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石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 高島市今津町日置前 正覚寺宝塔

2008-05-12 22:44:18 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市今津町日置前 正覚寺宝塔

旧今津町日置前、伊井地区のほぼ中央、集落内に曹洞宗正覚寺がある。01境内東側の一画に立派な石造宝塔が立っている。花崗岩製で現存高約170cm。角ばった自然石を基礎の四隅に敷くが当初からのものとは思えない。もしそうであれば積み直されている可能性がある。基礎側面は素面の東側を除き輪郭・格狭間で飾り、格狭間内には、西側に三茎蓮、南側、北側には開敷蓮花のレリーフを配してる。基礎側面は幅約76cmに対し高さ約46cmと比較的低い。09輪郭は全体として幅が狭いが、左右が上下より狭い。格狭間は輪郭内にいっぱいに概ね破綻のない整美な形状を見せる。輪郭、格狭間の彫りは深めだが、開敷蓮花は平らで張り出すタイプではない。素面の東側に刻銘があっても不思議ではないが、摩滅したものか判然としない。基礎上端にはいくつかのくぼみが並び、雨垂の痕とも思えず児戯によるものだろうか。塔身は軸部、框座、匂欄部付首部を一石で彫成する。軸部はやや裾すぼまりの円筒状で、素面。扉型などの表現は見あたらない。亀腹部の曲面はごく小さく、周回する框座を経て匂欄部に続く。匂欄部から径を減じて細めの首部につなげる。匂欄部、首部も素面。笠には三重の段形を有し、下2段が厚く、上の1段は軒口に沿って薄くしていることから、下2段は斗拱、上1段は垂木を意識した構造と思われる。07_2軒はさほど厚さを感じさせず、隅に向かう反りにも力強さが欠ける印象。隅降棟を断面凸状の突帯で表現するが、珍しく露盤下で連結しないように見える。四注には照りむくりがはっきり認められる。露盤は方形に高く削りだされている。相輪は伏鉢を残し欠損する。残された伏鉢の形状はドーム形でスムーズな曲線を描く。全体的に表面の風化が進み、軒の一端や、框座など細かい欠損もあって傷んだ印象は否めないが、主要部分は残り、元は8尺塔と思われる規模の大きさ、笠裏や格狭間など随所に優れた意匠表現を示す点など、湖西を代表する優れた宝塔のひとつに数えることができる。造立年代については、笠の形状、優れた部分と少し手抜きとも思われる部分の落差の大きいメリハリのきいた割り切った作風などから鎌倉末から南北朝初め頃、概ね14世紀前半も半ばに近い時期から14世紀中葉にかけての頃と思われる。

参考:滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』 191ページ

   今津町史編纂委員会『今津町史』第4巻 479ページ

写真右:素面の基礎側面に刻銘があってもいいんですが・・・。写真下:わかりにくいですが植栽に隠れた三茎蓮です。・・・それにしてもやっぱ、宝塔っていいもんです、ハイ。


滋賀県 東近江市鈴町 吉善寺宝塔

2008-05-12 01:12:41 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 東近江市鈴町 吉善寺宝塔

集落東側にある吉禅寺の境内南隅、塀沿いの高い壇上に石造宝塔が置かれている。基礎の下に平らな切石を敷いているが、基礎とさして幅が変わらず、当初からのものかどうかは不明。07花崗岩製で総高約171cm、基礎は割合背が高く、幅約52cmに対して高さは約36cmを測る。各側面とも輪郭・格狭間入りで正面のみ格狭間内に大きく右に頭を向けた孔雀をレリーフする。孔雀文は近江式装飾文様の一種で、たいへん珍しく、全国で30足らずの例があるに過ぎないが、そのうち近江の例が約7割を超えるとされる。嘉元2年(1304年)銘の比都佐神社宝篋印塔に比べると彫りが扁平で表現もやや稚拙である。正面以外の格狭間内は素面。輪郭は左右が広く上下が狭い。塔身は軸部、框座、匂欄部付首部を一石で彫成する。軸部には上下に薄い突帯を鉢巻き状に回らせ、四方に扉型を陽刻する。やや胴張気味だがほとんど円筒状で、亀腹部分は狭く、框座の張り出しを少なくして幅広の匂欄部につなげ、続く純粋な首部はかなり低い。匂欄付首部は素面。正面扉型左右に2行にわたり「文保2年(1318年)戊午三月日/大願主一結衆」の刻銘がある。笠裏に一重の垂木型を刻みだし、軒口は分厚く隅に向かって力強い軒反を見せる。四注は若干照りむくりを示し、隅降棟を断面凸状の突帯で表現する。05左右の隅降棟が笠頂部の露盤下で連結する。笠全体の幅に対して軒口を厚くし過ぎたためか屋根の勾配面にあまり余裕がなく、傾斜も急になっている。相輪は九輪部5段目の上で折れたものを接いでいるが完存しており、下請花は複弁、上請花が小花付きの単弁で伏鉢、宝珠ともに曲線に少し硬さがある。九輪の凹凸は沈線に近い。細部は丁寧な造作が見て取れるが、退化傾向が現れており、塔身が寸胴で、軒口が厚過ぎ伸びやかさが足りない印象で、背の高い基礎も合わさって全体に安定感に欠ける。しかし風化が少ない表面の保存状態は良好で、各部完存している点は貴重。特に孔雀文の基準年代と一結衆による造立が知られる刻銘がこの石造宝塔の価値を一層高めている。

参考:蒲生町史編纂委員会『蒲生町史』第3巻 382~383ページ

近江の宝塔のうちではどちらかというと不細工な部類ですが、見るほどに独特の持ち味のあるフォルムです。市指定文化財。旧蒲生町鈴、以前は集落中央、狭い路地に囲まれた場所に吉善寺があり、ブロック塀風の塀に囲まれた狭い境内墓地の南隅の一段高い壇上に宝塔がありました。数年ぶりに訪ねたところ、宝塔はおろかお寺ごときれいさっぱりなくなって景観は一変、旧寺地を示す石柱を残して真新しい公民館になっていました。一瞬愕然としましたが、ごく最近お寺は集落東側に移転し、宝塔も無事移転されたようで安心しました。


滋賀県 大津市北小松 樹下神社の石造美術(その2)

2008-05-05 19:11:22 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市北小松 樹下神社の石造美術(その2)

樹下神社というのは、日吉大社の摂社の一つで、祭神は鴨玉依姫命。十禅師とも呼ばれ、地蔵菩薩を本地とし、法華経を守護する神とされる。日吉大社の勢力範囲に多く勧請され、湖西を中心に同名の神社がたくさんある。北小松の樹下神社の南北に並んだ社殿の左手、すぐ裏側に立派な石造宝塔2基が並んで立っている。69_2自然石を並べて長方形の低い土壇状に整形した中に、直接地面に据えられており、ともに花崗岩製。便宜上、向かって右手を北塔、左手を南塔と呼ぶ。北塔は、笠頂までの高さ約136cm、基礎側面の四面ともに輪郭、格狭間で飾り、正面東側に開敷蓮花を、残る3面は三茎蓮花のレリーフを配している。開敷蓮花は蓮弁の表現が直線的でややデフォルメされたものを格狭間に比して非常に大きく刻んでいる。三茎蓮は各面とも少しづつ意匠を変え、西側背面と東側は中央茎部がまっすぐ立ち上がらない左右非対称なものとする。輪郭は左右が広く、上下が狭い。格狭間は側辺の曲線は豊かだが、やや肩が下がって花頭部分のカプスの尖りが目立つ。基礎幅約71cm、高さ約44.5cm、高すぎず低すぎずといったところ。塔身は、首部と軸部の間に厚さ約5㎝程の框座をめぐらせた一石彫成のもので、軸部は円筒状で四方に扉型を帯状に薄く陽刻する。78このうち正面のみは水平方向に桟を入れ「田」字を呈する。首部は素面でやや細い印象。笠は裏に2段の斗拱部を比較的厚めに刻みだし、軒口はそれほど厚くはないが軒反りは力強い。笠裏の斗拱部を厚めにとったせいで斗拱部を除く屋根全体の高さが押さえられ、全体として緩い勾配になっているにもかかわらず、四隅先端の反り返りだけを急にしたため、躍動的というか軽快な感じを与える視覚効果がある。頂には比較的高く露盤を刻み出し笠全体を引き締めている。四柱には断面凸形の突帯で隅降棟を表現し、左右の突帯が露盤下で連結する。軒幅約58cm、相輪は亡失、近世のものと思われる番傘スタイルのものが載せられている。後補相輪の宝珠と九輪の一部を含む先端1/4程が折れて傍らに置かれている。断面が真新しいことからごく最近破損したようである。北塔は装飾的意匠が目立ち、格狭間の形態やデフォルメされた開敷蓮花、やや硬さのある軒反などから鎌倉後期でも末期に近い頃の造立と推定したい。相輪の亡失は惜しまれるが、規模も大きく、近江における典型的な石造宝塔の構造形式や意匠表現を備えながら、ややイレギュラーな塔身扉型や三茎蓮の意匠表現を取り入れて、なかなかおもしろい作風を示している。一方、南塔は相輪の先端を欠いて現高約192cm、基礎は幅約75cm、高さ約41cmとかなり低く、側面は四面とも素面。塔身は首部と軸部を一石彫成する。框座はない。首部、軸部とも素面で、軸部は、やや下すぼまりぎみの円筒形で、肩にあたる饅頭型部分の曲面はかなり狭く、急激に径を減じて首部に続く。72首部はやや全体に太めで高さもあり、下端が太く上にいくに従って細くなる。笠裏には垂木型を2重に刻みだし、軒口は厚く隅に向かって厚みを増しながら重厚な軒反りを見せる。左右の四注隅降棟が露盤下で連結する通有のスタイルだが、隅降棟の突帯は断面かまぼこ形に近く、明確な断面凸形にならず、削りだしはおおまかでシャープさに欠ける。頂部には低く露盤を表現する。相輪は九輪部の2段目と3段目の間で折れ、3段目から8段目までが傍らに置いてある。8段目以上は早く失われたらしく、既に昭和50年の田岡香逸氏の報文にも同様の記述がある。九輪の凸凹をハッキリ刻み、伏鉢は適度な半球形で下の請花は複弁、枘は笠頂部の枘穴とかっちりと合致し当初からのものと見てよい。各部素面で、首部と軸部からなる簡素な塔身、さらに、低い基礎と重厚な笠の軒反など古い要素が多く、隅降棟の垢抜けない感じは、退化傾向とするよりは発展途上と見るべきで、総じて鎌倉時代中期の終わりから後期初めごろの造立と推定したい。装飾的な北塔と対照的に、南塔は素朴で野趣溢れる佇まいを見せる。両塔とも原位置を保っているかどうかは怪しいところもあるが、法華経見塔品の教義を背景に造立されたとされる石造宝塔が、法華経を守護する鴨玉依姫命を祭る樹下神社の境内に保存されている点は示唆的である。ともあれ、社杜の木立を背景に、異なった個性の7尺塔2基が並ぶ姿は非常に印象深い。石造宝塔の魅力を改めて強く感じさせられる優れた作品といえる。

参考:川勝政太郎 「近江宝篋印塔の進展(五)」 『史迹と美術』362号

   田岡香逸 「近江湖西の石造美術(後)-勝安寺・鶴塚・樹下神社-」 『民俗文化』142号

   川勝政太郎 『近江 歴史と文化』 62~63ページ

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』121ページ

写真上:かっこいい宝塔の揃い踏み、写真中:装飾的な北塔、写真下:素朴で迫力のある南塔

※ 宝篋印塔&2基の宝塔と”ひと粒で三度おいしい”北小松樹下神社。神社周辺は比良山系に抱かれた湖沿いの明るい景観がマッチして、若葉の季節は特に風光明媚で実にいいところです。ぜひ一度、のんびりと訪れてみてください。本文中のサイズ数値は、コンベクスによる実地計測値なので多少の誤差があると思います。


滋賀県 野洲市永原 常念寺層塔ほか

2007-12-11 01:00:04 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 野洲市永原 常念寺層塔ほか

常念寺の広い境内は、周囲の林に隔てられ国道沿いの喧騒が嘘のように閑静な佇まいである。山門を入って右手に層塔が立つ。重要美術品指定。01褐色がかった花崗岩の石肌が美しい。現在五重、最上部には宝篋印塔の笠以上が載っている。現高約256cm。仮に十三重で復元すれば約5.4mに達するという。石造美術王国近江には層塔もたくさんあるが案外十三重は少ない。可能性からいえば元は七重程度でなかったかと推定する。基礎は側面四方とも輪郭を巻き格狭間を配している。格狭間は、上部花頭がまっすぐで、側線の曲線もスムーズで、整った形状を示す。基礎自体はやや背が高めである。格狭間内は素面。背面には後世に破壊を試みた鏨の痕と思われる穴が痛ましく並んでいる。塔身は三方に陰刻蓮華座を配し舟形背光型に彫りくぼめた中に如来坐像を半肉彫している。金剛界四仏と思われる。像容は端麗で優れた彫成を示す。背面のみは蓮華座上の月輪を線刻してキリークを薬研彫している。文字は大きくないが書体は端正で優れている。この背面の月輪左右に各一行の刻銘があり、右側に「正応元年(1288年)戊子六月五日」の紀年銘があるというが肉眼では判読できない。笠は軸部一体式で総じて軒は厚く、重厚感のある軒反を見せるが上端に比較して下端の反りが緩い。下層軸部とも接面を観察すると四層目の笠裏中央には方形の彫りくぼめがあり、さらにその内側に丸い穴が穿たれているようである。03_2さらに五層目の笠裏にも丸い穴があるのがわかる。穴の外縁が下層軸部から少しはみ出ているので当初からの奉籠穴というより手水鉢等に転用されていた可能性が高いと思われる。また、一層目と二層目以上の逓減観が異なる。基礎は塔身や一層目の笠幅に比較して小さ過ぎ本来一具のものではなく宝塔の基礎とみるべきとの説がある。宝塔基礎説(卯田明氏)に対し、田岡香逸氏は「構造形式が一致するので当初からのもの」とし、「おそらく、層塔の基礎の側面は素面が本格であり、普遍的であることからこのように断定したもので、輪郭は格狭間入や、さらには近江式装飾文を配するものが多い近江の特殊性を理解していない」誤解と断じて卯田説を否定されているが、その論旨こそ一方的憶測に他ならず説得力に欠ける。田岡氏のいうように「構造形式」が一致していたとしても、各部の大きさのバランスという大前提を抜きに論じることはできないと思う。小生は卯田氏の著作を読んでいないが、宝塔の基礎である可能性も否定することはできないと思う。四、五層目が転用されていた可能性があることなども考慮すれば、倒壊しバラバラ状態であったものが寄せ集め的に再構築された蓋然性が高い。基礎を除く笠と塔身については、脱落欠損した笠部があるにせよ石材の質感や風化度、大きさのバランスなどから一具のものと考えてよいだろう。なお、頂部には宝篋印塔の笠と相輪が載せてある。宝篋印塔の笠と相輪が一具のものかどうか不明だが、大きさの釣合いは取れている。隅飾は外傾が目立つ二弧輪郭付で、茨の位置が低い。上6段下2段、相輪は九輪の逓減が目立つもので下請花は複弁、上は単弁のようである。隅飾や相輪の形状から14世紀後半を遡るものではないと思われる。異形一茎蓮を配する石塔基礎、室町後期の宝篋印塔など常念寺境内には他にも石造美術が多く残されているが、とりわけ本堂左手の井戸の傍らで手水鉢になっている石塔の基礎が注目される。02一側面が完全に縦断切断されており、その左右の面は不完全で切除面の対面側だけが原型を残す状態で、一面は井戸枠に接し確認できない。原型をとどめる一側面は素面で、判読は難しいが8行程の刻銘があるのが肉眼でも確認できる。田岡氏は寛元元年(1243年)と判読されている。井戸枠に接する面の対面には輪郭を巻き立派な格狭間を大きく配している。格狭間の彫りは浅く、上部中央花頭を広くとってほぼ水平のまま二小弧を左右隅に寄せ、側線の豊かでスムーズな曲線には雄大感がある。脚部はきわめて短く脚間を広くとる。輪郭の幅は狭い。同じく寛元銘のある近江八幡市安養寺跡層塔の基礎は、格狭間内に近江式装飾文様を有するが、この点を除くと、狭い輪郭、雄大な格狭間と、その手法にあい通ずるところがある。格狭間面現状の中央上寄りに排水穴が開けられ、彫りくぼめられた上端の水貯穴につながっている。高さ49cm、幅約71cm。正応銘の層塔の基礎にしては小さすぎサイズが合わないが層塔か宝塔の基礎であろう。鎌倉中期の層塔の基礎にしてはやや小ぶりなので、どちらかといえば宝塔の方が可能性は高いと思う。

寛元銘基礎が宝塔だった場合は、田岡氏の紹介により近江最古銘の石造宝塔として広く知られることになった建長3年銘の大吉寺宝塔に先んじることなり、残欠ながら極めて注目すべき遺品ということができるが、田岡氏はそっけなく層塔基礎として宝塔基礎としての可能性について特に言及されていない点は不審というほかない。なお、寛元頃は我国石造宝篋印塔の初現期間もない頃で、近江では続く江竜寺跡宝篋印塔基礎の弘安2年まで30年以上間隔があり、あまりに古過ぎることから宝篋印塔の可能性は極めて低い。

写真上:基礎の相対的な小ささがおわかりでしょう。アンバランス感が強いと思う。

写真中:笠裏の大きい円穴がすき間からわずかに覗いています。

写真下:写真右側の側面に刻銘があります。刻銘の対面は縦にカットされています。

参考

田岡香逸 「近江野洲町・中主町の石造美術(前)」『民俗文化』 114号

田岡香逸 「近江野洲町・中主町の石造美術(後)」『民俗文化』 115号


滋賀県 大津市和邇中 天皇神社宝塔及び層塔

2007-09-28 23:16:41 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市和邇中 天皇神社宝塔及び層塔

和邇中天皇神社は和邇川北岸、琵琶湖を望む小高い台地にある。本殿は鎌倉末期正中元年(1324年)建造の古建築である。20 社殿前の向かって左手、奥まった場所にある忠魂碑を挟んで東側に2基の石造宝塔、西側に層塔がある。宝塔はどちらも相輪を失い笠頂部までの高さ約1.6m。ともに花崗岩製で基壇等は見当たらず、直接地面に置かれている。北塔は下端が埋まっているが、基礎は幅:高さ比が低く安定感がある。三側面に輪郭を巻き格狭間を配し、正面(西側)にのみ三茎蓮華のレリーフがある。下方が埋まって確認できないが宝瓶式のものである。輪郭幅は側面の面積に比して狭くシャープな印象を与える。上下が狭く左右束はやや広い。田岡香逸氏は報文の中で基礎幅を64.2cmとし、大きさのバランスが取れないために別物とするが、掲載された写真を見てもそのようには見えない。そこで持参のコンベクスで実測すると基礎幅約84.5cmであり、おそらく6と8の計測数値の記入誤りであろう。基礎下端を掘り返して確認したと思われる田岡氏によれば基礎の高さは42.5cmである。幅が高さの倍近くあり、非常に背が低いことがわかる。格狭間は、中央花頭曲線の幅は十分とはいえないが全体に丸みのある大きめのもので肩の下がりも顕著でない。塔身は円筒形の軸部と2段の首部を一石彫成している。軸部は上部の饅頭型部の曲面は小さいが、縁板状の框座を持たず上端を水平に切って首部につなげる意匠は、すっきりした印象を醸しだすことに成功している。軸部西側に月輪を大きく陰刻し、月輪下部に5弁の蓮華座上に梵字「ア」を大きめに薬研彫している。文字は端正で力強い。2段の首部下段は匂欄を表現したもので、田岡氏によれば02 「上端に突帯を巻き…中略…縦連子6本を入れ、各それらの間を横連子でつないでいる。」という。肉眼ではこれを確認しづらい。上段は素面である。笠は全体に扁平で軒は厚く、隅に向かって力強い反りを見せる。笠裏には2段に斗拱を表現し、さらに軒口近くに薄い垂木型を刻みだす。四柱の屋だるみも適度で隅降棟は断面凸型の突帯を丁寧に刻み出している。露盤下で隣接する突帯の外側が連結する。露盤はあまり高くないが垂直に立ち上がりしっかりと仕事がしてある。笠幅74.5cm、高さ約43cm。現在の相輪は一見釣り合っているようだが石14 材の質感が異なり後補と思われる。首部や笠裏の段形や露盤の削り出しがシャープで、安定感のある基礎、平らな笠は細めの首部とあいまって伸びやかな印象を与えつつ厚めの軒と隅反にこもる力強さが全体を適度に引き締めている。各部のバランスや形状にも優れ、匂欄や笠裏の垂木型など細かい部分に配慮が行き届いている。また、塔身の月輪と蓮華座上の種子が絶好のアクセントとなっており、装飾的にも意匠的にも抜群の出来ばえを示す。規模も大きく、相輪の欠損が惜しまれるが、近江でも最も美しい宝塔のひとつと思う。銘は確認できず、造立年代は不詳ながら石造美術最盛期の鎌倉時代後期でも比較的古い時期、13世紀末から14世紀初め頃のものと推定したい。一方、南塔は基礎四面とも素面で、塔身は少し胴の張った円筒形の軸部の正面西側にのみ大きい鳥居型を薄肉彫りするほかは素面とする。首部は別石で写真に見るとおり自動車のタイヤ状を呈し、側面中央に平底の溝を廻らせて上下を帯状にする。上方がやや太く下方が細いので、天地逆転している可能性がある。笠は四柱の隅降棟の突帯表現がない。笠全体に高さがあるためか、さほど厚みを感じない軒の隅反りはかなりきつい。頂部には屋根の勾配を急激に立ち上げて露盤を表現している。きつい軒反と勾配を急激に立ち上げた露盤に挟まれた四柱部分の中央を見る限り、屋だるみは顕著とはいえずむしろ直線的である。笠裏には一重の垂木型を16薄く刻み出す。相輪は失われ五輪塔の空風輪が載せてある。装飾的で端正な北塔とは対照的に朴訥とした野趣溢れる魅力がある。基礎幅約78cm、高さ約46cm、笠幅約73cm。川勝博士は鎌倉中期とされ、一方田岡氏は笠の背が高いことや屋根の勾配が急で反転が強い点を新しい要素と考え1310年頃とされる。素面の基礎、首部を別石とし大きめの鳥居型を正面のみにレリーフする手法、隅飾棟の突帯を持たないなど、各部の特徴は北塔よりも古調を示し、基礎の幅:高さ比は北塔よりやや大きいものの高いとまではいえない。また、笠の反転がきつく見えるのは、強い軒の隅反りと露盤が与える錯覚で実際はかなり直線的である。したがって田岡氏の観察見解のように新しい要素とは小生は考えない。つまり北塔より造立年代が降ることを示す要素はない。あえていえば鎌倉中期末の13世紀後半頃ものと考えたい。異なる個性を発揮する大形の石造宝塔(元は7尺ないし8尺塔)が並び立つ姿は実に壮観で、いつまでも眺めていたい、去り難い気持ちに駆られる。また、層塔は現状4層で五輪塔の火輪と空風輪を載せている。元は5層ないし7層であろう。上端を平らにした大きい自然石上に据えられている。素面の基礎、塔身は舟形に彫りくぼめて如来坐像を四方に半肉彫りする。表面は風化が進み細かい欠損も多いが塔身の像容、軒反り、屋だるみなどに古調をとどめる。高さ現状で約1.5mと規模は小さいが鎌倉後期でも中期に近い頃のものとみられる。1295年頃と推定されている田岡氏に従いたい。

参考

川勝政太郎 『近江 歴史と文化』 62ページ

〃 『新装版 日本石造美術辞典』 182~183ページ

田岡香逸 『近江湖西の石造美術-小野・和邇中・比叡辻-』(後)「民俗文化」190号

〃『近江湖西の石造美術-天皇神社・妙盛寺・地蔵堂・光西寺-』(前)「民俗文化」202号


滋賀県 大津市栗原 水分神社宝塔

2007-09-26 13:10:38 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市栗原 水分神社宝塔

栗原は湖西道路の西、小高い山腹にあって琵琶湖を見下ろす静かな山村である。集落の北西、やや高い場所に水分神社が鎮座する。本殿が北東側に稲荷社が南西側に並んでおり、一段高くなった社殿前の玉垣内、古木の根元に囲まれるようにして石造宝塔がひっそりと立っている。11_2 花崗岩製。相輪は後補と思われ、現高約154cm、相輪を除く高さ約105cm、基礎幅45.5cm、高さ33.3cm、笠幅43cmである。(持参のコンベクスによる計測値)08_5 水船をひっくり返したような石の台の上に平たい自然石を載せて上面を平らにして宝塔を置いている。基礎は幅:高さ比が大きく背の高いもので、三側面に輪郭を巻いて格狭間を配し、背面のみ素面としている。輪郭の彫り込みは深いが、格狭間は内部素面、ほとんど線刻でその体をなさないまでに退化し、美術的観点からは醜悪な格狭間というしかない。素面の塔身は下がすぼまった胴張りの樽型で、曲線は硬く、全体にやや歪んでいる。軸部の上に太く低い縁板状の框座を回らせ、首部は二段となる。09 笠裏は二段で軒は厚みを欠き、軒口の上端は隅近くで弱い反りを見せるが下端はほぼ水平で反りがほとんど見られない。笠の頂部の面積が広いためか屋根の勾配は急で、屋だるみもほとんどない。四柱の隅降棟は凸状突帯式で隣接する隅降棟の突帯両脇部分が露盤下で連結するのは通例式だが中央突帯の幅を非常に広くとっている。露盤の削りだしも甘く、扁平なものでしまりのない鈍重な印象を与えている。相輪は番傘状に近いもので石材の質感も異なるので後補であろう。九輪部分が五輪しかない。基礎の格狭間を見ても明らかなように各部の退化が進んだもので、通例の意匠を踏襲しつつ彫り込む部分を最小限に抑えた形態になっており、美的に優れたものを目指そうとする創作意欲よりも労力を最小限に済ませようとする意図が勝った結果であろうか。到底鎌倉期のものと考えることはできず、室町時代に降る造立であることは明らかである。ただ、各部のバランスは何とか保たれ、同じ室町期ものでも先に紹介した竜王町岩井安楽寺塔のように、全く威厳をなくしてコミカルな印象を与えるまでには至っていない。紀年銘は確認できないが、おそらく室町時代も後半、15世紀後半から16世紀初頭ごろのものと推定される。湖西は石造宝塔の宝庫であるが、室町期の宝塔はそれ程多くない。相輪は後補ながら主要部分が揃っており、各部の退化が進んだ典型例として、これはこれで貴重なものである。

参考: 滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』

写真

左:パッと見の全景はまあまあ、でもよく見ると…

右上:ちょっとちょっとな隅降棟、写真右下:あんまりな格狭間…うーん…でもこれはこれで時代をよく示しているんですよね。


滋賀県 高島市安曇川町三尾里 満願寺跡宝塔

2007-09-20 01:10:51 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市安曇川町三尾里 満願寺跡宝塔(鶴塚塔)

民家の庭先のような一画にこの巨大な石造宝塔は立っている。満願寺跡といっても寺の面影はない。01_15 ただ、民家の裏手に回るとささやかな墓地があってわずかに寺院の痕跡を思わせる。相輪は後補でしかもやや短いが現高約4m、復元すれば4.2~4.5mはあったと思われ14~15尺塔で、大津市長安寺宝塔(牛塔)と並ぶ近江最大の宝塔である。花崗岩製。鶴の塔とか鶴塚と呼ばれる。ある武将が狩猟中に鶴を射落としたが首がなかった。不審に思いつつ獲物を持ち帰った。翌年再び射落とした鶴が干からびた鶴の首を羽の付け根に大切そうに抱えていた。それは去年射落とした鶴の首で、鶴が夫婦であったと気付いた武将は、鶴の夫婦愛に心を打たれ、深い悔悟の念から鶴の供養のためにこの石塔を立てたという伝説に基づいている。近江を代表する二大宝塔の別称にそれぞれ牛・鶴という動物名が冠され、それにまつわる伝説があっておもしろい。先に紹介した長安寺塔の異形に比べればこちらはオーソドクスなスタイルである。基礎は直接地面に置かれているようで側面は四面とも豪快に切り離したままの感じを残す素面で、高さ約52cm、幅は155cmに及ぶ。低くどっしりとしたものである。塔身は軸部と首部が別石で、首部には匂欄が表現されている。軸部は裾がすぼまり肩の張った釣鐘状で上部を構成する曲面(饅頭型部)のアウトラインはスムーズだが側面はやや直線的で長安寺塔のように全体的にゆるく曲線を描かない。西側に二仏並座を扉型内に薄肉彫りしているが表面の風化が進行し像容は判然としない。04_5 残る三方は素面である。下半に匂欄を薄肉彫りで刻み出した首部の立ち上がりは垂直に近くしかも細長い感じで、巨大な笠に比較すると脆弱な印象は否めない。また、首部の横断面が正円形でなく、何となく多角形にも見える。首部と笠の間には別石の斗拱型を挟みこむ。斗拱型は平面方形で下端を水平に切り、中央に大きく首部を受ける円穴を穿ち、各辺を斜め切って繰形状に持ち送って側辺につなげる。五輪塔などの繰形台座を天地逆にしたような形状である。笠裏は一重の垂木型を設け、中央を方形にくぼめて斗拱型を受ける。笠の軒口は比較的薄く隅の反りは力強さよりも伸びやかな印象で軒中央と隅の厚みが変わらない。四柱の屋だるみも顕著でなく、隅降棟の突帯表現がない。ただし笠全体としてはそこそこ高さがあり扁平感はない。頂部の露盤は高めにしっかり表現されている。相輪はいわゆる番傘状で表面の風化も少なく明らかに後補であるので記述しない。下半を内斜に切った別石の斗拱型を笠下に挟み込む例は市内安曇川町常盤木三重生神社塔や守山市福林寺塔に、多宝塔では先に紹介した湖西市長寿寺塔や廃少菩提寺塔に類例があり、古い手法とされる。廃少菩提寺塔の仁治2年(1241年)銘がいちおうの参考になる。加えて低い素面の基礎、軒と屋だるみの形状、隅降棟突帯がない点、法華経見塔品に基づく宝塔本来の本格を示す軸部の二仏並座像など各部古様を示し、鎌倉中期に遡るものとして差し支えない。川勝政太郎博士は鎌倉中期とし「全体として鎌倉前期に近い様式を示す。…中略…近江に鎌倉時代の宝塔は多いが、その中でも形が大きく、年代も古い優作である。」と評価されている。瀬川欣一氏は「大吉寺の建長3年塔よりも以前に建てられた、県下では最大で最古に属する石造宝塔といえる」とされている。これに対し田岡香逸氏は建長3年(1251年)銘の野瀬大吉寺跡塔、志那中惣社神社塔、弘安8年(1285年)銘の最勝寺塔の各特徴を列記し、無銘の惣社神社塔を大吉寺跡塔と最勝寺塔の過渡形式として文永5年(1268年)頃と位置づけた上で、この満願寺跡塔を「惣社神社塔と最勝寺塔の過渡形式であることが容易に理解されよう」とし「建治3年(1277年)ごろのものと推定するのが、合理的な編年であることに論を俟たない。」とされる。しかし報文を読む限り「惣社神社塔と最勝寺塔の過渡形式」であることの具体的な説明がなされておらず、いまひとつ説得力に欠ける。志那惣社神社塔をもう少し古く考える小生としては田岡説を支持することはできない。小生は川勝、瀬川両氏による評価がより妥当と考える。後補の相輪が美観を損なっているが大きさの割に間延びしたようなところはなく、気宇が大きく各部の均衡もとれたまさに優品である。

参考

川勝政太郎 『新装版日本石造美術辞典』 248ページ

田岡香逸 『近江湖西の石造美術』(後)-勝安寺・鶴塚・樹下神社-「民俗文化」142号

瀬川欣一 『近江 石の文化財』 48~49ページ


滋賀県 東近江市長勝寺町 長勝寺宝塔

2007-09-08 08:38:30 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 東近江市長勝寺町 長勝寺宝塔

旧神崎郡能登川町の東方、愛知川の西に和田山がある。和田山は旧五個荘町にまたがる標高約180mの独立丘陵で、観音寺城の支城和田山城跡の遺構が残っている。ピークから西に伸びる尾根上にある長勝寺(臨済宗妙心寺派如意山長勝禅寺)へ向かう長い石段の参道を登ると、中腹に花崗岩製の石造宝塔が立っている。03_7 石垣状の基壇は後世のもの。基礎は側面3方に輪郭、格狭間内に三茎蓮華文を配する。背面のみ素面。基礎は背が高い印象だが基礎底面は不整形でどこから高さを測るかにより幅:高さ比のパーセンテージは変わるだろう。輪郭幅は薄く、三茎蓮華文は宝瓶を備えいずれも概ね対称的だが、3面それぞれ少しずつデザインを変え、なかなか凝っているが、格狭間に関しては、脚部が長めでハ字に開き、花頭中央が狭く、連続する弧から側線につづく曲線もややぎこちなく、意匠的には洗練されているとはいえない。塔身は首部と軸部の間に匂欄部を配した一石作りで、軸部はやや下端がすぼまり、上部饅頭型部分の曲線は弱い円筒形で、首部に比べ匂欄が高い。軸部正面にのみ鳥居型を大きく薄肉彫するほかは素面。笠裏の斗拱型は2段で上段はやや薄く、下段は厚いが幅は軒幅に比べ狭い。四柱の屋だるみ、軒反りともにかなりきついが、軒先の厚みがそれ程でもないので軽快な感じである。隅降棟は断面凸状突帯で、隣接する左右が露盤下で連結する。露盤は高い。相輪は第1輪以上を欠損し、無縫塔の塔身らしきものが載せてある。伏鉢・下請花の曲線は良好で、下請花は複弁。田岡香逸氏によれば素面の基礎側面に「嘉暦二年(1327年) 六月日/願主 阿闍梨…」の銘があるといわれるが肉眼で02_22は確認できない。基礎、匂欄、斗拱部といったディテールを高めにしているためか塔全体のフォルムが縦長で安定感に欠け、落ち着かない印象の意匠になっている。相輪は大半を欠損しているものの残存部を見る限りその表現は優秀である。現高約2.2mで元は10尺塔と思われ、規模も大きい。紀年銘とあいまって鎌倉末期の指標となる貴重な遺品である。

 なお、石段登口に右手に「一字一石血書法華塔」碑がある。 近世のもので、小石に法華経の一文字を書いて納めた一字一石の経塚は少なくないが、このように血書と明記したものは稀である。大勢の結縁者がそれぞれ血を混ぜた墨で文字を書いたのだろう。(一人でやると貧血で倒れそう…)法華経の文字数である万個弱の小石がこの下に埋めてあるのだろう。祖先の信仰への思いを伝えるものとして注目される。

先に紹介しました旧五個荘町の河曲神社や下日吉の山の脇の宝塔とは1km内外の至近距離にあり、それぞれに個性があって、構造形式や意匠の相違点や共通点を見比べてみるとおもしろいと思います。あわせて見学されることをお勧めします。

参考:田岡香逸 「近江能登川町の石造美術」(1) 『民族文化』55号

   瀬川欣一 『近江石の文化財』 129ページ


滋賀県 野洲市井ノ口 仏法寺宝篋印塔・千原神社宝塔

2007-08-18 12:08:07 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 野洲市井ノ口 仏法寺宝篋印塔・千原神社宝塔

旧中主町の井ノ口仏法寺と千原神社は境内を共有するように東西に隣接している。仏法寺の本堂南側に立つ石造宝篋印塔は、花崗岩製、高さ約235cmと大きく、基礎から相輪までほぼ完存する。直接地面に立ち、基壇等は見当たらない。06_6 基礎は壇上積式で、上端は複弁反花式である。各側面に大きく格狭間を配し、四面とも開蓮華をレリーフする。格狭間は、やや肩が下がり気味だが、全体によく整い、側線は滑らかで脚部は垂直に立ち上がり脚部間を幅広くとっている。上端の複弁反花は、抑揚のあるタイプで、両隅弁間に3弁を配し間弁はない。塔身の幅と高さはほぼ拮抗し、月輪を浅く彫りくぼめ、金剛界四仏の種子を薬研彫している。文字は端正な書体だが、タッチはやや弱い。月輪下に蓮華座を線刻する。笠は上6段下2段の本格式で、特に上6段はシャープな彫成をみせ、格段ほぼ垂直に立ち上げている。下2段の各段は、上6段に比べるとやや薄い。隅飾は、二弧輪郭付で、軒から入って直線的に外傾する。隅飾輪郭内に小月輪を陰刻し内に金剛界大日如来の種子と推定される「バン」を小さく薬研彫し配している。隅飾側面は8面とも同様である。相輪も完存し伏鉢は直線的なところはなく半球形を呈し複弁請花に続き、九輪は凹凸をはっきり刻み出している。上の請花は素面単弁で宝珠も完好な曲線を見せる。10_1 隅飾の1つに少し欠損がある外は各部完存し、表面の風化摩滅もあまり進んでおらず保存状態は非常に良好である。規模が大きく、全体に装飾的で、優れた彫技といきとどいた意匠表現は、優美さと端正さをバランスよく兼ね備え豪華な印象を与える。川勝政太郎博士によれば、基礎西側の束部分右に「文保三年(1319年)未己三月廿三日」左に「願主左衛門尉景光」の刻銘があるという。一方、田岡香逸氏は、右側を「永仁四年(1296年)申丙三月三日」としている。肉眼では、刻銘があることはわかるが判読は困難である。しかし伏鉢や宝珠と請花のくびれや、やや目立つ九輪の逓減率、外傾が目立つ隅飾、背の低い塔身など各部の特徴から典型的な鎌倉後期の整備形式を示し、文保3年が妥当と判断できる。宝篋印塔の多い近江でも屈指の名塔のひとつに数えられる。宝篋印塔から20mばかり東、千原神社の拝殿前、鳥居のすぐ西側に石造宝塔がある。長短の切石を方形に組んだ二重の基壇を備える。基壇上段の石材に半円形の窪みを設けて可動式にしてあるというが裏返しにでもなっているのだろうかよくわからない。旧中主町には、先に紹介した比留田蓮長寺宝篋印塔や兵主大社宝塔など切石基壇の部材にこうした工作を施した例が集中する。基壇下に埋納スペースを設け、基壇部材を引き出しのように動かし納骨などの行為を反復継続して行なったものと推定される。06_7 基礎側面は北側を除く3面に輪郭を巻き、南側と西側は格狭間を入れず輪郭内に三茎蓮を大きく浮き彫りにする。東側のみ格狭間を配し、開蓮華を大きくレリーフしている。花托の表現が明確でなく細長い花弁の組み合わせで表現される珍しい意匠で、「妙蓮式」とでもいうべきものである。格狭間は側線がやや角張った感じで硬い。塔身は軸部と匂欄部を設けた首部からなり、軸部は円筒状で南側のみに鳥居型を薄肉彫する。笠裏に2重の段形を設け、斗拱型を表現する。軒は厚く隅で力強い反りを見せる。四柱に屋だるみをもたせ、隅降棟を突帯で削り出し、露盤下で連結する。露盤は低い。相輪は九輪中ほど以上が欠損し、五輪塔の空風輪を載せてある。相輪の風化が激しく下請花の花弁は確認できない。基礎西側の輪郭束にあたる框部分両側に「文保三(1319年)/四月八日」の銘があり、(田岡氏は二月とする)文保三は肉眼でも確認できる。かつては社殿の北側にあったらしく、昭和30年11月末に現地を訪ねた川勝博士の昭和31年7月の『史跡と美術』264号における記述では「社殿背後に立つ」となっている。一方田岡香逸氏の昭和45年8月の『民俗文化』のレポートによれば「本殿の背後に建っていたが、昭和27年の洪水で土砂が流され、塔が傾いたので現在の場所に移したという-中略-移転にあたり、解体したところ基礎の下に円孔がうがたれ、白骨入りの素焼きの壺が出たので、本堂においてあったが、いま、所在不明という。」とのことである。これらの記述からは移建のはっきりした時期、「骨壷」が基礎の中から出たのか基礎下の埋納穴から出たのか判然としない。文保3年は4月28日に元応元年に改元されており、わずか数ヶ月の間に宝篋印塔と宝塔が相次いで造立されたことになる。

参考

川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』172ページ、同226ページ

田岡香逸 「野洲川改修地区調査資料 石造美術(3)後-中主町井ノ口-」『民俗文化』83号

川勝政太郎 「石造美術講義(12)」『史迹と美術』264号


滋賀県 愛知郡愛荘町蚊野外 御霊神社宝塔

2007-07-30 23:22:57 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 愛知郡愛荘町蚊野外 御霊神社宝塔

東近江市の小八木町を北に向かい宇曽川の金剛寺橋を渡ってすぐ西に蚊野外の御霊神社がある。社殿の約20m西方、周囲よりわずかに盛り上がった場所に石造宝塔が立っている。02_19 基礎は失われ、やや細長い不整形な自然石の平坦面の上に載せてある。思ったより大きいもので、基礎を失ってなお目測で高さ2m余。元は8尺ないし8尺半塔であったと推定される。花崗岩製。塔身は軸部、縁板(框座)、匂欄部を兼ねた首部を一石彫成している。軸部は若干胴張りぎみの円筒形で上下端を鉢巻状に彫り残し、側面中央の扉型を四方に細い陽刻帯で彫成している。扉型は、貫と額束がない変形の鳥居型ともいうべき形状である。饅頭型部はきわめて狭く、縁板(框座)は心もち厚い印象で欠損箇所が目立つ。珍しい意匠造形を示すのは匂欄部を兼ねた首部で、縁板部から太く立ち上がって段形を入れずに上にいくに従って細くなっていく。側面にやや縦長の方形の窪みを上下2列に交互に並べている。窪みは規則的に配され、田岡香逸氏も指摘されるように匂欄の欄干・桁を表現しようとしたものかもしれない。ところどころ規則性を失ってあたかも斗と肘木が組み合わさった斗拱の正面観を半肉彫に表現したように見える部分がある。湖西などの石造宝塔にしばしば見られる匂欄表現に比べると、これはやや稚拙で塔全体の格調を失わせているように思う。いずれにせよあまり他に例を見ないおもしろい意匠である。笠裏には三段の垂木型があり、一番上の段の垂木型が心もち薄い。軒先はそれほど厚くなく隅近くで反り上がる。屋根の勾配はそれ程急ではなく屋たるみも浅い。四注の隅降棟は断面凸状でなく断面半円形の突帯で低い露盤の下で連結する。相輪は伏鉢がやや高く、九輪を挟む請花は上下とも単弁式。花弁中央に設けた稜がシャープな印象を与える。九輪は七輪目で折れているがうまく接いである。凹凸をはっきり刻む。宝珠と上請花のくびれは大きい。軒反など曲線の滑らかさに欠け、全体にやや硬い感じを受ける。軸部南側、扉型の間に刻銘がある。肉眼でははっきり読めない。田岡氏は「元徳二年(1330年)二月六日/造立之」と判読されている。部分的に小さい欠損はあるが表面の風化の程度は少なく、保存状態良好である。相輪が残っているものの基礎が失われている点は惜しまれる。規模が大きく、首部(兼匂欄部)の独創的な意匠や、紀年銘がある点は貴重。社殿から少し離れた雑木林内に隠れるように佇む湖東の名塔のひとつである。

参考: 田岡香逸 「近江湖東の石造美術」 『民俗文化』73号