石造美術紀行

石造美術の探訪記

和歌山県 伊都郡高野町 高野山 高野山奥の院六字名号板碑

2012-09-30 21:27:14 | 和歌山県

和歌山県 伊都郡高野町 高野山 高野山奥の院六字名号板碑

奥の院の参道、中の橋を越えしばらく進んで32町石の付近、参道の北側に面して越前松平家結城秀康(1574~1607)と彼の母堂である長勝院(1548~1620)の石廟がある。01_2木造建築風の堂宇を全て石で造作する二棟の石廟は、諸大名の巨大な五輪塔がたくさん居並ぶ広大な奥の院墓地にあって一際異彩を放ち、目立つ存在である。青緑色の石材は笏谷石と呼ばれる越前産の凝灰岩の一種と考えられており、西側の切妻造の方が長勝院、東側の入母屋造の方が秀康公のもの。

この石廟の10数mくらい西寄り、参道から北に10mほど入ったところに六字名号板碑が立っている。01_4傍らに案内標柱があり、南面して参道からも目視できるので、注意していれば見落すことはないだろう。
白褐色の地衣類が表面を覆い斑模様に見えるが、地は緑色の結晶片岩製である。下端はコンクリートで固められてどういう形状なのか確認できないが、このコンクリート上端面からの高さ約189cm、幅は上方で約81.5cm、下端付近で約85.5cm。厚さは7.5cmほどしかない。02上端は山形で正面は平らに整形し、その下に二段の切り込みを設ける。碑面は高さ約142cm、幅約69.5cmの縦長の長方形に輪郭を枠取りして区画している。輪郭線は線刻のようにも区画内をごく薄く彫り沈めているようにも見える。中央に行書風の達筆で「南無阿弥陀佛」の六字名号を大書陰刻し、その下方には凝った意匠の蓮華座を配置する。蓮華座は蓮弁を彫り沈め、雄蕊や蓮実のある花托も表現されている。
名号の左右に四行の陰刻造立銘が認められる。向かって右に「為自身順次往生并亡妻亡息追善也/奉謝二親三十三廻」、左に「恩徳阿州國府住人/康永参秊甲申暮春中旬沙弥覚佛敬白」とあるのが肉眼でも確認できる。ただし、右側中央寄りの奉謝…と左側の恩得…は、下方に小さい文字で浅く彫られており、あるいは後刻かもしれない。仮にその場合でも作為的な偽銘ではなく、さして時間差はないようにも思われる。康永は北朝年号。康永3年(1344年)、阿波国(徳島県)国府の住人であった覚佛という法名の、土地の有力者と思しい在俗出家者が願主となって、自身の極楽往生、亡き妻子の追善供養、そして両親の33回忌の菩提を弔うために作られたことが判明する。
なお、阿波は類型板碑が集中する地域として知られ、それらは阿波型板碑と呼ばれる。この名号板碑は、阿波の在地信者により作られ、四国から海を渡って搬入されたのではないかと考えられており注目される。

 

参考:巽三郎・愛甲昇寛 『紀伊國金石文集成』

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   坂詰秀一編 『板碑の総合研究』2 地域編

 

 浅学の小生は四国の石造を見ておりません。したがって本格的な阿波型板碑というものがどのようなものなのか、身をもって知りませんのでこの名号板碑が本当に阿波からの搬入品なのかについて見解を述べる立場にありませんが、このように青石製の定型的な古い板碑は、高野山でも異色の存在のようです。また、越前の笏谷石製の石廟もそうですが、弘法大師の眠る聖地高野山奥の院には、よそからの搬入石造物が少なくないのは事実です。こうした聖地への搬入石造物の伝統を考えるうえで注目すべき遺品のひとつとして貴重な存在といえるでしょう。

それにしても案内標柱の「阿弥陀仏各号の碑」というのには閉口します。各号って???名号でしょ。


和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆

2010-02-14 13:28:21 | 和歌山県

和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆

有田郡は明恵房高弁上人の郷里である。洛西栂尾の地を下賜され高山寺を中興する前、20代の頃郷里に戻り、人里離れた山中に草庵を結んでひたすら修業に励まれた時期があり、その旧蹟8ヶ所に弟子が建てたモニュメントのうちいくつかが残っている。01_4そのうちのひとつ、白上峰の遺跡について紹介したい。湯浅町栖原の海辺に近い山腹に施無畏寺がある。上人の母方の実家に当たる在地の有力武士であった湯浅氏が建てたとされるのもので、落慶法要には明恵上人も駆けつけたという。この寺の背後に続く山塊の頂上付近が白上峰とされる。東西2ヶ所に分かれる白上峰の旧蹟のうち海寄りにあるのが西白上で、湯浅湾を一望に見下ろす景勝の地にある。山頂付近は潅木の中に見上げるような巨岩が露呈する。建久6年(1195年)、最初に上人がここに草庵を結んだとされる。岩山の一角に笠塔婆が立っている。笠塔婆というのは、塔身の上に笠石を載せた簡単な構造の塔婆で、塔身には普通、方柱状ないし板状の縦長の石材を用い、笠は寄棟ないし宝形造で頂部に請花・宝珠を配するもの。02構造・形式が簡易であり、刻銘可能なスペースを広くとることができ、供養塔や町石などいろいろな用途に使われる。露呈する岩盤上の狭い平坦部に、径2m程の範囲にごつごつした自然石を不整形に敷き並べ、その中央に笠塔婆の基部を埋け込んである。03周囲には鉄製の保護柵が方形に回らされている。表面茶褐色の硬質砂岩製とみられ、宝珠から塔身まで全て一石彫成。現状での全高約156cm、塔身部は高さ約129cm、幅約26cm、奥行き約17.5cmのやや扁平な方柱状で、北側正面上方に「マン」の種子を平底彫で大きく配し、その下の中央付近に「文殊師利菩薩」、さらにその下に「建久之比遁本/山高尾来草/庵之處」、「十一月十九日造立之/嘉禎二年丙申/比丘喜海謹記」と3行(割付た干支の行数を加えれば5行)2段に陰刻している。04さらに背面には「嘉禎年中所立木卒都婆朽損之間今勧進一族以石造依之此結縁各預上人之引導可令成就二世願望者也、康永三年(1344年)甲申九月十九日勧進比丘弁迂」の造立・紀年銘、向かって左の側面に「願主沙弥安部六氏女」、向かって右側面にも「沙弥□□」の刻銘があるという。背面と側面の刻銘は光線の加減で肉眼でははっきり確認できなかった。埋け込まれた基部は平らに整形された塔身部分より若干太くなっており、敷き並べた石材の間にしっかりとくい込んで倒れるのを防いでいる。笠部分は軒の幅約32.5cm、軒の奥行き約24.5cm。軒の厚さは中央で約5.8cm、隅で約6.5cm。頂部は13cm×11cm。下部に高さ3cm、径約12cmの首部を設けた宝珠は高さ約11cm、径は約17cmである。宝珠の先端の小さい突起は少し欠損している。種子を平底彫とする点、一石彫成とする点が特徴である。ここから東に約400mの尾根のピーク付近にも同様の笠塔婆がある。01_3こちらは東白上の旧蹟とされる。はじめ西白上に草庵を構えたが、波の音や漁師の声が修業の妨げになることから東に奥まったこの場所に移ったという。こちらも巨大な岩盤が露呈し、東側に連なる山並みを一望にできる勝地である。西白上と同様に岩盤上に自然石を敷き並べ笠塔婆を立てている。やはり一石彫成で石材や大きさ、形状は西白上とほとんど同じ。塔身正面には「ウーン」、以下「金剛蔵菩薩」「建久之比蟄居修練之間文殊浮空中現形之處」とあり、嘉禎二年云々と背面の再建銘は西白上と同じ、側面には「願主藤原宗貞」とある。願主は藤原を本姓とし、「宗」を名に付することから湯浅氏と考えられている。02_2世俗の栄達から決別するため、仏眼仏母像の前で自分の片耳を切った明恵上人が文殊菩薩の顕現を見たのがこの場所だとされている。時に建久7年(1196年)上人24歳の時のことという。このほか有田川流域に残る明恵上人の旧蹟をしのんで建てられた笠塔婆は、おそらく京都栂尾高山寺の上人旧蹟でも木製のものを石造に再建したのに倣ったのであろう。高山寺、有田郡とも一連の明恵上人旧蹟のモニュメントである笠塔婆が、一様に一石彫成である点は注目される。通常、笠塔婆は塔身、笠、宝珠と3石に分けることが多く、笠石以上が落下亡失して上端に枘のある柱状の塔身だけが残っているのをよく見かけるが、一石彫成というのは珍しい。単なる簡略化とは別に、朽損した初代の木製のものを石造に切り替え再建していることを勘案すると、上人の旧蹟をなるべく永久に後世に伝えたいという造立主の思いに基づき、部材がばらばらにならないよう、あえて一石彫成の手法を採用した可能性も考えられる。

 

参考:巽三郎・愛甲昇寛「紀伊國金石文集成」

   川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」

     〃   「石造美術の旅」

     〃   「京都の石造美術」

   川勝政太郎・佐々木利三「京都古銘聚記」

施無畏寺の境内と裏山の墓地には観応、永徳の在銘宝篋印塔が残っていますがこれらは別途紹介したいと思います。写真左上:西白上峰の笠塔婆のロケーション。こうして海を見下ろし雨の日も風の日も幾百年立っているんですね。写真左上から2番目:笠と宝珠の様子、写真左上から3番目:嘉禎年間の木造当初の碑文部分、写真右下:東白上峰、写真左下:東白上峰の平底彫のウーン種子です。なお、木造のモニュメントを造立した喜海さんは明恵上人の高弟です。


和歌山県 東牟婁郡那智勝浦町那智山 青岸渡寺宝篋印塔

2009-11-03 19:24:16 | 和歌山県

和歌山県 東牟婁郡那智勝浦町那智山 青岸渡寺宝篋印塔

西国三十三箇所の第一番として著名な青岸渡寺。観音堂の向かって右手、地蔵堂の脇、鐘楼の手前に重要文化財指定の宝篋印塔がある。01目を見張る大きさで、基壇をあわせると高さはゆうに4mを越える。04塔高は約11尺9寸というから略々12尺、約3.6mに達する。花崗斑岩製(一説に石英粗面岩つまり流紋岩製、いずれにせよこの地元産の石材である)。元々この場所にあったわけではないようで、大字市野字滝原という場所(不詳、市野々の間違いか?)にあったという。また、古い写真をみると境内においても移動しているようである。自然石を積んだ上に長短の延石を方形に組み合わせた基壇(上端一辺約2.2m、延石部分の高さ約33cm)を設け、上端に幅約145cm、高さ約23cmの反花座を据えている。この基壇は当初からのものか否かは不詳。延石部分は一具と見ても支障はないように思う。02反花座は長短3種類の石材を組み合わせた構造で、東側だけが継ぎ目がなくおそらくこれが正面と考えられる。逆に西側は左右2箇所に継ぎ目が見られる。反花座側面高約11cm、蓮弁の弁先と側面との間が7.5cmも空いているのが特長。蓮弁は抑揚感のある複弁式で隅弁は間弁にならないタイプ。05ただし隅弁は複弁にせず覆輪付の単弁としている。両隅弁を除くと一辺あたりに三枚の主弁を配し、各主弁間にはそれぞれ間弁(小花)を挟み込む。上部の受座は幅約107cm、高さは非常に低く5mm程しかない。基礎は幅約104cm、高さ約49.5cm。南北に継ぎ目が見られることから東西2石からなるものと考えられ、西側を除く各側面とも外縁を枠取りをして輪郭を残し内側を彫り沈めて格狭間を入れている。輪郭の幅は左右が約8cm、上下が約6cm、格狭間は幅約78cmあり、輪郭内いっぱいに大きく表現され、花頭部分がまっすぐであまり肩の下がらない整った形状を示す。06_2西側の側面のみは素面とし、6行にわたり「依先師権律師/慶賢宿願所令/造立也矣/元亨二壬戌三月日/願主禅尼善覚/大工藤井景成」の造立銘が陰刻されており、肉眼でもなんとか確認できる。慶賢という師の宿願に基づいて善覚という尼さんが藤井景成という石工に作らせたというもの。これらの人々がどういう人物なのかは不詳。元亨2年は鎌倉時代末期、1322年。基礎上には幅約83.5cm、高さ約25cmの別石反花座を載せ、塔身を受けている。03側面高は約11㎝、基礎下の反花とよく似た意匠の抑揚感のある複弁式の蓮弁だが、両隅弁を除くと主弁は一辺あたり1枚で、両隅弁も複弁とし間弁にも覆輪を付加してより装飾的になっている。側面と弁先との間はあまり開かない。受座は幅約59cm、高さはほとんど計測できないほど低い。塔身は幅約52.5cm、高さ約52cm、各側面とも蓮華座上の月輪を陰刻し、金剛界四仏の種子を雄渾なタッチで薬研彫している。07笠は上6段下2段で、下2段は別石としている。軒幅約93cm、軒厚は約10cm。別石の段形は上段幅約77cm、下段幅約59cm、上段下面は意図的に水平にはせずに斜めに切っており、四隅に稜線がうっすら出来ている点も面白い表現である。隅飾は基底部幅約26cm、高さ約30cm。軒から3cmほど入って立ち上がり、直線的にやや外傾する。三弧輪郭式で内に径約10.5cmの円相月輪を平板陽刻し、中に種子を陰刻している。隅飾の種子は一様でなくバイ、イーなどが確認できる。これは十二天中の天地日月すなわち梵天、地天、日天、月天を除く八方天、つまり東北伊舎那天(イー)、東方帝釈天(イ)、東南火天(ア)、南方閻魔天(エン)、西南羅刹天(ニリ)、西方水天(バ)、西北風天(バー)、北方毘沙門天(バイ)を表しているとの考え方が示されている。さらによく見ると月輪の位置がカプスの中央にあったり、やや下方にあったりと各面で微妙に違っている点もおもしろい。相輪はやや側面の直線部分が目立つものの均整のとれた伏鉢、複弁八葉の下請花、逓減が強く凹凸をはっきり刻んだ九輪、小花付素弁の上請花と下端のくびれがやや強めの宝珠といずれも優れた意匠表現を示している。優美な反花座を用いる装飾的な表現やところどころ別石とする点が特徴で、全体に少し縦長な印象でどっしりとした安定感には欠けるものの、規模の大きさの割に細部までよくいきとどいた丁寧な作りに石工の並々ならぬクラフトマンシップを感じる。隅飾の一部を少し欠く以外に大きな欠損もなく遺存状況良好で紀年銘も貴重。なお、西側の鐘楼にかかる梵鐘には2年後の元亨4年の陽刻銘がある。また、地蔵堂を挟んだ南側の目立たない場所にも同じくらいの大きさの立派な江戸時代の宝篋印塔がある。

写真右上:あまり紹介されたことがないようなアングルからのカットです。写真左2段目:反花座、基礎の格狭間などの様子、写真右中:隅飾の月輪にご注目、位置が微妙にずれています。写真左3段目:笠下別石の段形。中段下端にわざと傾斜をつけている点は心憎い程の念の入れようです。写真右下:相輪です。残りがいいです。写真左下:銘文の後半部分。元亨二の文字がわかると思います。

文中総高ないし塔高以外の法量値はコンベクスによる略測ですので多少の誤差はご容赦ください。大き過ぎて笠の軒から上はコンベクスでは計測不能でした。反花の蓮弁など地理的に近い大和よりもむしろ京都の宝篋印塔に近い雰囲気を感じました。なお、参拝客の怪訝そうな視線を背中に感じながら基壇に上って単身コンベクス計測を敢行しておりましたところ、お坊さんにやんわりとご注意を受けました。この場をお借りしましてお詫び申し上げます。良識ある皆さんはまねをしないでください。まぁ普通の人はこんなことはしませんね、ハイ。

参考:川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」東京堂出版 1998年

   服部勝吉・藤原義一 「日本石造遺宝 上」大和書院 1943年

   巽三郎・愛甲昇寛 「紀伊國金石文集成」熊野速玉大社 1974年

   児玉義隆 「梵字必携」朱鷺書房 1991年

拙ブログもおかげさまをもちまして今回で通算200回を数えることになりました。今後ともご愛顧、ご指導賜りますようお願い申し上げます。


和歌山県 新宮市新宮 熊野速玉大社種子板碑

2009-09-27 10:56:23 | 和歌山県

和歌山県 新宮市新宮 熊野速玉大社種子板碑

熊野三山のひとつ熊野速玉大社の礼殿南側、烏集庵なる茶室に向かう通路の脇にひっそりと小振りの板碑2基が佇んでいる。01これらは速玉大社の元々の鎮座地だったとされる神倉山にあったものとされ、いつの頃か現境内に移されたものらしい。04大小2基が北面して東西に並んでおり、いずれも基底部はコンクリートの土台に埋め込まれた現状である。西側のものが大きく、現状高約60cm。下方幅約24cm、額部の幅約23cm。厚みはだいたい約8cmくらいであろうか。先端を山形に整形した縦長の板状の外観で、正面と側面は丁寧に整形されるが、背面は粗くたたいたままとする。材質はハッキリわからないが流紋岩ないし花崗斑岩と思われる。頭部山形は広角で尖りは緩く、幅約2.5cmの切り込みは一段で、その下の額部は幅約4.5cm、額の張り出しは約0.5cm程度で低い。碑面には径約19.5cmの薄く平板な浮き彫りにした円相月輪を配し、内に端正な刷毛書の書体で「キリーク」を薬研彫している。月輪下には大きめの蓮華座が月輪と同様の手法で浮き彫りにしてある。蓮弁は大きく伸びやかな形状で優れた手法を示している。刻銘は確認できない。02一方、東側のものはひとまわり小さく現状高約45cm、下方の幅約19.5cm。西側のものと比べると全体に厚手で、厚みはだいたい14cmくらいある。特に背面は粗く彫成したまま平らにしていないので断面はかまぼこ状になる。西側に比べ先端山形の尖りが急角度で高さがあり、先端中央に稜を設けて舟形光背のように先端が若干前のめりぎみになるのが特徴。切り込みは西側のものと同様に一段で額部の張り出しが約1.5cmと西側のものよりも少し出が強い。蓮華座上の月輪内に種子を薬研彫する点は同じ。03ただし月輪が線刻になっており、蓮華座は平板でなくやや立体感のある薄肉彫り風になる。種子は「ア」である。蓮華座の形状が西側のものに比べ形式的でそれだけ時期が降るものと考えられる。こちらは蓮華座の下に刻銘があるとされるが確認しづらい。コンクリートで埋まって上の方だけが覗いている状態で「奉納一…/開結二…/後生善…/応安…」と部分的に読まれている。応安は南北朝時代後期14世紀後半の年号(1368年~1374年)である。西側のものは全体の作り、種子や蓮弁の様子などからこれよりも遡ると考えられ、鎌倉時代後期頃のものと推定されている。「キリーク」は阿弥陀如来を指すことが多いが千手観音や大威徳明王なども「キリーク」である。「ア」は諸仏通有の種子であることから、これらの種子の尊格を特定することは難しい。熊野速玉大社の祭神のうちのいずれかの本地仏を示すものとみられる。ちなにみ熊野三山の12柱の主要神の本地は次のとおり。メインの三所権現、速玉大社は薬師如来、本宮大社は阿弥陀如来、那智大社は千手観音であり、関連する五所王子と四所明神はそれぞれ十一面観音、地蔵、龍樹、如意輪観音、聖観音、文殊・普賢菩薩、釈迦如来、不動明王、毘沙門天とされている。

参考:川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」77ページ

初の和歌山県に突入です。川勝博士の記述では茶室の庭にあるとのことで見学できるか心配でしたが、茶室に向かう通路の脇にありました。参拝客は誰も省みないような場所で、まったく忘れられたように蔦がからみ苔むしてひっそりと立っていました。冷や飯を食っている感は否めませんね。お気の毒です。もっと厚遇されてもいいんじゃないかなと思います。すぐ裏側、数メートルの距離の茂みの中には室町時代風の小型の五輪塔が見えましたが草が茫々で進入できませんでした。写真左下:大きい方の蓮華座と月輪、そして「キリーク」です。なかなかいいでしょう。写真右下:小さい方の先端部分です。山形部分の先端に特長があります、写真でわかりますでしょうか。