石造美術紀行

石造美術の探訪記

埼玉県 秩父郡長瀞町野上下郷 野上下郷釈迦種子板碑

2014-02-06 00:11:37 | 埼玉県

埼玉県 秩父郡長瀞町野上下郷 野上下郷釈迦種子板碑
荒川上流左岸、川沿いに通る国道140号から西にわずかに入った小高い場所に目を見張るような大きさの板碑が建っている。05台上高537cm、幅120cm、厚さ12cm、日本最大の板碑として著名な存在で、「野上下郷石塔婆」として昭和3年に国史跡に指定されている。元は現在地より50m程川寄りの場所にあり、今の位置に移建されたのは明治時代のことという。長瀞の地は緑泥石片岩の産出地で、板碑の原材料を切り出した採掘地のひとつとして知られる。板状の片岩の台石に長方形の穴を穿孔し板碑本体の基底部(根部)を差し込んでいる。この台石が本来一具のものかどうか疑問もあるようだが、あるいは一具と考えてもいいかもしれない。地表下に隠れた部分が少なくとも1.5m程度はあると思われ、それも合わせると全長はおそらく7mに近いと推察される。規格外の大きさである。先端の山形、その下には2段の切込(二条線)を施す。切込み直下に一筋の沈線を引いて平滑に仕上げた長大な碑面には、外縁に線刻で長方形の枠取りを設け、枠内の上半に「伊の三点」と呼ばれる三弁宝珠のような形の荘厳点を加えた釈迦如来の種子「バク」を薬研彫の雄健なタッチで大きく刻んでいる。02武蔵の板碑の種子は「キリーク」が圧倒的で「バク」は比較的珍しい部類になるそうである。04_2主尊下方には花托を備えた蓮座を同様の彫法で表現する。その下方、碑面中央付近に光明真言の梵字を四行に分けて陰刻し、さらにその下方中央に「應安二年乙酉十月日」の紀年銘を大きく刻み、左右にやや小さい文字で二行ずつ「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」の「法華経化城喩品」の偈頌の四行と「権小僧都□□、道観、大檀那、行阿、比丘尼妙円、正家、正吉、結衆三十五人、道観、敬白」の陰刻願文を左右に分けて配列する。刷毛書体の種子や蓮座は雄渾そのもの、銘文も楷書体の達筆であるが、こうした手法自体は盛期の武蔵型板碑に通有する特長で、何もこの板碑だけに限ったものではないかもしれないが、何しろキャンバスも大きいので一際深い印象を受ける。03本尊を釈迦とし法華経の偈を引くところを見ると法華系の信仰背景があるのかもしれないが、「行阿」は阿弥号を名乗る念仏者かもしれず何とも言えない。よく見ると二条線の切込みの彫整がシャープさに欠けるなど手法的には今一つのところも見受けられ、川勝博士が指摘されるように退化傾向とも考えられよう。大きさのせいもあるだろうが全体的にやや大味な出来映えと言うべきかもしれない。応安二年は南北朝時代の西暦1369年に当たる。在地の武士層と思われる在俗出家者の妙円、行阿(親子?夫婦?)がメインスポンサーとなり、その一族郎党であろうか、35名の結衆の出資により造立されたことが知られる。一説に戦死した近くの城主の13回忌供養のために未亡人が中心となって造られたとも言われているらしい。これほどの石材を切り出し運搬することを考えると、遠距離にある採石場から運ばれたとは想定しづらいので、同じ町内でもかなり近い場所から採掘されたと考える方が自然で、至近距離にある荒川の河床付近にある緑泥石片岩の露頭から切り出された可能性を指摘する見解もある。その巨大さから武蔵型板碑のシンボリックな存在として位置づけられ(かなりキャッチーな意味で)、空に向かって聳え立つ巨大な雄姿は、いかにもそれにふさわしい存在感を示している。長瀞地域ではこの頃を境に板碑の造立が急速に下火になるらしく、最大にして地域最後の板碑であるという。山が間近に迫る川沿いのおそらく交通の要所であったであろうこの場所に、なぜそのような板碑が作られたのであろうか、興味は尽きない。

参考:川勝政太郎『石造美術入門』
      日本石造物辞典編集委員会編『日本石造物辞典』

幸いにして念願の関東の本格板碑をいくつか見る機会に恵まれました。さすがに埼玉県は板碑の本場だけあって見るべき板碑がてんこ盛り。じっくり見て歩くには2・3日では到底無理な相談で、それこそ何週間も要すると思われます。今回も相当駆け足の行程でしたが、路傍やお寺の墓地などに普通に板碑がありました。何ということのない小さい板碑に目をやると鎌倉末や南北朝時代の年号がちらほらと見られたのには舌を巻きました。板碑には古くから分厚い研究の蓄積があり、不勉強な小生なんぞは所詮門外漢の部類に過ぎませんので板碑を語ろうなどおこがましい限り、100年早いというわけですが、今後も追いかけていきたい対象です。幾多の先人達を魅了してきたのもむべなるかな、とにかく理屈抜きに美しいもんです、ハイ。