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石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 高島市安曇川町常盤木 三重生神社宝塔

2008-08-25 01:16:48 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市安曇川町常盤木 三重生神社宝塔

常盤木三重生神社社殿背後の玉垣に沿いに立派な石造宝塔がある。土手状にわずかに高くなった場所に直接地面に立つ。白っぽい花崗岩製。表面のざらついた感じは風化によるものだが、湖西から湖北に割合多くみられるきめの粗いこの石材の特徴である。30相輪の上半を欠損し現高約215cm、基礎は西側から南側にかけては1/3程埋まっているが幅約83~85cm、下端がやや不整形で高さは約39~43cmと非常に低く安定感がある。側面は四面とも輪郭を巻き、整った格狭間が輪郭内に大きく配される。27輪郭は束部の幅約10cm、葛部の幅約6cm、地福部の幅は下端が不整形なためはっきりしない。輪郭、格狭間ともに彫りはあまり深くない。格狭間内は平坦に仕上げ装飾文様は見られない。塔身は高さ約69cmで首部と軸部からなる。軸部はやや下がすぼまった円筒形で、正面に幅約3cmの平らな突帯により高さ約46cm、上端幅約37cmの鳥居型を大きく表している。鳥居型といっても上部は鳥居型だが下部に敷居部があり、中央には召し合わせの線があって扉型との折衷意匠である。首部は高さ約16cm、基底部径約38.5cm、上端径約36cmで風化が激しいが素面ではなく匂欄の表現と24思しき凹凸が見られる。笠と塔身首部の間には斗拱部を別石で挟みこんでいる。幅約51cm、高さ約13.5cmで繰形座を天地逆にしたような形状だが下端に高さ約1.5cmの首部受座を円形に削りだしている。笠は軒幅約76~78cm、軒口の厚さ中央で約9cm、隅で約12cm余とあまり厚みを感じさせないが隅近くで力強く反る。四注には隅降棟が見られるが断面の形状は風化で判然としない。適度な屋だるみが軒先に伸びやかさを与えている。 隅降棟の突帯は笠頂部で連結しているが、笠の頂部には露盤は見られず、相輪の最下部に露盤を設けている。例がないわけではないが珍しいつくりである。露盤の幅約25cm、その上に伏鉢と下請花と続き九輪の5輪目までが残る。21_2 請花は風化が激しく単弁・複弁の判別ができない。露盤を含む相輪の残存高は約51cm。なお、すぐ東側に相輪の先端と思しきものが残っている。6輪目以上で、サイズ、石材の質感とも合致している。相輪の先端と見てまず間違いない。高さ約39cm、上請花と宝珠が一体化して見えるが、これは元々くびれが少なく宝珠の重心が低いものであったものが風化のせいでこうなったのであろう。28これをあわせると総高は250cmを超える。細かい相違点はあるが低い基礎、縁板の框座を持たない塔身、高い首部、伸びやかな笠の軒先、全体のフォルムの印象、きめの粗い白い花崗岩を使っている点は三尾里の満願寺跡鶴塚塔や近くのコウセイ寺跡塔に共通する作風で、守山市木浜町福林寺の双塔にも通じる構造形式と意匠と思う。造立時期について、佐野知三郎氏は「鎌倉時代も盛期を過ぎたおだやかな姿で、末期の造立であろう」とされている。小生としては、共通する作風を感じている満願寺跡塔が鎌倉中期、福林寺塔は鎌倉中期末から後期初頭に位置づけられていることから、やはり三重生神社塔も従来言われてきたよりもやや古いものと考えたい。鎌倉中期終わりないし後期でも中期に近い時期、概ね13世紀後半頃の造立と推定するがいかがであろうか。

なお、北に数メートル離れて塔身と相輪を失った宝篋印塔の残欠が残っている。基礎幅約68cm、笠軒幅約64cmで、基礎は輪郭を巻いて格狭間を配し、折損しているが大きい隅飾とかなり分厚い軒、笠上各段の低い特徴的な形状で、鎌倉後期でも古い頃ものと思われ、規模もけっして小さくない。

写真右上:別石の斗拱部、写真左下:傍らにある相輪の先端部、写真右下:宝篋印塔の残欠

参考:佐野知三郎「近江石塔の新資料」(五)『史迹と美術』425号

例によって法量値はコンベクスによる実地略測値ですので、多少の誤差はお許しください。湖西は宝塔の宝庫ですが、よく見ていくとフォルムやデザイン、石材などにさまざまな個性があり、似ているもの似ていないものいろいろあって見飽きません。この三重生神社の宝塔も実にスッキリして美しく、特にお気に入りのひとつです。ちなみに市指定文化財です、ハイ。それにしても、湖西では神社の本殿背後に宝塔があるパターンが多い気がします。


滋賀県 伊香郡西浅井町集福寺 下塩津神社宝塔

2008-08-19 14:11:08 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 伊香郡西浅井町集福寺 下塩津神社宝塔

JR北陸本線近江塩津駅の北方約1km余、鉄道と平行して走る国道8号線を北上し右に折れて高架をくぐる。細長く続く集福寺の集落の一番奥まったところに下塩津神社が鎮座する。31このあたりまで来ると近江でももう北端に近く、すぐ山向うは越前である。鹽土老命と伊邪那岐命・伊邪那美命を祀るこの神社境内西南、社務所裏の山裾に石造宝塔がある。切石を組み合わせた基壇を3段にしつらえた上に基礎を据えている。基壇は当初からのものかどうかは不明。15総花崗岩製で塔高約220cm弱、7尺塔と思われる。基礎幅約66cm、高さ約40cm、基礎側面は3面に輪郭を巻き格狭間を入れ、格狭間内には正面に花瓶の口縁付近から伸びる三茎蓮花、左右に開敷蓮花のレリーフを配している。背面は切り離しの素面のままとしている。輪郭の幅が狭く彫りは比較的深い。格狭間は輪郭内に大きく表現され概ね整った形状を呈するが肩が下がり気味である。塔身は、素面で肩がやや張り下すぼまり気味の円筒形をした軸部、さらに軸部上端の亀腹部にあたる曲面を経て、円盤状に周回する縁板(框座)に続く。首部は2段にして匂欄部と正味の首部に分けている。笠は軒幅約66cm、笠裏に3段を設けており、30上段は軒先に沿って反りを見せることから垂木型を、また中段下段は斗拱部を表現するものであろう。軒口の厚みは顕著でなく、隅に向かって軽快な反りを見せる。笠頂部には高めの露盤をほぼ垂直に削り出し、笠全体に背が高めで屋根の勾配はかなり急で四注の照りむくりが目立つ。四注の隅降棟は断面凸状の突帯とするが、露盤下で連結していない。また、山側背面は隅降棟の突帯の肩の段が見られない。つまり正面観、側面観のみ隅降棟は断面凸状ながら背面観は単なる突帯とし、いわば手を抜いた意匠表現となっている。相輪も完存し、大きい伏鉢に下請花は複弁、九輪を挟み上請花は単弁。九輪は凹凸を丁寧に刻むが逓減が目立つ。宝珠は概ね完好な曲線を描くが欠損している先端の尖りがやや大きい。請花、伏鉢の曲線にはやや硬さが出ている。各部均衡よく、手堅く丁寧なつくりを示す一方で基礎、笠ともに背面は当初から見られる前提で彫成されていない点、照りむくりの目立つ四注と軒口の軽快な感じ、逓減の目立つ九輪、肩の下がった格狭間など細部の特長は、意匠的に退化傾向を示す。無銘ながら恐らく14世紀でも後半にさしかかろうかという頃の造立ではないかと思われる。表面の風化も少なく基礎から相輪まで完存し、湖北でもとりわけ遺存状態良好な石造宝塔の例として貴重な存在といえる。

なお、この宝塔は、この地で最期を遂げたという新田義貞の臣、河野通治らの供養塔との伝承があるようです。(通治は金ヶ崎戦死説や生き延びた説もあるようですが…)現地案内看板によると何故か五輪塔と称されているようですが石造宝塔で五輪塔ではありませんね。探訪時はあいにくの雨、光量不足のもっさりした写真ですいません。右上は基礎正面の三茎蓮花です。法量値はコンベクスの実地略測ですので多少の誤差はご容赦を、ハイ。

参考:滋賀県立長浜文化芸術会館編『湖北地方の石造美術』

   平凡社『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25


滋賀県 米原市池下 三島神社宝塔

2008-08-04 23:43:16 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 米原市池下 三島神社宝塔

旧坂田郡山東町、三島池は四季折々に装いを変える霊峰伊吹の山容を水面に映す景勝の地で水鳥の飛来地としても知られる。02別名比夜叉池。池の西岸の小高い場所に三島神社があり、神社の南側、岸沿いの道路に面して小祀がある。木立の中の斜面に玉垣に囲まれた石造宝塔が祀られている。この宝塔にはひとつの伝説がある。昔、溜まらない池の水を甦らせるために、時の領主佐々木秀義の乳母だった比夜叉御前と呼ばれる女性が自ら進んで人柱となり池の底に生き埋めになったため、以来池の水が枯れることがないといわれている。深夜になると今でも御前といっしょに埋められた機織の音が池の底から聞こえてくるという。宝塔はこの比夜叉御前の供養塔とされている。この付近でよく見かけるキメが荒く表面がざらついた感じの花崗岩製で現高約100cm余。傍らには五輪塔の火輪が置いてある。基礎は幅約35cm、高さ約23cm。01側面四面とも輪郭を巻いて格狭間を配する。格狭間内は素面のようである。塔身は首部と軸部を一石で彫成し、軸部は重心を上に置く肩が張り裾がすぼまった棗形に近い円筒形で、扉型などは見られず、首部とともに素面。笠は幅約34cm、笠裏には一重の斗拱型の段形を有し、軒口は厚く隅に向かって厚みを増しながら力強く反転する。下端に比べ上端の反りが顕著である。四注の隅降棟は表現されておらず、頂部には露盤を削りだしている。相輪は九輪部中ほどまでが残るが請花の弁はハッキリしない。元は4尺塔と思われる。全体に表面の風化が進んでいるがシンプルですっきりした印象を与える。規模が小さく、意匠的には退化と考えられる向きもあるが、格狭間の形状、塔身や笠の軒のフォルムは概ね鎌倉調をとどめている。造立年代については、いまひとつ決め手に欠け、何ともいえないが、あえてというと鎌倉末期頃と考えたいがいかがであろうか。なお、佐野知三郎氏は鎌倉後期の造立と推定されている。

参考:佐野知三郎「近江石塔の新史料」(1) 『史迹と美術』412号

ちなみに、佐々木秀義は、保元・平治の乱頃から鎌倉幕府草創期にかけての頃の人で、宇治川先陣争いで有名な佐々木四郎高綱の父にあたる人物。宝塔の年代をそこまでもっていくのはちょっと無理ですので比夜叉御前の供養塔とするのはやはり伝説の域をでません。しかし、仮に三島池の歴史が中世以前に遡り、宝塔が遠くから移築されたものでないという前提で考えれば、土木工事や農耕に欠かせない水を供給する灌漑用の「池」とぜんぜん無関係とも思えない、何らかの供養行為の所産であった可能性のある石造宝塔が、造立のいきさつが忘れ去られた後世になって佐々木秀義などと付会されて形成された民間伝承なのかな程度に留意しておいてもいいんじゃないかと思います。また、単なる伝説であったとしても、ただそれだけで片付けてしまわないで、領民のために乳母を人柱にせざるをえなかった秀義の苦悩、進んで秀義のために人柱になった御前の心根はいかばかりか…などと思いをはせることができるような心の余裕をもって苔むした石造物と接することできれば、川勝博士のいわれる「奥行きのある石造美術の鑑賞態度」につながるのかなと思います、ハイ。まして夜な夜な池の底から悲運の比夜叉御前が機を織る音がしてくるなんて蒸し暑い真夏の夜にぴったりの話だと思いませんか。カタンコトンカタンコトン…


滋賀県 蒲生郡竜王町小口 善法寺宝塔

2008-07-17 01:15:14 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 蒲生郡竜王町小口 善法寺宝塔

先に紹介した島八幡神社宝塔から南西に1km余、町の中心綾戸の西隣が小口で、集落の西寄り、祖父川の堤防に近いところに音響山善法寺(浄土宗)がある。境内西側の墓地の入口、少し高い植え込みの中に石造宝塔が立っている。Photo基礎から相輪まで欠損のなく揃う。花崗岩製で高さ約172cm。植え込みのツツジが基礎を左右から覆い確認しづらいが、切石の基壇をしつらえて基礎を据え側面四面とも輪郭を巻いて格狭間を入れており、格狭間内には南側、北側に三茎蓮、西側に開敷蓮花、東側に散蓮(一弁)のレリーフを刻んでいるという。002格狭間は輪郭内いっぱいに広がり、肩はあまり下がらず、側線は豊かな曲線を描き、脚部は短く、脚間は狭い。輪郭、格狭間ともに彫りは深いものではなく、内面は概ね平坦に調整している。三茎蓮は口縁部だけの宝瓶から立ち上がる左右非対称の意匠で、二面ともほぼ同じ。開敷蓮花と散蓮は植え込みに完全に遮られて見えない。塔身は軸部と首部からなり、その間に縁板(框座)を円盤状の回らせている。軸部には上下に長押状の突帯を回らせ、その間に扉型を四方に平板な陽刻で表現している。亀腹部の曲面は極めて狭く、比較的厚めで高いしっかりした縁板(框座)部を経て首部に続く。素面の首部の立ち上がりは垂直に近く、匂欄の段形は見られない。笠裏には中央に円穴を穿って首部を受け、続く2段の段形は内側は斗拱型、外側は垂木型を表すものであろう。垂直に切った軒口はあまり分厚いものではない。軒反は上端では力強いが下端は平らに近く、厚みのない軒口とあいまってスッキリした印象を与える。四注には隅降棟を断面凸状の三筋の突帯で表現し、露盤下で隣接する左右の隅降棟の突帯が連結する。笠頂部にはやや低めの露盤を刻みだしている。03相輪は上請花と九輪最上部の境に折れているが上手く接がれている。ドーム状の伏鉢、下請花は複弁、九輪は逓減がやや強く凹部は沈線に近づいている。上請花は小花付単弁、宝珠とのくびれが目立つ。宝珠は重心が高く、先端には尖り部が見られる。無銘ながら基礎の近江式装飾文様3種を使い分けるバリエーション、塔身の扉型や三茎蓮に見られる線の細い繊細な意匠、笠の軒口のスッキリした印象など、重厚さや力強さはあまり感じられず、整美で繊細な感じが漂う。全体として非常によく似た構造形式、意匠ながら相輪の形状は正和5年(1316年)銘の島八幡神社塔よりも若干新しく、鎌倉時代末期頃の造立年代が想定される。10なお、佐野知三郎氏は鎌倉後期後半、田岡香逸氏は南北朝前期1350年頃とそれぞれ推定され、池内順一郎氏は佐野氏を支持されている。善法寺はもと天台宗で、西方山中に伽藍を構えていたが天文年間に浄土宗転じ、さらに元禄年間現在地に移転したといい、宝塔もその際、山中から移されたものとされている。無銘ながら近江の石造宝塔としての一典型を示すもので、表面の風化もあまりなく、その上各部欠損なく揃っている点で希少価値の高い存在といえる。なお、墓地の入口に石造物の残欠などが集積された一画があり、その中に変わった一石五輪塔?を見つけた。花崗岩製の小さいもので、基礎の半ばは地中に埋まっている。空風輪が相輪になっており、五輪塔ではなく宝塔と思われる。「一石宝塔」というのは極めて珍しい。一石五輪塔の手法を踏襲した戦国時代頃のものと思われ、その頃の宝塔のあり方を考える上で興味深い。

参考:佐野知三郎 「近江石塔の新史料」(六)『史迹と美術』426号

   田岡香逸  「近江竜王町の石造美術―鏡・薬師・七里・小口―」『民俗文化』125号

   池内順一郎 『近江の石造遺品』(上) 232~234ページ

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 173ページ


滋賀県 蒲生郡竜王町島 八幡神社宝塔

2008-07-15 23:18:41 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 蒲生郡竜王町島 八幡神社宝塔

竜王町の中央、役場や苗村神社のある綾戸の北西にあるのが島で、県道541号から西に入って集落を抜けると、北側の水田の中の一画に石造物が集積されている場所がある。09もとは集落東方の八幡神社のお旅所があったところとされ、川勝博士の紹介文には「道端の木立の下に島の八幡神社に属する宝塔が見える」とある。今は水田の中にぽつんと取り残された小さな蕪荒地である。昭和47年の田岡香逸氏の報文では、既に現在と同様水田中にあることがわかる。また、ここは古屋敷、堂田という小字らしく、池内順一郎氏は往昔、ここにお堂があった可能性を指摘されている。11_2小形の五輪塔の部材や石仏、一石五輪塔に囲まれ石造宝塔が中央に立っている。基礎は半ば地面に埋まり、相輪の先端を欠いた状態での現在高約150cm、花崗岩製。地面に埋まっている基礎の下半はハッキリ確認できないが、各側面壇上積式とし、羽目部分に格狭間を配し、北面のみ三茎蓮、残り3面は開敷蓮花のレリーフを格狭間内に刻出する。格狭間はかなり肩が下がった形状を示す。塔身は軸部と首部からなり、縁板(框座)で仕切られている。軸部はやや下すぼまりの円筒形で、下端と亀腹部の曲面との境に平らな突帯を鉢巻き状に回らせ、06_2その間に四方の扉型を薄い突帯で表現している。亀腹の曲面部は狭く、10高い突帯で縁板(框座)を円盤状に刻みだし匂欄部の段形をつけずに素面の首部に直接つないでいる。首部は大きく、下が太く上が細い。西側の扉型の左右の扉面と北側の扉型間のスペースに4行にわたり「正和五年(1316年)/丙辰十月廿五日/一結衆造立/之」の刻銘が肉眼でも確認できる。笠は笠裏に2段の垂木型を設けている。軒口はあまり分厚い感じは与えず、上端の軒反に比して下端が割合平らになっている。四注隅降棟は断面凸状の三筋の突帯で、露盤下で左右が連結する。頂部には露盤が方形に立ち上がる。相輪は九輪の7輪目までが残り、それより上部を欠いている。伏鉢は側辺にさほど硬さもなくまずまずの曲線を見せ、下請花は複弁で九輪の凹凸もやや彫りが浅いがそこそこはっきりしている。全体に表面も風化も少なく、シャープな感じの彫りがよく残っている。苔もほとんどみられず緻密で良質な花崗岩の白さが、さえぎるもののない周囲の広い水田と遠くに望む丘陵の風景によく映えて眩しいくらいである。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 115ページ

   川勝政太郎 『近江歴史と文化』 134ページ

   池内順一郎 『近江の石造遺品』(上) 215~216ページ

   田岡香逸 「近江蒲生郡の石造美術―竜王町・近江八幡市―」『民俗文化』109号

計測値における若干の誤差はやむないものとして、田岡香逸氏、池内順一郎両氏によれば基礎下端から相輪残存部の頂までの高さを約165cm程度と報じられてますが、川勝博士は高さ195cmとされており、約30cmの差は謎です。そばに相輪先端部分が転がっており、(写真左下参照)195㎝というのはこれを含めた計測値なのかもしれません。ただ、この相輪先端部は大きさや形状、石材の質感、概ね適当なものですが、なぜか接合面が整合しないのでやはり別物か、不整合を補う小破片が亡失している可能性があります。ここ竜王町も見るべき石造美術の豊富なところ、わけても宝塔が比較的多いところです。写真右上:ポツンと水田中にまさに島のように取り残された土壇に立つ宝塔。写真右下:銘文がおわかりでしょうか…。撮影日時が異なるので、写真の色調がずいぶん違っちゃってますね、すいません。ちなみに重要文化財指定、流石です、ハイ。


滋賀県 野洲市吉川 安楽寺宝塔

2008-06-18 00:42:11 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 野洲市吉川 安楽寺宝塔

野洲市吉川(旧中主町)は野洲川北岸の河口部に近く守山市小浜町の北に接する集落である。08_2現在の野洲川河口部は昭和54年に付け替えられた姿で、かつては蛇行しながら大きく北に向かう北流と西に流れる南流とに分かれ河口にデルタ地形を形成していた。付近の地図を見れば旧河道の痕跡をたどることが出来る。吉川は旧野洲川の北流の西岸にあたる。非常に寺院の多いところで、天台真盛宗安楽寺はその中のひとつ、集落の南端に近い場所に位置する。南北に走る道路に面した境内南東隅の植え込みの一角に石仏や石塔の残欠類が寄せ集められている。その中央に石造宝塔がある。当初から元位置を保っているかどうかはわからないが、現在は直接地面に置かれている。全体に表面の風化が進む。花崗岩製で現高約140cm。元は6尺塔であったと考えられる。基礎は側面四面とも素面、基礎は幅約61cm、高さ約33cmと低い。下端はやや不整形で埋めていた可能性があるので、幅:高さ比を検討する場合に高さは少し差し引いて考えないといけないかもしれない。上端幅よりも下端幅が広く安定感がある。塔身は軸部と首部からなり、框座や扉型などは見られない。軸部はほぼ円筒形で、四方を面取り風に平らにしてあるように見え、やや上寄りに舟形光背形を彫り沈め、その中に半肉彫坐像を配する。光背部は像容に比較して少し小さい。風化が進み蓮華座の有無、面相・印相は不明。やや頭が大きく体躯のバランスはあまりよくない。04_2首部は素面でかなり太くしっかりしている。笠は全体に扁平で、軒幅約55cm、軒口は割合厚く隅の軒反の強さもまずまず。四注に隅降棟は見られず頂部には低い露盤を刻みだしている。笠裏は素面で垂木型や斗拱型はない。相輪は伏鉢と下請花から上で折れ九輪の内5輪までがセメントで接いである。6輪以上の先端を欠くものの相輪全体は笠に比してサイズ的にやや小さいようにも見える。素面の低い基礎、円筒形の軸部と首部のみよりなる飾り気のない塔身、笠裏や四注の装飾表現の見られない低い笠、これらはいずれも古い特長を示す。田岡香逸氏はこうした古調を認めながらも四方仏の存在とその表現を以ってやや新しい要素とされ1299年頃のものと推定されている。また、舟形光背の彫り方や相輪が退化傾向を示すとする見方もあるようである。小生としては、全体の古調はやはり鎌倉中期風、一方、厚めの軒、軒反や屋だるみに鎌倉後期の盛期の調子が垣間見えるように思えることから鎌倉中期も終わりに近い頃、13世紀後半でも中葉に近い頃の造立と推定したい。いずれにせよ吉川安楽寺塔は相輪先端を除く主要部分が残り、塔身に四仏を刻む古い宝塔の例として貴重な存在といえる。市指定文化財。

参考:田岡香逸 「近江守山市と中主町の石造美術―守山市田中と中主町吉川・六条・五条―」

  『民俗文化』98号

   滋賀県教育委員会『滋賀県石造建造物調査報告書』144ページ

※野趣に富み、飾らない魅力に溢れる石造宝塔といえます。ここにも近江の名塔のひとつに数えられる優品がありました。いつまでも眺めていたい、立ち去り難い気分にさせてくれます、ハイ。

※近江の石造宝塔をこれまで見てきた感想として、この手のあまり装飾的でない素朴な宝塔の系統と、守山市懸所宝塔に代表される整美で装飾的な宝塔の系統があり、概ね前者が古く、さまざまな試行錯誤を経ながら構造形式や意匠表現が完成、定型化して後者につながっていくというのが大雑把な流れかなと思います。試行錯誤の過程においては両者が並行して造られていた時期もあったかもしれないですが、後者が退化して前者になっていくということはちょっと考えにくい。もちろん例外もあれば一事が万事ともいえません。もっと個々の事例をしっかり観察し特長をよく把握して比較検討していかないとまだまだハッキリしたことは言えないわけですが、とりあえず現時点のおぼろげな感想です。これまで見てきた近江の宝塔はまだまだありますので追々紹介していきます。


滋賀県 高島市安曇川町横江 地蔵堂(旧崇禅寺)石造宝塔は今どこへ?

2008-06-15 23:53:36 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市安曇川町横江 地蔵堂(旧崇禅寺)石造宝塔は今どこへ?

先頃、高島市安曇川町横江の布留神社の石造宝塔を紹介しましたが、同じ横江にもう一基、石造宝塔があったとの情報があります。昭和49年発行の近江史跡会編『近江文化財全集』下巻334ページに旧崇禅寺石造宝塔(横江地蔵堂所在)として写真が載っているのがそれです。写真だけなので「崇禅寺」という寺院のこと、法量や材質など詳細は不詳ですが、竹薮を背景に立派な宝塔が写っています。隣には近世の墓標が少し写っています。基礎側面の様子は不詳、比較的低そうな感じ。背の高い塔身は首部と一石よりなり、框座はなく、樽形の軸部には舟形光背に彫りくぼめ半肉彫り坐像が見えます。笠は全体に扁平で軒はあまり厚くなく反りも穏やかな印象。斗拱部の段形が一段見えます。相輪は九輪の大部分が残っており、上請花と宝珠が欠損しているようです。写真だけではハッキリしませんが、鎌倉後期でも早い頃のものと見受けられます。昭和59年の『安曇川町史』にも布留神社塔とともに名前が出るだけですがわずかに記述があります。しかし、残欠を除けばかなり悉皆的な調査記録でもある平成5年の滋賀県教委編の『滋賀県石造建造物調査報告書』には記載がありません。横江の集落中程にある地蔵堂に行きました。無住で地元で管理されているようなお堂があり、よく手入れされた境内は写真にあった竹薮やお墓があるようなシチュエーションではなく、近世の大きい宝篋印塔と若干の中世石造物の残欠があるだけで石造宝塔はありませんでした。思い切って地蔵堂横で畑仕事をされていた地元のお婆さんに尋ねましたが「よく知らない」とのことで要領を得ません。別の場所に運ばれたのでしょうか?万一散逸したとすれば遺憾の極みです。どなたか安曇川町横江の地蔵堂にあったという石造宝塔の行方をご存知ではないでしょうか?


滋賀県 甲賀市甲賀町相模 慶徳寺宝塔

2008-06-11 01:26:19 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 甲賀市甲賀町相模 慶徳寺宝塔

慶徳寺は相模の集落の北端、公民館の北約150m、鳥居野との境を流れる大原川の南岸にある。01南面する本堂前向かって右手の境内墓地に、色々な部材を積み上げた寄せ集め塔がある。一番下は近世の墓石の台石だろうか、何かはわからない。その上に石造宝塔の基礎、さらに塔身、五輪塔の水輪を挟んで宝塔の笠、一番上に宝篋印塔の笠が載せてある。このうち宝塔は相輪が失われているが主要部分は一具のものと思われる。基礎は幅:高さ比はかなり拮抗し、幅がやや勝る程度、四方側面とも輪郭を巻き、楕円形ないし舟形光背形に彫りくぼめた中に尊格不詳の坐像か俗形を半肉彫りする。蓮華座の有無は肉眼でははっきり確認できない。輪郭内の彫りは深めで、光背形の彫りくぼめは上部が輪郭上端の葛で水平にカットされ、窮屈そうに見える。像容は頭が大きく体躯のバランスもあまりよろしくない。北側束の左右に「天文十五年(1546年)/六月五日」の紀年銘があり、肉眼でも何とか確認できる。塔身は全体に球形に近く、軸部、縁板(框座)、匂欄部、首部を一石彫成する。軸部は裾すぼまりの背の低い樽型で側面には二重の線刻で扉型風の格子を四方に刻み、四面とも中に稚拙な書体で陰刻した阿弥陀の種子キリークを配する。円盤状に高く張り出す框座を挟んだ無地の匂欄部は軸部の上端に比して径の減じ方が大きい。角は丸めているものの匂欄部の側辺は直線的で「く」字に折れてから「L」字に短い首部を立ち上げている。笠は全体に背が高い印象で笠裏には2段の段形で斗拱型を表現し、軒は下端がほぼまっすぐで上端だけが隅に向かって反りを見せる。頂部には高い露盤があり、四注隅降棟は断面凸状の突帯で、露盤下で左右が連結する。012軒幅に対する露盤部の幅の比が大きく、それだけ軒の出が小さく屋根の勾配が急になっている。現存部の高さ約93cm、基礎は幅約38cm、高さ約31cm、笠の軒幅約41cm、框座の径は約42cmある。各ディテールの退化傾向は著しいものの、いちおう近江の石造宝塔の塔身の特長をひととおり備えている。花崗岩製。各部のバランスが良くないので、基礎を五輪塔の地輪と見る向きもあるが、石材の色や質感、風化の様子などから、当初から一具のものとしてよいと考える。同様に退化傾向の甚だしい石造宝塔として紹介した竜王町岩井安楽寺塔(2007年2月17日記事参照)では、基礎側面が輪郭・格狭間式だが、輪郭内に半肉彫像容を配する例は甲賀町大原上田の慈済寺に、また輪郭はないが半肉彫像容を配する例が竜王町山之上の西光寺にあり、これらが近江でも例が少ない像容を配する五輪塔地輪をたまたま偶然に宝塔の部材と寄せ集めたとする可能性は極めて低いと思われる。やはりこの時期の宝塔のひとつのスタイルと考える方が自然である。この点は早く池内順一郎氏の注目されたところであり、池内氏の言われるとおり、室町期の石造宝塔を考えるで、紀年銘を有する本塔は極めて貴重である。

ついでに塔身と笠の間の挟まって非常に目障りな水輪についても少し触れておくと、上下のすぼまり感が強く、そろばん玉に近い形状というとイメージしやすい。また頂部の宝篋印塔の笠は極めて小形のもので、上6段、下2段、軒と区別する隅飾はやや外傾し、輪郭や弧の様子は小ささと風化によってあまりよくわからない。いずれも室町末期ごろのものだろう。

参考:池内順一郎『近江の石造遺品』(下)164ページほか

写真下はデジタル写真にちょっと手を加え邪魔な水輪を除いた合成写真です。何となく五輪塔っぽい感じがします…。でも同サイズの五輪塔に比べれば非常に手の込んだものであるのがわかります。この手の退化した宝塔の意匠には、鎌倉期のものに感じられる「威厳」というものがまるで感じられません。そのかわりにコミカルというかコケティッシュというか、稚拙さがかえって素朴な外連味のなさにもつながり、何となく”かわいい”感じの魅力的な宝塔です、ハイ。それにしても水輪は目障りです。


滋賀県 高島市安曇川町横江 布留神社宝塔

2008-05-24 02:28:50 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市安曇川町横江 布留神社宝塔

先に紹介した下小川国狭槌神社(2基の大型石造宝塔が並ぶ2007年6月記事参照)から東に約500m余、横江集落の北西に布留神社がある。社殿右手の竹藪に石造宝塔が立っている0606_2基礎は大部分が埋まり、上端がわずかに覗くに過ぎない。側面3面に輪郭、格狭間があるというが現状では確認できない。塔身は軸部、縁板(框座)、匂欄部、首部を一石彫成する。軸部は樽型で、素面。扉型らしき痕跡があるようにも見えるがはっきりしない。縁板の框座は半分以上が欠損する。匂欄部、首部と径を減じながら整った段形を形成する。笠裏は3段の段形になり、細い首部から続く最下段、中段は高さがあり、斗拱を思わせ、上段は軒口に近く作り付けた薄いものであることから、垂木を表現したものと思われる。軒口はさほど厚くなく隅の軒反も穏やかなものとなっている。四注の照りむくりが目立ち、隅降棟は断面凸状の突帯で表し、方形に立ち上げた露盤を頂に設ける。軒の張り出しが大きいためか笠全体に高さ(厚み)に欠け、照りむくりや軒口の薄さと合わせて軽快な印象を受ける。珍しく相輪も完存する。伏鉢は半球形で下請花は薄く風化が進みはっきりしないところもあるが複弁と思われる。下請花と九輪部下端の径に差がない。九輪の凹凸ははっきり彫成し逓減率は大きい。上請花は単弁と見られ、宝珠は整った曲線を見せる。伏鉢と下請花、上請花と宝珠の間のくびれ感は強い。基礎を除いた現高約178cm。花崗岩製。基礎の大半が埋まり、塔身表面、特に框座の欠損が目立つが、各部完存する点は貴重。笠や相輪の形状などから鎌倉時代最末期から南北朝前半、よく似た作風の今津町日置前正覚寺宝塔などと相前後する、概ね14世紀前半から中葉頃の造立と推定したいがいかがであろうか。穏やかで軽快感を醸しだす簡素かつ洗練された意匠表現には、既に完成の域に達し定型化し、さらに退化にさしかかってきた感があるように思える。

参考:滋賀県教育委員会 『滋賀県石造建造物調査報告書』 193ページ

竹を背景にした風情が涼しげでGOODでしょ。埋まった基礎に紀年銘とかないのかなぁ…。それにしても湖西は優れた宝塔の宝庫です。まだまだありますよ~。


滋賀県 大津市伊香立途中町 勝華寺の石造美術

2008-05-15 01:46:15 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市伊香立途中町 勝華寺の石造美術

途中トンネルを向け、国道367号と477号が交わる地点、急カーブと立体交差のある複雑な三叉路の北側、途中集落の小高い場所に勝華寺がある。「途中」は、古来途中越、竜華越とも呼ばれる京都の大原方面から葛川を経て北国に抜けるルート、さらに堅田方面との交通の結節点にあたる場所である。27石段を登ると本堂前右手、直接地上に置かれた石造宝塔がある。花崗岩製、相輪を失い現存高約120cm。基礎側面四面ともに輪郭、格狭間を配し、格狭間内には近江式装飾文様のレリーフが見られる。本堂側北面と南面に開敷蓮花、西面に宝瓶三茎蓮、東面だけははっきりしないが弁2枚の散蓮であろう。基礎は幅約57cm、高さ約35cm。輪郭の彫りが深めで上下より左右がやや広い。格狭間は花頭中央の横張りが弱く、カプスの尖りが目立つ。側辺の曲線も少し直線的なところがあって硬い感じが現れている。脚部はやや外に開く。開敷蓮花は格狭間内に大きく配され、その意匠はややデフォルメされて張り出し気味になっている。三茎蓮は上半だけの宝瓶から立ち上がる。中央に直立する蕾を、向かって右にやや下向き加減の巻葉ないし蓮葉の側面観を、左は外向きの、恐らく散花後の花托を表現していると思われる。塔身は軸部、縁板(框座)首部を一石で彫成し、首部は3段となる。軸部は下すぼまりの樽状で、突帯というよりは沈線刻に近い扉型を三方に刻む。笠裏には2段の斗拱型を有する。軒口はさほど厚くなく、隅の軒反は穏やかなものとなっている。頂部には方形の露盤を彫りだし、四注は断面凸状の突帯で隅降棟を表現し露盤下で左右の突帯が連結するが、隅降棟側の突帯が上に出て重なる形をとる。屋根の勾配はやや急で四注には若干照りむくりが認められる。相輪は亡失、代わりに五輪塔の空風輪とおぼしきものが載せられている。三茎蓮の面、輪郭束部分の左右と南側面の向かって右の束部分に各一行、合計3行にわたり肉眼でも概ね判読できる刻銘がある。19「貞和二二年/三月廿九日/願主二十五人」とある。北朝年号で貞和4年(1348年)、南朝年号では正平3年に当たる。何故か「廿」と「二十」の異なった書き方をしている。表面の風化が少なく、亡失している相輪を除けば、典型的な近江の石造宝塔の意匠ディテールを完備している。一方、厚みの足りない軒口、隅に偏った軒反りの様子、照りむくり気味の四注と勾配の急な屋根、あるいは肩の張った樽型の軸部と細い首部、格狭間の形状、さらに笠裏や首部の段形や隅降棟などに見るシャープさに欠ける彫りの鈍い感じは、石造美術の意匠表現が最盛期を迎える鎌倉後期の優品と比較すれば、時代が降る特長をよく示している。年代指標となる在銘の石造宝塔として貴重。さらにもうひとつ勝華寺には忘れてはならない石造物がある。22本堂の右手、一段下がった生垣の脇にある大きい水船である。約215cm×130cmの楕円形で高さは約75cm。良質な花崗岩製で、上2/3程は丁寧に丸く整形し内側を約152cm×72cm、深さ約48cmの楕円形に大きく抉り、縁を平らに仕上げている。下方は埋めて使用したのであろうか不整形のままで、北側面には4個の鏨の痕が並んでいる。南東側の外側下端を大きく打ち欠き、内底面から貫通する水抜孔がある。さらに南側の外側面に亀の肉厚な陽刻がある。古い水船でこのような動物意匠を施す例は他に知らない。亀と水抜孔の間の縁部分に「弘長二年(1262年)十二月・・・」の刻銘がある。(弘長3年説もある。)これはサイズ的にも石風呂と考えてよいと思われる。保存状態もよく、珍しい亀のレリーフに加え、鎌倉中期の在銘遺品として貴重。水船としては近江では在銘最古、全国でも屈指の古い水船である。

参考:川勝政太郎 『近江 歴史と文化』 57ページ

   田岡香逸 「近江堅田町の石造美術」『民俗文化』45号

   田岡香逸 「近江葛川の宝塔など(後)附勝華寺の弘長二年石湯船補記」

        『民俗文化』173号

   滋賀県教育委員会 『滋賀県石造建造物調査報告書』 107~108ページ

   瀬川欣一 『近江 石の文化財』 155ページ

 ※ 写真下:わかりますでしょうか、亀です亀、おもしろいでしょ。

  それから「水船」という呼称の適否について、いろいろ議論もありますが、あまり難しく考え過ぎず、定義付にそんなに拘泥しなくてもいいのではないかなというのが現在の小生のスタンスであります、ハイ。