滋賀県 野洲市井ノ口 仏法寺宝篋印塔・千原神社宝塔
旧中主町の井ノ口仏法寺と千原神社は境内を共有するように東西に隣接している。仏法寺の本堂南側に立つ石造宝篋印塔は、花崗岩製、高さ約235cmと大きく、基礎から相輪までほぼ完存する。直接地面に立ち、基壇等は見当たらない。 基礎は壇上積式で、上端は複弁反花式である。各側面に大きく格狭間を配し、四面とも開蓮華をレリーフする。格狭間は、やや肩が下がり気味だが、全体によく整い、側線は滑らかで脚部は垂直に立ち上がり脚部間を幅広くとっている。上端の複弁反花は、抑揚のあるタイプで、両隅弁間に3弁を配し間弁はない。塔身の幅と高さはほぼ拮抗し、月輪を浅く彫りくぼめ、金剛界四仏の種子を薬研彫している。文字は端正な書体だが、タッチはやや弱い。月輪下に蓮華座を線刻する。笠は上6段下2段の本格式で、特に上6段はシャープな彫成をみせ、格段ほぼ垂直に立ち上げている。下2段の各段は、上6段に比べるとやや薄い。隅飾は、二弧輪郭付で、軒から入って直線的に外傾する。隅飾輪郭内に小月輪を陰刻し内に金剛界大日如来の種子と推定される「バン」を小さく薬研彫し配している。隅飾側面は8面とも同様である。相輪も完存し伏鉢は直線的なところはなく半球形を呈し複弁請花に続き、九輪は凹凸をはっきり刻み出している。上の請花は素面単弁で宝珠も完好な曲線を見せる。 隅飾の1つに少し欠損がある外は各部完存し、表面の風化摩滅もあまり進んでおらず保存状態は非常に良好である。規模が大きく、全体に装飾的で、優れた彫技といきとどいた意匠表現は、優美さと端正さをバランスよく兼ね備え豪華な印象を与える。川勝政太郎博士によれば、基礎西側の束部分右に「文保三年(1319年)未己三月廿三日」左に「願主左衛門尉景光」の刻銘があるという。一方、田岡香逸氏は、右側を「永仁四年(1296年)申丙三月三日」としている。肉眼では、刻銘があることはわかるが判読は困難である。しかし伏鉢や宝珠と請花のくびれや、やや目立つ九輪の逓減率、外傾が目立つ隅飾、背の低い塔身など各部の特徴から典型的な鎌倉後期の整備形式を示し、文保3年が妥当と判断できる。宝篋印塔の多い近江でも屈指の名塔のひとつに数えられる。宝篋印塔から20mばかり東、千原神社の拝殿前、鳥居のすぐ西側に石造宝塔がある。長短の切石を方形に組んだ二重の基壇を備える。基壇上段の石材に半円形の窪みを設けて可動式にしてあるというが裏返しにでもなっているのだろうかよくわからない。旧中主町には、先に紹介した比留田蓮長寺宝篋印塔や兵主大社宝塔など切石基壇の部材にこうした工作を施した例が集中する。基壇下に埋納スペースを設け、基壇部材を引き出しのように動かし納骨などの行為を反復継続して行なったものと推定される。 基礎側面は北側を除く3面に輪郭を巻き、南側と西側は格狭間を入れず輪郭内に三茎蓮を大きく浮き彫りにする。東側のみ格狭間を配し、開蓮華を大きくレリーフしている。花托の表現が明確でなく細長い花弁の組み合わせで表現される珍しい意匠で、「妙蓮式」とでもいうべきものである。格狭間は側線がやや角張った感じで硬い。塔身は軸部と匂欄部を設けた首部からなり、軸部は円筒状で南側のみに鳥居型を薄肉彫する。笠裏に2重の段形を設け、斗拱型を表現する。軒は厚く隅で力強い反りを見せる。四柱に屋だるみをもたせ、隅降棟を突帯で削り出し、露盤下で連結する。露盤は低い。相輪は九輪中ほど以上が欠損し、五輪塔の空風輪を載せてある。相輪の風化が激しく下請花の花弁は確認できない。基礎西側の輪郭束にあたる框部分両側に「文保三(1319年)/四月八日」の銘があり、(田岡氏は二月とする)文保三は肉眼でも確認できる。かつては社殿の北側にあったらしく、昭和30年11月末に現地を訪ねた川勝博士の昭和31年7月の『史跡と美術』264号における記述では「社殿背後に立つ」となっている。一方田岡香逸氏の昭和45年8月の『民俗文化』のレポートによれば「本殿の背後に建っていたが、昭和27年の洪水で土砂が流され、塔が傾いたので現在の場所に移したという-中略-移転にあたり、解体したところ基礎の下に円孔がうがたれ、白骨入りの素焼きの壺が出たので、本堂においてあったが、いま、所在不明という。」とのことである。これらの記述からは移建のはっきりした時期、「骨壷」が基礎の中から出たのか基礎下の埋納穴から出たのか判然としない。文保3年は4月28日に元応元年に改元されており、わずか数ヶ月の間に宝篋印塔と宝塔が相次いで造立されたことになる。
参考
川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』172ページ、同226ページ
田岡香逸 「野洲川改修地区調査資料 石造美術(3)後-中主町井ノ口-」『民俗文化』83号
川勝政太郎 「石造美術講義(12)」『史迹と美術』264号