石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 山辺郡山添村大塩 大塩墓地宝篋印塔及び五輪塔

2007-01-30 23:45:25 | 五輪塔

奈良県 山辺郡山添村大塩 大塩墓地宝篋印塔及び五輪塔

名阪国道山添インターの西方約2Km、大塩は東山内の静かな山村集落である。県道奈良名張線を南に折れ200mほど行くと左手に会所があり、その裏手に墓地が広がっている。会所はおそらく寺院の跡と思われる。会所建物向かって左手の斜面をコンクリートで雛壇状に整形し、無縁石仏や石塔類が並んでいる。その最上Dscf1020段、左端近くの楓の木の下に立派な宝篋印塔がある。複弁反花座の上に建ち、基礎上2段、笠下2段、笠上6段、基礎は四面とも無地で銘は見当たらない。塔身はやや背が高く、四面に大きく舟形に彫りくぼめ如来坐像を半肉彫する。蓮華座はない。塔身は角が取れて面取をしているように見えるが、風化のせいであろう。笠の隅飾は二弧輪郭付で軒と区別し、若干外反しつつ立ち上がる。2箇所は先端を少し欠くが4箇所ともほぼ残っている。注目すべきは、欠損のない相輪に四方の水煙を作っている点である。伏鉢、反花、九輪、水煙、竜車、宝珠で構成され、水煙がある分、九輪の各輪の間隔が狭い。総高185cm、基礎幅55cm、高さ49cm、塔身は幅、高さともに31cm、笠の幅51.5cm、相輪高さ59cm(※)。各部の残存状態は良好だが、表面の風化はかなり進んでいる。花崗岩製。全体的に背が高い印象を受ける。笠の特徴から南北朝頃の造立と推定する。反花座は基礎よりも小さく不釣合いで別物と思われる。各部完存しているように見えるが、笠と基礎に比較して塔身が心なしか大き過ぎ、相輪に水煙が付く例は層塔に多い。すぐそばに層塔の基礎と思しきものと笠石の残欠が2枚ほどあることから、寄せ集めである可能性を疑Dscf1019ってよいように思う。層塔残欠の笠石は小さく、薄めの軒は反りも弱く、室町時代に降るものと推定する。

同じ雛壇最上段の右端付近には、5尺の立派な五輪塔がある。花崗岩製。各部揃って、なかなか見ごたえのある優品である。空風輪がやや大きい。複弁4枚の反花座の背が非常に高く、下すぼまりの水輪は上下逆に積まれている。火輪の軒反はかなり隅寄りで、軒下の反りはやや弱い。各部の表現に硬直化傾向がみられ、清水俊明氏のおっしゃるとおり南北朝末期から室町初頭ごろの墓地の惣供養塔と思われる。高さ156cm(※)。

参考

※ 清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術 332~333ページ


石塔がいい

2007-01-28 22:05:23 | ひとりごと

小生は五輪塔からハマりました。宝篋印塔や磨崖仏などを経て今は宝塔に関心の比重が移りつつあります。(まだ層塔や板碑は勉強不足です)

はじめて郷里近くの中世の大きい五輪塔を見学した時、その大きさ、デザインの妙、水輪の曲線、青みがかった花崗岩の質感、ひんやりとした石の触感に何ともいえない感動を覚え、文献をあさり、以降近畿を中心に主だった中世の五輪塔を訪ね歩いてきました。(まだまだごくごく一部です・・・)

とりわけ深い感銘をうけたのは、奈良市西大寺体性院の叡尊塔を一人訪ねた時でした。誰もいない静かな廟所の広大な基壇に立ち、青空に聳える巨大な叡尊塔と対峙した瞬間、時が止まりました。生家は仏教徒でも大学はミッション系、宗教などにまったく興味もない小生でしたが、700有余年の時間を隔てた今この瞬間、ここには思円上人と小生が五輪塔を介して二人っきりになっている・・・そう思えたのです。時空を越え、写実的なあの眉毛豊かな叡尊像が想起され、説法する上人の力強い声がしたような気がしました。そして巨大な五輪塔を見上げる時、完璧なバランス、曲線と直線の構成美、石の表面の質感、陽の当たる面の石の白さと陰の部分のコントラストに改めて美しさを認識するに至ったのです。

それから、書物を頼りに目当ての石塔を捜して徘徊したあげく、吐く息が白い山村の静か過ぎる無音の木蔭に、人知れず厳しい佇まいを見せる宝篋印塔の凛とした姿とようやくにして邂逅した時の感動は忘れえぬものがありました。

そして今、その美しさに惹かれているのは宝塔です。日本一の宝塔の宝庫、夢は近江路を駆け巡るといった近況です。


奈良県 天理市福住町別所 下之坊寺宝篋印塔

2007-01-28 10:21:07 | 奈良県

奈良県 天理市福住町別所 下之坊寺宝篋印塔

福住町別Dscf0852所は山間の斜面に開けた静かな集落で、浄土から奈良市の矢田原町へ抜ける県道186号が通る谷を挟んで北東側と南西側に人家が展開しており、道路沿いにある別所公民館から西方約300mの山裾に杉の巨木(根元に案内看板があって樹齢800年で婆羅門杉というらしい)が聳えているのが見える。その下にトタン葺の寺の屋根が見える。これが下之坊寺である。(「奈良県史」では永照寺上之坊となっており、後海寺とする地図もあって謎である。そもそも「下之坊」は寺院の子院に用いられる通称で、固有名詞ではない。)見たところ無住で、建物の痛みは進んでいるが、地元の人々によって管理されているらしく、境内は掃き清められて いる。境内には弁天社らしい小祠のある中島を浮かべた池があり、杉の巨木とあいまって清涼な雰囲気のある古寺である。境内向かって左手にある小さい墓地の奥に、宝篋印塔2基と高さ120cmほどの五輪塔がある。小さい方の宝篋印塔は、切石を組み合わせた基壇上に4弁の複弁反花座を置く。反花座は背が高く、傾斜が急で反花の表現は硬直化している。基礎は背が高めで輪郭内に格狭間Dscf0841を設けるが、彫りは浅く文様の退化が見て取れる。正面の輪郭右に享徳4年(1455年)、左に2月18日、格狭間内に「逆修/了識」と陰刻され(※)、銘文は肉眼で容易に確認できる。基礎上2段、塔身は輪郭を巻き、月輪を陽刻して中央やや上に金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子の彫りは細く浅い。笠も全体的に背が高く、逓減率が小さめで、下2段、上6段。軒を削りだし、隅飾はやや大きめ で、2弧輪郭付、少し外反する。相輪は中ほどで欠損している。高さ110cm。(※)大きい方の宝篋印塔は、高さ144cm(※)、基礎無地で上2段、塔身には輪郭はなく、浅く細い月輪を陰刻し、金剛界4仏の種子を薬研彫している。笠下2段、笠上6段。隅飾は小さめで、2弧輪郭付。軒と一体にならず、少し外反する。相輪も伏鉢、下請花、九輪、上請花、宝珠と完存している。伏鉢が大きく下請花は退化して小さい。九輪の各輪間の凹凸ははっきりしておらず、上請花は浅く単弁を削りだし、宝珠は、側辺がかなり直線的だが形状は良好である。4弁の複弁反花の台座は、享徳塔の台座に比べると傾斜が緩く優美で、古調をとどめる。下方は埋まっているため基壇の有無は不明。銘は見当たらない。清水俊明氏は2基とも同時期(室町後期)の造立とされるが(※)、台座、基礎の高幅比、笠の形状、塔身の種子から大きい方が明らかに古式で、15世紀初頭に遡るのではないかと推定する。なお、すぐそばの五輪塔は、とりたてて特徴はないが均整がとれ保存状態良好。各部無地で複弁反花座にあり、高さ121cm。室町後期とされる。(※)材質は花崗岩とされるが、安山岩か溶結凝灰岩系かもしれない。

参考 ※ 清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術375ページ

なお、近辺には他にも石造美術が多くあるので追々ご紹介します。


滋賀県 甲賀市水口町(旧甲賀郡水口町)泉 泉福寺宝篋印塔

2007-01-27 22:41:49 | 宝篋印塔

滋賀県 甲賀市水口町(旧甲賀郡水口町)泉 泉福寺宝篋印塔

水口町の中心部を東西に貫く国道1号沿線は、泉から北脇にかけて最近特に開発が著しいが、もともと丘陵に囲まれた盆地を野洲川や杣川が流れ、河岸段丘上の広い平坦地に水田が広がり、旧東海道沿いに点々と集落が形成され、のどかな田園風景が広がるところである。国道1号線を南に300m程いけば旧東海道が平行している。街道沿いの泉集落の北に日吉神社があり、泉福寺は境内を共有するように近接している。本堂向かって左手に稲荷の小祠があり、その脇に高さ約111cmの宝篋Dscf2934 印塔がある。切石基壇や台座は確認できないが、扁平な角ばった石4個を基礎の四隅の下に敷いてある。上2段の基礎はかなり低く、故・池内順一郎氏は幅を100とした高さの比率、側面で0.49、段を含めて0.69との数値を示されている。側面4面とも輪郭を巻き、格狭間を入れる。格狭間内は素面としている。輪郭は左右幅が広く、上下が狭い。格狭間は輪郭内に大きく表され、左右側線はスムーズであるが、中央の花頭曲線の幅がやや狭く、脚がハ字型になる。塔身は基礎、笠に比較してかなり小さく四方に月輪を平板に陽刻した中に金剛界四仏の種子を陰刻する手法は近江では少ない。東面にキリーク(阿弥陀)が来て、本来東にあるべきウーン(阿閦)は西側に、アク(不空成就)とタラーク(宝生)の南北が逆で、積み直された際に間違ったのであろう。塔身が小さ過ぎ、別物の可能性も残る。笠は上7段、下2段で、軒と区別してほぼ垂直に立ち上がる隅飾は、風化や破損ではっきりしないが二弧のようで輪郭のない素面、小さく低い。相輪は欠損し、風化の程度やサイズが明らかに異なる別物の相輪の九輪以上が載せてある。

茶色っぽい花崗岩製で、表面の風化が進み、全体にざらついてカドが取れてしまっている。素面の小さい隅飾、逓減率が大きく安定感のある7段積の笠の雰囲気は、大和系の宝篋印塔でも鎌倉中期に遡る古いもの、例えば大和郡山市額安寺塔や奈良市正暦寺中央塔などに通じるものがある。ただ近江ではあまり多くないタイプである。一方、基礎が低く、輪郭左右が広く格狭間内素面とする点は弘安8年(1285年)銘の市内岩坂最勝寺宝塔や正応4年(1291年)銘東近江市(旧八日市市)柏木正寿寺宝篋印塔などに似た例があり、やはり古式を示す要素と考えてよい。ただ、格狭間の脚が八字に開く退化傾向ともとれる表現があって造立年代の判断は難しい。塔身が小さ過ぎてバランスが取れないことも勘案すると、基礎と笠も別物で、まったくの寄集めの可能性も完全には否定できない。ただ、石材の色や質感、風化度には統一性があり、いちおう一具のものとみて、あえて鎌倉後期の初めごろのものとしておきたいがどうであろうか。

参考 池内順一郎 『近江の石造遺品』(下) 200ページ

   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』150~151ページ


滋賀県 栗東市(旧栗太郡栗東町)高野 松源院宝塔

2007-01-27 09:59:27 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 栗東市(旧栗太郡栗東町)高野 松源院宝塔

栗東は、宝塔が多い近江にあってもとりわけ優れた宝塔が多く見られる地域である。高野33 は、鋳物師の活躍した古い集落だが、宅地化が進んで、のどかな田園景観の面影は次第に失われようとしている。目指す宝塔は高野神社参道を境内すぐ手前で左に折れ狭い里道の角を曲がると突如として現れる。松源院は高野神社境内すぐ西側に隣接して元神社の別当寺というが、今では住宅に囲まれた小さい境内に小堂一宇と鐘楼があるに過ぎず、無住のようである。宝塔の手前に案内看板が設置され、市指定文化財の木造毘沙門天立像と石造阿弥陀如来坐像(室町)の説明があるがなぜかこの宝塔には一切言及されていない。

花崗岩製の見上げるような巨塔で、相輪を失い、笠の上に層塔の塔身と宝篋印塔の笠を載せている。復元すれば3mは優に超すものであったと思われ、現状で笠上までの高さ217㎝。地面に直接据えた基礎は低く側面は4面とも素面で、四石を“田”字に組み合わせている。ただ割目部に作為を感じないので当初からのものではない可能性も残る。基礎を四石分割とするものはいずれも巨塔で、守山市懸所宝塔、愛荘町金剛輪寺宝塔に例がある。塔身は高く、軸部は円筒形で、下端に地覆に当たる部分を廻らせ、四方に脚が長く大きい鳥居型を陽刻する。この鳥居型の上端から曲線を持たせ亀腹としているが、この曲線部分が塔身全体に占める割合は小さい。軸部は縦に2つに割れているが、これは当初から意図されたもので、背面側の首部との境に逆三角形の破壊穴が穿たれており、内部に大きい空洞を認めることができることから、軸部に03_3 内抉空間があったことがわかる。首部は軸部と別石で、二分割された軸部を挟み込んで乖離するのを防ぎ支える役割を持っている。首部には匂欄を大きく表し、地覆、平桁、架木などを陽刻した手の込んだ意匠である。純粋な首部は無地でやや細い。笠裏は垂木型を表現せず、また別石で斗拱型を挟むこともなく、荒たたきのままとし、首部を円形の枘穴で受けている。笠は全体に扁平で大きく、四注棟の勾配は緩やかでやや直線的。四注には降棟型を削り出している。軒口はそれ程厚い感じは受けず、隅近くでやや反る。笠頂部は降棟から連続した水平の繰り出しがあるのは通例どおりだが、その上の露盤は表現されていない。笠の四隅の内1箇所は破損している。

縦長のスマートな塔身と、扁平で大ぶりな笠が特徴で、手の込んだ匂欄、首部・軸部別石であるのも面白い。屋根の軒の形状や、いくつかの部材を組み合わせた構造が特筆される。銘文は確認できないが、低い基礎、扁平な笠、背の高い塔身はいずれも古い特徴を示し、ユニークな意匠が随所にみられることから、構造形式が定型化する直前の時期が想定でき、小生は鎌倉中期後半ごろの造立と推定したい。ただし川勝博士は鎌倉後期でも古い遺品とされている。

なお、相輪に代えて載せてある層塔の塔身は、舟形背光形に彫りくぼめた中に蓮華座に座す半肉彫で四仏をしっかりと表現しており、立派なものである。その上の宝篋印塔の笠も小さいものではない。いずれも鎌倉後期ごろのものと推定される。

なお、高野神社の社殿玉垣内右手には重要美術品指定の鎌倉時代末~南北朝初期ごろの石燈籠があるので、あわせてご覧になることをおすすめしたい。

参考 川勝政太郎『歴史と文化 近江』85~86ページ


滋賀県 湖南市(旧甲賀郡石部町)東寺 長寿寺石造多宝塔

2007-01-24 23:43:09 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 湖南市(旧甲賀郡石部町)東寺 長寿寺石造多宝塔

近江で2基しかないとされる石造多宝塔のうち、旧甲西町菩提寺の廃・少菩提寺跡の普会塔(少菩提寺多宝塔)は重要文化財指定、近江の石造塔婆類では高島市拝戸水尾神社層塔と並ぶ最古の仁治2年(1241年)の造立銘があり、しばしば諸書に紹介されているのに対し、野洲川の対岸にある長寿寺のものはあまり詳しく紹介されていない。

長寿寺多宝塔は、本堂(国宝)への参道右手の薄暗い林の中に凛然と勇姿を現す。角ばった石材を一辺あたり5個前後並べた方形基壇を二段に重ね、そのDscf3420中央に基礎を据える。基礎の手前に石造の香炉か水船のようなものが置かれているが、これは当初からのものではないだろう。台形のやや不整形な基礎は低く大きい。基礎上面には方形の一段を薄めに繰り出している。その上の塔身は方柱状で四隅に面取り加工を施す。幅が狭く高さが勝る。その上は裳階にあたる下層笠で平面方形、下面素面で軒は厚く先端で反り上がるが強い感じはしない。軒棟を短くして上面に広めの平面を整形し、その中央から低い円筒状に饅頭型を受ける部分を立ち上げる。饅頭型部は平面円形で側面はやや直線的に立ち上がり途中から曲線を描くが崩れ気味である。饅頭型と上層笠の間には別石の斗拱部分を挿み込む。斗拱部は他の各部に比してやや大き過ぎの印象を受ける。斗拱下部は方形平面いっぱいに低く円筒形の首部を形成し、饅頭型の上部でこれを受ける。首部に続く斗拱本体は四辺を斜に切り、そこから連続して垂直に立ち上がる平面方形とし、上層笠を受けている(複雑な形状を言葉で説明するのは難しいので写真ご参照のこと)。上層笠も軒は厚く先端でやや反る。さらに上にもう一段別石の笠を載せ錣葺屋根を表している。上層笠頂部には露盤を薄く彫成し、さらに相輪伏鉢状のものを繰り出しているようであるがはっきり確認できない。その上に相輪に代わり宝珠を載せる。この宝珠部は伏鉢と宝珠をくっつけたような形状で、あまり例をみないものである。宝珠伏鉢部は笠頂部の伏鉢部分よりも径が大きく、どことなく不自然な感じがあり、後補の疑いがある。木造多宝塔で相輪の代わりに宝珠とした例は知らない。ただし単層の石造宝塔では若干例がある。長寿寺塔は、塔身の幅が狭く斗拱部が大き過ぎるためか”頭でっかち”で安定感に欠け、宝珠も何か不自然で全体的に各部のバランスが悪く、まとまりのない印象が強い。川勝博士いわく「寄せ集めのように見える」(※1)所以である。安定感があってスッキリまとまった少菩提寺塔に比べるとデザイン的には数段劣る。また、少菩提寺塔に比べ小さいようにいわれるが(※2)、相輪がない分高さは低いが、基礎幅や下層笠の軒幅などはむしろ長寿寺塔が大きく、規模の点では少菩提寺塔に勝るとも劣らない巨塔である。花崗岩製、高さ約364cm、基礎の幅約170余cm、下層笠の幅約136cm(※3)。湖南市指定文化財。

少菩提寺塔との共通点は①ほぼ同規模である、②石材が同じ赤茶っぽい花崗岩、③格狭間などの表面装飾がない、④ノミ跡が生々しい表面の様子、⑤別石斗拱部を持つ、⑥上層笠が二重(錣葺)である、⑦基礎上面に方形の一段を繰り出している。相違点としては、①低い箱型に整形した少菩提寺塔基礎に比して長寿寺塔の基礎は不整形の台形である、②少菩提寺塔は基礎上一段と塔身の間に平たい切石を挟み、外見上二段とし塔身下に空間を設ける構造だが長寿寺 塔にはない、③長寿寺塔の塔身は面取が施されるが少菩提寺塔にはない、④長寿寺塔は首部が斗拱部と同石とし、少菩提寺塔は饅頭型部と同石、⑤斗拱部が長寿寺塔は斜面付一段で少菩提寺塔は二段、⑥少菩提寺塔は露盤が高く、長寿寺塔では露盤部を薄くDscf3428して伏鉢を同石で立ち上げる、⑦少菩提寺塔は相輪を有するが07、長寿寺塔は相輪の代わりに宝珠を載せる。⑧少菩提寺塔は紀年(仁治2年)を含む造立銘を刻むが長寿寺塔には銘が見出せない。このほか各部の縦横比など細かい相違はこの際述べない。

無銘の長寿寺塔の造立年は不明とするしかないが少菩提寺塔を機軸に考えるほかない。この“不細工さ”を退化とみるか発展途上とみるかで判断は分かれるだろう。いずれにせよ鎌倉後期を降ることはないと思われるが、小生は面取り塔身の古調を評価し、発展途上と解釈する。長寿寺塔がやや古く、少菩提寺塔でデザインの完成を見ると考えたいがいかがであろうか。博学諸彦のご批正をお願いしたい。

写真上、左:長寿寺多宝塔…うーんちょっと不細工かな…

右:少菩提寺多宝塔(高さ454cm)…これは文句なく美しいでしょ…

参考

※1 川勝政太郎『歴史と文化 近江』 87ページ

※2 田岡香逸『近江の石造美術』6 19ページ

※3 池内順一郎『近江の石造遺品』(下) 312ページ

最古銘の少菩提寺塔より古いかもしれないといってイコール近江最古の石塔ということではないので勘違いしないで欲しい。仁治2年よりも古い可能性がある無銘の石塔は、石塔寺三重層塔を筆頭に県内にはまだいくつかあり、石仏や石碑にはさらに古い紀年銘をもつものがある。


滋賀県 東近江市上羽田町 円通寺の宝篋印塔はどこへ?

2007-01-23 09:02:24 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市上羽田町 円通寺の宝篋印塔はどこへ?

「八日市市史」には「上羽田町に円通寺があり、その墓地には多数の石仏などが方錐型(ピラミッド型)におかれ、その最高部中央に宝篋印塔がある。総高143㎝。~中略~次の刻銘がある有志者二親十/造立也□□□/三年追善□/嘉暦元年十月十一日・・・後略」の記述があり、掲載された写真によれば、基礎から相輪まで揃い好印象のいい塔です。昨年円通寺を訪ねたところ、墓地にそのような無縁塚は見当たりません。宝篋印塔もありませんでした。いったいどこに行ってしまったのでしょうか?どなたかご存知ではないでしょうか?嘉暦元年(1326年)の紀年銘があり各部揃ったものであればまぎれもなく指定文化財クラスです。もし散逸したとすれば極めて遺憾です。


五輪塔について

2007-01-23 00:25:13 | うんちく・小ネタ

Dscf2959 五輪塔はもっともポピュラーな石塔である。現在でもたいていの墓地で目にすることができる。川勝博士は五輪塔について、次のように述べておられる。「密教において創始された塔形で、下方から方・円・三角・半月・団形からなる五輪とし、これを地・水・火・風・空の五大を表すものとする。」「下から方形の地輪、球形の水輪、宝形造の火輪、半球形の風輪、宝珠形の空輪を積み上げるのが、五輪塔の一般的形式である。」「方・円・三角・半月・団形から構成されるとは教理上からの説明であって、石造の場合、忠実に三角の火輪にしたのも、まれには存在するが、大概は建築風になって宝形造としている。また、空輪も団形のものが古遺品に間々あるが、これも宝珠形にしたものが多い。~中略~五輪石塔通常の形式にあっては、基礎(地)、塔身(水)、笠(火)、請花(風)、宝珠(空)の如き外観を呈しているわけである。構造としては、風・空輪を一石で作り、残りの各輪をそれぞれ別石で作り、これらを積上げるのが普通であるが、中には~中略~地・水輪を一石、火輪以上を一石に作り、二石構成のものや、全部を一石彫成にした例もある。」ここで“通常の形式”というのは、空風輪、火、水、地各輪の四石構成のものをいう。他にも空風火を一石で作り、地水輪を各別石とした三石構成もあり、構成石材数を冠して“四石五輪塔”とか“三石組み合わせ式の五輪塔”などと呼ぶこともある。また、特に一石からなるものは、室町時代以降に流行する小型のものを“一石五輪塔”とい03い、鎌倉時代以前の大型のものは便宜上“一石彫成五輪塔”と呼んで区別する。五大とは、宇宙の万物を構成する5大元素である地・水・火・風・空をいい、こうした世界観を説く五大思想の源流は中国・インドまで遡るが、五輪塔としての明確な形態を持つ古遺品はインドや中国で発見されていない。したがって五輪塔は我国で独自に発展を遂げたものとの説が一般的である。また、五輪塔形は密教における胎蔵界大日如来の三昧耶形を表し、五輪塔形そのものが大日如来を象徴するとされる。各輪四方に五大の種子をそれぞれ、東方発心・南方修 行・西方菩提・北方涅槃の四門、すなわち「キャ・カ・ラ・バ・ア」、「キャー・Dscf2906_1 カー・ラー・バー・アー」、「ケン・カン・ラン・バン・アン」、「キャク・カク・ラク・バク・アク」を刻むものが本格的とされる。四門種子の省略形や別パターンの種子を刻むものなど、いろいろなバリエーションがあるが、基本的に大日如来信仰を示す種子になっている。その後宗派を超えて広く受容され、弥陀信仰や地蔵信仰などを示すパターンもみられるようになる。なお、漢字で空風火水地と刻むものは比較的新しく、室町時代後期以降に一般化し、江戸時代に流行する。造立年がわかる五輪塔では、いずれも石造ではないが、慶長11年に醍醐寺円光院跡から出土し埋め戻された応徳2年(1085年)銘の石櫃内から発見された銅製五輪塔、康治元年(1142年)銘の静岡県鉄舟寺錫杖頭に小さく鋳出されたもの、兵庫県常福寺の天養元年(1144年)銘の瓦経とセットで出土した瓦質の土製五輪塔が古い。平面的な図像では、京都市の法勝寺跡から出土した軒瓦の瓦当文様として表現された永保3年(1083年)九重大塔造営時のものと推定されるもの、保安3年(1122年)の小塔院建立時のものと推定されるものが古い。長寛2年(1164年)銘の神戸市徳照寺梵鐘や仁安2年(1167年)の厳島神社平家納経にも塔形の図像がみられる。一方、記事としては東寺新造仏具等注進状の康和5年(1103年)に五輪塔と水晶五輪塔が作られた旨の記事、仁安2年(1167年)平信範の日記「兵範記」の近衛基実墓の記事がある。何でも「最古」はキャッチーなので興味は尽きない。ともかくこの種の遺物や史料は今後も発見される可能性があり、さらに年代が遡るかもしれないが、要するに平安時代後期、11世紀終わりごろから12世紀前半ごろには、既に五輪塔の形状についての一定の概念があったと考えてよいことを示している。実際に残る石造五輪塔の最古のものは、仁安4年(1169年)銘の岩手県平泉中尊寺釈尊院塔で、嘉応2年(1170年)と承安2年(1172年)銘の大分県臼杵市中尾塔2基、治承5年(1181年)銘の福島県玉川五輪坊塔が続く。このほか、無銘では奈良県当麻北墓塔、伝・福岡県宝満山出土の京都北村美術館塔などが平安時代終わりごろの作とされる。だいたい平安時代後期(11世紀ごろ)から現れた五輪塔は、他の塔婆同様、もともと功徳を積む作善のための塔であって、必ずしも個人の墓標として認識されていたわけではなく、石造としては鎌倉時代中期(13世紀後半)ごろデザインや構造形式の整備統一が進み(とりわけ奈良市西大寺奥の院の叡尊塔(1290年ごろ造立)は、デザインや構造形式がひとつの完成をみたエポックメイクな五輪塔である)、上流階層や高僧の個人墓塔や惣墓(共同墓地)の総供養塔(墓地の中心に据えられる墓地全体の供養塔や共同納骨塔)のスタイルとして多く採用され、やがて中世を通じて次第に大衆化し、墓塔として大いに流行したと考えられる。

写真は上から

湖南市永照寺塔(延慶4年 典型的な「鎌倉」五輪塔)

東近江市瓦屋寺の一石五輪塔(無銘・室町時代末頃)

東近江市極楽寺塔(無銘・南北朝時代 四門の種子が刻まれる)

参考

川勝政太郎 『石造美術』

薮田嘉一郎編 『五輪塔の起源』

  同 『宝篋印塔の起源続五輪塔の起源』

元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告

  同 『五輪塔の研究』平成6年度調査概要報告


滋賀県 東近江市(旧蒲生郡蒲生町)川合町 称名寺石造露盤

2007-01-21 08:57:32 | 滋賀県

滋賀県 東近江市(旧蒲生郡蒲生町)川合町 称名寺石造露盤

03_1 布施山南麓の願成寺の南方、願成寺に向かう参道が旧道と交わる東側に称名寺がある。立派な本堂の、向かって右手、鐘楼の北側に狭い墓地があり、無縁の石塔類をピラミッド状に積み上げた頂に近世の墓石か石仏の基礎と思われる方形の石を半ば埋め込み、その上に宝篋印塔の塔身を据え、その上に五輪塔の水輪を載せ、さらにその上に石造露盤が載っている。露盤とは宝形造の堂塔などの屋根頂部に設置され宝珠や相輪伏鉢の間にあるもので、石造美術の単独カテゴリーとして扱われる場合は、こうした木造建築物のパーツである。石製は珍しく、金属製や瓦製が多い。層塔や宝塔などの石塔でも屋根の頂部に露盤を刻みだすことがある。京都神護寺文覚上人廟、奈良大宇陀大蔵寺のものが有名であるが、例が少なく、滋賀県でも若干が知られるに過ぎない。
称名寺の石造露盤は、外観が扁平な四角柱で、上面は四柱に沿って緩い傾斜がつけてあり、頂上付近で傾斜がやや急になる。側面は二区に分け格狭間を入れている。頂部を2段に彫りくぼめてあるらしく(※1)、請花宝珠を挿し込んだものと思われるが今は亡失、三石五輪塔の空風火輪が載せてある。底面は水平ではなく浅く抉りが入る。幅約57cm、高さ約21cmの花崗岩製。
石造露盤は例が少なく、希少価値の高いものだが、例が少ない故に年代を判断する基準も明確になっていない。「蒲生町史」では鎌倉後期(※1)、川勝政太郎博士は室町(※2)、田岡香逸氏は鎌倉後期後半(※3)と諸説ある。小生は、格狭間がやや崩れぎみで、やや側面の高さがある点から、14世紀中ごろのものではないかと考えたい。
今は無縁墓石といっしょになって特に違和感もないものだが、かつてはお堂の屋根のてっぺんにこれが載せてあったのである。その様子を想像することも石造美術を味わう上での楽しみである。
なお、初めの方で述べた願成寺はここから至近で、正安4年(1302年=乾元元年に改元)銘の水船、石燈籠や宝塔、宝篋印塔の残欠類、五輪笠塔婆など中世石造美術が多数あり足を延ばされることをお勧めします。もっとも東近江市とその周辺は質量ともに日本一の石造美術地帯と言って過言ではなく、見所は枚挙に暇がないほどです。
参考
※1 蒲生町史編纂委員会『蒲生町史』第3巻 403~404ページ
※2 川勝政太郎『歴史と文化 近江』 136ページ
※3 田岡香逸『近江の石造美術6』 43ページ


滋賀県 野洲市(旧中主町)比留田 蓮長寺宝篋印塔

2007-01-18 23:40:52 | 宝篋印塔

滋賀県 野洲市(旧中主町)比留田 蓮長寺宝篋印塔

01 有名な兵主大社の東約1kmのところにある。比留田集落内のやや西寄にある蓮長寺の山門を入り、本堂、向かって左手の築山の陰に宝篋印塔がある。現高約130cm。長短の切石を組み合わせた上下2段からなる基壇を備え、花崗岩製の非常に個性的な宝篋印塔が立つ。基礎は幅に比して高さが低く、上は抑揚のある複弁反花式とし、側面を3区に分けて輪郭を巻く。輪郭内は無地。反花は彫りがしっかりして間弁の省略も見られず、側辺との距離があって、塔身受が高く削り出される点は古い特徴といえるかもしれない。塔身は月輪を陰刻し、金剛界4仏の種子を入れる。種子は雄渾なものではない。笠上は8段あり、下2段。隅飾は素面二弧で小さく、軒と区別している。笠上は異例の8段という多さに加え、隅飾が小さく、しかも各段に傾斜がついているため、ピラミッドのように見える。相輪は九輪の6輪以下を欠損するが風化の程度や石質から一具のものと見られる。残存する九輪は太く上の請花は風化ではっきりしないが単弁のようで、九輪、宝珠との境のくびれは小さく、宝珠は球形に近い。表面の風化が進んでいるが、全体として保存状態は悪くない。また、基壇下段は高さを持たせて、塔下に空間を設け、上段では南側の短辺の切石の中央下側を径10cmほどの半円形に彫り窪ませている。これは、この部分の切石を可動式とし反復継続して塔下のスペースを使用とするためのものと推定され注目される。塔下には蔵骨器などを埋めた埋納施設があるはずである。同様の基壇を持つ石塔が付近にいくつか見られる。この基壇は当初から塔と一具のものと考えられる。紀年銘は確認できないが、基礎3区、笠上8段という構造形式は、異例というより異形というべきものである。当初は6尺塔であったと思われる。参考とすべき類例がほとんど無いに等しく造立時期の推定は困難だが、軒と区別した隅飾と基礎の反花の形状から鎌倉時代後期ごろと考えたい。低い基礎側面を三区に分け、反花座と塔身受を高くするデザインは京都市東福寺一条家塔に類例がある。(※)いずれにせよ、この塔は、滋賀県下でもほとんど類例を見ない非常に個性的な形状で、希少価値が高いものである。惜しくも相輪の一部を欠くものの、基壇を含め各部が揃っており、その意味でも貴重なものである。

参考

滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』141~142ページ

※ 川勝政太郎『京都の石造美術』130ページの写真