意匠表現、規模が大きく奔放感のある力強いフォルム、隅飾の裏側まで隙なくいきとどき、各段形など要所に見せるシャープな彫成など総じて見事な出来映えを示す。さらに紀年銘があることも貴重。なお、池内氏によれば、壇上積式の基礎の分布は日野町を中心に旧蒲生郡に多く旧甲賀郡では旧土山町を除き少ないとされ、一方、田岡香逸氏は近江に事例が多い三弧隅飾は湖東地域に偏重する傾向で、この地域では割合珍しいとされている。市指定文化財。

参考:池内順一郎『近江の石造遺品』(下)343、381~382ページ

      田岡香逸「近江甲賀郡の石造美術」(3)―最勝寺・飯道神社―『民俗文化』66号

写真下左:立派な相輪、写真右:壇上積式の基礎と格狭間、格狭間内には開敷蓮花のレリーフがあります。塔身がない今はちょっとおまぬけにも映る宝篋印塔。塔身はいったいどこへいったのでしょうか。今もどこかに眠っているのでしょうか。それとも売り払われて手水鉢などに転用されてしまったのでしょうか。いつの日か発見されて完全な姿になることを祈りたいと思います、ハイ。それにしても痴漢に注意なんて看板があるような静かな神社の境内でひとり、塔身が揃った時の勇姿を想像しながら宝篋印塔のまわりをうろうろしてる小生は傍目にも怪しい奴ですよね。


伊行末と川勝博士

2009-02-09 20:20:03 | ひとりごと

伊行末と川勝博士(ひとりごとです)

川勝政太郎博士は昭和14年8月25日(旧暦7月11日)、伊行末忌を催されています(もっともこの当時はまだ博士号を取得されていませんが…)。行末の嫡男行吉が建てた奈良般若寺の笠塔婆の銘文から、正元2年(1260年=文応元年)7月11日に亡くなったとされる伊行末忌の集まりを開かれたわけです。金曜日の夕刻、京都市内某欧風料理店の一室を借り切り『史迹と美術』誌上での公募に応じた参加者が壁にかけられた東大寺三月堂燈籠の写真や銘文の拓本、伊派系の石大工の著名な作品の拓本を見ながら夕食を共にし、伊行末や石工に関する川勝博士の講演を聞いて、伊行末を偲びいろいろ話し合ったということです。石工としての伊行末の事跡に初めて光をあてられた博士ですが、こういう催しを開かれるあたり、センスというか、何とも発想がユニークですよね。時局厳さを増す折と推察され参加者は川勝ご夫妻を含め8名と多くはなかったようですが、さすが川勝博士と改めて感心してしまいます。小生も参加したかったなぁ…。

参考:『史迹と美術』105号、106号


東大寺大仏殿の石材について

2009-02-08 23:33:17 | ひとりごと

東大寺大仏殿の石材について(ひとりごとです)

石造美術を考える上で鎌倉時代は最も華のある時代です。後世につながる主だった石造物の種類が出揃ってくるとともに、意匠表現が完成されてくる時代だからです。それは大陸からの石彫技術やさまざまなノウハウが新たに導入されたことによる影響と考えられています。01具体的には奈良東大寺の復興に伴って来日した宋人石工達の存在があります。複数人がいたらしいのですが、詳しいことはよくわかっていないようです。唯一、奈良市般若寺の笠塔婆に刻まれた刻銘により、同じ東大寺の三月堂前の石燈籠や大蔵寺の層塔に名を残す石工「伊行末」という人物だけが個人名や若干の事跡が知られています。02ちなみに全国の石造美術を広く調査され、石に刻まれた石工名を整理し、仏師に院派、慶派などの門閥・系統があるように、石工にも伊派、大蔵派など同様の系統があることを明らかにされたのは川勝政太郎博士です。そして伊行末を始祖とする「伊派」こそはその後の石工の系統の主流となっていくことを解き明かされたのも川勝博士です。伊行末以外にも京都二尊院の空公行状碑に名を残す「梁成覚」という石工が中国から来たらしいことがわかっていますが、東大寺との関係や石工としての系統などは明らかではありません。さて、東大寺大仏殿は、周知のごとく創建以来二度にわたって建て替えられています。平安時代末に平重衡の兵火で天平創建時の大仏殿が焼失、その後、俊乗坊重源上人の活躍などにより鎌倉初期に再興されました。01_3この鎌倉初期の再建時に、中国から石工たちが渡来してきたわけです。そしてこの建物も戦国時代に松永久秀による兵火で焼失、江戸前期の再復興で現在の姿になりました。大仏殿を訪ねると、現在も床や大仏の台座などに使用されている花崗岩系の石の建築部材が少なからずみられます。現在の大仏殿は天平期、鎌倉期のものに比べると幾分規模は小さくなっているにしても、世界最大の木造建築とも称される豪壮な建築であり、そこに使用される部材としての石材を考えると、その量は相当な量になります。石材の切り出しや運搬、加工にかかる労力と費用は、石塔や石仏などの比ではないことは明らかです。江戸時代の復興にしても幾多の紆余曲折を経て着工から相当の年月を要しており、たいへんな難事業であったことは疑いありません。したがって、さまざまな工夫によりコストをなるべくカットしようとしたと考えるのが自然ではないでしょうか。Photoそうしたコストカットの工夫のなかに、石材の再利用や転用ということは果たしてなかったのでしょうか。十分考えられるのではないでしょうか。花崗岩など堅固な石材も火中すれば熱によって表面が崩れるように剥がれボロボロになります。鎌倉期の復興では石造の四天王像が安置されたとされています。その詳細は不明で、舶来石材説が取りざたされる南大門石獅子と同様に砂岩っぽい凝灰岩系(凝灰岩っぽい砂岩…?)のものだったのか、花崗岩系であったのか、現物が残らない今日では確認できません。現在の大仏殿内には鎌倉復興期の四天王石像はむろん跡形もありません。平板な反花を刻みだした巨大な礎石も江戸期に取り替えられたものでしょう。それでは床板や須弥壇などの石材はどうでしょうか?金銅の大仏が溶解する程の熱を受けたのだから、全部そのまま残っていることはありえないと思います。使用に耐えないものは当然廃棄されたでしょうが少しくらいは残っていないのでしょうか。大仏にしても蓮弁などに天平期の部分を残しています。あるいは、表面の熱の影響を受けた部分を打ち掻いて再利用したりしてはいないのでしょうか。廃材を搬出するだけでもたいへんなエネルギーを要するはずです。今日も雨落などに見られる地面に埋め込まれた割り石などは、ひょっとすると鎌倉期や場合によっては天平期の大仏殿の石材の成れの果てなのではないでしょうか。大仏を見上げながら小生の頭にそういう疑問が沸いてきます。そこで注意して床や須弥壇を眺めると、須弥壇の西側、はめ込まれた石材表面の色合いが不自然な箇所があります。いかにも一度焼けて表面がめくれているように見えます。江戸期の復興や、昭和の大修理に伴ってそういったことに関する記録があればはっきりするのかもしれませんが、あいにく不勉強で承知しておりません。また、地質学的な観点で石材の産地を特定できるのであれば、鎌倉期の復興時に一部の石材は大陸から請来されたとも伝えられることから、雨落ちの割り石などに、もし舶来石材が混ざっていれば実におもしろいと思いますがいかがでしょうか。

写真上左右:東大寺南大門石獅子です。この意匠表現はまさに大陸風。鎌倉初期と推定されるものです。仁王さんの裏側にあり目立ちませんが石造に興味ある者は見落とすべからずです。写真下左:大仏殿の雨落ち。はめ込まれた割り石。ひょっとして伊行末たちが精魂込めた四天王像たちのなれの果てが混ざってるかも???。写真下右:大仏の須弥壇にあった焼けたように見える怪しい石材。