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石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 蒲生郡日野町西明寺 西明寺宝塔ほか

2007-07-17 23:24:37 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 蒲生郡日野町西明寺 西明寺宝塔ほか

西明寺の本堂裏手の山の斜面に平坦に整地して墓地がある。歴代住職の墓所で、中央に近世の無縫塔が並ぶ中、向かって右手(南東)に一際立派な宝塔がある。02_18 高さ約185cm、花崗岩製で、自然石を並べて区画した土壇上に、直接地面に据えられている。基礎は高すぎず低すぎず、四方側面とも輪郭を巻きその中いっぱいに大きく格狭間を配している。格狭間内は素面とする。下端は不整形で輪郭の幅は狭く、格狭間は側辺の曲線は豊かでスムーズ、花頭曲線中央を伸びやかに広くとって、肩の下がりもない。脚部は非常に短く間隔が広い。輪郭、格狭間の彫りは浅く、内部はほぼ平らに彫成し古調を示している。基礎の上端中央に円形の塔身受座を薄く削りだしているのは珍しい。先に紹介した栗東の出庭神社宝塔や湖西方面に若干例がある。塔身は一石彫成の軸部と首部からなり、首部は2段になって下段は匂欄部に相当する。軸部は微妙に下がすぼまり上部が少し太い円筒形で、饅頭型部のスムーズで隙の無い曲面とあいまって、やや肩の張った背の高い棗形を呈する。正面には扉型を帯状線刻により表現している。匂欄部に文様はなく、首部ともに垂直に立ち上がってシャープな印象を与えている。笠裏中央の円穴で首部を受けている。笠裏には一重の垂木型を刻みだす。軒先は厚過ぎず、隅に行くに従い力強い反りを見せる。露盤は高く、隅降棟は通例のように左右と中央の3条に分れ中央を高くする断面凸状にならず、単条でかまぼこ状に断面半円の帯状突帯とし、軒先にいくに従い徐々に高さを増していく。軒先近くでは幅より高さが勝るまでになっている。露盤下で隣接する左右の隅降棟の突帯が連結する手法は通例どおりである。相輪は3つに折れ、伏鉢と下請花、九輪の四輪までが笠上にあり、残りは傍らに置いてある。伏鉢は低く、下請花が大きく、九輪は線刻に近く凹凸がハッキリしない。先端に珍しく水煙を表現し、竜車はなく請花と宝珠に続く。相輪上下の請花は花弁を刻まない素面。宝珠は重心が低く古調を示す。造立年代は無銘なので不詳とするしかないが、田岡香逸氏は、基礎の幅:高さ比を在銘の鎌掛正法寺塔(正和4年(1315年))、甲良町西明寺塔(嘉元2年(1304年):同名なので紛らわしいがこちらは湖東三山「池寺」の西明寺)と比較し1320年ごろと推定されている。しかし、各部が揃っているのに、あえて基礎の幅:高さ比のみを根拠にするにはもう少し慎重になるべきだと思う。輪郭内にいっぱいに整った格狭間を描く基礎の特徴、背が03_6高く絶妙な曲線を描く塔身のフォルム、個性的な笠の隅降棟の意匠、水煙を作り付け下膨れの宝珠を持つ相輪など、全体に古調を示し、定型化直前の様相を示すといえる。鎌倉中期の終わりごろから後期初め頃、だいたい13世紀後半から末頃と考えていいのではないかと思う。ところどころ個性的な特徴がみられるが、意匠造形には確かなものが観取され、全体として格調高い美しさをたたえる湖東地方でも屈指の優品といえる。各部揃っている点も貴重である。また、墓所の北西側には宝篋印塔がある。花崗岩製。一見そろっているようだがよく見れば寄せ集めで、塔身には一石一字法華経塔の文字があり、近世の経塚である。 古い部分は笠と基礎だけで、塔身と相輪、基礎上の反花座は明らかに近世の後補である。笠は上6段下2段、軒と区別した隅飾は二弧輪郭付きで、正面隅飾内に二弧隅飾形を平らに削り出した珍しい意匠がある。田岡氏は隅飾の幅:高さ比の類似性から旧蒲生町合戸立善寺の文保2年銘(1318年)塔に近いころの造立年代を推定されている。基礎は段形を持たないので宝塔の基礎と考えるのが適当である。壇上積式で、四方側面に格狭間を配し、正面のみに宝瓶を伴う三茎蓮を入れる。格狭間の彫りは深く、側辺の曲線はスムーズな弧を描き柔らかいが、若干肩が下がり気味である。保存状態良好で正面束両側に「乾元二年(1303年)卯癸四月日/奉造立」の刻銘04_4 が肉眼でも判読できる。 南東側の宝塔基礎と比べてみると、幅:高さ比はより低く古調を示すが、格狭間の形状や彫りの深い手法は逆にやや新しい。乾元という年号は2年まであるものの、実質10ヶ月程の期間しかないため、田岡氏の「残欠とはいえ、希少年号を持ち、構造手法が優秀で、保存がよいなど、貴重な遺品というべき」という指摘は、実に的を射ている。西明寺の境内には中世に遡る箱仏や小形五輪塔が多数見られる。特に小石仏の可憐な表情が印象的である。看板によれば近くの蓮台野という中世墓跡からの出土品を集めてあるとのことである。

参考:田岡香逸 『近江の石造美術3』 29~30ページ、36~38ページ


滋賀県 栗東市蜂屋 蜂屋共同墓地宝塔

2007-07-04 23:48:35 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 栗東市蜂屋 蜂屋共同墓地宝塔

名神高速道路栗東インターチェンジと国道1号線、8号線の合流点の北方にあり、さすがに昔も今も交通の要衝でならす栗東だけあって周辺は国道沿いに開発が進み、昔ながらの田園風景は急速に失われつつある。済生会滋賀県病院の大きい建物の北側にひっそりと小さい墓地がある。隣地は病院の駐車場となっているが、西側から北側にかけて水田が広がり、田んぼの中にポツンと墓地があった様子がよくわかる。墓地は蜂屋と大橋にまたがっており、両集落の共同墓地だという。墓地の中央、葬送儀礼を行なう棺台と香花台のある覆屋根施設の北東側に接続する小祠内に目を見張るような立派な宝塔がある。01_11 花崗岩製で、現高目測約2m。輝くような白っぽい石質が魅力をいっそう際立たせている。手前に立つ方柱状の献花立一対と六字名号碑、それに塔身下の基礎は近世から現代のものである。後補の基礎の下にあるのが本来の基礎と思われ、背面(確認できない)を除いて素面で、幅に対する高さの比は小さく安定感のある形状で、下方にやや欠損がみられる。塔身との間に後補の基礎が挟みこまれ、コンクリートで上下の隙間を固めてある。塔身は軸部と首部からなり、縁板(框座)や匂欄はない。軸部は背が高く、上下がすぼまり中央が太い胴の張った円筒形で、側面の描く曲線は実にスムーズで直線的なところは全くない。軸部上端はほぼ水平に切って饅頭型部を設けず首部に続く。軸部側面の絶妙な曲線を断ち切って対照的な直線で首部につなげていく造形は秀逸で、肩の縁の角はシャープで美しい。首部は比較的太く立ち上がり、上にいくに従ってかなり急に太さを減じていく。塔身のフォルム、特に軸部上端から首部にかけての処理は守山市の志那惣社神社塔によく似ている。軸部正面に舟形光背を彫り沈め、その中に蓮華座に座す如来像を大きく半肉彫している。摩滅が比較的少なく、肉髻はハッキリ確認でき首の辺りには三道らしき線も見える。02_16 胸のあたりに差し上げた両手先は離れ、定印や合掌印でないことも見て取れる。転法輪印と思われる。釈迦ないし阿弥陀如来であろう。笠は全体に平べったく、屋根の勾配、軒の反りともに緩く伸びやかな印象で、軒先はやや厚く全体に反って真反に近い。笠裏は素面で垂木型は認められない。露盤や四注の隅降棟も明確でない。降棟は狭く低いそれらしい突帯のようなものがあるようにも見える。相輪は摩滅が激しく、祠外からの観察では確認できないが九輪の上部2輪と上請花、宝珠ではないかと思われ、宝珠は下半を切り落とした蕾状で、本来のものか否か不明だが、祠外からのこの観察が正しければ基礎から相輪まで、どの部分をとっても古風で、造立年代は、紀年銘が確認できない以上不詳とするしかないが、鎌倉後期に下る要素はない。平らで低い笠の伸びやかな軒、真反に近い軒先、03_4 背の高い塔身の形状、素面で低い基礎、押しつぶしたような宝珠の形状などから鎌倉時代中期、建長3年(1251年)銘の大吉寺塔や志那惣社神社塔と相前後する13世紀半ばから後半の造立と推定したい。近江の宝塔の中でも屈指の古さと美しさを併せ持つ素晴らしい宝塔である。とりわけ塔身から笠にかけて醸し出される雰囲気には石造宝塔ならではの格別の味わいがある。なお、笠は五輪塔の火輪の可能性も否定できないが、田岡香逸氏の報文によれば、「屋根の上端も水平に切り枘穴の痕跡もとどめていない」とのことであり、火輪にしては背が低く過ぎることも考慮すれば田岡氏もおっしゃるように、宝塔のものと見るほかないだろう。また、田岡氏は、露盤を造りつけた相輪を載せていたものと推定され(相輪を除く古い部分の残存高は約153cm)、元は8尺塔であろうとされる。ちなみに軸部の胴張り形状、笠の屋だるみがやや反転すること、如来坐像の像容から1295年ごろのものと推定されている。弘安8年(1285年)銘の最勝寺塔の構造形式の整備化が進んだ細部意匠と比較して10年も新しいものとは考えにくいがいかがであろうか。

蜂屋集落の東寄り、西方寺前の小川べりには仁治2年(1241年)銘の石仏があり、ぜひあわせて見学されることをお勧めしたい。

参考:田岡香逸「近江野洲町・栗東町の石造美術(後)」『民俗文化』115号


滋賀県 大津市北比良 樹下神社・天満宮宝塔

2007-06-22 23:45:08 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市北比良 樹下神社・天満宮宝塔

国道161号の西、境内を共有して北に天満宮、南に樹下神社が並んでいる。長い参道を進み社殿の背後、ちょうど両方の社殿裏手の中央の石垣の際に立派な石造宝塔が立っている。08_4 花崗岩製。相輪を欠き、力石か何か用途不明の加工石を代わりに載せてある。基壇はみられず直接地上に置くかれた基礎は西側背面が素面で、残る三方の側面は彫りの深い輪郭と格狭間で飾り、格狭間内にどれもよく似たデザインの三茎蓮を陽刻する。基礎は幅に対する高さの比率がやや大きめである。輪郭は左右が広く、格狭間は花頭部分中央が狭く左右の拡がりに欠ける。しかし側線に硬さはなく肩も下がらない。脚部が少し長く、ハの字に開く。塔身は軸部、饅頭型部、匂欄部、首部を一石で彫成し縁板(框座)はない。軸部はやや下すぼまりの円筒状で三方に鳥居型を薄肉彫に陽刻している。饅頭型に当たる部分曲面から匂欄部、首部へのつながりが実にスムーズで、優れたバランス感覚と高いデザイン性を示している。笠裏には2段の垂木型を刻みだし、笠全体の幅に対する高さの比率が小さく伸びやかな屋根の勾01_8配を見せる。軒は分厚く力がこもった軒反が重厚感を与えている。四注の隅降棟の断面凸状の突帯の中央の出っ張りが明確でないのは意図的な意匠と思われる。露盤は高めに削りだされて笠全体を引き締めている。相輪を欠いて現高約1.7mで元は8尺塔であろうか、規模も大きい。相輪の欠損が惜しまれるが、各部の均衡が絶妙で、素晴らしい出来ばえである。保存状態も良好。石造宝塔の多い湖西にあっても最も美しい宝塔のひとつに上げることができる。無銘のため造立年代は不詳とするほかないが、屋根の勾配が緩く軒の厚い笠の形状、塔身に縁板(框座)が見られない点は古い要素であり、基礎がやや高く輪郭の彫りが深い点は新しい要素である。規模が大きく全体から受ける力強い重厚感と精緻なバランス感覚を考慮し、小生は鎌倉後期、14世紀前半でも早い時期のものと推定したい。なお、田岡香逸氏は鎌倉末期1330年頃の造立と推定されている。

参考

田岡香逸「続近江湖西の石造美術(後)-安曇川町・志賀町・大津市」『民俗文化』146号


滋賀県 高島市安曇川町下小川 国狭槌神社宝塔

2007-06-21 21:58:34 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市安曇川町下小川 国狭槌神社宝塔(2基)

中江藤樹書院跡から南東約400m、下小川の集落の西北に国狭槌神社がある。明るく広い境内が印象的である。神社入口の右手、石柱を並べ区画した玉垣内に立派な石造宝塔が東西に並んでいる。17_2 いずれも花崗岩製で、ともに相輪上部を欠損する現状で高さおよそ210cmと大きく、元は8尺半ないし9尺塔と思われる。どちらも直接地上に置かれ基壇は確認できない。東側のものを東塔、西側のものを西塔と便宜上呼ぶ。

西塔:22 基礎は背が高く、東、北側は素面、西側と南側は輪郭付格狭間内に三茎蓮を薄肉彫りする。輪郭の彫りは浅い。格狭間の彫りも浅めで、花頭部分は中央部分の幅が狭い。三茎蓮は格狭間内いっぱいにしっかりと浮き彫りされ、左右対称式である。塔身は軸部と首部の間に縁板(框座)と匂欄部を入れて区別する。軸部はやや下すぼまりの円筒状で、縁板の突帯を周回させ、匂欄部は垂直に立ち上げ、さらに一段細くして首部に続く。軸部には鳥居型を薄肉突帯状に陽刻する。鳥居型は東側を除く3方に見られる。軸部径と框座の縁板部の径はほぼ等しく、くびれを入れて両者を区切っている。匂欄部は軸部上部のくびれの径にほぼ同じ太さで框座から立ち上げるためかなり太めで、しかも厚みというか高さがあって手摺や束が刻まれた痕跡が認められる。首部は素面で匂欄部が厚い分短く感じる。塔身全体に抑揚がなく、いわゆる「ずんどう」の印象がある。しかしこの塔の最大の特徴は笠の軒反にある。笠裏は宝篋印塔の段形を思わせる2段を刻みだし斗拱型とし、軒が非常に厚くしかも隅にむかって上端が極端に厚みを増していくが下端の反りわずかである。軒の四隅が尖って見える。これは五輪塔の火輪であれば江戸時代の形式であるが四柱の隅棟の先が反りあがった軒の上端先端に続いていく点は江戸時代に普遍化する形式と異なる。屋根の勾配は急で、隅降棟は断面凸状の突帯をなし露盤下を経て連結している。露盤は四面素面で高からず低からずほぼ垂直に立ち上げる。相輪は九輪の三輪までが残り先端は折れて亡失する。風化が激しいが伏鉢は低くスムーズな曲線を描き、下請花は単弁と思われる。九輪は凹凸をはっきり刻みだすタイプのものである。銘は確認できない。

東塔:基礎の幅に対する高さの割合は高からず低からずで、西塔に比べるとやや背は低い。20_3 3面に彫の浅い輪郭を巻いて格狭間を入れ、三茎蓮を陽刻する。輪郭は左右が広く、上下が狭い。格狭間は左右の広がりがいまひとつで基礎の側面面積に比較して格狭間の占める面積が小さく、左右の空間を広くとっている。三茎蓮は格狭間内に大きく表現され、茎が平行に立ち上がる。北側は素面で下端中央に径15cmほどの半円形の穴がある。塔下に何らかの埋納施設があったことは疑いない。塔身は軸部、縁板(框座)部、匂欄部、首部に区別される。軸部はやや下すぼまりぎみの円筒状で素面の北側を除いて三方に鳥居型を薄く陽刻帯で刻みだす。軸部上部は曲面をもたせてくびれ框座に続く。この曲面は饅頭型と呼ぶには狭すぎる。このくびれ部分の曲面は西塔よりもスムーズである。框座部の径は軸部よりもやや大きい。匂欄部は框座から垂直に立ち上げ径は軸部のくびれ部に比べ小さい。匂欄部には架木や平桁などが刻みだされ手が込んでいるが、北側は軸部や基礎と同じく素面のままとしている。匂欄部は高さがある。首部は匂欄部に比べかなり細く笠のボリュームを考えると華奢な感は否めない。塔身各部の太さにバリエーションをつけているためか西塔のような「ずんどう」感はない。笠と首部の間に別石で2段の斗拱型を入れている点も西塔との違いである。斗拱型の段形は厚めで細い首部につなげていくためか逓減率が大きい。底面に円形の穴を穿って首部を受ける。笠裏には斗拱型上端のサイズにあうよう方形に窪みを作って斗拱型を受けている。笠の軒は厚く、西塔ほどではないが上端の反りが顕著で隅にいくに従って厚みを増している。四注の隅降棟は露盤下で連結する断面凸状の突帯で幅と厚みがある。露盤は四面素面で、だらだら屋根につながる感じではなくきっぱり立ち上げている。相輪は風化が激しく、九輪の四輪目まで残り先端部は欠損している。伏鉢と下請花のくびれが大きいが曲線はスムーズで硬さは感じられない。伏鉢と下請花のくびれ部分で折れたのを補修してつないである。下請花は単弁のようである。九輪の刻み込みははっきりしているタイプである。露盤上端の広さに比べ伏鉢が小さい。銘文は確認できない。規模、基礎、塔身、笠どの部分を見ても意匠や手法、構造形式が定型化し退化に向かう様子は感じられず、鎌倉後期の特徴を遺憾なく発揮しているといってよく、基礎輪郭の左右を広くとって格狭間の左右を空けている点、厚く力強い軒の反りの調子、垢抜けない別石の斗拱型あたりに古い要素をみる。一方、西塔は笠の軒反が一見江戸時代風であるが、これは定型化以前の自由な個性の発揚と見るべきで、基礎輪郭の彫りが浅く左右の空間を広めにとった格狭間の形状は鎌倉後期でも古い特徴を示す。三茎蓮の表現にも力がこもり、円筒形の塔身や鳥居型も新しい要素ではない。一方框座がある点は定型化の兆しを示し、屋根の勾配が急で基礎がやや高いことは新しい要素である。斗拱型を別石にせず、塔身軸部や軒反など東塔に比べ硬さがみられることから後出とみてよい。これらの特徴を総合的に判断して鎌倉時代後期、14世紀初頭から前半ごろ、東塔、西塔の順に造立されたものと推定したい。田岡香逸氏は東塔を1305年頃、西塔もほぼ同時期で若干新しいとされている。素晴らしい宝塔が並ぶ様子はまさに壮観である。

写真(遮蔽物が多くいい写真が撮れない)

上:東西に並ぶ宝塔(ひとつぶで二度おいしい)、中:西塔、下:東塔

参考:

田岡香逸「続近江湖西の石造美術(前)-安曇川町・志賀町・大津市」『民俗文化』145号


滋賀県 東近江市五個荘河曲町 河曲神社宝塔

2007-06-08 06:50:19 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 東近江市五個荘河曲町 河曲神社宝塔

先に紹介した五個荘日吉町山の脇(廃天王社跡)宝塔から東に1.5kmほどのところ、河曲町集落にある河曲神社の鳥居のすぐ西側、生垣の脇に石造宝塔がある。規模はそれ程大きくないが、よくまとまった美しさを見せ花崗岩の白さが清浄感を与える。02_14 竹垣で囲まれ保護されている。傍らには一石五輪塔が置かれ、案内看板が立ててある。旧五個荘町指定文化財とのことなので合併後の東近江市でも文化財指定されているはずである。基壇はみられず、直接地面に据えられている。基礎はやや背が高く、四面とも輪郭付きで内部に格狭間を入れ、北側の左右束部分に右から元徳三年(1331年)八月/辛未願主、その中間の格狭間内に貞弘□と刻銘があり、文字は比較的大きく肉眼でも確認できる。他の面も含め格狭間内に近江式装飾文様は見られない。輪郭、格狭間ともに彫りは浅めで、格狭間の側線はふくよかで美しいカーブを描くが花頭部分の両肩が下がっている。塔身は円筒状の軸部の上下に突帯を周回させ、その間の四面に上下の長押と左右の方立、中央の定規縁を表した扉型を薄肉突帯で表し、短い饅頭型の上に框座の円盤状の突帯を廻らせる。框座に続く匂欄部を垂直に立ち上げ、さらに一段細くして首部につなげている。笠は首部を笠裏中央の円孔で受け、二重の垂木型を削りだしている。軒は隅に向かって厚みを増しながら強めに反るが、軒自体そんなに厚いものではなく重厚感や豪放感に欠ける。笠は全体として背が高く、屋根の勾配もやや急で、広めにとった頂部には露盤が薄めに削りだされている。隅降棟は断面凸形でやや幅が広く、彫が浅い。隣り合う四柱の降棟突帯は露盤下で連結する。相輪は九輪の八輪までが残り、その先は欠損している。伏鉢が円筒状で、下請花は摩滅気味で単弁が複弁かはっきりしないが浅めで太い九輪部につながっていく。九輪は凹凸のはっきりするタイプである。ただし、この相輪は石材の色が茶色っぽく、風化の程度や質感も笠以下と異なるため、別物と考えられているようである。ただしバランスは悪くない。相輪を含め高さ約150cm、含めずに約115cm。花崗岩製。鎌倉末期の紀年銘を持ち、基礎に近江式装飾文様がないものの、塔身、笠の構造形式は近江でよく見かけるスタイルで、こうした形式化が14世紀前半には整っていたことを示す。時代推定の基準を示すメルクマルとして貴重。

参考:

池内順一郎 『近江の石造遺品』(上) 372ページ、414ページ

五個荘町史編纂委員会 『五個荘町史』 861ページ


滋賀県 湖南市正福寺 川田神社宝塔

2007-06-04 21:16:31 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 湖南市正福寺 川田神社宝塔

先に紹介した正福寺(永厳寺跡)から西に約1km、街道の南に川田神社の森が見える。社殿の北西、玉垣外の林の中に石造宝塔がある。02_13 白っぽい良質の花崗岩製。高さは約225cmで7尺半塔、切石を組み合わせた基壇の上部が落葉や腐葉土からのぞいている。基壇ともで8尺になろうか。基礎はやや背が高く西と南2面だけ輪郭を巻き内に格狭間を飾り東と北は素面である。格狭間内は素面で近江式装飾文様は見られない。輪郭の幅は狭い方で上下左右に大差がない。比較的大きくよく整ったシャープな印象の格狭間は、肩が下がらず内面の膨らみも見られない。塔身は軸部と首部一石よりなり、框の突帯、扉型、匂欄などの装飾のない素面でシンプルさがかえってすっきりした好印象を与える。笠は笠裏の円孔で塔身首部を受け、一重の垂木型を刻みだし、軒は厚く隅に向かって少し厚みを増して適度な反りを見せる。隅降棟は断面凸状の突帯となり、隣接する四柱がどうしの突帯が露盤下を通じて連結する。隅降棟表現としてはやや形式的で稚拙な感じを受ける。露盤下の笠頂部を広めにとっているので四注部分が寸詰まった感じで勾配はきつめになっている。笠頂部には高めの露盤がほぼ垂直に立ち上がり笠全体をうまく引き締めている。相輪は九輪部の四輪目と五輪目の間で折れているがうまく接がれ完存している。伏鉢はやや円筒形で下請花は複弁反花式で薄く、九輪との太さの差があまりない。上請花は単弁、九輪の凸凹がはっきりするタイプだが溝は少し浅い。宝珠は高さがあって球形に近い。全体として風化の程度も低く保存状態良好で、何より各部材が完存している点が嬉しい。銘文は確認できない。造立時期について川勝博士は鎌倉、池内氏は鎌倉末期、神社社殿前の案内看板には南北朝と諸説ある。軒反の強さ、素面のシンプルな塔身や格狭間の特徴は古調を示す一方、基礎はやや背が高く、相輪の伏鉢から下の請花辺りにかけてやや硬さがあるように思う。小生としては池内氏のご説のとおり鎌倉末期頃のものだろうと考える。市指定文化財。

参考

川勝政太郎 『近江 歴史と文化』 90ページ

池内順一郎 『近江の石造遺品』(下) 361ページ、402~403ページ


滋賀県 草津市志那中町 惣社神社宝塔

2007-06-03 19:53:22 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 草津市志那中町 惣社神社宝塔

志那中町集落の東よりに惣社神社がある。このあたりにはかつて大般若寺という寺院があり、01_7江戸時代に描かれた大般若寺絵図が神社に伝わり、境内東北隅に伊富岐社という鎮守社が絵図にあってこれが現在の惣社神社にあたり石造宝塔も描かれているという。室町時代(嘉吉元年(1441年))に書かれたとされる「興福寺官務牒疏」によれば天武帝勅願、定恵開基、弘仁五年(814年)願安が中興、保延三年(1137年)再興という。「興福寺官務牒疏」の内容を鵜呑みにはできないが、南都系の中世寺院であったようで保延四年書写の大般若経の一部が神社に残されているという。(※1)宝塔は社殿の南隣、玉垣外に立つ。花崗岩製で現高約220cm。元は9尺塔であろう。基礎は非常に低く、西側正面のみに二区の輪郭を巻き格狭間を入れ、残りは素面とする。向かって右の輪郭は大きく剥落して確認できないが、左の輪郭内の格狭間は、花頭部分の左右カプス03_2が1つづつしかない。塔身は背が高く下がすぼまって重心を肩近くにおく棗形で、饅頭型部は、軸部上部を平らに整形し角を丸めた程度で、そこから太い首部が内傾して立ち上がる。正面にのみ大きく鳥居形の扉型を薄く帯状に陽刻しているほかは素面である。笠との間に平面方形二段の斗拱部を別石で挟みこんでいる。斗拱部の段形は04_1厚く、軒先の厚みと大差がない。笠裏は素面で隅の軒反りはごくわずかであるが、上端の軒反りは力強い。笠は低く屋だるみは緩く伸びやかな印象で、隅降棟を作らない。頂部に低い露盤を削りだす。相輪は4輪までが残存し、風化が激しい。一具のものと見て支障なさそうである。伏鉢は低くその上の請花とのくびれは弱い。請花は単弁反花のようで、九輪部の凹凸がはっきりするタイプのようである。造立年代について川勝博士は鎌倉中期、田岡香逸氏は「これを大吉寺02_12塔と比較するとき、一段と進化していることが明らかであり、最勝寺塔に比較すると、おのずから先行形式であることが理解されよう。つまり二塔の過渡形式であることに疑う余地がない」(※2)として文永5年(1268年)ごろと推定されている。非常に低い基礎、二区に分割した輪郭に異形格狭間を配する点、隅降棟を設けず勾配の緩く低い笠、斗拱部の朴とつとして洗練されない感じ、背の高い塔身の雄大な鳥居形の扉型、いずれも定型化以前の古調を示し、小生もやはり鎌倉中期、概ね13世紀中葉と推定したい。しかし「近江の宝塔中でも異色あるもの」(※1)と川勝博士が指摘するように、鎌倉中期から後期にかけて定型化し普及する大吉寺塔から最勝寺塔へ続く宝塔のデザイン系統とは少し異質なものを感じ、田岡氏がいうように二塔の過渡形式とすることには抵抗感がある。小生は別石斗拱型や扉型があることを理由に、扉型や別石斗拱型のない建長3年(1251年)銘の大吉寺塔より明白に新しいと判断するにはもう少し慎重になった方がよいのではないかと思う。斗拱型部を除いた全体のプロポーションは平安末期の沢津丸塔や鎌倉前期とされる京都東山の安養寺塔を髣髴させる惣社神社塔の方が大吉寺塔よりもむしろ古調を示すし、近江式装飾文様を備えた輪郭付き(一区)格狭間という定型化のアイテムは惣社神社塔にはなく大吉寺塔にあるのだから。

 

参考

※1 川勝政太郎 「石造美術講義(12)」 『史迹と美術』264号 233ページ

※2 田岡香逸 「近江湖西の石造美術」(後) 『民俗文化』142号


滋賀県 東近江市五個荘日吉町 山の脇(廃天王社跡)宝塔

2007-06-03 08:58:58 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 東近江市五個荘日吉町 山の脇(廃天王社跡)宝塔

旧五個荘町の北端、下日吉(現在は五個荘日吉町)の西方、民家の横の細い道を裏山の方に30mばかり山林を入っていった場所に立派な石造宝塔がある。01_10 小字は山の脇というらしい。山裾の緩斜面の平坦地に直径10mほどの湿地があり、その中央に自然石の石組を敷いた径2mほどの島状高まりがあり、宝塔はそこに立っている。土地の人に尋ねないとちょっと分からない場所である。繖山の山塊の北端近く東側の山裾にあたる。元は現在地より10mほど北側にあったらしく移動に際してかどうかは不詳だが塔下を発掘したが何も検出されなかったという。当時滋賀県教委の文化財担当であった若き日の水野正好奈良大学名誉教授が実測されたとのことなので1960年代のことだろう。付近は天王社という小祠の跡地らしい。花崗岩製で、相輪先端の請花と宝珠を欠いて高さ約2m。元は7尺半ないし8尺塔であろう。基礎は西と南は素面、残る二面は輪郭を巻いて大きめの格狭間を入れ、内側を三茎蓮で飾る。格狭間は花頭曲線・側線の曲線とも概ね破綻のない整いを見せるが、東側面の一番外側の小弧が若干下がり気味で、北側側面の側線に少し硬さがある。三茎蓮は格狭間内に大きく配され、優れた出来映えを示す。二面ともほぼ同じ左右対称式だがよく見ると左右の葉の角度が微妙に異なっている。下端は腐葉土に埋まって確認できないが輪郭の幅には上下左右にさほど差は認められない。塔身は一石よりなり、軸部はやや胴張りぎみの円筒状で上下に2条の平行線刻帯を鉢巻き状に廻らせ、東側のみ左右の方立と中央の定規縁と上下の長押を帯線で表現した扉型を刻みだしている。饅頭型部の曲面は狭く、内傾気味に素面の首部を立ち上げる。笠は低からず高からず屋根の適度な勾配を見せ、底面に一重の垂木型を彫りだす。軒先は厚く隅に行くに従って厚みを増しながら力強く反り、下端より上端の反りが強い。02_11 隅降棟にはわずかに照りむくりが見られ、断面凸状の隅棟の突帯が露盤下をめぐり隣り合う隅棟どうしを連結し、鬼板も見られる。 露盤も高くほぼ垂直に立ち上げてしっかり削りだしてある。露盤は四面素面。相輪は九輪までが残り先端は亡失している。伏鉢、続く単弁の請花はともにスムーズな曲線を示しつつくびれ部分に脆弱さを感じさせない。九輪部は凸部が太いが凹部の彫りは単なる線刻ではなく、深くきっちり彫ってある。4輪目と5輪目の間で折れたのを接いでいる。先端の宝珠と請花の欠損が惜しまれる。銘文は見当たらない。基礎の高さと幅の比、格狭間の形状、笠の軒反、シャープな印象を与える彫りの確かさなど鎌倉後期様式の一典型と見てよい。14世紀前半のものと推定する。薄暗い山林に寂しく立つ姿は印象的で、周囲が湿地になっているためか塔全体が薄っすら苔むして緑色になっている。石造宝塔としては東近江市内でも屈指の優品で市指定文化財建造物。

余談:ちなみに石造美術の宝庫である東近江市で屈指の優品ということは日本でも屈指の優品と換言できます。もっとわかりやすくいうと、「堺市でも屈指の前方後円墳」とか「奈良市で屈指の仏像」というような意味になると思いますが、マイナー路線のつらいところです。

参考:池内順一郎 『近江の石造遺品』(上)370ページ、411~412ページ

   五個荘町史編纂委員会 『五個荘町史』 860~861ページ


滋賀県 湖南市正福寺 正福寺(永厳寺跡)宝塔

2007-06-02 12:38:54 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 湖南市正福寺 正福寺(永厳寺跡)宝塔

地名の元になっている正福寺は奈良時代良弁僧正の開基、弘仁年間、興福寺の願安が再興し、後に天台宗に転じたと伝え、往時は大伽藍と多数の子院を抱えたというが戦国の兵乱で退転し、江戸時代に復興、現在は浄土宗という由緒ある寺院で、街道から東方の山手に少し上った山林に囲まれた閑静な場所にある。01_9 南都系から天台に転じ、多数の子院塔頭房を擁しながら戦乱で衰亡に向かうというパターンの伝承を持つ山岳系の寺院は金勝山、阿星山、少菩提寺山などこの地域に多い。しかし単なる伝承と片付けられないのがこの地域のすごいところである。それを裏付けうるだけの古い仏像などが今も伝承され山林内に子院跡と思われる削平地がいたるところに残っている。正福寺もそういった例のひとつ。現在の正福寺は大日寺で、その東西に清寿寺と永厳寺があったが、今は廃絶し大日寺に統合されて正福寺として現在に至っている。永厳寺は現在の正福寺の東方、徒歩3分程のところにあって、今は小堂一宇、石積と参道が残るだけの墓地になっている。その一画に目を見張るような立派な石造宝塔が凛と佇む。 相輪は後補だが総高は4mに近く、稀に見る巨塔といえる。花崗岩製。長い切石で囲んで周囲と区別し基壇状となし、基礎は低く前後二石からなり、四面とも輪郭も格狭間もない素面で底部など荒仕上げのままの部分が見られる。塔身は軸部と首部が一石からなり、軸部は円筒状で四方に扉型を薄く陽刻する。すなわち軸部上下に長押を帯状に表現し(上は二重)、柱ないし定規縁や方立部分を表すと思われる縦方向の陽帯で区画し、間の扉面をわずかに窪めている。こうした扉型の表現は石造宝塔にあっては定型的だが、永厳寺塔は何となく漂う稚拙感が却って古調を示す。首部と軸部を分ける框の突帯はなく、饅頭型に当たる曲面は比較的短く終わり、内傾ぎみに立ち上げた大きい匂欄部分には地覆、平桁などを陽刻している。首部は無地で短く比較的太い。笠は、底面笠裏に宝篋印塔の段形風の斗拱型を3段に重ねる。斗拱型段形の分の高さを差し引けば全体としては低平で、軒はやや薄く、隅で反りを見せる。若干の照りむくりを見せる降棟の断面凸形の突帯の削り出しは精巧で優れた彫技を見せる。02_9 露盤は比較的高く、四面に一区の輪郭を巻いて内部に格狭間を入れている。格狭間の形状は整った鎌倉風を示す。笠には大きくヒビが入り、ところどころ表面が荒れた感じになっており、風化や倒壊による欠損というよりは火中したのかもしれない。相輪は伏鉢が非常に縦長で、平板な請花の形状は江戸時代風。明らかに後補で、塔全体のバランスからいけばいくぶん長過ぎるようである。したがって元は12尺塔と推定する。 規模の大きさ、框を設けない塔身、手の込んだ匂欄や露盤の意匠など随所に石造美術の意匠表現が最盛期を迎えた鎌倉後期頃の特徴を見せる。一方で定型化した塔身軸部の扉型表現、軒が薄めで隅反りがやや弱い点は新しい要素とみられる。総合的に見て造立年代は鎌倉後期の後半、14世紀前半ごろと推定したいがどうであろうか。なお、塔身軸部に貞観三年(861)紀年銘を有し、案内看板にも平安時代の塔である旨が載っているが、平安前期の年号はあまりに古過ぎ、偽銘と断定して差し支えない。

 

 

 

参考

池内順一郎 『近江の石造遺品』(下)362ページ、403ページ

川勝政太郎 『近江 歴史と文化』90~91ページ

 

余談:永厳寺跡の周辺には古墳が点在し、古墳を取り込んだと思われる中世城郭(東正福寺城跡)の土塁や堀などが子院跡とおぼしき削平地と複雑に交錯している。あるいは寺院系の城郭なのかもしれない。薄暗い竹林に宝塔を眺めていると長刀を携え高下駄を履いた僧兵がぬっと現われるのではないかという中世の幻想が頭をよぎるのであった。


滋賀県 大津市長安寺町 長安寺宝塔

2007-05-09 00:17:25 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市長安寺町 長安寺宝塔

逢坂の関に程近い山寄りの斜面に閑静な境内を構える長安寺、本堂から一段下がった山裾の斜面を平坦に整地した場所にこの宝塔はある。21_1 この付近は、三井寺の有力子院であった関寺の旧地と伝えられるが鉄道がすぐ下を通り、民家が建て込んで宝塔のすぐ近くまで迫って、古の関寺のイメージはなかなか想像すべくもない。この長安寺宝塔には、関寺の霊牛の供養塔との伝承があり、数多い近江の宝塔の中でも古来著名なもののひとつである。関寺再建に使役された牛が実は迦葉仏の化身だということで、藤原道長をはじめ大勢が参詣したことが当時の貴族源経頼の日記である『左経記』などにみえる。万寿2年(1025年)のことで、まもなくこの霊牛は死亡し、堂後の山手に埋葬されたという。宝塔はその直後の造立で、関寺の鎌倉時代の伽藍の旧状を描いた三井寺所蔵の古図に霊牛の供養堂と思しき堂が見え、恐らく堂内にこの宝塔があったのではないかという推定がなされてきたのである。今日ではそこまでは遡らないだろうというのが定説になっている。近づいてまずその塔身のボリューム感に圧倒される。高さ約3.5m、高島市三尾里の鶴塚塔など近江には基礎や相輪を含めれば高さでこれを凌駕する宝塔はあるが、小さく低い基礎と相輪を欠いてこの大きさである。特に塔身は他の追随を許さないサイズである。サイズだけでなくデザインや構造形式においても規格外といえる。基礎は平面八角形で半ば埋まって下端は見えないが、低く平らなもので、23 塔身や笠に比較して小さい。側面は垂直に上端面に続かず、上端から10数cmのところで傾斜をつけた面を八方の側面に設けているが傾斜面は均等ではない。塔身は圧倒的な存在感を示す。平面円形で、軸部は重心をやや上に置く縦に長い壷型を呈し、全体にやや歪んでいる。扉型や匂欄、框はなく、素面で荒叩きに仕上げ、側面は全体にゆるく曲線を描き亀腹との区分は明確でない。背面には縦方向に大きくヒビが入っている。37 下端から40cm程のところに水平方向に1条の陰刻線が見えるが当初からのものか否かは不明。首部は円筒形で上部をやや細くして笠に続く。首部は比較的太くしっかりしてしかも短いものではない。匂欄の柱とも見える線が見えるが、当初からのものか不詳。笠は平面六角形。屋根の傾斜は緩く伸びやかで、屋根の勾配に反りはほとんど認められず、むしろややむくり気味に見える。底面は概ね平坦であるが、中央付近はやや窪んで、六角形の塔身受を薄く削り出し、各稜角部から放射状に隅木を表現している。10 隅木は軒先に至らず途中で消失している。軒先は薄く、各軒は緩く全体に反って真反に近い。背面側の軒の一端が大きく欠損している。露盤は丸みを帯びた六角形で露盤頂上を平らに整えている。露盤上には後補の平面正方形の平らな台部とその上の宝珠を一体整形したものが載っている。川勝博士は、塔身軸部の緩やかな曲線と長い首部、笠の屋根勾配や軒反の手法や、多角形の基礎や笠という奇抜なデザインから「悠容として迫らざる平安時代の気分」を見てとられた。また、鞍馬寺経塚出土の銅製宝塔を引き合いに、相輪よりも宝珠が似つかわしいとされている。(※1)一方、田岡香逸氏は各部の材質の違いと形式観によって平安時代説を明確に否定された。塔身のヒビ割を火中によるものとされ、笠、塔身、基礎それぞれが石質の違う花崗岩で、基礎と笠には火中の痕跡はなく、笠は鎌倉中期を降らないが、肩の張りが目立つ塔身や輪郭を持つ基礎は鎌倉後期以降のもので、結局寄せ集め塔であるとされた。(※2)川勝博士も一定これを認めながらも無視し難い平安後期的様式と、鴨長明が建暦初年(1211年)ごろ、この地を訪ね、「関寺より西へ2、3町ばかり行きて、道より北のつらに、少したちあがりたる所に、一丈ばかりなる石の塔有云々」と『無名秘抄』に記している点に注目され、万寿2年の霊牛供養塔との証明はできないが、平安末期に関寺近くに建てられた供養塔だろうと推定されている。(※1)小生としては川勝博士の説を支持し田岡氏の見解には賛成できない。確かに石の色が変色しているように見え、大きく縦に方向にヒビが入っているが、例えば東近江46市の今崎町の日吉神社(引接寺)宝篋印塔のようにはっきり火中した痕と小生の目には見えない。笠と基礎は塔身と花崗岩の質感が異なるが、それだけをもって寄せ集め塔と断定はできないと思う。基礎に輪郭があるというがそのようには見えず、田岡氏のごとく明確に断定すべきないだろう。類例のない多角形の笠と基礎の意匠やサイズはむしろ定型化以前の形式と見るべきで、 背の高い塔身軸部のややいびつで側面のなだらかな曲線、太く長い首部の形状など、近江において大吉寺塔(建長3年)や最勝寺塔(弘安8年)など鎌倉中期以降定型化していく一般的な宝塔のデザイン形式に連なっていくものとは到底考えられず、近江における鎌倉時代の宝塔の形式系譜の埒外にあるスタイルである。あえて近いものを考えれば、川勝博士も類似性を指摘された保安元年(1120年)銘の経筒が出土した鞍馬寺経塚上に建てられた国宝指定の石造宝塔であろう。

写真…左上:全景、左中:笠、左下:基礎、右上:塔身首部と笠裏、右下:六角形の笠や八角形の基礎がよくわかるアングル

(余談:結局のところ無銘であり結論は出ない。よって諸説あって構わない。川勝博士と田岡氏の両御大には著作を通じて多大な学恩に預かっている。ただ常識的で寛容な川勝博士の学風に比べ、自説の正当性や知見の豊富さをラジカルに時にヒステリックに訴える田岡氏の学風を小生はどうしても好きになれない。むろんその不朽の業績はリスペクトされなければならないのですが…。田岡ファンの皆さん気を悪くしないでくださいね。)

参考

※1 川勝政太郎 『石造美術』 98~99ページ

※2 田岡香逸 『近江の石造美術6』 17~18ページ